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初(はっ)ちゃんの世界紀行――吉田初枝
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南インドの旅 〔2017.02.22〜03.09〕
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 インド行は勇気がいる。誘っても断られるのが落ちだと思うけど、何時もの友人達は“今が一番若い時、行くよ”と言ってくれた。老いていく自分を思えば今しかない。有難く心強い仲間の言葉に励まされ、訪れていない南インドの旅を決心する。パソコンでしかビザが取れないのが、面倒なので旅行社に任せた。南インドは東方よりは西方の方が、素晴らしいですよ、との忠告も有り、基点となる都市を、コーチン(コチ)往復とした。途中のトランジットはクワランプ−ル、此のハブ空港は説明不十分で分かり難く、聞くところもなく、チェックが3度も有り迷いました。エアーアジア航空の座席の狭さ、飲み物、食べ物全てが有料、安いだけでサービス精神に欠けている。アテンダントも不親切、少々嫌な思いをしました。コーチン空港には深夜到着して、フォート・コーチンまでには車で1時間、やっとホームステイ的な宿に到着する。。
  コーチン→クミリー(ペリヤール、野生動物保護区)
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左=コーチン 世フランシスコ教会 右=コーチン チャイニーズフィッシング

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クリミー 茶園

 次の日の早朝の散歩に、ポルトガル統治時代のカトリック教会、聖フランシスコ教会に行く。白い大きな建物は、インド最古の教会だとか、バスコダ・ガマの墓石もあった。海岸の方に行くと、大きな網を海中に沈めて、四隅をロープで引き上げて、その網にかかった魚を獲る方法を、チャイニーズ・フイシングネットと言う漁法らしいが、中国からではなく、マカオのポルトガル人によって伝承されたしい。沢山の網が海岸にあり、朝早くから活気がある。競り市、魚屋、其処で採れた魚を焼いたり、煮たりして、食べさせている屋台も在る。太陽一杯の明るい陽射し、水道もなく冷蔵庫もない処では、不衛生に思えて、手は出せない。でも魚、イカ、エビ等はピチピチと跳ねて生きが良い。
 ペリヤールの動物保護区に行こうとする。そこに行くだけで、おんぼろバスで6時間位掛かる。到着するだけの移動で精一杯。此の保護区はクミリーとテッカデイに跨っている。イギリスの統治下、巨大なダムを建設したので、其処に湖ができ、自然に野生動物が集まるようになって、今は観光地として発展している。コーチンの宿主が自分の友達の宿を、紹介して下さり、バスの到着に合わせて、マネジャーが待っていてくれる。マー何と手際のよい事でしょう。朝食付きで1000円位の古いけど部屋が大きく、清潔なホテルでした。その日は疲れて、早めに休みました。
 次の日には、ツクツク(3輪タクシ―、3人乗り)を予約していた。時間厳守は珍しい。全てゆっくりのインド時間と、思っていたのに。気持ちの良いドライバーさんのようです。経験上、泊まっている宿で、タクシーやツクツクを予約するのが、宿の信用にも係るので、大体間違いない事が多い。その折には時間と金額を、宿の人の眼の前で、決定しておくのが常の事。紙に書いたり、計算機を見せたり、しなければならない。
 朝の散歩は、コーヒー園が何処にでもあり、コーヒーの花は、ジャスミンの花によく似ている。真っ白い花が咲いて、やがて青い実になり、赤くなってそれがコーヒーとは、初めて知りました。この地のコーヒーは古木が多く、ほったらかしの農園も在る。園主が年老い、跡継ぎの方が居ないのでしょうか。
 スキルフルな運転手さんでなくては、山の道は走れません。細くクネクネの道を上手に運転して、お茶の会社に行く。ヨーロッパ支配の時代に於いて、お茶の耕作を強いられたのでしょうが、幸いお茶の生育に適した土地と、気候との相性が良かったのでしょう、今でも西ガーツ山脈周辺は、お茶、コーヒー、スパイスはこの地の最大の輸出品。広大な山岳の敷地に、お茶とコーヒーが何処までも続く。日本のお茶よりは、大振りの葉で離れた所からでは、整然として見えたのですが、近くからだと乱雑な植え方です。茶畑の中に、背の高い樹が沢山ある。其の樹を支柱にして、絡まっているのが、胡椒の木だと知りました。此処で労働をする人々の家屋が、傾斜地に建てられています。子孫代々の家族が、働いているのでしょう。中年の婦人がお茶の花を差し出して、何やら説明してくれる。後で手を出して、何かを下さいだった。茶葉から紅茶に為る工程を、見学する工場は、金曜日はお休みだった。次にスパイス園には、内部の多種多様なスパイスを、摘んで其の匂いを、嗅がせてくれて、その生態をガイドが説明をして下さるが、沢山すぎて頭には入らない。でも胡椒は大きな背の高い樹を、支柱に巻き付いて生育し、収穫時とその製法により、4つの種類の胡椒となる。グリーン、黒、白、赤が其れである。射し芽でしか育たない事、3年たってから花房を付けるらしい。珍しくもない胡椒は、原産の地では、手間の掛かる事なのです。
 インド象の保護区に行ったけど5匹しか今はいないそうです。2匹が身体を洗うのを見物しますか、高いお金を請求するので、何だか馬鹿らしくなりました。まだ他の地で、野生動物の保護区に行くチャンスは、あるので、終りにして、お店の集まったバザールへ行く。この地の人々の暮らしを、見る方が面白い。宿に帰ると、2泊するので、今日は3階の眺めのよい部屋に、変えてくれました。裏庭が山に通じているので、動物が出てくるかな。
 ここでビール1本買うのにも、手間取る、要領の悪い事、何処にでも売っている訳ではなく、ヒンズー教徒が80%いるのでしょう。お酒はご法度なのでしょうか、イスラム圏では聞いているけど。
 私達は夫々が自由な時間にして、ラーメンを料理、読書やお茶をして、ガーツ山脈を越えてくる風に吹かれて、のんびりとしました。道路で見る事の一番の辛さは、痩せこけた野良犬、親にはぐれた子牛達。食べ物を捜している牛達は、如何して生きているのかしらと、不思議に思う。誰かが水や食べ物を与えているのかしら。彼らは自由であることは確かです。鎖に繋がれて、服を着せられた愛玩動物よりは、幸せであるかも知れない。
  クミリー→アレッピー
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左=アレッピー ヒンズー寺院    右=アレッピー クルーズ船 泊まることもできる

 次の都市アレッピーのバスの時間に合わせて、朝食を30分早めてくれる。バス乗り場で、やっとアレッピー行のバスを得て、ヤレヤレと思う。次々と山や谷を越え、美しい茶畑の風景が続きます。クミリーとデッカデイは、お茶とスパイスの故郷であった。昔はスパイスと金は同じ価値が有ると、何かの本で読んだことが有る。インドはスパイスで、大儲けをした時代もあった。
 通勤通学時で、次々と乘って来る人々は、矢張りみんな色が黒い。顔立ちは小顔で大きな眼、高い鼻、若い娘さんはうっとりするほど美人が多い。残念なのは肌の色です。色の白いのは七難隠すと言われるように、町のポスターの女性は、肌が白いのは、肌の白さに憧れているのでしょうか。口紅や、まつげを付けている人は先ずは見当たらない。化粧しなくとも、素顔だけでも美しい。でも男性は同じ顔に見えて、区別が出来ません。
 窓からの天然のクーラーが、爽やかな風を運んで来て、斜めになって、座り心地の悪い椅子も、少しも苦にはならない。大きな河が現れる。お米の収穫時は忙しそう、一方では田起しをしている。1年中お米は耕作できるのでしょう。アレッピーに到着する。宿探しが面倒だなと思っていると、自分の宿に泊まってくださいと言う、若者に着いて行く。見せてもらうと、清潔度は普通、でもシャワーが水らしい。無いよりは益しと思い、こんなところも有りかな。その宿は一人350円位だった。
 この町を東洋のベニスと書いてある。ベンバナード湖とアラビア海に挟まれ、縦横無尽に走る運河有りで、バックウオーター・クルーズが観光のメイン。様々な宿泊できるハウスボートが、恐ろしいほど沢山、並んでいます。コーラムまでを往復して、観光客を集めている。
 私達は観光局に行き、情報を得ようとしましたが、受付の男性が発音の悪い英語で聞き難い、何度も聞くが、説明が不親切。結局予約は出来ないと言う事。ボートチケット販売所では、午後4:30迄昼食の休みとかで、閉まっている。ボート観光が売り物なら、お客さんに親切な態様が当たり前の事、これがインドの公務ですと、言われればそれまで。やる気が無く職務怠慢この上なし。私達も此のことには、憤懣やるかたなし。1拍2日のハウスボートを諦めて、近くで鄙びた屋根付きのボートを選び、時間制で運河から、海のクルーズをしましょうとなる。これが大正解でした。
 ゆったりと座り込んで、涼しい風と共に、モーターボートで運河を抜けると、白い海岸線に沿って、南国風のヤシやバナナ、マンゴーなどの果物の樹々が、うっそうと茂り、陸地では洗濯物を干し、子供達が小さな手作りボートで遊んでいる、人々の生活がある。美しい自然と共存している様子を、堪能させてくれる楽しいクルーズでした。昔は米やお茶、スパイスの運搬船が、今では改造して、アラビア海と並行してコーラムまでを、8時間かけて1拍2日のクルーズを、しているそうですが、私達は2時間30分で、一番良い所を観光しました。
 宿に帰れば、誰もいなくて、鍵もかかってない、不用心な宿。隣が出来たてのスーパーで、お客さんは居なくて、従業員ばかり。便利な面もありましたが、蚊取り線香を2つも附けたのに、蚊にやられました。
  アレッピー→コーラム
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コーラム ムンロー島での丸木舟でのクルーズ

 コーラムに行こうとするが、字が読めないので、どのバスかが分からない。何人もの人に聞いてやっと分かる。日本ではお目に掛からない程のおんぼろバスです。コーラムに到着する。昨日の宿が余りにひどかったので、今日はアシュタムデン湖に面した、普通のホテルにした。レセプションは時間が掛かる。PCは発達国だと言うのに、パスポートのコピーを取りに、他の部屋に行ったり、書類を書かせたり、南インドは入室と同時に、直ぐお金を払えと言う。領収書と引き換えでなくては、払わないと決めている。観光案内所でムンロー島のツアーを予約する。そこで何処か美味しい食事が出来る所を、知りませんかと聞くと、直ぐ隣の食堂で、ミール(定食)を注文しなさいと。地元の人ばかりの食堂でしたが、それがとても美味しいもので、吃驚する。一般庶民はこんなにおいしいものを、戴いているのだと、感心しました。
 約束時間にツクツクが迎えに来る、30分ほどかけてベルモンの船着き場に行くと、ツクツクに乗ったまま、船に乗りムンロー島に渡り、手漕ぎボートの集まっている処から、小さな丸木の舟に乗る。島中に張り巡らされた緑の運河を、1本の竿で運転する。背の高い老人が器用に操って行く。昔からこの運河は、生活用品や収穫物の運搬に、使っていたのでしょう。漁業と農業で暮らすこの島の人口は、1万人程らしい。でも近頃は農業よりも、もっと現金収入になる、タイガーエビの養殖に、力を入れているようです。元田んぼには、大きな網を張って鳥にやられないようにしています。鵜、白鷺、オスプレイ(ミサゴ)が沢山飛び交っています。舟から人々の暮らしがよく見えます。民宿も経営しているようです。生活用水が運河の中に流れ込み、悪臭がするところも有りました。時には小さな橋が有るので、頭を下げて注意せねばなりませんので、ぼんやりとはしていられません。こうして昔の暮らしが少しずつ、変わってきているのかも知れません。この島にも、野良犬は居ます。痩せこけて可愛そうで、見るのが辛い、すぐ眼をつむって、行き過ぎるのを待つ。如何しょうもないのです。
  コーラム→トリバンドラム
 昨日のホテルは、朝食を頼んでも、メニューと違ったものが来るし、それが不味くて、プロがこれでは、このホテルは発展しないなと思います。それにしても昨日のお昼に戴いた、ミールの味は、忘れられない美味しさだった。もう1度食べたいな。南インドの飲み物は、ネパールと同じく、ミルクティーがコーヒーより主流らしい。
 何時ものボロバスでトリバンドラムに。公共のバスは驚くほど安い。地図上では近いと思っていたのに、交通渋滞ため、2時間30分掛かりました。インドの人の顔は皆よく似ている感じがします。これだけ強烈な太陽光線に当たっても、顔にシミが無い、皮膚がそういう作りに、なっているのでしょうか。うらやましい限りです。公共のバスは、前の車を無理にでも、対向車があっても、追い越すべきだと言う、決まりでも有るのでしょうか。警笛をよく鳴らし、追い越しにかかる。又バイクは左を走るのが通常なのに、何処にでも入って来て、危ない事この上なし。トリバンドラムは何と騒々しい街なのでしょう。道の角には、牛やヤギ、犬が激しい車の往来にも、立ち止まり乍、進んでいる。
 暑い日差しの中、ホテル探しは辛い事です。何とか我慢できるホテルに落ち着く。此処に来た目的は、次の都市のベンガルールに航空で行きたい、此処にしか空港が有りませんので其の為です。航空のチケットを買いに行きます。旅行会社ではカードは駄目で、両替所を捜しやっと買うことが出来ました。何をするにも暑くって疲れます。顔全体がヒリヒリして来ます。動物園と植物園に行こうとツクツクで、今日が月曜日という事を忘れていた。植物園の前庭には、入らせてもらい、3人でゆっくり木陰を散策。インドの若者達は日本人が珍しいのでしょうか、写真を撮らして下さいとか、ボデイ・ラングエッジで楽しみました。宿の近くのライムジュースとカステラは美味しかった。明日は7時には空港なので、早く休みましたが、此処にも蚊が多く、日本の蚊取り線香はインドの蚊には、効果がありませんでした。
  トリバンドラム→ベンガルール
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    ブル寺院の御神体

 空港に行くのに渋滞は、常の事なのでしょう。時間の余裕が無ければ、イライラします。搭乗までは此の頃は、何処の空港ででも、チェックは厳しい。小さなプロペラ機には、乗客は満員。ベンガルールは大きな空港。市内に行くプリペイドカードを買ってタクシーで行く。調べていた目当てのホテルは、見せてもらうと、汚いので、もう少しましな近くを捜して、落ち着く。騒々しい大都会の様相をしている。信号が少なく、道路を渡るにも、地元の人に付いて行く。大きな道路でも、多くの車の中をロバも馬も、必死の形相で走っている。あの細い足で、重い荷物を運んでいるのを見ると、哀れでならない。路地には放っておかれた牛達、ヤギ、犬達が屯している。なぜに生まれてきたのだろう。彼等はそうして朽ちて逝く運命を、持って生まれてきたのだろうか。
 私達はハンピに行きたいので、近くの政府直営の旅行会社で、夜行バスを予約する。此処でも直ぐにお金を払えと言う。チケットと引き換えでなければ、払えないと強く主張する。政府直営でも此の有様では、人を信じないことに通じる。其れはお互いさまでしょうが、何かの領収書が無ければ、騙された経験から、そうなったのです。やっと粘ってハンピ行のチケットを得て、安心しました。今晩の宿はバスホテル、其れもまた、こういう個人の旅にしかできない、楽しみとしましょう。
 今いるこの宿で、スリーパーバスの乗車時間まで、ベンガルールの観光をしましょう。ツクツクを時間制で雇う。ブル寺院の1枚岩の雄牛がこの寺の神様、テイブー・スルタール宮殿、植物園に行くが、この大きな騒々しい街には、居たくない気持ち。早く抜け出したい。シャワーをしたり、食料を買出しに行ったりして、過ごしました。それでも1日の宿代を請求されました。
  ベンガルール→ハンピ
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左=ハンピ 宝庫 中央=ハンピ トウガベトラー川の対岸、巨石群の一部 右=ハンピ 山車

 夜行バスは、古いボロバスは何時もの事、1人ずつカーテンで区切られた2段ベッド。私達は簡易の自分用のシュラフを、持っているので、くるまって寝ればいいので、辛くはなかった。老いも若きもベッドによじ登っています。3人共ぐっすりと眠りました。何だか疲れていたのでしょうか、何も覚えていません。朝6時過ぎにハンピと声がした。慌てて降りたらそこはホスペット、もしかしたらハンピに、止まらないバスだったのでしょう。ツクツクでハンピのバザールで、適当なゲストハウスを得る。
 ハンピは嘗て、ヒンズー教の王朝として、南インドを支配した都であったが、イスラム勢力の台頭で滅び、廃墟となった。ヒンズー寺院や遺跡が有り、巨石群の世界に取り残された、不思議な光景が存在する。宇宙の惑星に来たのではないかと、我が身を疑いたくなる。何時かこの地のポスターを見て、本物を観たいと思っていた。朝の涼しいうちに、近くから観光しましょう。此の世界遺産には、世界中の観光客が来ている。ヨーロッパ系の白人、其れも若者のバックパッカーが多く、私達のような年寄りは居ないみたい。一番大きなヴィルーバークシャ寺院を訪れる。現在も僧侶が居住している。入口に立派な塔門があり、全て石造りで建築された寺院、寺院の中は靴を脱いで、素足で歩かねばならないのが、苦痛の種でした。日本猿よりもっとスマートな猿の一族が、集団で遺跡の周囲に居るので、用心せねば狙ってくる。
 私達は昼の暑さを避けて宿で休み、日差しが欠けてから、ツクツクで王宮方面に行ってもらう。ハンピは何処までも尽きない程に大きい。沢山観ても忘れ易いので、メインだけでもと思います。ヒンズー王朝の宮廷の、暮らし振りを、想像しながら歩いて回る。高い塀に囲まれてヒンズーと、イスラムの建築様式の複合スタイルのロータス・マハル。王妃の浴場も在る。人目を惹く緑の芝生の向うに、象を飼育した立派な建物は、王族の乗り物として、飼いならしていた。ハザーラマ寺院は王室の寺院で、柱に美しい彫刻がありました。ツクツクのドライバーさんは、もうこれ以上は時間的制限で行けないと言う。もう1度宿に帰り、地図を確かめて、ハンピの最高傑作と言われる、ヴィッタラ寺院を目指す、トウンガバトラー川沿いを歩いて行けば着く。細い道を巨石の川岸を登ったり下ったり、湿地帯も在る。丸い舟で川を渡る商売も、ヤシのジュースも売っている。1つだけ買ってみるが、生臭いし不味いので売主に返した。ハンピは本当に巨石の都です、この巨石は如何して、此処にあるのでしょうか、地球の成り立ちの過程の、地殻変動でとは言っても、その不思議さを昔の人々は、宗教として信じたのでしょう。私達はゆっくりと、周囲を観光しながら、やっと15世紀のデヴァラーヤ王時代の、ヴィッタラ寺院に着く。遠回りの広い道を通って、多くのツアーのお客さんが、バスで来ています。寺院の中の列柱がみごとです。此の柱を叩くと、夫々音が異なっているそうです。ミュージックストーンとも呼ばれています。境内には多くの祠堂があり、柱や天井の彫刻の精巧さは素晴らしい。正面に山車を模った石の彫刻は、まるで祇園祭の牛車のようです。多くの人々が写真を撮っています。ハンピ村全体が世界遺産になるのも、成程と納得する。
 南インドでは洗濯物は直ぐ乾く、此れだけはとてもありがたい。この宿の別棟にオーナーの住居が有る。奥さんと2人の子供と母親と従業員とが住んでいます。台所に熱湯を貰いに行く。荷物の多い事に吃驚、台所もゴチャゴチャで何処に何が有るのか分からない。庭も衣類が其処ら中に在る。整理整頓の気持ちは無いのでしょうか。台所の天井から、クモの巣の筒状物がぶら下がっている。そこには燕に似た鳥の赤ちゃんが居て、幼い声が聞こえます。破れた壁から、出入りしているようです。親鳥は見知らぬ私が居る限り、姿を見せませんでした。この家族の優しさを感じます。明日は車をチャーターして、ハッサンに行きます。
  ハンピ→ハッサン→マイソー
 ホスペットでしか、バスは発着しないそうで、もう面倒になり車をチャーターした。約束時間にきっちりと来てくれる。砂漠のような荒涼とした赤土の大地を走る。畑にはトーモロコシとヤシの樹々ばかりが、勢い良く繁茂している。小さな村はあるが寂しげで、照り付ける太陽は眩しく、車にはACは無く、風が入って来るが、同時に土埃も入る。6時間位掛かってハッサンに着く。此処は寺院観光の拠点であり、ハンピで寺院は沢山観光したので、マイソールに行こう。
 バスは発車前、公共のバスに乗る時には、ドレイバーさんの横にしか、荷物を置くところは無いので、何時も其処に置きます、時々確かめるためには、自然と前方の席に座る事になる。此のインドに来て以来、車の運転の危険さは、嫌というほど味わいました。ハラハラ、ドキドキの思いばかりで、何時事故が起きても不思議ではないような車の事情ですが、事故は見たことがないのです。暫く走るとバスの中で、頭上のペットボトルが熱気で、大きな音を立てて暴発した。テロかと身構えたのですが、ドライバーさんが説明をして、理由が分かれば皆で大笑いしました。陽気な人柄のようです。途中からサリーを着込んだ小母さん連中が、4〜5人前の席に、無理やり乗り込んでくる。マー煩い事この上なし、その中の一人、取り仕切り屋さんが居て、隣に座り私にサリーを買わないかの、問いかけをする。要らないNOを連発してやっと理解してくれる。あまりにも喧しいので、”煩い“と言いました。ドライバーさんも耳をふさぐ動作をして、お互い解りあえました。インドの女性は、自分を飾るのが、好きなのでしょう。耳、鼻、手首、指輪にジャラジャラの金や銀、サンダル履きの足の指にも、リングをつけている。これがおしゃれなのでしょうか、私には解らない。髪は艶のある黒髪で、うらやましいと思いました。4時間位掛かりやっとマイソールに着いた。今日は最大の移動日でした。
  マイソールにて
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左=マイソールの市場    右=マイソールの宮殿

 マイソールはデカン高原の南端にあり、カルナータ州の一番気候がよく、観光客で賑わう都市です。インド独立まで、王国として繁栄を極めた。イギリスとの戦いに敗れたが、この王国は州として残された。
 政府直営のホテルに泊まる。大きな庭のある敷地に、古めかしいがしっかりとした建物で、隣には公営のバス会社の研修所がある。2部屋も貰って洗濯とバケツシャワーでした。(インドはシャワーの口からは湯は出ない、下の蛇口からお湯が出て、バケツに溜めて水との調合で、掛かり湯をするのがシャワーです。何処の宿でもそうでした)。朝5時半位には、イスラム教のアザーンの声は聞こえてくる。広い庭の落ち葉を掃除する人達が、日本と同じような箒ではいているが、此処の箒は短く腰をかがめなければならない。隣の研修所の新入生でしょうか、同じ服装で運動をしています。久し振りの大きな部屋、心地よい風が吹き抜けていく。長時間の移動の疲れも、吹っ飛んでいきました。朝食付きのレストランでは、泊まっているお客さんは見当たらない。授業員ばかりがウロウロしている。マイソールの何処を観ましょうか、マイソール宮殿と庶民の市場と決めて、早朝よりの市場に行く。何処の国の市場も楽しみな所、普通に暮らす人々の、日常生活を覗うことが出来る。野菜、果物、肉類、日常品と分かれている。何処も同じく声をかけてくる。品物がとても豊富です。並べ方がとてもユニークで、毎日並べるのは大変な労力です。価格を着けてないのは、買い手さんとの、その場の取引で、決めているのでしょう。この様な所では、日本人は、大いにカモされるでしょう。市場は活気があって、気持が生き生きする。マンゴーが売っているけど、野菜サラダのマンゴーでしょう。雨季がマンゴーの美味しい季節です。
 歩きで30分マイソールの宮殿に着く。入口の南門自体が凝った造り、入場料が国民の5倍でした。殺菌した冷たい水が、誰でも飲めるようにしています。靴を預けて此処も素足です。靴を預かる人がチップと言うけど、月給は貰っているはずだと、これが仕事でしょう。私達は払わなかった。
 王室の内部は豪華そのものシャンデリア、天井のステンドグラス、金銀の装飾品、王様の生活ぶりを想像する。その当時から電気があったらしい。火事で木造の王宮を焼失してから、16年かけて石や金属を中心に、今の宮殿を新築した。栄華を極めた王宮は、王の権威の象徴でしょう。国民の血と汗によって造られたとは、微塵も思わなかったでしょう。当時の絢爛豪華さを見せてもらい、溜息の出る思いでした。靴を預けた場所に戻ると、係の人が覚えて居て、預け代50円を請求された。多くの観行客の中、日本人だからか、よくぞ覚えてくれていたと思い、快く支払いました。
 王宮からの帰路、市場によって、バナナ、ブドウ、ミカンなどを買い、此のマイソール名物のスイーツのパクを買ってみるけど、甘すぎて駄目です。京都の銘菓に比べようもありませんでした。洗濯物は良く乾くけど、手や唇がカサカサになります、身体から水分が抜ける感じです。全てが都合良いと言う事は、あり得ないです。
  マイソール→ウーテイ
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左=マイソールの宮殿    右=象の親子 ムドウマライ動物保護区

 2泊したので、すっかりと疲れが取れて、また元気になりました。この旅も終盤になってきました。コーチンに帰るのは早いので、中間のウーテイに行こうかな。バスを調べたら昼頃発車とか、待っていられない。近くの旅行会社で車をチャーターしよう。安心できるドライバーさんをお願いする。ノリのついた白い制服、折り目のあるズボンを穿いた、真面目そうな中年の方が来る。暫くは街中を走り、西ガーツ山脈向けて走り出す。ニギル山中にあるウーテイは、イギリス統治下の避暑地、ダージリンと同じく、海抜2000m以上暑さを凌げる。森と言う英語が訛ったのかな、巨木の緑豊かな森が、狭い道路の両サイドに迫る。段々と標高差を耳が感じてくる。ムドウマライ動物保護区の中を通る。決して車から外に出ないように、写真は車の中からと注意を受ける。親子ずれの鹿の大群、象の群れ、白いひげの猿たちが、迎えてくれます。そのしぐさが可愛くて、歓声が上がる。
 ウーテイの町に入る前に、ニギル山を越えなければならない。32回のヘヤーピン・カーヴがありました。よくぞ事故が起きずに、この難関を越したものだと、これ程の危険極まりない山越えを、経験したことがない、途中で眼をつむり、ドレイバーさんの、運転技量に任せました。やっと2300の高地に開けた、ウーテイに辿り着く。ドライバーさんお薦めのホテルに行く。彼はチィップを下さいと言う。彼はこのホテルからも、何某かのお金を貰うし、マイソールまでの帰路は、客を拾うことは出来る。黙って居ればお礼をしたのですが、向こうから手を出せば、渡したくないのも人情です。後であの怖いヘヤーピン・カーヴを、又下って行くのだと思うと、可愛そうな事をしたかなと思いました。
 近くのレストランで昼食して、タクシーを拾って、ドベッタ山頂と、お茶の工場見学を約束する。此処にはツクツクの乗り合いタクシーは無く、普通の自動車です。高地ですからエンジンの力が、関係しているのでしょう。
インドは乗り物の運賃がとても安い事は、旅行者にとってありがたい事です。ドベッタ山(2633m)には、地元の人々には、トレッキングの山でしょう。若い人達が歩いて登っています。頂上はおやつの露店が沢山あって、何かの縁日のようです。今日は霧が出て、視界は0でした。お茶の生産工場は、大掛かりに機械化されて、オートメカで、お茶の製造工程を見せて、味見もさせて呉れる。ミルク紅茶はネパールと同じ味でした。お土産に1袋買いました。ウーテイは山岳地なので、朝晩は少し肌寒いけど、快適に過ごせました。
  ウーテイ→コインバトール→エルナクラム
 このホテルをチェックアウトの時にデポジットマネー(宿代にプラスした、お金を預ける)を払わせていながら、私が余分の返金を請求すると、レセプションの人が、“貴方は良く覚えていたね″と言う。当たり前でしょうと、むかーとする。私が忘れて居たら、そのままそのお金は、宿のものになる。此の態度にがっかりする。ウーテイから3時間程でコインバトールの駅に着く。
 今回は列車ですから、大きな駅の中をウロウロして、やっとコーチン行のチケットを得る。プラットホームでも、予約席と予約なしの席があるらしく、分からない事ばかり。時間きっちり列車はやって来て、座ることが出来ました。窓の外は南国特有のヤシの木がかり、バナナも沢山なっています。お米は年中田植えや、穫り入れの時期です。列車に乗っていると、近くの人々を観察できるので面白い。この国も同じく、若い人達は座ると直ぐ、携帯とにらめっこ。新聞を読んでいるのは、中年以上の方々。列車はアナウンスもなければ検閲もない。其のうちに皆が降り始めるので、聞いていた到着時間が、随分早いので、誰かが此処が終点だと教えてくれる。コーチンが4つの地区から成り立っている、その中の一つエルナクラムという、駅名だったので戸惑った。駅の近くのホテルにした。
  エルナクラム→コーチンのフォート
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左=コーチン カターカリのメーキャップ  右=コーチン カターカリ仮面舞踊劇

 ぶっつけ本番のホテルは、構は大きなホテルなのに、レセプションの女の子は英語も話せず、枕やバスタオルが足らないと、催促しても要領を得ず、待たされてやっと。人気が無いのでしょう、お客さんが居ない。暗くて何だか不気味な宿でした。入国した最初の宿に帰る。ツクツクでフォ−トまで。宿の御夫婦はとても喜んでくれました。以前は気がつかなかったけど、私達の部屋の横に、大きな水槽にアロアナが、飼われていました。朝食も豪華に並べて呉れて、やっと落ち着きました。近くを散歩や、ショッピングをしました。夕方はケーララ州の伝統芸能(仮面舞踊)のカターカリを見ようとする。5時に始まるらしい。上半身裸の男性達の化粧から始まる。顔中真っ白に塗って、眼に隈を入れたり、カツラを被ったり、劇中の人物に成りきる様を、見せて呉れる。時間をかけて男性が、女性や怖い悪魔になったりして、手や顔の表情で、喜怒哀楽を表します。日本の歌舞伎の世界だなーと思いました。  次の日には空港に行く時間までを、有効に使おうとして、イスラエルの人々が国を追われ、昔はコーチンにも沢山住んでいたらしい。その時のシナゴークが残っているので、観に行きました。ローソクのシャンデリアが、印象的でした。マッタンチェリー宮殿もありましたので。訪れてみました。壁画で飾られた木造建築の、小さな宮殿でした。マッタンチェリー地区は、昔風の建物がたくさん残っている、其処を改造して、観光客のお土産屋さんばかりが、集まる地域になって居ます。私達はコーヒーやお茶の問屋さんで、お土産を買いました。  もう2度とインドには、旅することもないでしょうが、乾季の今は過ごし易いのでしょうか。でもこれからは大変暑いと思います。そして交通事情の激しさは、日本では経験したことがないような、危険を感じました。交通事故が起きないのが不思議なくらい。思い出しても冷汗が、でてきそうです。こうして元気に帰国出来ましたのも、今は亡き母が守って下さったと思い、深く感謝しています。又次は何処に行こうかなと、模索しています。
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