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初(はっ)ちゃんの世界紀行 ――吉田初枝
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   ベトナム北西部への旅 〔〔2019.10.02〜10.13〕〕
     
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 ベトナムは何度も旅をしているが、北はハノイ止まりで、それ以上へは行ってはいない。南北に細長いベトナムは、一度の旅では無理な位、魅力的な都市が多い。夫々が違った歴史と文化を持ち興味は尽きない。ホーチミンは経済の中心で、ハノイは首都、政治、文化の都市である。
 ハノイで群馬の友人と合流して、旅は始まる。空港は新しく立派です。イミグレイションは、大勢の観光客で混雑していて、ヨーロッパの人々も多い。換金すれば0の多いドンは、慣れるまでは時間が掛かりそうです。予約したホテルからの迎えの車で45分。道路の混雑は予想以上。明日は少数民族の地、サパを訪ねるため、交通手段を如何するか。寝台列車が人気らしいけど、途中のラオカイまでしか行かない。其処からはバスで移動する。面倒な事なので直通のバスを選ぶ。旅行社で、翌朝7時発のチケットを予約する。
 ハノイのホテルは旧市街にあり、食堂、レストラン、土産、コンビニ等、困る事は無い。観光客で賑やかな所ですが、玄関は狭く奥が深い、京都の町屋の様な造りで、清潔で静かでした。夫々が自由に過ごしました。
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左=ラオチャイ村の全ぼう    右=サパの青空マーケット

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             ハノイ→サパ

 サパ行きのVPバスの集合場所に行き、バスを待つ。リクラインシートで快適そうな大型のバス。所要時間5〜6時間位掛かるらしい。大体西洋系の若い男女が多い、私達の様なアジア系の老人はいない。ハノイの喧騒を後に、ホン河に架かる巨大なロンビエン橋〈1700m〉を渡り郊外に出る。日本と良く似た田舎風景の広がり。唯一異なる事は、低い住居でその周りに多量のバナナの樹々がある。豊かに広がる黄金色の、稲田も続く。トイレ休憩は2回、食事は出来るが、食欲を誘うものはない。のんびりとバスの景色を楽しんでいると、小さな山々の丘陵地帯に入る。段々と山地への登りが始まる。ヘヤーピンカーブを幾つも越えて、ホアンリエンソン山脈の中に在る、サパの町(標高1600m)に到着する。お昼過ぎ到着したので、少数民族の村を2つ位は訪ねましょう。
 ホテルの紹介でガイドと車を雇う。ラオチャイとダヴァン村の2つのトレッキングです。直ぐにガイドのスーちゃんがやって来る。中学生のように若く見える彼女は24歳との事、御主人は農業を仕事としている。17歳で結婚して7歳の息子がいるそうです。バンに乗せられて、ラオチャイ村の全貌が見える展望台まで行、其処からは歩きです。車は遮断されている。
 サー、トレッキングです、ラオチャイ村はモン族の村、黒モンと花モンに別れているが、此処は黒モンらしい。
モン族は手先の器用さがが目立ちます。ラオスの夜市でも、細かい刺繍の物は、得意としていました。服装には袖口と襟に、丁寧な刺繍入りの藍染の上着とスカート、ソックスを着用していますが、スーちゃんは短めで、普通のプリント模様のスカートでした。村の中を歩いていると、竹篭を背負った老女や、中年の婦人達が近づいてきます。一緒に並んで歩きます。篭中の手作りの小物を、買ってほしいのでしょう。村の民家は、コーヒーショップやお土産屋さん、ホームステイ等、観光客目当ての小さなお店をしています。狭く区切った農地は痩せています。稲を刈った切株が残っています。小川にアヒルの親子がいて微笑ましい。藍染の工房のある民家に立ち寄りました。スーちゃんはインデイゴ染だと、藍玉で染めるのではなく、化学薬品の合成染料で染めています。ジーパン等には洗う度に変化するのが、良いのかも知れませんが、昔、中国で藍染と信じて、ベッドカバーを買い、洗濯をして見事に色落ちした。染止めが完全でなかった事、インデイゴ染だったことを、今更になって知りました。くねくねと曲がった道に沿って歩き、ザイ族の村ダヴァン村に到着、此処は赤ザオ、黒モン族も交じっている。ザイ族は黒いズボンに、薄い生地で襟から右の脇に、刺繍入りの長袖のブラウスを着ています。族が違えば時には、理解できない言葉もあるそうです。民族の違いは服装により理解できる。日差しは容赦なく照り付ける。よく歩きました。車が迎えに来てくれて、サパの市内まで送ってくれます。サパまでの途中は道路を拡張したり、山地を削ったり、大きな工事が続いています。これからもっと発展した観光地になるでしょう。
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左=ファンシーパンのゴンドラからの棚田    右=1500の地のお寺と仏塔

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              2日目のサパ

 連泊はとても楽な旅です。洗濯物も良く乾くし、町の様子も慣れてくる。朝食は近くのホテルで、何軒かのホテルのお客さん同士寄り合いの、豪華なバイキング。
今日はインドネシアの最高峰ファンシーパン山〈3143m〉に、ケーブルカーで行こうとする。此の頃は自信ないけど、友人達に励まされて決心する。サパの一大テーマパークなのでしょうか。 年寄りは朝早いのは苦にならない。入山料は此処の物価からしたら、驚くような高値です。人出は少ない、最初はトラムで登り、標高1500m位からロープウエイに乗り換える、自分が鳥になったような気分です、眼下に広がる棚田の眺めは、すでに稲は刈り取られてはいますが、同心円になった棚田は、自然の摂理に沿っているのでしょうか。スマホ片手に歓声を上げている若者達。山岳地には数本の長い滝も観られます。ケーブルの着した広い土地には、10を超える寺や仏塔が有ります、全てが新しく絢爛豪華な内部です。人々は膝を曲げて、頭を床に着ける独特なスタイルで、お祈りをしています。外国の観光客が多いのですが、ベトナム国民の、一大観光地になっている。山頂まではトロッコ列車で着く。頂上にはベトナムの大きな国旗が建ち、記念写真に没頭しています。天候はまずまずの天気ですが、時折ガスが出て来て、全てを隠します。下山には何故かトロッコ列車のチケットが入ってなく、歩きでした。矢張り3000mは足が重く息切れがする。ドクターストップは何のその、自分でも無謀とは思う。何百段を下っただろうか、体力を随分消耗しました。ケーブルの乗り場には、此れから登る観光客の多さに吃驚する。私達は早朝でラッキーでした。
サパの中心街を散歩する。サパ教会の前の広場は、祭りや催し物の開催地、此れだけ少数民族が多く住んでいるので、時折にはマーケットにもなる事でしょう。サパは深い山岳地他の中に、突然に生まれた不思議な町でもあります。フランスの統治時代には、政府の高官の別荘地だった。フランス軍が撤退すると、自国の独立の意味もあり、その当時のフランス風の建築物は、全て破壊された。教会前にもモン族の人々が、篭を背負って歩いています。売り込みはしつっこくはない。我が家にあった針を、幾人かにあげました。日本の品質は良いのが分かるのか、見つめていましたが、若いモン族達は、とても喜んでくれていました。美しい刺繍を為さるでしょう。
サパ湖の外れの庶民のマーケットに行く。内部は余り活気が無く、少数民族が外で青空市を開いている、其処の方が少数民族の女性達のほうに活気がある。私は焼き栗を買ってみると、くるりと皮がむけて熱いので、とても美味しい。少数民族の幼い子供達に、民族服着せて写真を撮らせて、お金を貰っている姿を見ると、情けないな。いたいけな子供を利用してまで、お金を稼いでいる大人達の行為を、そうせざるを得ない人々の暮らしが、在るのでしょうか。
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左=バックハーの野菜市場   右=バックハーの牛馬鳥犬の市場

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花モン族のニューモード

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              サパ→ラオカイ→バックハー→ラオカイ

 サパの町は、去り難い思いはある。もっと多くの民族を訪ねたい気持ちはするが、バックハーの少数民族のバザールは、日曜日だけに開かれる。短い日程では仕方がないと諦めます。
サパからはガードレールもない細い山道を、小さな山村を次々と越して行きます。薄いがアスファルトは敷かれています。今晩泊まるラオカイよりも北へ、合計4時間位かな、バックハーに着く。乗客の中に日本人の若い女性が一人居ました。若き日の自分を見る思いがしました。
広いバザールの敷地には、色とりどりのテント架けしたその下には、野菜、果物、肉魚、日常品、漢方薬、トウモロコシのお酒等、少数民族の手作りの物が沢山並んでいます。周辺の山村より、朝早くから出かけてきたのでしょう。元々は物々交換から始まり、お互いの交流や男女の出会いも遇ったことでしょう。華やかな花モン族の娘達は、写真で見たのと違う、もっと現代風にアレンジしている。年寄りは以前と同じ民族服、赤ザオ族は頭に飾りをつけた帽子を被り、大人の女性達は眉毛も髪もありませんでした。少数民族はこの時とばかりに、自分達の族の衣装で、市場を闊歩する。百花繚乱の如く、見ているだけでも楽しくなります。川の向こうには水牛が何百頭も、馬も豚も、犬も鳥も売買されています。農耕用ではないでしょうから、食用になる運命でしょうか。水牛は(1頭1000$〜3000$)位らしい。青空バザールだけではなく、近くに土産屋物屋さんが沢山あります。商品は売れないのでしょう、埃を被り売り子さんがやる気がない。レストラン、ホテルも沢山あります。2時間の自由時間で、見物も終り。昼食を戴いて、集合地より帰りのバスに乗る。
帰路の途中、ある村により、農村の暮らしぶりを見せてくれる。敷地内には豚や水牛、鶏を飼っていて、焼酎を作る真最中、若者は中国に出稼ぎに行っている。どの国も農業だけでは、暮らしは成り立たないのでしょうか。
ラオカイで下車する。中国の雲南省と接する国境の町。ホン河を挟んでイミグレイションの大きなゲートが向かい合い、夫々がその威厳を張り合っている感じ。私達は駅の近くで宿を決めて、ゆっくりと骨休め。あすのハザン行きのチケットも予約できました。
            ラオカイ→ハザン

ラオカイはベトナムと中国の物資の移動に、多くの貨物列車が行き交い、国境貿易の地、活気があります。中国の河口(ホーコウ)駅は近く、キエウ橋を大きな荷物を担いで渡る、地元の人達を見るのは、何となく面白い。朝食に近くの食堂で、ベトナム名物のフォウ(米の粉で作ったうどん)を戴きホテルに帰ると、バスの従業員の方が突然、直ぐ出発の準備をして、車が待っていますと。ハザン行きは9:30分発のはず、それが7:30分になった。車で追いかけて、ハザン行のバスに詰め込まれる。地元の方々と民族服の女性達で、ミニバスは満員。後部座席なのでオフロードはダンピングが激しく天井にぶつかりそう。バナナとコーンの畑、稲株の田んぼが続く。つづら折れとはこのことでしょうか、曲がりくねった道を、けたたましく警笛を鳴らし、カルスト台地に入って行く。5時間半かかりハザンに到着する。もっと田舎と思いきや、意外にもビルもあり開けています。
ハザンでは言葉が通じない。満室だった隣のホテルの青年が助けてくれる。明日のベトナムの最北端迄、1日車をチャーターする手配も、してくれました。ハザンとドンヴァンの資料は少なく、最近まで入域出来なかった。今は許可書が必要とある。観光客が訪れなかったので、山奥に残った桃源郷と、言われる所以であるかも。明日朝6:30分出発、迎えに来るそうです。
ハザンの町は小さな田舎町、でもレストランや立派なホテルは、ちらほらあります。これからはもっと観光化するでしょう。道のサイドには青空市があり、果物はそろっています。
ラオカイからのデコボコ道、曲がりくねった、信じられない位危険な道を乗り継いで、何の事故もなく、此処まで辿り着いた事すら不思議です。誰かが守ってくれていると、信じています。晩には凄い夕立がありました、飲み出かけた二人は如何しているだろう。
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左=女性の胸の山    右=ソバ畑

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左=村の子供達    右=ルンタム村の食物からの織物

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左=モン族の王の屋敷   右=ルンクー村の国境の旗

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マーピーレン峠

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          ハザン→ドンヴァン→ハザン

 すっかり晴れ渡り良い天気、朝食付ではないので、持参の物や、作日買ったので済ませ車を待つ。時間厳守は珍しい、紹介者と共にホンダの車で、40歳位の穏やかな方が、今日のドライバーさん。ホンダの車は、誰もが欲しい銘柄なので、此の人は如何して手に入れたのでしょうか。
ハザンやドンヴァンには、20以上の民族が暮らしている。ベトナム国民には、人気の観光地。ドンヴァンの許可書は、警察の調べはあっても、その場で書いてくれるらしく、一先ず安心した。走る事1時間位、ヘヴン・ゲートからの絶景が広がる。タムソン村を一望しながら、その麓に2つの円錐形の小山が、まるで女性の胸を想像して、造られた如くある。モン族の男性と妖精の切ない伝説もある。子供達が家畜の草を、一杯に背負って、車の横を通り過ぎて行きます。幼い時から、厳しく鍛えられている様子が覗える。カルスト台地の山岳は、面白い形の稜線を、次々と見せてくれます。石灰岩の痩せた大地には、蕎麦だけは良く育つのでしょうか、蕎麦の花をよく見ます。日本は白い米粒の様な花でしたが、ここはピンクです。痩せた山肌を耕作するのは、大変な苦労を伴うのに、この地で生きて往には、逞しさを必要としています。 少しガスが出て来て、写真は撮れないが、相変わらずの細い道はくねくね曲がる。落石、泥濘、対向車が来ればどうなるのでしょう。車は北の奥へと進んでいきます。やっとはっきり見えてきた、遠近の山容は、面白い形の山岳地帯ばかり。稜線を愛でながらのドライブは最高です。ビューポイントは子供に篭を背負させて、写真代をせびっています。親が教えているのでしょう。
モン族の王様の屋敷跡に行く。アヘンの原料となるケシの栽培で大儲けをし、ドンヴァンを支配した王チン・ドウックの屋敷で、石と木材とで、フランス、中国、モン族の伝統建築が混じって建設された。そんなに興味を引く御屋敷ではなかった。今も子孫は実在している。其処からは黒い火山岩の山肌に、小さな樹々が繁った、なだらかな丘が続きます。その景色もお目にかかったことのない奇妙さは、見応えがありました。
ベトナムの最北端、中国の雲南省との国境の、ルンク村のロン山には、大きなフラッグ・タワーが、はためいている。友人達はその搭に登ったけど、私は下から合図を送りました。ドンヴァンの旧市街でお昼を、こんな田舎でも露天商も多く、ホテルもレストランもありました。
帰路は往路と違う道、マービーレン峠を越します。ハイウエイは(標高2000m)の天空よりのドライブは、息をのむほどに素晴らしい。はるか下の渓谷を流れるグリーンのニューキエ河と、荒々しい石灰岩の山岳の景観は、度肝を抜く程の光景です。この素晴らしさは忘れられないこと。今日のドライブは300kmを越している。休憩を沢山したからか、12時間位かかりました。矢張り疲れましたので、早めに休みましょう。
           ハザン→ハノイ

ハザンの町は極普通の小さな田舎町でした。でもドンヴァンの一周は、とても面白いことでした。 隣のホテルの青年に、ハノイ行きのデラックスバスを予約してもらって、宿でピックアップ。大型で16人のリクラインシート。バスの中は靴を脱いで乗り、清潔にしていますが、運転手さんはスリッパで半パン。今回の旅で特に思ったのは、ベトナムの田舎は何処までも、緑豊かな山岳地帯と、田園風景が続きます。赤土の禿山は、あまり見かけない。南に下がるにつれて、稲穂は黄色に垂れて実り、バナナ、トウモロコシは豊富にある。時にはサトウキビも植わっています。5〜6時間掛かったでしょうか、上等バスは身体が楽でした。ハノイに到着すれば、近代的なビルの連立、多くの建設ラッシュ、過去と現実の差を見せつけられる。日本の企業の看板も沢山かかっています。
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左=ニンビン バンディン寺   右=ニンビンのチャンアン ボート乗り場

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チャンアンの寺

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         ハノイ→ニンビン→ハノイ

 ハノイのホテル近くは観光地なので、騒がしいことを除けば、便利です。バックパッカー向きのホテルで2段ベッド。世界中の若者達ばかり。夜は遅くまで騒いでいました。
 今日は陸のハロン湾と呼ばれるニンビンに行きたい。ハロン湾には2回ほど行っていますので、出来ることなら近場の観光地に、友人が賛同してくれましたので、手っ取り早いツアーに入りました。15~20人位のベトナム人ばかりのツアーの中に、優しく迎えて呉れました。ニンビンまでの幹線道路は常に激しい混雑です。100k程を2時間30分かかる。
 最初はバイデイン寺に、小山に建設された巨大な仏教寺、東南アジアでは最大らしい。まるで何かのテーマパークの如く、内部まで全てが規格外の大きさ。小さな電気カートで、次々と見どころへ連れて行ってくれます。鐘楼や五百羅漢の大きさや多さには、唯々吃驚です。金ピカの御本尊は重量が100 トンもあるそうで、純金なら老人ホームが幾つも建設できるのにと、思うのは野暮な事かな。1000年前は洞窟の中に在った、開祖の高僧リー・クオック・スーも、こんなに大きくなって、溜息を憑いてらっしゃるのではないかしら。大きければ信仰心が勝るものではない。日本のお寺のように、地味でしっぽりしたお寺の方が、有難さがある気がします。暑さと歩きに疲れましたが、バイキング料理が待っていました。隣の席のベトナム人3人は、大きなお皿に我先にと、凄い量の肉料理を何皿も、何度も取に行く。以前カザフスタンで中国人の婦人達が。バイキング料理を大皿一杯にして、ビニールの袋に入れていたのを見たことがある。バイキング料理には、人の欲を見る思いがして、自分もその中の一人であるけど、好きではない。
 チャンアンに移動する、以前田畑であったところの多くが、エビの養殖場になっています。お米よりもエビの方が、利益があるのでしょう。チャンアンはカルスト地形の奇妙な岩山が、湖の中に山水画の様な風景を造り、手漕ぎのボートで渡り、多くの鍾乳洞の中を潜り抜けます。私達を乗せた船頭さんは中年の女性で、この道のプロ、民族服を着て、大きな編み傘を深く被って、しっかり漕いで下さる。急流の処も息一つ聞かず、黙って職務を果たしています。鍾乳石の垂れさがった、暗い洞窟を潜り抜けて行きます。小さな明かりで、感が頼りでしょう。船頭さんは女性ばかり、女性の底力を感じます。多くのボートが連なって、緑色の清らかな流れの中、睡蓮の花を楽しみ、石灰石の岩山の珍しい景観は、訪れて良かったと思わせます。でも不思議なことに、湖中の多くの岩山に動物を見ない事、鳥もいませんでした。夕暮れ時にハノイに帰りました。
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ハノイ ドンスワン市場

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                 ハノイにて

 2泊したバックパカーの宿で友人の一人が、ダニにやられました。彼は毎晩ビールを飲むので、身体が暖かくなり、ダニに好まれたのではないかなと言う結論。痒そうです、痛さよりも辛いのかも知れません。旅の最初日と、最後のホテルは予約しているので、其処へと移動。ホワンキム湖も近いので、朝の散歩も楽しみ。次の朝はホワンキム湖へ、周辺には青空市があり、近くの住民の買い物で賑わっています。出来たてのイモの入ったおこわを買ってみると、成程庶民の味がする。湖の中央には、由緒あるゴックン島の祠が有り、伝説の大亀のはく製が2匹、ガラスケースの中に、鎮座しています。湖を渡ったって来るそよ風が涼しい。こんな島で、のんびりとすれば、さぞかし気持ち良いことでしょう。まだ時間たっぷりあるので、市内の有名な所を観光しましょう。
 ドアン門より、ホーチミン廟?、メインゲートに行くにも、警備が厳しく手荷物チェック、大周りをさせられて、表の総大理石造りの、物々しい大きなビルが、ホーチミン廟です。見上げるばかりで、結局今日は入室できない。それならばゲートの前に、知らせを出せばよいのに、無駄な時間を費やされました。真っ白な特殊な警備の警察か軍隊が、交代の儀式をしている。手の振り方、歩き方が独時です。以前訪れた際には、ホーチミン氏は、この国の英雄として、ガラスケースの中に、生きているような顔色で、眠っていました。ホーチミン氏が住んでいた家屋が、公園の中にありました。素朴で庶民的な彼を、偲ぶには十分です。どこかの首相のように、豪華な官邸は、彼は決して望みはしないでしょう。まして自分の死後を、英雄として祀られることを、望んだでしょうか。遺言状を見たい気がする。一柱寺は小さな池の中に、1本の柱を支えにして、建造されたお寺。子宝に恵まれる観音菩薩を安置しています。タンロン遺跡とレーニン広場前のコーヒーショップで休んでいると、今日本でもブームのタピオカを、飲んでいる婦人連が多い、その上にホイップを乗せて。その姿を見ていると、世界情勢が駆け巡る世の中、自分の歳では、ブームとか流行に、遅れている気がしますが、何も困る事はありません。多分命果てる迄、此の儘でしょう。
偶然にもハノイ大学の女子学生2人が、日本語を勉強していて、案内役を引き受けたいとの、申し入れがありました。友人はハロー収容所や博物館を、未だもっとほかの処も、見学したいので、喜んで御一緒していました。私は別のコースを回りました。
軽い散歩コースで、ハノイの中心にある最大市場ドンスワンへと向かう。卸売り屋が多く、買い付けの商店の人々で、賑やかです。大きな市場には、お得意さんがいるのでしょう、少額の小売りを相手にせずとも、困りはしない。売り手は横着な態度です。衣料品は2階で、生鮮食料品、干物類、土産物等は1階と別れていて、買いやすくなっています。其の市場周辺の方に活気がある。庶民の市場は、自分の生活と直接結びついているので、とても興味がある。ブランドのお店を覗くより魅力的で、どの国でも通じることです。暑い日差しに、少し歩けば汗ばんできます。ハノイでの主要道路では、バイクと車の混雑は、激しいのは日常茶飯事ですが、1度も事故を見たことが無いのです。偶然かも知れないけど、不思議なことです。
以前はアオザイの民族服を着た女性が多くいたし、高校生の制服もアオザイを着ていた。とてもスマートに見えていた。もう1度と願っていたのに残念です。冠婚葬祭には着るのでしょう。
ホテルに帰ると大型の台風19号が、日本に近いていると聞くと、気になります。無事に帰国   できることを願い乍ら出国する。木犀香り、スダチが鈴なりに、水仙の芽が土を持ち上げて育っています。我が家の有難さを、心から感謝いたします。今日から何時もの平凡な主婦となります。
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