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初(はっ)ちゃんの世界紀行――吉田初枝
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 カザフスタンとキリギスの旅  〔2017.09.12〜2017.09.25〕
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 カザフスタンは世界史で習ったことはあっても、想い出せないくらいに、なじみのない国。騎馬民族が果てしない草原を、自由に疾走する姿を想像し、動物を沢山放牧する国だと思っていた。日本の7.5倍の国土、巨大な国を移動するには、この老体の体力には、無理かもしれない懸念はある。それにあの億劫なビザの必要もある。キルギスは以前、何か所かを観光しているし、以前からビザは不要でした。ところが外務省の通達によると、カザフスタンには、今年末までは日本人旅行者には、ビザを免除するとあった。残り少ない健康時、今しかないと決心して、旧友二人と関空より出発する。
       アルマテイ
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左=早朝のアルマティの露天市    右=アルマティ28人のパンフィロク戦士の記念碑

 カザフスタンまで直通は無く、ソウルでトランジットして、そこから6時間30分で第2の都市アルマテイに、深夜到着する。次の日の早朝、ホテルの窓下には、長く続く露天市が連なり、野菜、果物、肉類が大量に売られて、見て歩くだけでも楽しくなる。ナン(この国の主食の丸いパン)を焼いて、熱々を売っている店もある。少しの果物を買って帰る。ホテルはバイキングの朝食付きで、予想外であったので、ホテル代(1人1000円位)からすれば、お得意感が有りました。
 この街はシルクロードの中心地、東西の文化交流のオアシスであった。“リンゴの里”という別名もある如く、バザールにはリンゴが山積みになっている。日本の様に大きくはなく、大小違うものもある。
 朝食を終えて、サーこの地を観光に出かけましょう。先ずは庶民の台所、大きな建物のバザールへ。売られている物により、建物が区分けされている。迷子になりそうに広く、生活に必要とするあらゆるものはあり、人々は忙しそうに働いている。活気があって気持ち良く、見た眼でも民族の種類も多く、色んな顔立ちをしている。 南にはアラタウ山脈、街は京都の様に碁盤の目の様に、区画整理されている。大きな巨木の立ち並ぶ公園に足が向く。第2次世界大戦のドイツ戦で、モスクワ防御に活躍した戦死者を、祀る大きなモニュメントが建っている。ソ連時代の置き土産として、所々にモニュメントは残されています。特に28人のパンフィロフ戦死の記念碑は有名らしく、若者達は結婚すれば、必ず訪れる場所らしい。公園の中央にはゼンコク正教教会が、煌びやかな外壁をしている。内部は美しく装飾されて、豪華すぎて眼が痛い。信者さん達の敬虔な祈りと讃美歌には、思わず頭を垂れて祈るのみ。この都市の地図を広げて、目的地に行こうとするが、道路が広く長く、いつもと違い如何にこの国土が大きいかを知らされる。通リを走る車は殆どが日本の中古車、それを見ると嬉しくなる。大通りにはソ連統治時代の、味気ないビルが並んでいる、もっと商業地には、斬新なデザインのビルも沢山建っている。今も次々と建設中のクレーンが活躍している。通行人も垢抜けて美しく着飾り、後進国とは思えない。
       メデウ
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左=メデウゴンドラより    右=メデウゴンドラ終点

 郊外の景勝地メデウに行こうとする、カザフスタンホテルよりバスが発着すると聞く。其のホテル捜しに手間取る。やっと見つけると、モンゴル系顔の若夫婦が、自分達もメデウに行くので御一緒にと、優しい言葉を掛けてくれる。バスで40分位アラトウ山脈方向に向かい、どんどん山の中に進んでいく。広大なスキー場あり、氷の水質が最高とのスケート場あり、多くの世界記録が生まれている。冬のスポーツの祭典は、メデウで開催されるらしい。市民が自慢するだけの、価値はあります。
 メデウのメインはゴンドラです。早速チケット売り場に、この国の物価にしては少し高いなと思いました。ゴンドラに乗れば、次々と山の上を鳥のように、飛んでいる感じです、少しカラフルになっている雑草の丘の上を、紅葉した山々の上や渓谷をも越えて、3回も乗り換える。スイスで乗った登山鉄道より、美しい眺めの中に自分が居る、夢のような大自然を空中よりの見物は、30分間も続きました。ゴンドラの終点は3200m。まだその上もスキー場になっている。観光客は此処から、トレッキングをしている人達もいます。急に此処までだから、息切れがするし、頭痛も少しあるので、高山病になりかけているな、長くは居られない。もったいないけど下山しなければなりません。此の大自然の景色を、しっかりと心に刻んでおこう。4500mのアラトウ山脈は白く輝いて眩しい。太古の昔よりアルマテイの人々には、何時もの風景なのでしょうか。私が嵐山の景色を当たり前と、見ていると同じように、何の不思議も感動もないのです。国立中央博物館によってホテルに帰りました。
       アルマテイ→ビシュケク→キルギスのチョルボン・アタ(イシク・クル湖の畔)
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左=イシク・クル湖 クンゲイ・アラトー   右=イシク・クル湖 テルスケイ・アラ・トー(雲の中)

 アルマテイのホテルで一人の日本人に逢う。その方の意見ではキルギスの方が、見物個所も多いし、人々の優しさ、物価の安さ、過ごし易いよと言ってくれる。以前キルギスは訪れているので、カザフスタンを主にと考えていた。もう1度あのイシク・クル湖に行きたい。此処からは地図上では、天山山脈が横たわっているけど、近いと思うのですがですが、国が違うのは陸路の入出国の規制が有る。矢張りアルマテイからビシュケクまで行って、其処からチョルボン・アタまでが順当な道筋らしい。
 アルマテイを離れると、両サイドともに、ソ連時代のコルホーズ、ソフホーズの小麦、トウモロコシ、ジャガイモ等、大規模な農地が残っている。地平線までも続く広大なステップ(草原)なので、宇宙遊泳の着地点によく利用されているのを、成程と理解する。この広大な土地には、時には核実験が、今も実施されているらしいと聞くと、後の世に放射能による健康被害は、無いのでしょうか。私等が心配してもしょうがないのかな。ステップには放牧の馬、牛、羊が草を食んでいる。陸路での入出国は、旅人の一番嫌がる事ですが、少し不安でしたが、日本人には係員も丁寧な態度です。日本の御偉い方達が、外遊と言って手土産に、私達の税金をばらまいているので、その恩恵もあるのかと内心思う。別部屋に招き、直ぐにスタンプを押してくれる。ビシュケクまで乗り合いタクシーで4時間、西バスターミナルに到着する。そこから又イシク・クル湖に行くには、マシュルトカー(乗り合いの小さなバス)には出発の時間は無く、車一杯の乗客になれば、何時でも出発する。今回は若い人ばかりの軽快な乗車。カザフスタンの18歳の娘さんの紹介で、同じホテルに宿泊する。
       チョルボン・アタ(イシク・クル湖の一番の繁華街)
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左=岩絵野外博物館   右=博物館の岩絵

 ソ連時代の官僚の別荘地、その時代の庶民には、訪れることは出来ず”幻の湖”とか”中央アジアの真珠”と言われていた湖。琵琶湖の9倍もあり、白き山脈のクンゲイ・アラトウ山脈が北側に、南側にはテスケイ・アラトウの天山山脈が屏風のように、湖を挟んでいる。謎めいた伝説も多く、1600mの高地にありながら、冬でも不凍湖でイシク・クルとは、熱い湖という意味もある。周囲からこの湖には118の 川が流れ込んでも、流れ出る川は一つもない。ホテルの近くを散歩すると、以前よりは多くのホテルや民宿、お店、スーパーが増えている。まだ建設中も多い。すっかり様変わりをしている。此処はキルギス国民の夏の保養地、海水浴を家族ずれで楽しんでいます。
 タクシーを呼んで岩絵野外博物館に行く。北の方面に進めば、番人も誰もいず勝手に中に入って行く。 広い川原には大小の岩がゴロゴロしていて、その石に山ヤギ、鹿等、狩猟する姿の絵が描かれているが、長き間の風雨にさらされているので、消えかかっている。岩が丸いのは此処が大河であったのでしょうか、4000年もの以前の、不思議な岩絵でした。
       チョルボン・アタ→カラ・コル
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カラ・コル 木造の聖三位一体教会

 イシク・クル湖での一番賑やかな所はチョルボン・アタです。早朝の散歩で、湖畔を泳いでいる人達を見かけます、気持ちよさそうです。手を入れてみるとそんなに暖かい水ではない。天山山脈の北側は今日もはっきりと、その白き姿を見せてくれるが、南側は雲が掛かっていて見えない。どこまで続くのか、海の様な湖、透明度は抜群で底の方まで見える。地元の人々はこの美しさを、自慢しています。最初の問いかけはチャイナか、その次はコーリアか、最後が何時も日本人。私達を日本人と分かると、親指を出してOKをして、優しい笑顔を向けてくれる。多分良い意味なのでしょうと勝手に思う。
 サー、カラ・コルに出発。何時もの乗り合いバス、北にはクンゲイ・アラトウ山脈の美しい眺め、湖岸には豊かな牧草地帯、牛、馬が放牧され、野菜、麦かな、ゆったりした農村の営みは、大昔より続いている感じがする。本日はこの湖の東の端にある、カラ・コルに3時間30分位で着く。町の中心の便利さだけで選んだホテルに荷を置く。レセプションの受付人は笑顔なく、冷淡な感じの損なタイプの人です。
 明日のアルテイン・アラシャン行の情報を得たいので、町のインフォメイションを捜して、やっと日帰りのドライバーさん付きの車の予約をする。
 この町は中国からの宗教的弾圧を逃れ、天山山脈を越えて、中国系のモスリムの回教徒、ロシア、ウクライナ、ウイグル人等多くの民族が、小さいが仲良く暮らしている町。現在は天山山脈の登山の基地でもある。最高峰ボベダ山(勝利峰)7439mへの、登山口でもある。大きなリュック背負った若人も多い。スラリと伸びた手足のしなやかさ、若さとは其れだけで清々しくて美しい。ぶらぶら歩きの古い中心地は、区画整理がなされて、道幅は大きい。民家にはリンゴやナシ等の果物が鈴なり。摘果をしていないので、小振りばかり、道の片隅にバケツに入れた果物の無人販売。泊まったホテルは水回りが良くない、2泊するので明日のホテルは別のにしよう。ホテル捜しに、もう一つの旅行社に寄ってみると、阪大の女学生がロシア語の勉強に来ている、其処の紹介するホテルまで、案内していただきました。若い間に留学の経験は、将来の多方面の可能性を育ててくれるでしょう。帰路には木造の聖三位一体の教会は、堂々としてカラフルに建築されていました。門の前に年寄り夫婦が犬を連れて、何かを恵んでほしいと手を出している。この国で初めて、こういう人を眼にしました。イスラム教徒のドウガン・モスクも木材だけで建てられ、釘を使っていないらしい。教会やモスクが多移民達の歴史を、物語っているようで面白い町である。中心街の小さなレストランは、とても味の良いお店で、”ウエルカム カラ・コル”と言ってくれる。キルギスの暖かい気持ちの人々の笑顔に、励まされる日々です。
       アルテイン・アラシャンにて
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左=マルティン・アラシャン川 温泉とジープ   右=マルティン・アラシャン 3000mの放牧

 アルテイン・アラシャン行の旧型のジープは、約束時間きっちりやって来る。キリギスの陸軍の中古車を払い下げてもらったらしいが、これが見たこともない骨董品、窓もドアも破損して、風が入って来る。これで大丈夫なのかな。毎日山登りを往復しているらしい。アク・スムの近くから山道に入って行く。此処はトレッキングコースになっていて、若者達は5〜6時間かけて登り、山の上には泊りも出来るらしい。ザック姿で登っている横で、壊れそうなジープで登るのは、少し恥ずかしいけど、体力に自信が無い。途中で大きな石ばかりの道が時折長く続くし、川あり沼あり、断崖絶壁も、高い崖からの落石有で、ドライバーさんの枝術は相当なもの、三段切り替えのギヤーを、器用に使いこなし、切り抜ける。途中の景色を観るどころではなく、舌を噛みそうなガタガタ道を、進んでいきます。馬に乗ってトレックしている人達も、沢山いました。今まで多くの国で、危険な個所を車で通り抜けたが、これ程の危険さは初めて、全てを神様に託す以外にはなく、3時間程は生きた気がしないとは、此の事だと思いました。此の山道をよくぞ無事で、50$の値うちあるぞと、思いました。毎日往復している彼は、これからは雪も有るでしょうからと、問いかけると、雪道の方が運転しやすいとの答えでした。
 やっと3000mの大自然の保養地着く。ユルタ(パオ)や宿泊できる温泉地でもある。緑の針葉樹の中に秘湯がある。周囲に囲いがあり、温泉が湧き湯で流れているので、ひと風呂浴びさせてもらう、何という幸せなことでしょう。また一つ貴重な体験が出来ました。中央アジアのスイスと言われている様に、正面には雪の4260mのバラータ山を眺め、ドライバーさんの母親、兄さん経営のコーヒーショップで、お茶とお菓子を戴く。もう少し行ったところにアラ・キョル湖あり、神秘的な雰囲気があるとか。私にはここで充分です。相棒さん達は近くをトレックしているようです。こんな高みにも何百頭もの馬、牛、羊の放牧があり、馬に乗った牧夫が格好良く、群れの後ろから追い立てている。のんびりと眺めていると、以前から此処に、暮らしているのではないかという気がしてくる。少し頭痛がして来て、此れが帰り時のサインかな。あの怖い悪路を通リカラ・コルの別のホテルに送ってもらう。嗚、本当に命懸けのアルテイン・アラシャンであった。忘れられない想い出の一時の出来事であった。
 今晩は親子3人で経営している民宿の様なホテルに泊まる。大きな畑には果物や色とりどりのコスモスやダリアが満開。洗濯物に精を出して、畑の上に干させてもらいます。真面目な息子さんは、何でも相談できそうな御方、両親も優しそうなお人柄がでている。こうした家庭的な宿は、心休まる気持ちがする。此れからは高級なホテルには、いくらでも泊まる機会はあるでしょうけど、多分自分にはこうしたホテルの方が、ずっと続く好みかも知れない。明日はキリギスのメイン観光地の、イシク・クル湖の南側にあるキャンプ地、ポン村のユルタに泊まり、何もしないでぼんやりと時間を過ごそうと思う。息子さんの勧めるベンタムに予約を入れてもらう。
       カラ・コル→トン村のベンタム
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トン村のベンタム ユルタ(パオ)

 カラ・コルの南バスターミナルよりの出発、何時ものように、乗客が小さなバス一杯にならねば発車しない。少し待てば出発する。2時間程経ってトン村で下車し、宿が差し向けたタクシーが、此処も山道のように細く石ころだらけ、ベンタムのキャンプ地へと運んでくれる。ガイドブックにも載っていないが、旅人の間では、知る人ぞ知る所らしい。隣のユルタに三人の日本人の若者が、泊まっていたので、情報を戴いた。近くにスカスカと言う、赤茶けた岩の名所があるらしい。此処からでもその付近の岩が見えている。相棒さん達は泳ぎに行きましたが、今日はこのユルタの中で、ウオークマンを聞き、単行本を読み、時間と共に色彩が変化する湖を眺め、ぼんやりとしたい。昨日のホテルの息子さんが、サンセットは素晴らしいと聞いているので、静かにその時を待つ。夕方になるとベンタムの食堂には、車で来る団体さんで急に騒がしくなる。この湖に泳ぎに来て、食事を予約しているのでしょう。大勢が長時間掛けて、食事をしている、とても楽しそうでした。日本の食事時とは大いなる違いがある。これもお国柄でしょうか。
 ベンタムでの夕焼けは感動するものではなかった。季節によるものでしょう。ほぼ普通の事でしたが、夜空の星はとても大きく見える。天の川も北斗七星も、大きく輝いて満天の星空。寒くも暑くもなく丁度良い気候、風は強く吹いている。此のベンタムの女主人は自分の半生を、涙ながらに語ってくれる。主人と離婚して、5年前から此のベンタムを経営し、2人の娘はカナダに留学している。このユルタは春から11月までオープンする。きっと辛い事を、想い出しているのでしょう。朝食はユルタに泊まっている人々全員で一緒に、かなりの豪華版。熱々のクレープを何枚でも焼いてくれて、とてもおいしいものでした。この女主人にも聞かれました。”貴方は何歳ですか“私は”何歳か想像してみて”可笑しなことに50歳代とか、いいえと答えると40歳代とか、とんでもない、駄洒落かな?私は黙って微笑むしかなく、そんなものでしょうと濁しておいた。恥ずかしくて本当の事は言えない。日本人は若く見えることだけは、確かです。
       ポン村→トクマク→ビシュケク
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左=プラナ塔の野外で戦士の墓   右=プラナ塔の前で

 タクシーがボゴン・バエバまで運んでくれる。そこからは公共のバスで、トクマク行です。途中の風景は真っ白い天山山脈の美しさを堪能させてくれる。近くの低い山は赤茶けた山肌ばかり、両サイドは農地と放牧が続いています。この国の人々は肉食が多い、魚は淡水魚を加工したものばかり。海には面していないからでしょうけど、四方を海に囲まれた日本の魚料理は、旅にある時には、何時も懐かしくなる。帰国したら魚料理を戴こうと思います。  トクマクで下車する、プラナの塔とバグサグンの遺跡が此処のメイン。遺跡はガラクタの集まりで見る価値は無いので、タクシーを雇いプラナの塔だけにする。三蔵法師がインドに向かう折に、立ち寄った所で、長安から天山山脈を越えての交易路、旅人やキャラバン隊の、目標となるプラナの塔は、過っては45mあったが地震で崩壊して、今は24mになり、少し傾斜している。10世紀末は遊牧民族の国家カラ・ハーン王朝の都であったが、モンゴルにより滅亡の憂き目を見る。プラナの塔にはお金を出せば上まで登れる。360度の展開を観る。野外には騎馬民族の戦死の墓が有るが、その顔たちがのっぺりとして、可愛い。”夏草や兵どもの夢の跡”と習ったことが有ります。こうして静かに見ていると、栄枯盛衰の空しさを感じさせます。突然、大音響と共に、白く大きなベンツが3台も来ます。結婚の披露宴らしい、近頃ではキルギスの有名地のプラナ塔の前で、友人達のお披露目目的で。若人たちが輪になって踊り、其処を撮影隊がドローンを使って写している。新郎新婦は幼い10代の感じ、孫の年齢でしょうか。これから先の時代を、如何生きるのでしょう。時代は変化する流れの表れでしょうか。  トクマクに帰り、キルギスの首都ビシュケクへと、ミニバスで行く。此処にも日本の中古車ばかりが、走っている、日本車は優秀であるとの証拠である。以前泊まったゲスト・ハウスは敷地を拡げ、三階建てと成長をしている。夫婦は私の事を覚えてくれていた。”女性二人で来たわね”老女は珍しいのかも。若者ばかりが多く、台所を勝手に使わしてくれるところが、此処の良いところです。シャワー室は沢山あるし、きれいに掃除がされている。私達は持ってきた日本食を、いただきました。近くの売店で西瓜一個(80円)買って、冷やして食べてみると、これが大当たり。13度位かな?大きいので食べきれないので、泊まっている若者達にも、振る舞いました。久し振りにアザーンのあの声を聞く、此処はイスラム圏であることを実感しました。聞きようによっては、時計代わりにも、声にも美しい音色も有り、珍しい曲と思えば、気持よく聞こえてきます。
       ビシュケクにて
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 今日の目的はカザフスタンのシムケント行きを、如何するかを決める事です。聞くところによると夜行列車はないらしく、バスのみらしい。35番バスで西ターミナルに行って、今晩の夜行バスチケットを買う。国境を通過するので、パスポートも提出しなければならない。やっとこれで安心できる。
 この都市最大のオシュバザールに行こうとする。方向を定めて歩き出すが、埃っぽくて身体中が埃まみれ、それだけ台地が乾燥していて、唇がビリビリしてくるし、咳も時々出る。バザールは巨大すぎて、夫々の売り物より、建物が分かれているので、慣れるまでは大変手間取る。売り場の中では、同じようなものを、何軒もが売っている。何時売れるかも分からないのを、辛抱強く買い手を待っている。相棒さんは登山靴を修理してもらっていた。最初に言った値段と、終わった時に渡してくれる時の値段が違っていた。内心狡いやり方だなーと思う。市場の食堂は何でも美味しいと言うのが定説です。ラグマンとプロフしか知らないので、注文すると矢張り正解でした。今晩の夜行バスに備えての、少しの食料を買って準備しました。どんなバスなのかな。
 信州大学の山岳部の学生さん達が、泊まりに来ていました。多分天山山脈の何処かを、登山したのでしょう。真っ黒に日焼けしていますので。冷やしたスイカを、一緒に戴きました。三人の一人が、オシュバザールで、財布をすられたそうです。カードを止めるのに、手間取ったらしい。孫の世代と話すのは、愉快な一時でした。今夜はシムケント行の夜行バス、何事もなく無事に到着できますように。
       ビシュケク→シムケント(カザフスタン)
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トルキスタン コジャ・アクメド・ヤサウイ廟

 深夜バスのシムケント行を捜すのは、バスターミナルでは一苦労をした。聞いても要領を得ず、2つのバスの間を行き来して、後でわかった事ですが、少しの時間のずれで2台あったのです。言葉が通じない事は、情けない事です。やっと乗車出来れば、普通の大型のリクライン付きのバス。隣に人のいないところに引っ越して、ゆったりとする。タラーズの国境の出入り口は緊張をする。プログによると、的を絞った人には、賄賂を要求したり、意地悪く時間をかけたりと評判が悪い。同年配の女性が書類の書き方を、教えて呉れる。書類を書かなければならないのは当然なのに、ペンを持ってない人もいる。国境の緩衝地帯は、ライトもなく手探りで歩いて渡る。良かったです、難無くパスしました。乗客の数合わせで、ドライバーさん真剣そのもの、一人でも欠ければ、バスは発車出来ないで、留め置かれるらしい。約40分掛かりました。陸路の国境越えは何時も緊張する。それからは、9時間程でシムケントに到着する。早朝で外はまだ暗い、近くのホテルは余りにもデラックス過ぎて、手がでないけど、ロビーで待たせてもらい、明るくなってから適当なホテルを捜して入室できた。昨晩は満足に寝て居ないので、お昼までは自由にしました。近くの旅行社で、首都アスタナ行の航空チケットを得る。何かのイベントが有るのでしょうか、朝早い便しか取れなかった。この街は公園がとても多い、コスモスの花が咲き乱れています。昼間は30°位の夏の暑さですが、夜は少し肌寒い感じです。今日は郷土史博物館から、中央バザールへ行こうかな。此処からウズベキスタンの首都タシケントには、バスで1時間足らずで行けるらしい。ですから人口の比率からは、ウズベク人が多いらしい。バザールは人種の坩堝と呼ばれている如く、色んな顔立ちの人々で溢れかえっている。人とモノの渦の中、人間は生きて往くには、これ程の種類のモノが必要なのか、不思議で仕方がない。何時もバザールに行くと、自然に元気を貰う程、活気に満ちている。  バザールの近くに住民の大きなモスクが有る。モスクの内部は、何処でもシンプルで飾りは一切ない。吊るされたシャンデリアが豪華だけで、床一面にジュータンータンが敷かれている。メッカの方角に卵型にくり抜かれた祭壇に向い、祈っている人、隅には昼寝をしている、読書している人もいる。男女別で女性は他の部屋で祈っている。男性の祈り方を見ていると、足を折り曲げて、頭を床に着ける様は、屈伸運動に好都合だと、密かに思った。天井が高いので、とても涼しくて、暫く休憩をさせてもらいました。今日もよく歩きました。ホテルに帰り共同の台所で、自分達の夕飯を、何か作りましょうか。
       シムケントにて→別の都市トルキスタンに
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シムケントの庶民のモスク

 中央アジアの巡礼の地である、コジャ・アクメド・ヤサウイ廟は、郊外のトルキスタンにある。バスターミナルから6人乗りのマシュルトカーには、倍ほどの乗客がスシズメ、クーラーは無く、サービスの心算の大音響の激しい曲がかかり、それ故余計に暑さが増して来る。外の風位を入れて呉れても良いのにと思うのに、女性の一人、髪が乱れると止める。誰も文句を言わずに黙っている、2時間の苦しい拷問の様な乗り心地。  サマルカンド・ブルーの屋根が見えた所で、乗客達が此処で降りなさいと、言ってくれたようです。イスラム教者のヤサウイ教団を、創設した神秘主義者のヤサウイは、イスラム教の聖人の一人です。ウズベキスタンのテイモールの命により建設され、サマルカンドのビビハム・モスクにそっくり。彼の好みのサマルカンド・ブルーのドームが、青い空と一体になっている。内部はモスクではないので、小さな部屋に仕切られている。当時に使用された生活用品が展示されている。巡礼者達は、遠方から此の廟を目指してやって来る。彼の墓の前後を、多くの信者さん達がお祈りをしている。内部の撮影は禁止だが、隠れてこの墓を撮っても、ぼやけてしか映らないらしい。ドームの敷地は広く、分厚い塀の上からの見物も可能です。外は暑くて真夏日です。今回の旅は、もっと寒いと思っていましたが、こんなに暑いとは予想外でした。廟の近くに大きな立派なホテルがあったので、1度位奮発して、カザフスタンの名物でもと思い、入ってみると、メニューは無く、言葉は通じない。従業員さん達は居るのに手持無沙汰、こんなことではお客さんは来ないよ。と言い残して後にする。庶民的なテント張りのお店で、お昼を戴くが、肉がどっさり入っていても、美味しいとは思わない。この国には宗教上の決まりで、放牧には、豚は1度も見たことは無く、もちろんその料理もない。日本ほど、なんでも美味しいものはありません。他所の国では、料理に期待しない方が、良いと思っている。ここでも年齢を聞かれると、ごまかしておく。本当の事を言えば、驚くに違いないので、黙って内緒がよいし、嬉しい気持ちになるのは、その時だけの事。帰路のバス乗り場が分からなくて、迷っていると、親切にそこまで連れて行ってもらいました。有難い、私も何処かで誰かに、何かの形で、お返しをしましょう。又してもどこまでも続くステップの中を通過して、気持の良いホテルに帰りました。明日は朝4時には、空港に出発しなければならないので、タクシーを予約して早めに休みました。
       シムケント→アスタナ(首都)
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左=アスタナ中心地 バイテレク   右=バイテレクより市内を見る

 シムケントの国際空港は、エキスポも終わっているのに、とても混んでいる。皆冬服を着込んでいる。アスタナはカザフスタンの北にあるので、矢張り寒いのでしょうかと、心配になる。航空中、粗末なサンドイッチの朝食は、美味しくなくコーヒーかお茶だけの方が、ましと思うのですが。1時間半ほどで、アスタナに到着する。矢張り寒い、早速厚手の上着の出番、帰国前の宿だから、予約しておいた。1日半を過ごすホテルは、朝、晩の2食付きが魅力で選んだのですが、地図上で読んだつもりが、中心地に近いと言う思いは、この国では通用しない。何時も失敗続きです、それだけ国土が大きいと言う事なのです。ホテルも意外と郊外にある。
 アルマテイより遷都して20年、人口は80万、ナザルバエク大統領の絶大なる統率力により、この都市は建設された。首都の基本設計は故黒川起章氏によるものだそうです。街の中心に行って見ると、よくも此れだけのビル群が、連立しているものだと、驚くやら不思議ばかり。まだ至る所でクレーンが働いて、未だに成長しています。今まで多くの都市を訪れてはいるものの、この都市こそが人類が造った人工都市という感じ。此処が未来の都市であろうか。カザフスタンの首都が、これ程の近代都市とは、考えたこともなかった。空路でシムケントからここまで来たので、途中の事は分からないけど、多分巨大な砂漠やステップの原野の中に、ポツーンとこの都市は存在しているのではないでしょうか。天然ガスや石油、鉱物資源に恵まれているので、財政的には豊かな中央アジアの優等生らしい。
 高層ビルの間に居ても、人の気配が無い。モールやショッピングセンターには、人混みが無くガランとしている。これで店舗料を支払って、やっていけるのかなと心配です。象徴的なモニュメント、バイレイク(105m)に行き、エレベーターで展望台(97m)から街を見下ろす。大統領の黄金の手形があり、その上に自分の手を乗せて、記念写真を撮っている。この人達は、故郷に帰りこの写真を、自慢するのかも知れない。この町に住む人々は、これ以上の発展を、望んでいるのでしょうか。アスタナで生まれた人は別として、以前は大自然と共に、調和した生活を営んできた人々でしょう。鳥類には帰巣本能が有ると聞く、人間にも自分が育った故郷を、懐かしくは思わないのでしょうか。次々と建築中のビルは、以前の日本が税金を投じて、無駄な箱モノを造った、慣例にならねば良いがと不安に思う。カザフスタンもキルギスもあの広大な大自然は魅力的でしたが、このアスタナは好みの問題ですが、興味は何もなく、二度と来ることは無いと思い、帰路の途に就きました。
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