初(はっ)ちゃんの世界紀行――吉田初枝
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してものネパールの旅  〔2014.10.22〜11.3〕
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 ネパールを旅する絶好の季節は、9月の終わりから10、11月、その間の都合のよい日を、計画をしていたが母の急病でキャンセルは覚悟したが、2週間もすれば驚くほどの回復で、医師との話し合いで心配はないだろうとの判断を受けて、病院に預けている方が安心と高を括って、自分勝手な事とは知りつつも、何時かはこのような事態を想像していたので、思い切ってキャンセルをせずに山仲間と出発する。
 中国南方航空が一番安くトランジットが短い時間で好都合。カトマンズのトリバン空港には夜の10時に到着する。到着時に貰えるビザの列、15日間ビザに並ぶと、ビザセクションの案内係が何日と書いていないところに導てくれる。前に居た日本人達がビザの値上がりを嘆いていたので、30ドルと思って用意していたが40ドルを払わされた。不思議だ、急に値上がりするのかなと思っていたら、後で良くパスポートを見たら30日のビザになっていた。ビザセクションにやられたのだな、巧妙に仕組まれたやり方には呆れました、何としてもドルが欲しいのでしょう。  予約して居たホテルに一直線、町中はクリスマスに飾るイルミネイションが屋外につるされている。明日からは3日間、テイハール(光の祭り)というネパール全土の祭りです、我々が泊まるホテルの窓枠にもチカチカと美しい光の飾り物が一杯です。電気の供給量が少なく毎日停電が有るらしいのに大丈夫かな、各ホテルも自家発電を持っていなければ、どうにもならないと聞いた。ダサインという祭りが終わったところなのに、ネパールの国民性は祭り好きの気性を持っているのでしょう。果たしてネオンのイルミネイションで神様はお喜びなさるのでしょうか、もっと神聖なものではないのかなと思う。
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 上=道の四つ角はフリーマーケット  下=子供達も「ナマステ」に反応してくれます

 カトマンズ市内の観光 ダルバール広場、スワヤンブナート
 朝は穏やかな日和、朝食付ではないので、近くには朝食を戴ける沢山のお店はある。タメルは観光客の集まる町、レストラン、お土産や、旅行社等、何不自由しない町。明日のポカラ行は相棒さん達の希望でポカラまでの道沿いの、小さな村の景色を、見ながらのんびりとバスでの行動として、そのバスのチケットも予約する。
 私方に4年前ステイしていた娘が、大学を卒業してから結婚し、今年の4月に男の子を授かり、今は子供を育てることに奮闘している彼女が、ホテルに訪ねて来てくれた。一目見て彼女の容姿はすっかりと変わり、以前の華奢で小柄な可愛い姿は、子供を持ってか14キロも太ったらしい、すっかり落ち着き,女性としての貫録を備えた彼女の姿に、こうして母として逞しく強くなっていくのだと、改めての思いをする。長居は出来ない彼女とは、観光を終えてから、又会う事を約束して別れる。
 先ずはカトマンズの旧市街の中心地、ダルバール広場を目指す、タメルからの細い道は人の波、3日間がテイハールの休みなので、休日を利用しての地元の人々や,季節柄の観光客も加わり、何処も人出が多く、掻き分けて歩きます。中世のマッラ王朝の時代に、ネワール文化の最盛期に建築された大小の寺院や凝った作りの宮殿が、聳え立つ、多くの神様が住んでいるような、昔ながらの佇まいを見せてくれます。国王の住家であったハルマン・ドカや、生き神様がおられるクマリの館は,木造の窓枠が見事、それに赤茶色のレンガ造りの建物がいかにもネパールらしいです。でもこの大勢の人出、落ち着いて見物は出来ない。帰国時に時間が有れば再びここを散歩しようと決めて、大きな通りに出ると、又そこも車やオートバイの交通渋滞、大気汚染で喉がいがらっぽい、住民もマスクを掛けている人々も多い。道の片隅で風呂敷を広げて何かを売っている人達もいる。売り物は埃まみれ、買う人はいるのでしょうか。時折、道路で寝ている人を見る、酔いつぶれているのでしょうか、其れとも疲労困憊して倒れているのでしょうか、誰も気に留めてはいない。賑やかな四つ角にはフリーマーケットがよくある、木造の庶民の家は傾き、今にも倒れそうな家屋も沢山あるが、其れでもそこで商いをしている。
 今日の主な観光としてスワヤンブナートを選びました。バスでも行けるが、手っ取り早いのがタクシーで行く。西に向かって、でこぼこ道は相当な起伏があり、舌を噛みそうになる。遠くからでもこんもりとした森の頂上に、白いストウーパの輝きが見えている。長い階段には両側に即席のお店、野犬や猿の団体が、仲良く暮らさざるを得ないらしいが、犬猿の仲とかいうのに、此処ではそんなことは論外です。のんびりと昼寝をした姿は、微笑みを誘います。日照りの暑さで喘ぎ乍の長い階段の登り、やっと頂上に着けばヒマラヤ最古の寺院が有る。チベットからの密教の伝来である。巡礼者を受け入れる宿泊所もあり、色んな神様もおまつりしていて、すべてが尊い存在である、その篤き心は、ネパールの多面性というか包容力の大きさの表れでしょうか。境内よりカトマンズの盆地の眺めは素晴らしい。此処まで登った甲斐もある。昔の人々はこんな高き所まで登り、どんな思いでこの寺に参ったのでしょうか。暫くは盆地を一望出来るカトマンズ市内を、こんなところまで来たと言う気持ちで眺めました。カトマンズの市内でも此処までの道すがら、柿色のマリーゴールドの花だけを、輪にしたレイのようになったものや、花をつなげて長い紐にしたものを、各商店の玄関先に、飾っている。祭りの祝い心を示しているのだろうか。
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 上=ポカラの田舎の風景  下=朝少しの間マチャプチャレが見える

 カトマンズ→ポカラ
 ポカラにバスで行くことは、今日1日を行動日とする。デラックスバスは売り切れで、その次のバスらしい、昼食が付いているとか、ポカラまでは200キロ、日本の高速でなら2時間を、ここネパールでは6〜7時間かかるそうです。如何にも悪路でくねくねと、山越え谷越をするのでしょう。ホテルがバス停迄送ってくれるが、矢張り日本では見ない位のオンボロバスです。途中2度程トイレ休憩、昼食は川沿いの景色のよい所ですが、全く美味しくないバイキング、戴ける種類がとても少ない。食べられたものではない。何度かポカラ行で通った道ですが、以前とは何も変わってはいない、弱体化した政府には道路整備までには、手がまわらないのでしょうか、道路の状態はむしろ悪くなっている。日本の中古車は、この地で大活躍をしているのをみる。
テイハール祭りで村のあちこちで、若き女性達が正装して、同じようなテンポで踊っている。日本の盆踊りの様な雰囲気です。田んぼでは刈り入れ時、村人の多くが集まって、稲刈りをしています。お互いが助け合って、作業をこなしているのでしょう。藁を積んだ丸い小山が、刈り入れが終わった田んぼに、広がる光景を見ると、懐かしさに胸がキューンとなりそうです。カトマンズと違って、何とのんびりしているのでしょう。青い空、きれいな空気、高き雲の間より、白い山脈がちらっと見えたなと思ったら、そこがポカラの終点だった。ポカラの宿は大きなテラスが広がる清潔そうな部屋に落ち着く。近くの日本食堂で夕食を終えて、明日の観光を考え、祭りの音楽が子守唄のように聞こえてきます。
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 フェア湖畔のパフォーマンス

 ポカラにて
 昨夜は祭りの踊りが道の角や商店の前で、マイクで大きくした音楽に合わせて、若い娘や時折は男性も交じって踊っている、ネパールの祭り好きの気分を、盛り上げ楽しそうでした。早朝は宿のテラスより。真ん前にラムジュン・ヒマールの雄々しい姿が堂々と現れ、もっと見たいと思うのですが、直ぐに雲に覆われてしまう。
 今日はタクシーを頼みポカラ市内の観光をします。最初にデヴィス・フォールに、フェワ湖からの川の浸食によって、奇怪な地形を見る。次にチベッタン村に行く、チベット動乱時にネパールに逃れた難民を、ネパール政府が、保護している村、観光客相手に手工芸品を作り、それで生計を立てている。祭りなので露天市の数が少ない。気のよさそうな御爺さんが、自分の家に寄って行かないかと手招きする、何かを売りたい魂胆は分かっていたけど、どんな家なのかと付いて行くと、小さなトタン拭きの小屋で、骨とう品まがいの品を集めているようだ。矢張り思ったとおり、何かを買ってほしい、土産物には興味はないので、丁寧に断る。セテイ・ガンダキはヒマラヤ山脈からの流れが、深い渓谷となって、ポカラ市内を南北に貫く。その流れを見るためには、崖に連なる貧しい家屋の前を下って行く。ちょっと覗いてみると、ベッド以外には何もなく、不潔そうな部屋にはテレビがあり、男の子がドラエモンの漫画を見ている。貧しくともテレビは、欠くべからざる生活の一部なのでしょうか。何軒かに一つしかない外の水道で男性が、食器を洗っていた。深い渓谷には白い川の流れ、エベレスト街道のトレッキングでの川が、白かったことを思い出す、あの川からの流れなので、石灰を多く含んでいるので、乳白色になっている。
本日は祭りなので車は少なく、店も休みが多い。フェワ湖に浮かぶ小島にあるバラヒ寺院はこの地の守り神、渡し船に乗ろうと、観光客が長い列をして待っている、時間かけてまで、行く気が無いので、対岸より眺めて、それで終わりにした。フェア湖の周りにはグルーと散歩道が作られていて、心地よい風が渡って来る、美味しいパン屋さんに行くついでの散歩は、この地に住む人々の暮らしを、垣間見ることが出来る。湖を藻が蔓延っているようで、もっと浄化をしなくては、悪臭がしてきそうです。細い路地がどこまでも続き、迷子になりそう。小さな家屋にも、花々を好みで植えているので、きれいに咲いていて、のんびりとした風情です。
 以前トレッキングのガイドを頼んだ方が、次に会った時にはコンピューターの店を開いていたが、今如何しているかしらと思い、店のあった所を捜すと、今度は斬新な大きなレストランを開いています。彼を忘れられないのは、頭に横一文字に凹みがあり、それは幼き時から竹籠を背に荷物を担ぎ、頭にバンドを廻して運んで、少しの賃金を得て、親を助けたらしい。孝行息子の誠実さは店の経営にも表れているようです、従業員の教育にも生かされて、きびきびとよく働き、この辺りでは、一番流行っているようです。彼と話すうちに、こんなに成功していても、以前と全く変わらない真面目な人柄は、自然に伝わって来る。彼の奥さんも仕事の手助けをしているし、子供が2人居て楽しみらしい。彼のレストランが裏で続いた土地に、大きなホテルを建築中、将来の夢の計画を、眼を輝かせて語ってくれる時、自信に満ちたその姿は、人生で一番美しく、輝きのある時なのでしょう、彼の考えを聞いていると、周到な計画の上に築かれる夢は、直実に発展していくようです。若い人は夢を持つべきです。ポカラでは日本人の夫婦が、日本料理店を開いたり、ネパールの人と結婚したりしている、これが現代の在り方なのでしょうか。時代は確実に変化していくようです。
 フェア湖のレイクサイドでは、次々と新しいレストランやホテルが新築されていますが、果たして採算が取れるのでしょうか、疑問に思います。以前と違う所は、此のポカラにも中国人の観光客がとても多い。大声で話し、細い歩道を横に広がり、大勢で闊歩している。店も中国語で案内した看板を付けているところが多い、以前は日本語だったとの記憶が有る。通りがかりに、店の人から”ニーハオ”と言われれば、私は”コンニチワ”と返事して、中国人ではないよとアピールする。中国からは5時間ほどで、直通で来られる。山に趣味がなくとも、こんなに安く過ごせて、のんびりするのであれば、大挙して押し寄せてくるのも無理もない。
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 アンナプルナ連峰

 サランコットの丘〈1592m〉
 昨日はテイハールの祭りの終わりなので、若い男女が各所で、今年最後の踊りを、夜遅くまで祝っていました。今日はサランコットの丘までの、軽いトレッキングしようと計画して、登り口に5時に着くように、タクシーを頼んでいました。ライト片手に登り始めるが、何方も自分で登る人はいないようで、暗さで道を探り、見失うことも在りで、1時間もすれば少しずつ明るくなり人家もみられて、住民に教えてもらい、急登もあったがゆっくりと展望台まで、2時間位を費やしたかな。展望台には次々と観光客は訪れる。大体の人は車を使って登って来ていて、ヒールで来ている娘さんもいる。アンナプルナ連峰との間にマチャプチャレ山はその姿を現す。ポカラの町中で見るとは、遙かにその迫力が違い、豊かな盆地とその空の間に迫りくる連峰の美しい絶景に、暫くは動くこともできませんでした。もうこの風景を見ることは無いかも知れないが、心の中にしっかりと刻んでおきましょう。下山は車の通る道を気持ちよく下っていたのですが、空の車の誘いにのって、フェア湖畔に帰りました。ポカラは気候的にも1年中寒くも暑くもなく、のんびりとして雰囲気が良く暮らしやすいと思います。レストランの彼の話によると、パラグライダーや空中散歩の飛行は、とても高価なのに中国人は躊躇いもなく、大金を使ってくれるそうです。時代は変化する、中国が世界を牛耳る事になるのではないかと心配です。
彼の家族と夕飯を共にした。利発そうな子供2人が成長期にある、夫妻位の年頃には、何にでも挑戦する気持ちがあり、怖いもの知らずの希望に満ち溢れる時代でもあった気がします。日本人の思いやりの優しさと技術の素晴らしさには、尊敬と憧れを持っているそうで、何時の日か、日本に行って色んな所を訪ねてみたいそうです。来日の際には何かのお手伝いが出来ればと、心待ちにしています。
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 ポカラ→カトマンズ
 早朝は何時もテラスからの180度の景観、西からアンナプルナ・サウス〈7219m)、アンナプルナ1(8091m)、マチャプチャレ(6993m)、アンナプルナ3(7555m)、アンナプルナ4(7525m))、アンナプルナ2(7937m)、 ラムジュン・ヒマール(6986m)がズラーリと眺められる、30分位は見られるけど。直ぐに雲が湧いて隠れてしまうのが、何時も残念で仕方がないです。
 ポカラからカトマンズの帰りにチトワン・サファリパークを考えました。2度程行っているが、その都度がっかりした、沢山の動物と遭遇するとあるが、ワニとクジャクぐらいのもので、珍しいものではなかった。ただ象の背中に乗って歩いたこと位が、良かったことでしょうか。経験ではアフリカのサファリには、適うものはない。帰りを空路で帰ることを決めてそのチケットを得て安心しました。ホテルのテラスで、毎日アンナポルナ連邦とマチャプチャレ山を、存分に眺められた事は、何とも言えない満足です。20数年前、アンナプルナ内院、マチャプチャレBC迄登った思い出は断片的に浮かび、若き日に登ってよかったなという思い、今ではそこまでの体力は、続かない。
 山岳地帯の遊覧を得意とするSIMRIKを選び、上空よりポカラを眺めながらの景色を楽しみましょう。バスなら、6〜7時間かかる所を空路なら30分、フェア湖と山岳地帯は目前に迫り来る、数々の川の蛇行が鮮明に表れて、18人乗りの玩具の様な飛行機は、無事に着陸する。タメルの慣れた宿へと落ち着いた。
またあの土埃の騒々しいダルバール広場の近くのお茶屋さんに、アッサム茶を買いに行く。ミルク茶にすればとても美味しいので、私方の朝食の定番にと家族が待っている。お茶専門店で、求めた方が新鮮です、きれいな箱のお土産用になっているのは、何時パック詰めされたか分からないので、大きな茶筒からグラム数で求める方が良い。
ニューロードやラトナ・パトには金細工や装飾品の店が、新しくオープンしている。自分の国の紙幣でお金を貯めても、信用できないのでしょう、世界共通の価値ある金の方が、いざという時には役立つのでしょうか。東南アジアを旅すれば、よく見られる金崇拝主義、それとも自国不信用主義かな。庶民の店のスーパーは大、小色々とあるが、未だコンビニは進出していない、いずれもうすぐ出来るでしょう。
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 サンガにて 近くの農家

 カトマンズ→サンガ
 6年ぐらい前だったかな、ポカラで知り合った日本人の山屋さんは、早期退職をして、ネパールの貧困の村の子供たちを、学校に通う事を援助する活動をしている、Sさんの住んでいるサンガに行って、彼の活動を見たいし、その心を聞いて、相棒さん達にも退職後の人生を、こうして過ごしている人もいることを、知ってほしいと思います。彼はお金を与えるのではなく、如何してお金を儲けるかを親に教え、そのお金で子供たちに、教育を受けられるような機会を、作ってあげている。騙され裏切られ失意に沈んだ日々もあり、やっとこれまで3つの村に少しずつだが、その成果は表れてきているらしい。彼がタメルに買出しに来るらしいので、コーヒー店で待ち合わせ、ジープを予約してあり、彼の村に行く。カトマンズよりバクタブルを過ぎて40分位標高1700mの丘の上に彼の宿はあり、以前の宿を取り壊して、今再建築していて、まだ完成していないので、彼の部屋の隅に泊まらせていただくことになる。その宿ももうすぐに出来上がるようだ。彼の宿には一つの家族が住んでいて、4人の子供達を近くの学校に通わせている。通学の合間には、宿の色んな事を手伝わせている。此処は標高が有るので朝晩が寒い事だろう。ちょっと家の中を見渡せば、台所のお米を焚く鍋が圧力鍋、やはりそうでなくては、美味しく炊けないでしょうね。今晩は何を戴けるのでしょうか。
 隣近所を散歩すれば段々畑が続きます、日本の山岳地の農村地帯を歩いている感じ、でも水脈に乏しくお米は育たない、麦と菜種油の菜の花が一面に、緑と黄色のパッチワークのようです。でも此処は少し早く歩けば、息切れがする、標高差を感じる。住んで居る人達には何でもないことでしょうが、急がないようにゆっくりのリズムで何事もしましょう。近所の住民はとてもフレンドリー、手招きで我が家へどうぞの挨拶ですが、私は何となく遠慮をした。家屋の隅には牛や豚の糞や生ごみを貯めて、堆肥を作っている。背に担ぐ籠(ドッコ)で婦人達は堆肥を、畑に運んでいる、これは女性達の仕事で男性は見かけたことが無い。ネパールでは女性たちの方が、力持ちではないかな。ここでは有機肥料の自然栽培法が未だに続いている。無理なく土地も野菜も、自然に育っていく方法であるのは、昔からの祖先の教えである。
丘を2つほど超えれば“アサブリ寺院”がある。相棒さん達は元気なので、そこまで行ったようですが、私はS氏の話に聞き入ってしまう。夜は、バクタブルの明かりと、空の星明りに見とれていました。
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 サンガ→シバ神→バクタブル→サンガ
 早朝の楽しみは朝陽に漂う雲海の上に広がるパノラマ、東からガウシャンカール、ドルチェラクパ、ガンチェンポ、ランタンリルン、ガーネシュ、マナスルシマルチェリ、アンナポルナ3、マチャプチャレ、がズラーと並ぶ様を、どんなに説明しても足らない。毎日この広がる山岳の様子を眺めながら、朝を迎えることは山を愛する人にとっては素晴らしい一時です、S氏が此処に宿を定めた気持ちは分かります。
 今日はカトマンズともう2つの古都中のバクタブルに行こうと思います。向かいにあるシバの神様にお会いしてから行きましょう。サンガよりバス停に行くには、崖になった険しい下りが有る、通学の子供たちは走って下りて行きますが、私達は危なかしい足取りでやっと下りました。サンガの子供達は幼い時から足腰が自然に鍛えられると思います。以前このバス停に来た時より、お店がもっと増えて賑やかになっている、巨大なシバ像が観光化されているのでしょう。大金持ちになったインドの方が個人で建築したそうで、ネパール人ではなく、大体ここに参拝に来ているのはインド人達が多い。シバ像の後方には豪華なホテルが建築されて、インド人の高級リゾートになっている。ネパールの人々には羨ましい限りではないでしょうか。
 私達はシバ像の丘を、下ってバクタブル行のバスに乗る。バスの乗客が此方を強い視線で見ている。地元のバスには、観光客は乗らないのでしょうか、日本人は珍しいのでしょうか、30分程で着く。
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 バクタプル

 バクタプル
 15世紀〜18世紀のマッラ王朝時代、首都の一つとしてネワール文化の華やかな頃の建築物が残っている。バス停からハイウエイを超えて、ダルバール広場まで歩く、途中の小さな橋の上に、沢山の人が川を覗き込んでいる、何かな。大きな蛇がカエルを飲み込んでいるのだが、その又カエルが大きいので蛇は、四苦八苦している、珍しい光景です。
 メインの旧王朝の金のゲートは豪華で、銃を持ったガードマンがいる。窓枠の木彫が素晴らしい。トウマデイ広場には5重の塔が聳え立つニャタポラ寺院、タチュパル広場にはダッタトラ寺院と、夫々がネワール文化の粋を表す窓枠、柱の彫刻、赤茶のレンガ造りや木造建築を見て回る。この町は路地が迷路のようになっていて、自分がどこを歩いているのか、分からないことが多いが、地元の人は観光客慣れているのか、直ぐ教えてくれる。観光客も多く、ここでも中国の団体さんは多い、声が大きく広がって歩いているので、私達には直ぐ分かる。この町だけの有名な、美味しいズーズダウ・ヨーグルト(別名、王様のヨーグルト)を戴く、普通のヨーグルの味とは違い、手を加えていない自然な味がする。以前は1軒しかなかったのに、近頃はバクタプル名物として、各所で売られているようです。どんなに美味しい物であろうと、日本のように並んで順番を待ってまでも、食べたいとは思いません。
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 ボダナート(眼玉寺)

 サンガ→カトマンズ
 サンガでの2日間は、S氏宅で日本食やネパールのダルバート・タルカリ等を、上げ膳据え膳で戴き、夜には今までの経験や、これからの夢というか希望を、次々と話してもらう。停年しても何かに向けて、もう一つの始まりであり、このように他国に尽くす彼の一途な思いを聞かせてもらう機会を得て、有難く拝聴させてもらう。
カトマンズに買出しに行く彼と、一緒に住民のバスに乗り、1時間程田舎の風景を眺めながらカトマンズに着く。彼と昼食をして、又何時か機会が有ればお会いしたいと、名残惜しくもお別れしました。
 ネパールの愛する娘がホテルにやって来る、自分の嫁いだ家に来て、4月生まれの息子に会ってほしいと、車を回してきたので、途中ボダナートを訪ねようと思う。
 ネパールでの最大の仏塔は眼玉寺という別名もあり、白い丸い塔の上に大きな目玉、何処からでも貴方を見ていますよ、という意味もある。過って15世紀に、イスラム教徒に破壊された歴史もある。亡命してネパールに永住したチベット人達の祈りの中心地、ラサとカトマンズの交易が盛んな頃には、商人や巡礼者は必ずこのボダナートに、お参りしたそうですが、今では観光客が必ず訪れる地。僧院も在るし、多くの尼僧も修業をしているらしい。
 ボダナートの近くに、彼女の嫁いだ家がある。今日は御主人も早めに帰宅していた。3階建てのしっかりしたビル。兄弟が夫々の階で暮らし、ごく普通の家庭のようで、日本の昔の大家族です。彼女の息子も皆の愛情を一杯に受けて、育ってくれるでしょう。夕食を御馳走して下さるそうなので、彼女とお兄さんのお嫁さんとで、2時間程掛けて準備していたようですが、薄い魚の揚げ物とジャガイモ、美味しくないスープだけでした。一般家庭の食事とは、このようなものなのでしょう。
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 カトマンズ→ナガルコット
 パタンに泊まるつもりでしたが、以前泊まった宿が満員なので、ナガルコットにする。季節の良いピーク時には、直通で丘のバスターミナルは行くらしい。タメル郊外の大きなホテルより出発らしいので、そこに行くと違う場所だった。でもバスは定時に出発するが、途中カトマンズ市内を抜け出すのに、道路工事のために、すごい渋滞でびっくりする。市内を抜ければ徐々に高度を上げてひた走る。ガードレールなしの細い山の道、ヘヤーピンカーヴや車の離合、ドライバーさんの腕の良さは、日本のドライバーさんよりは遥かに上をいく。山地も道の両側には、稲の収穫時、多くの男女が忙しく働いて居る。昔田舎で見た景色が広がる。藁のこずみでかくれんぼ、畦道で三時に戴いた、各家自慢のおやつの思い出が脳裏を過る。機械化された日本の農業よりも、こうしてお互いが助け合って収穫時を過ごした、日々の思い出を持つ身の有難さを、今更乍意義深く思う。尾根沿いに出たと思えば、そこが終点だった。
 ナガルコットは標高2100m、今日泊まる所は終点からの山道の、登り下りの尽きる所に在る。急がないようにゆっくりと歩く。この宿はネパール人の御主人、奥さんは日本人だから、内部はとても清潔にしてある。4年前に泊まった時より宿代は倍額になっている。増築もしているので、よく流行っているのでしょう。ネパールの人々もナガルコットで朝方に見る山岳の表情を、眺めにやって来るらしい。
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 ナガルコット→カトマンズ
 部屋の外は大きなテラスになっていて、ここから遠望できるようになっている。標高が有るので早朝の寒さは相当らしく、窓ガラスは水蒸気で曇る。待つこと暫し、6時ごろから東の空が、赤味を帯びた鰯雲がたなびき、少しずつ太陽が顏を出せば、真ん前のドルジェラクバやゴサインクンド丘陵が現れる、東方を白い光を浴びて、ズラーと帯状に、アンナプルナ山脈までを見せてくれます。何という美しさでしょう。うっとりとして我を忘れ、何時までも消えないでほしい。こんなにも美しい光景は、健康でここまで来られてこそのご褒美です。忘れないように、心の中に刻んでおきましょう。私達の周りに、トンビが沢山空に舞っています。  ネパールでは土曜日がビジネス、学校がお休みで、日曜日が週の始まりの月曜日のようです。今日は土曜日なので、地元の人々の家庭では、寛いでいる姿を、散歩すればちらりっと見える。この宿の奥さんと娘さんに別れを告げて、バスターミナルまで、のんびり歩く。そしてツアリストバスに乗る。あの危なかしい山道の下りが有る。登ってきた以上は、下るのは当たり前の事、ヤギの放牧の集団、犬が寝る、離合での小競り合いがあるが、にらみ合っても、最後は笑っての譲り合いに終わる。下りは思ったより早めにカトマンズに着く。昨日のあの渋滞は何だろうと、後でわかった事ですが、ネパールでのアジア・サミット開催の為、その時に通行する道路だけを、改修工事していたらしい、何かの催しが有れば、その場だけの繕いとか。土曜日はその工事もストップ、スムースに宿に着く。宿の近くに、過ってのナラ宮殿を改修工事で、市民の憩いの場にしているとあったので、興味を持って入園すれば、アベックばかりで眼のやり場に困る。私達はタメルの町を散歩して、美味しい日本食で栄養を補いましょう。
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 パタン ダルバール広場

 カトマンズ→パタン
 タメルの町も慣れてくると、何となくこの埃っぽい雑踏も気にならないようになる。慣れとはおそろしいもの、でも時々咳が出てくる。やはり少しは喉を、やられたのでしょうか。カトマンズ市民もマスクを付けている。やがては北京のように、スモックに覆われるようになるでしょう。“今でしょう”じゃないけど、早くどうにか手を打たねば、如何にもならないよ。政府のお偉方は何をなさっているのやら、自分の地位保全ばかりの事なのでしょう。
 今日は最終日、美の都パタンに行こう。タクシーで降ろされた所は、外国人に対してのチケット販売所、首からチケットの名札を下げた格好になる。マッラ王朝に建設されたお寺がずらりと並んでいる。ネワール族の手先の器用さはバクタプルと同じく、窓枠や建築物の柱にも、木造彫刻の見事さは表れていて、どのお寺もその様式が異なっている、町中が美術館のようです。路地をウロウロと歩き回るのは楽しく、彫刻品や曼荼羅の絵画を作っている工房も多く、即売もしている。旧王宮は何故か今日は閉まっていた。女性たちが赤い晴着を着て、頭に花を乗せているが、何の祭りかは分からない。近くにゴールデン寺があり、その本堂は眩しいくらいの金で覆われて、その細工が見事です。2階には左、右に分かれて、チベット仏教とヒンズー教が夫々に仲よく修行僧達が居ます。チベット仏教には女性もいますし、若い少年の素足が痛々しい。私達は此れで全ての日程を終えました。幸い何事もなく、健やかに旅を終えることが出来ました。
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ルネオ島の旅  〔2014.6.23〜7.5〕
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 キナバル山(4095m)

 ボルネオ島の事を英語ではボルネオ、マレー語ではカリマンタンと言うのが一般的らしい。イギリスが植民地としてスズ鉱山やゴム農園の開発に多大なる資本を投資して、中国や南インドより多くの労働者を移住させたので、多民族国家となっていく。第2次世界大戦中の一時期(3年程)日本軍が占領していたが終戦後再びイギリスの植民地支配となる。以後民族の対立、マレーシア国として独立する。現在のボルネオ島はマレーシア、インドネシア、ブルネイの3カ国が領有している。
 ボルネオ島は世界で3番目に大きな島(日本の1.9倍の面積)今回はマレーシア国の東部、サバ州の一部を旅しようと思いました。アジア圏を旅するには身体に不具合のない今の健康時しかないと、思いを新たにして、家族の理解もあり、それなりに準備して一歩を踏み出しました。
 今回のボルネオ島の旅に関して山の仲間と行くのですから、キナバル山を登らなくてはという思いも強い。東南アジアの最高峰(4095m)はマレーシアの初の世界遺産にも登録されているこの国の観光の目玉でもある。登山の事を調べてみると、1日の登山者を150人に制限して、入山前に中腹の山小屋を予約した確認が入力されていなければ入山出来ない仕組みになっている。個人で山小屋にメールを入れても満員ばかり、ツアー会社がその大半を押さえている。ツアー会社に質問すれば、ガイド料、宿泊費、入山料、保険費、荷物代等で一人分が4〜5万する、たった1泊でそんなに高くしているのは、政府とツアー会社の企みか、それとも自然保護の為と言うのかな。私が20数年前に登頂した折には、僅かなガイド料と入山料を支払えば、予約もいらず自由に登り、若かったせいもあり頂上近くの岩場もロープが付けられてあって楽に登り、美しい日の出にもお目にかかりました。時が過ぎるとはこの様な厳しい現実があるという事を知りました。友人に此の事情を伝えると、1人は中止しましたが、2人は無理して登山しなくとも、キナバル公園の熱帯植物や雨林を歩けばそれでよいと、納得してのボルネオ行です。登山なしという事で気分は楽になりました。
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 木に着生した植物(キナバル公園で)

 コタ・キナバル→キナバル公園
 山仲間3人で関空よりクワランプールでトランジットして、マレーシアのコタ・キナバルには、夜に到着。 空港よりはタクシークーポンが有り、市内の宿まで。この制度は市内をいくらと決まっているので、ぼられる心配もなく、交渉の余地もいらずとても良い事です。私たちが泊まる宿の近くにキナバル公園行のバス停が在るはず、それを見越して宿を予約している。中国系の愛想なしの白々しい宿。今日は寝るだけだから、これで十分。
 次の日の早朝散歩はコタ・キナバルの町中を、6時前でも中華風の朝食の店はオープンしている。どの国にでも華僑の人々は商魂逞しい、他の店より早く、そして遅くまで営業をしている。
 宿をチェック・アウトして私たちはキナバル公園行のミニバスに乗るが、満員にならねば出発しない、暫く待てば人員揃う、荷物代も含めて車代を支払う、目的地まで2時間程。何だか田舎の山道を、次々と山また山のヘヤーピンカーヴの連続、目前にノコギリの歯のように7個のピークを突き立てて、裾野を白い雲に覆われている山が見えると思ったらそこがキナバル山だった。
 バスはキナバル公園前に降ろしてくれる、公園内にもホテルやロッジはあるが、これ等も目が飛び出るほどに高価なので、近くの民宿のようなロッジが手ごろだったので予約しておいた。午前中にも拘らず宿は入室OK、荷物を預けて直ぐに公園に向かう。
 この辺りは標高1600m涼しく気持ちよく入園する。自国民と外国人の入園料は6倍の差がある。公園内の地図を貰うが、その地図が分かり難い。凄い広さのジャングルへと続いているようだ。キナバル山の自然とその歴史資料館に入るが、すべてがレプリカで展示しているのが面白くない。道路脇の木道を歩いていけば何とかなるだろうと、鳥の声を聴きながら爽やかな風に吹かれて歩いていく、キャビンやロッジ、レストランが点在している。山岳植物園に入る、ランばかりで人の手で作られた植物園、ランの開花期は雨季らしいが所々に咲き残りのランが残っています。大木に着生して咲いているラン群生がその木を弱わらして苔が生えたのでしょうか、大木は枯れかかっているのが多い。でもこのランが一斉に開花すればどんなにか美しいのでしょうと想像して、咲残りのランを見て回る。こうして歩いているより、トレッキングをしようという事になり、地図からパンダニス・トレックを選ぶ。空が見えないくらいの巨木の間の小さな道を登る、北側にあるので落ち葉の道は少しジメジメしていますがしっかりと道は在ります。巨木のその根が板状に広がってまるでロケットのような形で雄々しく真っ直ぐに立っている。大きな木樹ばかり、シダの大木にも名も知らぬ木樹のその幹には、多種多様な植物が着生して、畑のような役割をしている。見たこともないような色や形をした植物に目を見張る。小鳥が沢山鳴いているのですが姿が見えないのがもどかしい。セミの声か鳥の声か区別がつかない。時折案内板もあって道に迷う事はないが、ここが熱帯雨林と言うのでしょうか、薄暗くとても蒸し暑いのです。もう一つの南側のキアンビュウートレイルに入っていく、なだらかな斜面の巨木間を潜り抜けて行く。ボルネオの熱帯雨林の主役はフタバガキという種類の大木であるらしい。枝がなく垂直に空に向かって聳える大木は、その幹にはつる植物や着生植物が多いのです。下から見上げる私に“遠くからよく来たね”と声かけてくれている気がします。そのフタバガキに巻き付いているのは、色んな種類のイチジクの木が面白い形で巻き付いている。イチジクの木が着生したために、その木が枯れてしまうことも在りで、絞殺しのイチジクと呼ばれると教えてもらいました。落ちている実を割ってみると、まさしくイチジクの実でした。
 3〜4時間の熱帯雨林のトレッキングでしたが、興味津々の気持ちでした。巨木の熱帯雨林の中、虫や小動物、ヒルもいるとその準備もしていたのですが、難なく心配はありませんでした。
 私達が泊まっている宿は、ごくありふれた民宿、3〜4人の女の子達がオーナーの言付けを良く守って働いて居るようです。猫さんも居て人懐こく可愛がられている。宿の裏庭は白いエンゼル・トランペットの大木で埋めつくされていて、今満開の花々は優しく揺れています。庭からキナバル山、今日はご機嫌悪いのか見えない。前庭には紫色のアガパンサス、色とりどりのハイビスカスとブーゲンビリア等が美しい。女の子達が草取りをしている。クーラーなしでも標高のせいか暑くはない。夕食も此処で頼んだら美味しい味付けでした。オーナーにラフレシアン花の事を聞くと、近くの民家に咲くことも在るが、今は咲いてはいないと教えてくれる。
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 アグネス・キースの家

 キナバル公園→サンダカン
 宿の前が停留所と教えてもらうが何の印もなく心細く待つだけ、炎天下の中、待つのは辛い。8:30のバスは超満員でパス、次のバス9:30にやっと載せてもらう。クーラー入りの新車,サンダカンまで5時間近くかかるらしい。道路の事情はとても良い、両サイドはバナナやサトウキビは少しあるが、パームヤシ(正式名アブラヤシ)のプランテイションばかり、行けども永遠に続く如くにパームヤシ。食用や石鹸の原料となるのでしょうか。年数がたちその幹にはシダ類が寄生して、太く堂々としている、よくこんなにも植えたものだなー。多分ジャングルを開墾して、お金になる産業として発展していったのでしょうが、そこに住んでいた動物たちは何処に行ったのでしょう。自然を破壊するのは人間である。人力とは何よりも破壊力である。
 サンダカンに着いても中々終点に着かない、それだけ大きな街なのでしょう。私たちは街中のバックパッカーの宿に落ち着く。この街はサバ州第2の都市、商業の街、日本が占領していた頃、山崎朋子さんの”サンダカン八番娼館”を読んだことがある。明治時代天草からサンダカンに渡って“からゆきさん”としての女性たちのルポのような物語でした。何となく親しみが持てるような街なので、もっと詳しい地図が欲しいのでインフォメイションに行くが、そこは閉まっている。観光をアピールしようとしても、これでは駄目でしょう、今日は日曜日ではないのに。その建物の上の階、遺産博物館は無料ですが、見物者もいないのにクーラーが入り、無人の博物館を、ゆっくりとみて回りました。丘に向かって長い階段を汗かきながらヤレヤレでやっとアグネス・キースの家を訪れる。アメリカ人の森林長官だったキース氏の妻が”風の下の家”というサンダカンの生活を書いた書物が有名になり、没後もその家を保存し観光へ。しっかりとした建築で今でも住めそうな造りでした。直ぐ近くにイングリシュ・テイハウスがある、私たちはどっかりと座り、可愛いコスチュウムのウエイトレスさん達を横目に、海を眺めながらよく歩いた疲れを癒やし、とてもおいしいフルーツテイを戴きました。こんなにおいしいのなら、又サンダカンに帰り、時間が有れば今度は食事をしましょうと3人で約束する。
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 子供のオランウータン(オランウータン・リハビリテーションセンター)

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 セビロックのジャングルの中、スイレンの花が咲く池

 サンダカン→セピロック
 サンダカンの宿は若い人には人気のバックパッカーさんの宿、夜遅くにサッカー観戦で盛り上がっていました。市内のど真ん中にあり、何処へ行くにも便利、キッチンが使えて、自分たちの簡単な食事は作れる。
 サンダカンは海に面して、アジア諸国やヨーロッパとの貿易の交易地、第2次世界大戦でこの街は完全に破壊されたが、その復興はめざましく、大きなビルやデパート、商店街が中心にあり、昔の様子を知るべくもない。
 私達は海辺に面した磯臭いが気持ち良い道を、朝の散歩に選んで庶民のセントラルマーケットに通う。魚市場は海の直ぐそばにあり、漁船から獲れたばかりのカニ、エビ、貝、大小の魚が大きなマーケットに並び、大声で呼び込み合戦、その隣の別のマーケットでは果物、野菜、乾物、生活用品が売られている。私達は黄色のマンゴーと沢山のモンキーバナナを買いました。海や山の幸、南国特有の豊かさはこの地の人々を優しくしているのでしょうか、アジア系の顔立ちで小太りの体形が多く、私達に頬笑んでくれる。暖かい気候が与える優しさです。
 私達はこれからセピロックとキナバタンガンのリバークルーズに行きたい、そして帰路は又このサンダカンに一泊するので、その時のホテルを捜す、新築の海沿いのホテルを予約する。その折には又この地を観光できる。朝食のデザートに黄色のマンゴーを戴いてみると、予想にたがわずとても美味しい。世界中の果物の中で一番美味しいのはマンゴーだと思います。
 セピロックへと、昼にはサンダカンを後にする。バスもあるが余りにもぼろい車なので、3人いるのでタクシーでも損はない。サンダカンでもキナバル公園に行く道にも、セピロックへの通り道にある看板も大概は中国語、読んでみれば少しは意味が分かる。如何に昔より華僑が何代にも続き、経済的には優位にあることは明らか。財を成した華僑の下に一族郎党が馳せ参じ、その甘き蜜に群がっていることでしょう。またボルネオ島の特徴の一つに、各家にはその家族に合わせて水色の大きな水タンクが何処の家にも、屋根の上や庭にも幾つも有る。きっと飲料水は買っているのでしょう。セピロックのウエルカムの看板を過ぎて、市の大きな公園を通って、ジャングルに囲まれた宿にやっと着く。ドミトリーの大きな部屋の二段ベッドの下側を3つ確保する。6つベッドがあり、ベッドの間隔と高さがあり、シーツは清潔で窓は網戸になっていて、テラスもあり洗濯物も干せるなー。高床式建物で階下には共同のトイレ、シャワーウーム、中華鍋の底が排水になった洗面所が3つずつある。
 此処の宿はドミトリーだけではなく、2人部屋、3人部屋もあり夫々がキャビンになっている。大きな敷地の中に点々とあって後ろはジャングルに続いています。鳥や蝶、小動物と近くで見ながらゆったりと楽しんで過ごせる雰囲気を持っている特別な宿のようです。朝食付きで一人分は(30リンギット)900円ぐらいです、ドミトリーだからか。有難い事にはミネラルウォーターを氷にしたのを、大きな樽の中に入れて、溶けていく水を無料で戴けることです。コーヒーも紅茶もいつでも飲める。セロピックに来たからには、オランウータン・リハビリテーション・センターにくべきだという暗黙の了解がある。
 オランウータン・リハビリテーション・センター、人間が森林伐採や密猟などで親からの迷子や傷ついたオランウータンを保護して森に帰えし、自立できるようにトレーニングする施設を政府が設けて、そこを私達が見学するところです。1日2回、餌を与えるらしく、宿がその時間に合わせて宿泊客を送迎するらしいので、3時の分を頼み、2時にレセプション集まるようにとの指示がある。観光のメインであるので、しっかりとした施設があり、マレーシア国民と、外国人には入場料に大きな差がある。全ての荷物を預けねばならない。世界中から来た観光客がゾロゾロと熱帯雨林に作られた長い木道を歩いていく。巨木に餌付けが見えるように、大きなステージを作り、方々にロープを張り巡らしている。オランウータンにも腹時計があるのか、習慣で時間が分かるのでしょうか、綱渡り上手に次々とロープを渡って子供や赤ちゃんを抱いたお母さん、大きな体格のボスもいる。6〜7匹が係員さんからの野菜や果物を器用に手で持って食べています。オランウータンは“森の人”と呼ばれているだけあって子供が立っている姿は、人間の姿によく似ています。色んなしぐさが愛くるしく、顔がとてもチャーミングです。中には一匹の変人がいて、観光客の所にどうしても来たいらしく、係員さんを手古摺らせている、群れの中には入れないのでしょう、人間の中にもそういう人は居るものです、ある面では自分も同じ考えを持っていると感じました。与えた食料の余ったものは、他の普通の猿がお余り頂戴で、共存しています。もっと何十匹も来るのかなーと期待していたけど、今日は此れ位でした。
 セピロックの宿は今までに経験したことのないような広大な敷地にあり、熱帯雨林を開墾してその中にちんまりと在る。夜には蚊取り線香を焚いて、ベッドの上に虫除けスプレーを振っていますが、アリが入って来て足にポツポツと斑点が出来ている。昨夜は顔の上にヤモリが落ちてきた。屋根がトタンなのか、鳥やリスが止まれば、大きな音が響いてくる。でも朝には涼しい樹の香のする風、多くの鳥の声に起こされて、テラスで佇めば可愛いリスや鳥の様子が身近で面白く観察できます。階下に多くのハンモックが吊るされていて、読書や昼寝が出来るようになっています。大きな荷物を持ったバックパッカーさんの出入りが激しく、多忙なる宿のようです。朝食はコーヒーか紅茶、食パン2枚、卵とソーセージの簡単なもの。私達はベッドの横にモンキーバナナを吊り下げて、マンゴーもありそれがデザートになる。
 朝の散歩には宿の敷地内でも十分の広さがある、2つのスイレン花一杯の池があり、時折大きな魚が飛び跳ねて、水しぶきが上がっている。市民の公園と続ながっていて、池の周りに学生が合宿できるような宿舎がある。鹿が沢山飼われている、人気ないのか人の気配はない。鳥の声は喧しいぐらいなのに、華やかな色彩の鳥は偶に見るが、大体は地味目色の鳥ばかり、食堂に水をよく貰いに行くが、リスがとても多い。ここのリスは尻尾が鼠のように長いが毛が短く、ふさふさしてはいない。人には接近はせず、この豊かな自然の恵みの中で十分生きていけそうです、獣の姿は目にしない、リスの楽園のようです。
 レインフォーレス・デスカバリーセンター、次の日は熱帯雨林の植物や自然を実際に体験するところに行きたいので、宿に送迎を頼む。サバ州の森林局がオープンしている。此処も自国と外国人との入場料の差は6倍である。幾つものトレッキングコースがある。此処の地図も分かり難い。熱帯雨林の中は巨木の集まりで、やはり森一番の主役はフタバガキ〈270種〉真っ直ぐに空へ向かって伸びている、枝はなく20階立てのビル位かな、足元に羽根つきの羽根のようなプロペラ付きの果実を、付けた種子が巨木から落下して、遠くへ飛ぶようになっていて運が良ければ何処かで発芽するのでしょう、フタバキは日本にも輸出されてラワン材として、建築や家具として利用されている。フタバガキにまつわりついている多種多様なイチジクは森の動物たちの食堂の役割をしている。道を間違えたり重複したりして、やっと林冠に架けられたキャノンピーク・ウオークウエイの入り口を見つける。時間が掛かったが、これだと喜んで高さ24m位ありの空中のつり橋、熱帯雨林を上から眺められるようになっている。高所恐怖症の人には無理でしょうが、3人は気分よろしく楽しみました。しっかりとステンレスのつり橋から、巨木は真っ直ぐに大地に突き刺さった巨人達、何千年をも物言わぬ巨人は、世の移ろいに悩んでいることでしょう。地球上で繰り広がる無意味な破壊を眺めていることでしょう。時折オランウータンに会えると言っていたが、そんな気配もなし。大き目のトカゲ、蝶と鳥、リス、珍しい種類ではなく、ごく一般的な地味な色。出口近くのボルネオの植物園に入るが、ラフレシアの花はなく、迎えの車を意識して早がけの見物だったので感動した植物はなかった。5時間位のトレッキング、若い地元の人3人に会ったぐらいで、人気ないのでしょうか、入場料で採算が取れるのでしょうか。
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 左=キナバカンガンクルーズ(スカウ)  右=テングザル

 スカウ
 自分たちでスカウのキナバタンガンクルーズに行きたいが、中々難しい、仕方なく宿のツアーに入ることにする。宿は手数料が入るように仕組まれたプランを勧める。
 次の日の朝の散歩はいつもと違う道を行くと、土曜日だからか、子供ずれの親子が鹿を見に来ている。近くの古い店の奥には魚を養殖している。白いオームがハローと鳴いて寂しそう。朝食を終えると、この宿を一旦、チェック・アウトして、スカウ行の車に乗ると男性2人が先に乗っていた。この2人と一諸のツアーらしい。髭の強面の大男は苦手だなー、話してみるとペルーの大学を卒業したばかりの若い人で、アジア圏を卒業旅行しているらしい。人は見かけによらない、大男が笑えばとても可愛い、お金を貯めて日本に行くのが夢だという。嬉しい事を言ってくれるじゃない、日本はそんなに良い所でもないのにと言いたいのを我慢した。2時間30分位かけてスカウに着く。キナバタン川沿いに開けた漁師村、途中はこの国の主たる産業のパームヤシのプランテイションばかり、何処まで続くのと思えるほどに続く。時折赤黒い卵の塊のような収穫物を積んだトラックが行き交う。あれがヤシ油の素なのでしょう。道の両側に電柱が立っているが、道から離れたところに設定してあるのは将来道を拡幅する計画を見込んでの事、その付近に雑草が生えないように除草剤をまいて枯らしている、パームヤシにその影響がでるのではと心配する。  スカウの宿はロッジが点在する大きなツアー専門の宿、各自の部屋に落ち着き、暫くして集合して、説明があって、救命着を付け20人程が1つのボート、何組ものボートは出発する。主流から支流に入り静かに進む。両サイドは鬱蒼と茂った密林、薄暗く不気味な雰囲気、川は黄色味を帯びてドロンとしている、カワウや大きな嘴をもった白黒のサイチョウ、コバルトブルーの鳥もいる。カニクイザルは何処にでも木樹の枝の上を家族と住んでいる。しばらくすれば茶褐色の鼻が長く大きいテングザルの群れが居る。オスはお腹も大きくメタボが多い。クルージングの多くのボートがテングザルの情報でその場所に集まる、アフリカのセレンゲティのサファリのように無線で連絡しあい、ジープが凄いスピードで集まった事と同じ有様。川の岸に印がある所には魚のもんどりの様な仕掛けがあって、その網を見せてくれます。中には細長い鰻のような魚がいました。漁師さんの収入源でしょう。此処への誘い文句の小型のボルネオ象と出会う事はなかった。夕食は粗末なバイキング形式、シャワーを浴びてヤレヤレと一息ついているところに、ナイトクルーズがあるからとガイドが誘いにくるが、まだ一人シャワーの最中だったので断った。後で詳しく聞くとそのクルーズも含まれていて、遅ればせながらも参加すべきであった。ツアーを申し込む際にもっと説明を求むべきで、パンフレットもないようなところに申し込んだのが間違いであった。相棒さんに私の不手際であったことは、申し訳ないと反省しきり。マングローブの林の中のワニや梟の生態を見逃した事は、真に残念至極。
 次の日の朝、宿の近くのスカウ村を散歩すれば、マンゴーの大木がある、もう古木だから小さな実が成っている、美味しくはないのか誰も採る人はいないのか、沢山落ちてそのままです。個人でリバークルーズする小さなロッジは廃墟になっているのばかり。大きなツアー会社にお客さんを奪われたのでしょう。
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 マレーグマ

 スカウ→セピロック
 スカウの宿で朝食を終えると、もと来た道を引き返し又ジャングルの中のセピロック宿に帰る。以前拍まったドミはお客さん混んでいて、別棟のドミトリーに落ち着く。あの冷たいミネラルウォーターを戴いて、何よりも美味しくて、有難いです。中国人家族が大きなテーブルに自分達の荷物を一杯に置いて、熱湯を貰いラーメンを食べている、如何して他のお客さんもいることを考えないのでしょうか、遠慮をする心はない国民のようです。
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 マレーグマ
 時間があり宿でくつろいでいてもしょうがないので、オランウータンの施設の隣にマレーグマの保護施設もあったので送迎を頼む。此処も熱帯雨林の中、入り口から長い階段を登らなければならない、滑り止めが着いた階段はしばらく続く。その登り切った峠には大きな高いステージになっていて、その下にマレーグマが数頭いる。子熊と大人の熊は分けられていている。オランウータンの施設と続いているので、オランウータンが迷子のようにウロウロしている。野生の猿と共に暮らしていて、管理人がナッツ類を投げると猿が横取りしているのが面白い。マレーグマはおもちゃのようで、可愛い顔をしている。設備の大きな動物園で、マレーグマを見物しただけの事でした。
 夕食はこの宿は泊り客が多いようなので、早めに済ませました。ドミでは天井のファンが回り、洗濯物も良く乾き、とても気持ちの良いジャングルの中の宿。私達は何時も早く起きるのが常ですので、朝食時も早めになる。食事中に隣に中国の婦人が立っていると思ったら、私達が食事を終えようと立ち上がった瞬間、自分の荷物を置き、大きな声で仲間を呼び寄せる、失礼極まりなしの態度。世界では一番嫌われているのは、中国と聞いている。この宿も中国人が来てからは静けさが乱されていることでしょう。私の住んでいる嵐山の宿の女将さんが、中国の団体さんが使った後の部屋の掃除位、汚いものはないと嘆いていました。世界の大国の仲間入りを果たしたのでしたら、何処の国にでも通用する行儀を身に着ける教育が必要だと思います。“人の振り見て我が振り直す”ではないですが自分も気をつけたいと思う。
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 シム・シム 水上集落

 セピロック→サンダカン
 昨夜は激しい雨が降ったらしいが知らなかった。木樹に宿った水滴が光り輝き、鳥達が喜びの声で鳴いてる。この宿のリスは最初ネズミと間違えていたが、本当にリスばかりが我が物顔で住んでいる。ジャングルの中に、人間が後から来てこの宿を建設したのですから、リスや鳥たちの方が先駆者なので、これ以上宿を大きくしないで欲しいと願い乍、サンダカンに戻りました。
 中心街の便利が取り柄の宿に再び戻りました。荷物を預けて、今日は水上生活者の集落を見物しましょう。暑い日差しの中シム・シムウオーターヴィレッジまで、張り込んでタクシーで、バスを待つ時間が暑くて耐えられない位、3人なら贅沢ではない。15分もあれば着く、海に向かってしっかりとした道を造り、両側には鉢植えの植木や花が飾られた色とりどりの家がある、海中に土台が見えているが、以外にも大きめの家ばかり。でも家族に応じて水タンクがある、海水の上に家が有っても、水は買っているのでしょう。水以外には困ることはないように見える。海の幸は豊富なのでしょう。少し先には海鮮料理のレストランのエリアがある。年中暑いこの気候では、海からの涼しい風が快適な住まいのようです、でも海が荒れた時にはどんなでしょうか、怖い気がします。おんぼろバスでサンダカンの中心部に帰り、古き寺を訪ねようとして、その方向に歩き出すがあやふやな地図は頼りなく、聞いた人も色んなことを言うのです、最後に聞いた人が指差しで教えてくれるが、じれったいのでしょう、近くの自宅から車で送ってくれる。正義の聖人、海の守り神、学問の神の三津が一体化したサム・シン・クン・寺は大きくないがしっかりと歴史を刻んでいる華僑のお寺でした。
 コタ・キナバルに帰るのはバスが一番手頃なのですが、6〜7時間かかるし航空なら40分、疲れを考えると安易に航空券を求めました。今晩はそろそろ持参した食料を終わりにしようと、宿の食堂で自分たちが作って戴きました、やはり日本食は美味しいです、特に旅にある時にはそう思います。
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 左=セントラル・マーケットの魚屋さん(サンダカン)  右=セント・ミカエル教会

 サンダカンにて
 朝早めに港のセントラルマーケットに行く、黄色のマンゴーは品薄で、外も中身もグリーンのマンゴーを買ってみる、試食してみると食べられたものではない、多分サラダ用の品種でした。マンゴーも色んな種類があるようです。今日の観光は1880年に建てられ、第2次世界大戦の戦火でほとんどが焼き尽くされて、その時に唯一の焼け残りの建築物で砂岩造りのセント・ミカエル教会を見物に行こうとなり、やはり道を間違えたらしく、行けども其れらしき教会は見つかりそうもなく戸惑っていたら、またそこにも救いの神は現れ、車に積んでいた荷物をトランクに入れて、親切にも送って下さる有難さ。サンダカンの丘の上の方面は教育施設が多い。色んな学校があります、このセント・ミカエル教会もサバ州で最初の学校を創ったらしい。教会も各種の学校経営をしている、日本でもお寺さんが幼稚園や私立学校を経営しているように、宗教も信者の寄付だけでは成り立たないのが現状である。教会の内部は、訪問客があれば、料金を支払うと案内して下さる、カトリック教会のステンドグラスは非常に美しい。歩いて回れば、この蒸し暑さは京都の夏で経験しているがそれ以上だ。汗がダラダラと流れ落ちる。丘の上のイングリシュ・テイハウスをもう一度、欲と二人ずれで長い階段を登っていく、やっとの思いで辿りつき、見晴らしの良い木立の中でお昼をゆっくりいただきました。汗も引き疲れも吹っ飛びました。一息ついて戦争記念公園に行きました、戦いの凄まじさを記念して、亡くなった人々の供養碑が建っています。もっと奥に行けば丘の谷間に沢山の墓碑がありますが、中国語で彫られています、そのまた奥に日本人の“からゆきさん”の墓地があるそうですが、何となく気色が悪く、遠くから祈りました。
 私達は海の近くの新築の宿に引っ越しです、海を眺めてはもっとゆっくりしましょう。直ぐ前がセントラルマーケット、中をウロウロするのが大好きな私達は興味津々、生鮮食料品を売っているのは大変だなー、売れ残りの商品は如何するのでしょう、何かの方法は有るのでしょう。マレーシアではホームレスの姿は見ない、政府の政策でしょうか。1年中暖かい気候が齎す豊かな恵みは、人々から笑顔を絶やさない穏やかさを与えているようです。
 オランウータン同様に絶滅の危機にあるテングザルを飼育しているブラックベア保護区に行く時間はあったけど野生のテングザルをスカウで沢山見ているので、もうこれで良いかな、サンダカンでのんびり自由に過ごしました。何か美味しいものを求めて海沿いのレストランで戴きましたが、余りにもスパイスが利き過ぎて美味しくはなく、日本人好みの味付けを求めるのが不可能な事です。
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 サンダカン→コタ・キナバル
 空路でコタ・キナバルに帰る、曇りがちでキナバル山は拝めなかった。少し立派なホテルを予約していたが、やはり大都会のホテルは融通が利かずチェックインは12時、荷物を預けて近くのデパートやショピングセンターに行く、通りがかりの婦人に道を聞くと、自分も其処に行くので一諸にと、その前に着くと案内賃1リンギット〈30円〉を払えという。可笑しくって笑いが止まらぬ、たったの1リンギット、それも100mも歩いたでしょうか、美しく着飾った御婦人から要求されるとは思いもしなかった、はっきりと拒絶する。
 サバ州の主都だけある、観光への起点であるので、伸びる道路も南北に広いレーンをとっている、人口増加により、海岸を埋立て、この街は大きく拡大し発展している。どの国も同じような有様の大都会。もう観光する気にならず、海岸にある地元のショピングセンターやハンデイクラフトセンターに寄ってお土産を物色するが、気に入るものはありませんでした。気持ちの良いホテルでマンゴーを食し、帰国しました。
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ャンマーの旅  〔2014.1.14〜1.27〕
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 ミャンマー(旧ビルマ)に行くと決まれば先ずはビザを得ることから旅は始まる。旅行会社に委託する気はなく、大阪まで行き自分達で申請する。国土面積は日本の1.8倍あるとは相当広いな、季節は乾季の11月〜2月が良いとある。大韓航空はソウルで乗換時に九州からの旧友との待ち合わせに都合がよい、計画は確実に完了。
 ミャンマーには思いがある。実父が第2次世界大戦の終戦の年に、この国で戦死している。私が生まれて直ぐに赤紙で召集されて,そのままだったので、見たこともない父には何の想い出はないが、20数年前に父の戦死の地であるマンダレーより北の中国との国境近くナムツを訪れたが、その折には一夜だけだが、鉄格子のある部屋に監禁された。理由はあなたがヤンゴンで許可されても、此処はシャン州だから通用しないと言われた。でも次の日には軍隊とも警察ともわからぬ4人とジープに乗せられて、父の戦死の地らしき所に行き、線香をあげる間、銃を片手に見守ってくれました。今回は其処まで行かないけど、時間が許せば日本人戦没者の慰霊碑には、母の思いも込めてお参りをしたいと思っていた。
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 左=スーレー・パヤー  右=シェッタゴン・パヤーの内部

 ヤンゴン
  昨夜遅くにヤンゴンの国際空港に到着して、予約していた宿に向かう。首都は2006年にネーピードに遷都されているが、今でも旅行者の玄関口はヤンゴンである。宿のオーナーは中国人らしい。室内には窓もなく何だか異臭がする。でも寝具は清潔でしたし朝食は洋風の粗末なものでした。この宿の一番良い所は中心であるところ。直ぐ近くにスーレー・パヤー(英語はパゴダ=仏塔)がある。ヤンゴンはこのパヤーを中心に設計されているらしい。多くの方向より内部に入室できるようになっている。私達が入ろうとすれば、外国人に対しては3ドルを要求し、ワッペンを胸に貼ってくれる。靴も靴下も脱ぎ、素足で歩かねばなりません。大きなパヤーの内部には幾つもの仏様が、夫々の意味有りネオンでキラキラと飾られて、日本の仏様の様に落ち着いたしっとりと優雅さはなく、何だか戸惑いがある。地元の人々が途切れなく、老いも若きも通勤の途中かな、朝の習慣でしょうか、気楽に立ち寄り一時を過ごす祈りの場であるようです。お祈りの仕方も正座して両の手を頭の上にあげ、腰を屈んで頭を床に着ける深い祈り方。信仰心篤きミャンマーの人々は、お金を貯めてはパヤーの仏様に、金色の紙を貼って得を積んでいるようです。
 パヤーの近くには独立記念碑があり、周りは大きな公園になって、体操やジョギングを多くの人々が朝早くからしている。イギリスの植民地時代の洋風の建物が残っている。道端に赤い血のようなものがある。これはキンマという趣向品で、コショウ科の植物一種の葉に石灰とビンロウの実の胚芽部分を包んで丸めたもの。ガムのようなものとか、習慣性があり、かんだ後に唾液を吐きだしたのが、赤い血のようになるらしく、道端のどこにでもあり不潔感がある。長く常用すれば歯も歯茎も赤くなり、吸血鬼のようになっているのをよく見る。
 この国は日本円では換金できない、新札のドル札だけ、仕方がないので銀行に行き、この国のお金チヤットに換える。ヤレヤレこれで一安心。銀行に居た娘さんにマンダレー行のバスの会社は何処が一番良いのかを聞き、そのバスのチケットを得て、もう一つのシェッタゴン・パヤーに行こうとする。
 シェッタゴン・パヤーは北方面シンダッダヤの丘にある。パヤーの歴史は2500年以上前からあり広い境内の中心には黄金の仏塔が空高く聳えている。外国人には拝観料金5ドルを徴収し、胸にワッペンを貼ってくれる。境内は素足なので靴を預けなければならないのですが、出口が沢山あるので分からなくなりそうで、ビニール袋に入れて持ち歩いた。ここはミャンマーの人々には最大なる聖地である、生涯に一度は訪れたいところらしいです。境内には大小の仏塔ばかりが夫々の凝った建物になっていて、大理石の床が太陽光で熱くなり、素足で歩くだけでも大変でした。こんなに大きなお寺は日本の何処にもない規模です。時折陰で休みながら、のんびりと観光しました。
 最初泊まった宿が良くないので、帰国時にはもう1泊はこのヤンゴンになると思い、その宿を探しました。適当と思われるところに予約すると、直ぐに支払いを要求される、理由は多くの人は予約しても約束を守らないからだと言われた。夕刻のマンダレー行まで時間があるのでアウンサン・マーケットまで散歩がてら見物に行く。お土産的な品物は多いが、生鮮食料品は少ない。買いたい物はないのですが、外が暑いので涼しさを求めて来ているだけです。
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 マンダレーの王宮(右奥はマンダレーヒル)

 ヤンゴン→マンダレー
 昨夜マンダレー行のチケットに書いてあったターミナルに行ったのですが、バスの係員がチケットを一瞥すると直ぐに中年の御夫婦と一諸の行動をするようにとの指示があり、説明はなく不安ばかり。チケットオフィスの事務員さんが間違ってターミナルを書いたのでしょうと、想定すると納得出来る。バス会社の人が責任をもってマンダレー行のバスに、送ってくれました。意外にもデラックスなバスで、日本でもあり得ない位、清潔な毛布、水、おやつ、個人テレビ、アシスタント2人、ジュースやお茶がいつでもどうぞ。とても快適に走り12時間程でマンダレーに到着する。宿のチェックインは無理だろうと思っていたが、9時には掃除を終えた快適な部屋に入室出来てラッキーです。
 マンダレーの観光はヒルと王宮を予定していた。パヤーは沢山ありますがヤンゴンで見たので十分です、もうそんなに見ても心には残らないと思いました。疲れてはいてもまだ元気、地図を見ながら王宮を目指す。王宮は1辺3キロを超えた正方形となり、その周りは広い堀になっている。日本も西洋も城には堀を周囲に巡らすところはどの国も同じく、余り水質が綺麗とは言えない堀に、魚が沢山泳いでいる。誰もこの魚には手を出さないらしい。私達が王宮に着いた時間帯には地元の朝市が開かれていた。何だかゴチャゴチャしていて小奇麗ではないが、日常必需品は何でもあり、昔のシチリンで煮炊きをしている食堂もある。王宮はすっかり焼失して、当時を偲ばせるのは城壁のみ、四方に監視塔がある、その形が面白い。私達は王宮を一回り歩いたようで、2時間ほど歩き、暑さと疲れでぐったりとしました。宿に帰り近くの美味しいと噂のある店で、お昼を戴くとこのシャン州の麺はとてもおいしい、日本人好みの味でした。
 昼からはマンダレー・ヒルを目指そう。近くにピックアップの乗り合いバス(軽四の荷台を改造して椅子を並べた乗り物)がヒルに行くか否を問うとOK,乗車したのですが、回り道をされて、やっとヒルの登り口に下車する。そこからは素足で階段を登らなければならず、小石があり痛くって辛抱できない。次々とパヤーが現れて登り切った所のベヤデー・パヤーで一休み、頂上でないがここでバックして、他の方法で試みる。バイクの後ろに乗せてもらって、もう一度頂上を目指す、頂上からはマンダレーの町が一望に。展望テラスの近くに日本人慰霊碑があり、そこで線香を上げさせてもらう。直ぐに守り番の人がやってきて、お布施を下さいと言われる。余りにも現実的な事を要求される。明日はマンダレー郊外のどこかに行きましょう。
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 マハーガンダーヨン寺院の修業僧

 アマラプラ
 宿のレセプションの娘さんに郊外の村で何処がお勧めですかと聞いたら、アヌラプラが良いと言ってくれる。車1台を予約してもらう。次の朝、車に乗る時にはもう一度何処に行くか、時間、金額を確認する。話だけの約束では不安で、しっかりと紙に書いて確認するのが、常道手段のようです。市内を過ぎて農地の続く田舎へと車は走り、大きな湖の近くに、この国最大の僧院マハーガンダーヨンがあり、今も1500人程が修業をしている。この寺で10時過ぎに朝食を戴くところが観光の目玉になっているとか、修業僧たちがダライラマのあのえんじ色の法衣を着た姿で、次々と通りすぎていく姿は壮観です、白い法衣の幼い子供達の見習い僧もいます。韓国の人達が1人ずつにペンやノート、タオル等をお布施している。沢山の寄進した人達は食堂にはいらせて貰っている、どこでもお金はついて回るようです。多分此れだけの威力を持つこの寺の高僧は、政治にも意見する力を持っていることでしょう。宗教と政治は別々のもので有ってほしい。何処の国でもそこが問題で争いが起こっている現状がある。若き僧が頭を坊主にした姿はキリーッとして眩しくて胸が痛くなりそうです。ドライバーさんが気を利かしてくれて新しく建築された仏塔に連れて行ってくれたけど、余りにも生々しく近頃造られた仏塔は有難くなかった。
 やっとウー・ベイン橋に着く、市長さんのウー・ベイン氏がアマラプラの東、タウンタマン湖を渡る橋を160年前に架けたのでこの名前がついている。全長1.6キロの木製のこの橋は、幾多の修復工事を繰り返し、今はすっかりと観光化されています。世界中の観光客が次々と訪れています、橋の途中には屋根のある休憩所が所々にあり、色んなお土産の店もある。中州には昔ながらの農作業、白いコブありの牛に引かれて、乾季の今だけの畑を耕している。雨季になれば水浸しで畑は水没してしまう。湖では腰まで水につかり、大きな網で魚を取っている漁師達もいて、ゆっくりと過去に引き戻される位、のんびりとした風景です。梟の子供、スズメの雛が売られている、こんなに幼い子供が親から離されて、 果たして生きられるのかしらと疑問に思います。マンダレーに帰り、昨日美味しかった麺の店に再び行き、同じものを注文するが、今日はそんなに美味しくない,どうしてかしら分らないですが、作る人が替わったのだろうか。
 マンダレーの一番大きいと聞くゼージョーマーケットに行く。大きなビルの中に小さな商店が数えきれないぐらい犇めき合い、業種毎に分けられているが、余りの多さに躊躇する。外にも青空市場はびっしりと、何でも売っている。同じようなものが売られているが、値段は何処の店にも書いていない。多分もし私が買うとなれば、地元の人の何倍もの値をふっかけてくるに違いないと思う。マンゴーを探すが最盛期は6月の雨季らしい。今はオレンジとパパイヤがどこにでもある。バナナは四角に尖がった種類があるが、私たちはモ ンキーバナナが甘くて美味しいと思いました。
 ミャンマーに来て多くの女性や子供達が、ほほや額に白い模様を描いているのをよく見ます。これはタナカという樹木を摩り下ろして、日焼け止めの効果があると信じられて付けているらしい。近い将来日本でも、自然からの化粧品としてUVカットで売り出されるのではないかな。
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 マンダレー→バガン(エーヤワデイーの川下り)
 昨晩、バガンまでのフェリーを予約していた。同じ宿の人と船着き場まで、車を走らす。宿の人が朝食を戴く時間がない私たちに、小さな弁当を用意していてくれる親切な宿。マンダレーを後にして、いざバガンへと船出する。外国人ばかりの大きな客船で、ツアーのお客さんが多くて、大きなトランクが山積みされている。3階建ての何処かの国で使われていた中古の船なのでしょう。窓は汚れ座席は老朽化している、2階3階はヨーロッパ系の人達に先に席を占められて、私達には1階にしか座る所はない。川沿いの景色を静かに眺める。右岸は農地が広がるが多分雨季には水浸しになるのでしょうが、インドと同じコブのある白い牛と一諸に働いている。子牛の放牧もある。住民の粗末な住まいがあるが、それよりも多いのがパヤーで、至る所に林立している。まるでパヤーを中心に住民の生活があるようです。川と言っても途方もなく広い豊かな流れがある。乗っている船は川の流れに従って下るので、エンジンの音は静かですが、マンダレーに向かうのは逆流だし、大きな貨物、鉱石や材木が多いので、エンジンを一杯に蒸かして大きな音を出している。小さな漁船は、のんびりとしている。シロイルカがこの川には住んでいるとあったが、何処にも見当たらない。浅瀬もあるのでしょう、長い竿を持った従業員が、川に突き刺して深さを船長さんに知らせている、原始的な航行です。10時間位掛かったでしょうか、暗くなってからバガンの入り口ニャウンウーに着くと同時に入域料として、15ドルを徴収される。到着と同時だったので、何となく失礼な態度だな、この地を維持するには観光客からお金を戴くしか方法が無いのだろうか?もっと他の方法で考えた方がスマートなのに。ガイドブックにあった宿に自転車の後ろに乗って連れて行ってもらう。
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 左=シェズイ・パヤー(黄金の仏塔)  右=アーナンダ寺院(北の狗楼孫仏)

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 左=バガンの夕焼け  右=バガン ナンダ・レストランのパペット・ショー

 バガンにて
 昨日1台の馬車を予約していた、約束時間は8:30~18:00まで、1日を2000円だからそんなに高くはない。バガンのパヤー巡りはシュエズイ・パヤー(黄金の仏塔)から始まる。ヤンゴンで観光したシェダゴン・パヤーと並び称せられる程、規模は途方もなく大きい。仏塔とは言え金がとてもお好きなようで、お金に余裕のある人達は紙のように伸ばした金を仏様に貼っていくのが、徳を積むのだろうか、それとも来世はもっと良き生活を願うのでしょうか。馬車の小父さんは英語を話し、穏やかな性格をしている。うちの馬は出発、止まれを理解してとても賢い馬だと自慢する。馬車での1日のスケジュールは決まっているらしい、次々と草原の中からパヤーが現れて、夫々の異なった王様に建てられ、多様な歴史ありで、建築様式も違っていてガイドブックを手に、沢山すぎて判らなくなりそうですが、楽しい見物です。
 タビイニイ寺院の近くに日本人戦没者慰霊碑がある、線香とろうそくをともしてお祈りしました。お昼は小父さんお薦めのミャンマー料理を戴きました。韓定食によく似ていて、沢山の小皿におかずが付いてくる、香辛料が強く少々苦手です。タラバー門の近くには露天商が集まっている。小父さんがおまけに、近くの漁村に連れて行ってくれる。竹で編んだ壁、葦の屋根、家具はベッド1台だけ、たき火での炊事、1軒だけにテレビがあるようで、多くの人が集まっています。貧困な暮らしぶり見ていると、心が痛いほど悲しい。段々と夕暮れになって来る。シュエサンドー・パヤーが夕日を眺めるスッポトらしいけど、余り知られていないけど、他のすばらしい所があるので其処に連れて行ってくれる。崩れ掛けたパヤーに登ると、カメラを抱えた人達も登って来る。暫く待てば緑の森より沢山のパヤーが茜色に染まる幻想的な風景が漂い夢心地でした。日本の鎌倉、奈良とか、世界遺産に登録をと言って騒いでいますが、このバガン遺跡の規模からいえば、可笑しい位に日本は小規模です。帰路は伝統的な操り人形がみられるとレストランで、馬車に別れそのショ ウと食事を楽しみましたが、ツアーのお客さんが真ん中の席を予約して居て、隅の方でよく見えませんし、内容が理解できませんでした。パペット・ショウとはこんなものなので しょう。バガンのパヤーは余りにも数が多すぎて、しまいにはどれも同じに見えたりして、でも夕日に照らされたパヤーの姿は、しっかりと胸に刻まれました。
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 バガン エーヤワディー川(乾期だけの農家)

 バガンにて、リバークルーズと郊外
 ボートを借りてリバークルーズをしようと計画する。ブログにポッパ山に行くよりは良いとあったので、宿に日本語を話す方が居て、よく面倒を見てくれる。舟着き場まで自転車で行き、エンジンを付けた細長い舟のボートマンと若い娘さんが説明してくれる。観光客は誰も来ないザコメケーブはエーヤワデイー川を30分位下る。川風が心地よく光輝く水の上を進んでいく。彼女のガイドで深い森林の中をくねくねと、畦道を登っていけば17世紀に造られたパヤーがあり、守り人がカギを開けてくれる。地震で崩れ落ち、修復は出来ていないが、僧達が瞑想する小さな部屋が沢山ある。僧の姿もあり、今もなお修行は続いているらしい。パヤーの上の部分に登って川向うの景色を見せてくれる。対岸に舟を着けて、乾季の今だけ農業をする人たちの生活を訪ねる。わずかな木材の掘っ立て小屋に住んでいて、豚や白い牛を飼育している。ここらは砂地なので落花生の畑が続くが痩せている。肥料をあげているのかしら。終わりにゴジノという寺に行く。壁にはフレスコ画がいっぱいに描かれているが、修復が行われていないので、多くが剥げ落ちたままになっている。造られた当時はさぞかし美しい色彩であったでしょう。観光客のいない川沿いのパヤー巡りは心に染み入る舟旅でした。
 昼からはバガン郊外のミン・ナン・トウ村を訪れる。この国の男女が着る民族服ロンジーの手織りの様子を見学できるらしい。車をチャターする。さびれた村で大した見るべきものはない。貧しい家にも壁にはアウンサン将軍とスーチーさんの肖像写真が飾ってある。まるで信仰の対象の神様のようです。国を纏めるとは誰かを象徴の神様にして、尊敬を集めなければならないのかな。バガンの名産品に漆器があるので、その工程をみせてもらう。漆かなと思える顔料を、手で混ぜたりしているので、被れないのかなと心配になる。難しそうな工程を、若い人達が熱心に仕事をしています。矢張り品質の良いものは驚くほどに高価でした。男女が履くロンジーの事を宿の人に聞いてみると、1枚の筒状になった腰巻は、東南アジアでよく見られる格好ですが、自分の体形に合わせて、前でダーツを取って腰で結ぶ着方です。はいているとこれほど快適な服はないとのことです。これから先の3月〜9月頃まではとても暑く多湿になるので、これが一番だそうです。でも下着は着けていないそうです。
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 バガン→インレー湖
 バガンの宿は古びて汚いが、何かにつけて便利だけの事でした。日本語を上手に話す人がいて、多くの願いを叶えて頂きました。今日はインレー湖に移動日、宿までバスが迎えに来てくれて乗せてくれました。これも宿の方が頼んでくれたのでしょう。狭い座席指定、バスにはエアコンがしっかり入っているので、それがサービスと考えているのでしょう。長距離バスに乗る時には、水分、寒さに耐えられるように、ウインドウブレーカーはすぐ取り出さるように、手元に準備しなければならない。地元の人と同じ料金なので吃驚するぐらい安い。観光客は誰も乗っていない。ミャンマーには日本製の中古の車が多い。走っている車には日本の宣伝文句が入っていたりする。もう一度売る時には、日本車であれば高く売れると聞いた。でも私たちが乗った古いバスは馬力がなさそう。山岳地帯をノロノロと、次々と山を幾つも越えて行きます。この国の産業は木材なのでしょうか。バスから見える範囲だけでも、山々が丸裸で赤土が見えている。伐採の後、植林をしないのでしょうか。材木を輸入した国は教えなければならないと思います。そのままでは雨季には水の被害があるでしょう。貧しそうな村が点々とあるが、ここもパヤーが其処ら中に在る。住民の生活よりもパヤーの方が先にある感じです。ミャンマーでは農作業や荷物を運ぶのはコブのある白い牛で、人を乗せるのは馬のようです。両サイドの畑には綿の栽培が多いですが、ウズベキスタンで見たのとは違います、今収穫期なのに白い綿が小さすぎる。ヒマワリはコスモスの花位の大きさ、これでは加工しておやつや、オイルになるのは難しいと思いますが、どうなるのでしょうか。土地が痩せているのです。肥料をあげていないのでしょうか、全体の植物が極小化しています。日本政府は貧しい国にお金をばらまくのではなく、農業を指導する人材を派遣して、農村を豊かにすることから始めてほしい。バスは喘ぎながら山や谷を越えて9時間位かけて、やっとインレー湖のバスターミナルに着き、軽トラックの荷台に乗って、一番の繁華街のニアンシュエに送ってもらう。目の前がボートの発着場、エンジンの音が煩いかもしれないが、人気の宿で清潔な広い部屋をもらう。この宿専属のボートを予約する。
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 左=インレー湖 ファウンドーウー・パヤ  右=インレー湖 パダウン族(首長族)

 インレー湖にて
 海抜1300mのシャン高原に位置し、山と田園地帯に囲まれ、多くの少数民族が住んでいる。気候が真夏も涼しく過ごし易い所には人々が集まるはずです。ここには巨大なインレー湖があり、そのお蔭で多くの恩恵もある。湖上に浮き島を形成し、年中野菜や果物を栽培し湖の恩恵で豊富に収穫できるらしい。今日は1日ボート借り切りなので自分たちの希望を言う事ができるが、ボートマンは若くて無口で言葉は全く通じない。
 インレー湖の周囲の村で5日単位のマーケットが開かれると聞いていた。宿のオーナーが早朝よりオープンしているので早く出発するようにと忠告してくれる。発動機を付けた細長いボートが、次々とお客さんを乗せて、広々とした青い湖の中を、すごいスピードで走り抜ける。風が強く寒いぐらい。時折インター族が片足で櫓を操る手法で、魚を取っている。葦や水草が繁茂して浮島が所々にあり、ボートマンはその間を器用に運転してくれる。マーケットが開かれているガーペー寺院の近く、タン・タウンに行けば大きなフリーマーケットがあり、京都の天神さんや弘法さんよりズーと大きい。色んな種類の店が並び、地元人より観光客の団体さんが見物に来ている、余り売れているようには見えない。マンゴーがあればと捜してみるが、やはり旬ではなく、パパイヤとミカンが今一番おいしいと か。
 少数民族インター、パダウン(首長族)パオーの集まる手仕事の工房に、連れて行ってもらう、並べている手工芸品は、ほこりがいっぱいで、気の毒に思うが買う気になれない。働いている人たちは過酷な労働条件のようで、笑顔はない。インレー湖上にある巨大な寺院ファウンドーウー・パヤーの仏様は、余りにも多くの金箔を貼られたので、丸いボールのように成っている。ガーペー寺院を昔訪れた時には、猫たちが輪をくぐるのを見せてくれていたが、今はあの猫達はいなかった。この寺院は木造建築の大きさが驚くほど、本堂には大きな仏像が30体も安置されている。湖の中にこの様な巨大な寺院を建築するとは、さすが仏教国の信仰篤きに驚きます。私は湖上の寒さが、風邪気味になってきたので、宿でゆっくりと休みました。
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 インレー湖のマーケット

 ヤンゴンに戻る
 昨夜は熱があったので、解熱剤を飲み早めに眠りましたので、今朝はすっきりとして気分がよい。早朝から舟のエンジンの音が喧しい。この国の言葉ミンガラバー(こんにちは、こんばんは)は何処でもいつでも使えてとても便利な言葉、こちらから“ミンガラバー”と挨拶すれば、誰でも笑顔で接してくれるお国柄、微笑みの国と言われる所以でしょうか。私たちの泊まった地、ニヤウンシェはインレー湖の観光の中心になる町、道幅は広くホテルやレストラン、色んな生活用品の店がある。この町にはきっと庶民のマーケットはあるはずで、そこに行けば少数民族にも会えるのではと思い行ってみる。生活必需品のマーケットでお馴染みの新鮮な野菜、果物、肉、魚、時折民族服を着た売り屋さんもいて、中々面白い。その場でパン生地伸ばして油で揚げる即席パン、串に刺した焼き鳥もある。おかずもシャン州独特の味付けのものでしょうか、多分香辛料が利き過ぎだと思うけど、興味があるけど、買う気にはなれない。
 風邪がまだ少し残っているので、宿でのんびりと夜行バスを待つ。ヤンゴン行のバスは始発ではないのでしょう。バスの乗車場所に宿の車で連れて行ってもらうが、何だか田んぼの中、でもバスは次々と止まっては乗客を乗せている。どのバスに乗っていいのかが、分からないので、止まったバスに走って行って、チケットを見せて聞く以外にはない。言葉も字も読めないとは不安で一杯でした。子犬が捨てられていて、可愛そうで見ていられない。こんなに車が行き来するところでは、多分生きられないであろう生命、野犬も猫も多いがどの子も痩せている。家で飼ってあげるとは考えられないのかも知れない、自分たちが生きるだけで精一杯なのでしょう。やっとそれらしきバスが来て、チケットを見せてOKが出る。このバスに乗るまでの不安は大変でした。今回のバスは一番状態の悪いバスのようでした。後部座席には大きな荷物ばかりがある、座席は乗り心地最悪です。バガンでヤンゴンまでの夜行バスのチケットは、日本語を話す人から買ったけど、信じたのが失敗でした。距離にしては高いなと、思っていましたが高いから良いバスではなく、その人のマージンになっていたと思います。旅にはよくあること、諦めましょう。何時の間にか眠りにつき早朝、ヤンゴンの郊外アウランミンガラーのバスターミナルに着く。
 タクシーで予約して居た宿に直行。レセプションの小父さんはお疲れ様でしたとねぎらってくれて、バイキングの朝食を用意しているので屋上に行きなさいと言われた。ヤンゴンでは珍しい事でした。屋上から覗くと、隣のビルとの間はごみの山、表から見えないところはゴミばかりで、こんなところが理解できない不思議です。ヤンゴンではパヤーはもう十分過ぎる位観光したので、もう一度アウンサン・マーケットに行こうとする。信号はあっても守らないことの方が多い、大きな道路を渡るのはとても勇気が要ります。地元の人が渡る時に、隣にひっついて渡るのが一番安全な渡り方のようです。アウンサン・マーケットの隣に近代的な大きなスーパーあるが、お客さんはいない。アウンサンの方は観光客ばかりが多い。ここも金の細工物の店が多い、金は世界共通のお金の代わりにもなるのですから、貯蓄の意味にもなるのでしょうか。とても大きなマーケットで、歩いていると人の多さに疲れます。何処までもお店ばかりで迷子になりそうです。宿に帰り次の日には、寒い京都に帰りました。風邪がぶり返さないようにと願うばかり。
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ンドネシア共和国のジャワとバリ島  〔2013.4.4〜4.18〕
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 スマトラ島を目的地としていたが、4月には雨季が明けているはずなのに、今年は未だ雨が降り続いていると云う予報が出ている。旅行中の雨程嫌なことはない。ジャカルタ往復のチケットなので困る事はなく、急にジャワ島に変更を相談する。この国の中心のジャワ島の観光に、終わりかけにバリ島でのんびりしようとまとまる。
 世界最大のイスラム教徒を抱えるこの国の歴史は、100万年前のジャワ原人に始まり、大陸からの民族の大移動、仏教、ヒンズー教が栄えた時代もある。オランダの植民地としての歴史は長く、第2次世界大戦時には日本軍が侵攻した歴史もある。そして500近くの民族の大集団であり、それ故に伝統的な夫々の文化が混在している、一方では近代的に発展をしている発展途上国でもある。
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 タンクバン・プラク火山のクレーター

 ジャカルタ→バンドウン
 ジャカルタ到着日は夜中だったので、何も見ていないが、唯空港より市内までの交通渋滞が普通では無く、特にバイクの多さに吃驚しました。バイクには法規がないのでしょうか、車の間を縦横無人に走り回り、時折眼を瞑りたくなるほどの危険が多く、よくも無事に宿に着いたなと安堵しました。この街は帰国時に観光出来るので、次の日はバンドウンに移動する。ガンドンの駅まではバジャイ(三輪の自動車タクシー)に3人で乗る。以外と乗り心地は良いです。列車のチケットを買うのにも、パスポートが必要との煩わしさ、他国民を信用してない事かな。電光板もアナウンス無い、ここは首都であると云うのに。インドネシアの約束時間はゴムの時間という例えが有るらしい。やはり列車の出発時間は遅れました。私達は何度も駅員さんらしき人に聞いてやっと乗りこむ。
 郊外は都会のゴミの集積場が点々とあり、その付近はスラム化した貧しいバラック建ての家が連なっている。
 お米はこの国の主食、広大な田んぼが延々と続いている。熱帯季節風気候にあるので、1年中何時でも米は収穫できる。二毛作は確からしい。田植えあり、収穫時有り夫々まちまちである。時折寸時の夕立あり、緑豊かな風景は一段と洗われて美しい。果物も豊富な国、さて旬の果物は何であろうかと、希望はマンゴーだけど、どうかな。
 バンドウン駅に着き、直ぐに安宿を決定して、今日の観光のハイライトはタンクバン・プラク火山を見に行きましょうと車をチャターする。新車のバンがやって来る。此の島の最大の火山、頂上までをクネクネと山道を登ってくれる。頂上ではパックリと口を開けた巨大なクレターがあり、卵の腐った匂いがします。そんなに美しい景色ではなく、何だか気味が悪い感じです。お土産を手に持ったモノ売りやが、付いてきて嫌になる。途中の村のレンバンには茶畑や高原野菜が栽培されている。標高が有るので、涼しく暮らし易く、近くに温泉もありとてもよいところらしい。この村の事について、同じ宿に泊まり合わせ、リタイヤーした方で柔道を教えに来ている日本人の方の話によると、第二次世界大戦後インドネシアの独立の為に多くの日本人が帰国せずに此処にとどまり、オランダとの戦いに訓練から実戦まで、多大な貢献をして来て、其れが独立を為し得た。そのうちの半数がこの国の方と結婚して家庭を持ち、今は二世、三世の時代らしい。其の当時の友人の苦労の様を言葉を詰まらせながら話して呉れました。今も日本人は敬われているそうです。墓参りも兼ねて毎年此処に来るそうです。
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 パガンダラン
 バスの時間が午後の便しかない。午前中を柔道の先生が市内を案内しましょうとおしゃって下さったので、私達はお言葉に甘える。スンダ民族のこの古都は、1955年に第1回のアジア・アフリカ会議が開催された“バンドウン会議”として歴史の舞台となった。其の会議場は博物館となって、当時の写真や資料が展示されて、其の時に出席した各国の旗が誇らしく飾ってありました。多くの人々が其処で写真を撮って居ます。バンドウン駅の北口は鄙びた感じなのに、南は非常に近代的なビル街になっている。この街をぐるりと散策する。大通りのバイク数の夥しさ、交通手段の発達は自転車からバイク車となりそうだが、この国は一気にバイクに発展したようです。信号が変われば、巨大な津波の様にバイク、大群が迫って来る。恐怖を感じる。
 ツーリストバスを待てば、やはりゴムの時間、ここでは1〜2時間のずれは常識で常の事らしい。バガンダランに行く途中、凄いドシャ降りの夕立に遭っての交通渋滞。5時間が9時間かかり、やっとインド洋沿いのビーチに着く。夜遅くだったので宿を選べなくて失敗した。ホットシャワーでなく水だけの無情な宿。早朝の散歩で海岸沿いを歩けば、サーフィンに適した大波が寄せては返している。昨夜一緒のバスに乗っていたカナダの若い女性が、サーフィンの為に此処に来たと言っていた。成程此の波に乗れば、さぞかし面白いでしょう。この村の南に鬱蒼としたジャングルのある国立公園が有るそうだが、大きさ故にまる1日は必要らしいのでもったいない。もっと他でもありそうなので、次の都市ジョグジャカルタに行こうとする。
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 ムラビ山(ジャワ富士)2911m(ボロブドールへの途中)

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 左=ボロブドール遺跡の頂上  右=プランバナン遺跡

 ジャグジャカルタ(ジョグジャ)
 バスは昼からしかないので、車をチャーターする方が便利で楽に行けそうだ。直ぐ運転手付きの車は見つかる。年中暖かい気候の此の国には、豊かな実りを与えている。田起こし、田植え、穫り入れは、その土地の持ち主の都合に依るもの、フルーツは何処にでも生り放題、バナナ、ヤシ、パパイヤ、レイチ、ジャックフルーツ、ドリアン等、沢山の果物を眼にする。ドリアンとパパイヤが今の季節の旬らしい。マンゴーを戴きたいが、もう少し先になるそうです。時折(バケツをひっくり返したような雨)とはまるでこの事、ものすごい夕立がある。夕立が渋滞を引き起こし迷惑なこと。王宮文化が残る古都のジョグジャガには、今日も夜に着く、ドライバーさんが勧める車借り切りの旅を断り、ガイドブックに載っていた至便な宿を選んでチェックインする。
 やっと気持ち良い宿に落ち着いた。熱帯の植物で一杯の庭、名もしらぬ花が咲き(多分蘭の一種)池には小さな魚も泳ぎ、部屋も3人部屋でゆったりとしている。お茶、コーヒーが何時でも飲めるようにポットも置いてくれている。次の早朝4時30分には、例のアザーン(呼びかけの祈り)ここはイスラム圏だと気がつく。マイクで大きく響かせて、次々と呼応して大合唱となり、心地よい眠りを醒ます。イスラム圏では日常の事、目覚まし時計と考えましょう。
 ささやかな朝食を終え、昨夜約束していた宿の車で、世界最大級の仏教遺跡ボロブドールに向かう。3度目此処を訪れるのですが、同じところを観光しても、その時の季節や相棒さんの違いと年月の流れとで、又新鮮な気持ちにもなります。市内から郊外への道のりが凄い交通渋滞、バイクが車の間に割り込みを掛けてくるので危険この上なし、時折事故も見かけます。もっとバイクの法規を厳しくしなければ、此の渋滞は無くなりそうもありません。流石ジャワ島一番の観光地だけあって、道路の整備は行き届いている。標高2911mのムラビ山が、裾野を長くひいた姿を現す。ジャワ富士と呼ばれているらしい。とても美しい。登山したいけど、もうそれだけの元気はないでしょう。
 ボロブドール遺跡に到着すれば、土産物のお店の多さが気になります。土産を両手に持った呼び込み屋さんの激しさに圧倒されそうです。この国一番の目玉観光地だけあって、外国人には高い入場料を支払わせる。全ての観光客には腰巻の様な衣を巻かせて、是が入場料のレシート代わりと敬虔な気持ちを持ちなさいと云う教えかな。緑豊かな参道を進み、巨大な遺跡の階段に辿り着く、大きな正方形の6階建てのビルの様です。頂上が少しずつ小振りになり、その壁一杯に仏教の物語を精巧なレリーフを刻んでいる。一つずつ見ていくほどの時間に余裕はない。上部には釣鐘型の中に、仏様が座って居る。手を伸ばして仏さまの頭を触れば、幸せが訪れるらしい謂れがある。監視員の眼を盗んで人々は触っていました。私も試したけど手が届かない。この遺跡も密林の中に眠っていたそうで、インカのマチュピチュと同じ謎めいた逸話が伝わっている。太陽が眩しく、段々と足腰がだるくなってくる。私達は一旦ジョグジャガに帰り、今度は逆方向のプランバナンへ向かう。
 何時もと同じく渋滞や事故により予想時間をはるかに超えるゴムの時間。プランバナンは、ジャワ島の北部の仏教王国のシャイネンドラと、南部はヒンズー教のサンジャヤ王朝が友好的であったので、ヒンズー教と仏教の融合文化の象徴とも云える遺跡です。のどかな田園風景の中、プランバナン寺院史跡公園に、すくーっと聳える壮麗な寺院の集合。地震で崩壊したものも多い。未だ修復の途中にある。近くまで行かせてもらうには、ヘルメットを貸してくれる。此処の遺跡はまるで積み木を寄せ集めたようで、いつ崩れるかも分からない位、不安定な寺院でした。周辺にも遺跡は沢山あったけれども、ボロブドールを見た後では、どんな遺跡を見ても見劣りがする。私達は是で満足して宿に帰る。昨夜からの宿の近くではインドネシア名産の伝統的な工芸品のバテック(ジャワ更紗)の工場兼お店が連なっている。以前買ってみたけど、模様が複雑で好みではなかったので、興味はない。
バナナやミカンでもと近くの店に買いに行くと、観光客と見ると地元の人の値段の何倍もと吹っ掛けてくる、その心が汚い。持ってきた日本食を工夫して作るのが一つの楽しみとしている。相棒さんはジャワビールを美味しそうに飲んでいました。
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 デイエン高原遠望

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 左=アルジェナ寺院の境内  右=アルジェナ寺院群

 デイエン高原
 山岳信仰の聖地にあるデイエン村のアルジェナ寺院群は、ジャワ最古のヒンズー遺跡。どんな処かと興味津々、今日も宿の車で出発する。町を抜け出すのが大変ですが、デイエン村が近づく、美しい棚田の風景が続く。山の中の道はアップダウンが激しい。チャターした車はサイドブレーキの効きが悪いので、登り道でスットプせずに後ろに下がる。とても危険な目に何度か遭う、ドライバーさんは日本語も英語も話さないので、会話が出来ないのはもどかしいが、その態度が正直で懸命さが伝わり憎めない人。やっとアルジェナ寺院に到着する、ボロブドール遺跡のある一部かなと思われる程小さい。寺院の参道には、エンジェルトランペットの黄色の大木が満開の時、この付近の街路樹も白と黄色のこの花ばかり。この近くにも隠れた遺跡はあるらしいが未だ発掘中とか。
 寺院の裏の道筋は、白煙をあげている。其処がシキダン地熱地帯である。散歩コースになっているが、人気がないのでしょう、観光地とは程遠いお粗末さ、熱湯がぐらぐら湧いている池があるだけです。卵の腐った臭いがして早く退散したくなる。時間が掛かった割には感動のない観光地でした。宿に帰る途中にジョグジャガ市内の王宮(クラトン)を訪れる。ジャワ建築とヨ−ロッパ様式が混ざり合う王宮の内部は、伝統文化が今も生き続けている様を展示した博物館があり、歴代の王様が使用した家具調度品、衣装、時計、写真等が飾られている。午前中なら伝統芸能を上演しているらしいが、午後からだったのでもう終わってしまった。もうこれで充分のようです。
 ジョグジャの宿は本当に静かで気持がよく、ゆっくりとしました。旅の間の宿のことも重要な役割をします。南国の庭の珍しい植物は宿への帰りを待って居て呉れているようです。大きな鳥かごに見た事もない鳥を飼っている。夕方には布をかぶせて、丁寧に優しく扱っている。此処の従業員さんは良く教育されています。バスタオルも毎日洗ったものと変えて呉れている心使いが嬉しい。さてこの次の観光地を何処にしようかと迷う。ソロはジョグジャとよく似ているそうと聞くと、ブロモ山への移動をしようとする。
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 ブロモ山の登山口(ガディサリ村)

 ブロモ山
 ジョグジャガのステキな宿に別れを告げて、私達は9人乗りのバンに乗り郊外へ、遠くまでの広大な田んぼの広がり、ジャワ島の今回の旅でその巨大さを思い知らされる。インドネシアの島々を入れると日本の5倍の大きさの国土を持っている。ジャワ島の西から東への旅は、時間が掛かり過ぎの感がある。列車を何度か目にするが頻繁ではない。11時間位掛かったでしょうか。ブロム山の日の出を望む為の起点となるプロモリンゴでバンを降りて、入山手続きや夫々のチェックがあり、待たされてやっとジープがやって来る。深夜にカデイサリ村へ危なげな山道を通ってホテルへ送ってくれる。狭く古く何だか嫌な臭いのする宿、気持ちは沈んでしまう。
 ブロム山は火の神様がおわす聖なる山で、ここに住むテングル族達はイスラム教が全土に広がってもヒンズー教の信仰を守り続けた。次の朝のモーニングコールは忘れられて、3時起きが3時30分に慌てて起きる。ジープで山道の起伏の多いオフロードをクネクネと進み登山道の終点からの歩きとなる。私は何だか頭がボーとしていたので、テングル人の馬引きに乗せてもらい、階段まで行ってもらう。暫く歩いてビューポイント2770mの夜景が広がるが、今日はガスっている。はっきりと日の出を拝ませてくれるのかな、いよいよと思ってもこればかりは何ともしょうがない。生憎の曇りでありがたい太陽さんは1時間40分待ってみたが現れてくれない。こんな日もあるのだと自分に言い聞かせて、のんびりと宿へと帰る。ホテルの近くのガデイサリ村を散策する。ロッジ、レストラン等、登山客を当て込んだ店があり、高地特有の涼しくって静かな村は、ゆっくりと生活している農家が多い。玉葱、じゃがいも、豆類が元気に育っている。或る瀟洒な家の家庭婦人に招かれて、家に入れてもらう。応接間は美しく豪華な家具に飾られていて、この立派さを見せたいのでしょう、そんな時代もあっての発展なのでしょう。イスラムの女性のスカーフは、顔の輪郭を調節出来るし、髪も構わなくてもすっぽり隠せるし、此のファッションは年寄りにはもってこいだなと、私も真似したいと感心しました。
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 左=ウゴドウのマーケット(朝市)  右=バリ舞踊

 バリ島へ
 バンでプロポリンゴに集まり、大型のバスに乗り換え、バリ島へと行きます。予約席は早い者勝ちで占められていて、トイレの横の席で、最低の乗り心地、是が辛抱の為所と3人とも黙ってバスに委ねました。ガソリンスタンドが嫌に堂々として他の建物より、全てが立派なので不思議に思う。外国資本が先を見越して設備投資を大幅にしているのでしょう、インドネシアには原油が沢山埋蔵されているのでしょうか。それに日本車が多い、未だ韓国車は余り見ないので嬉しくなる。やはり日本車に頑張って貰わないと、日本の経済が潤わない。
 バリ行きの船着き場、クタバンまで6時間位掛かる。バリ島のギリマヌ迄は1時間のんびりの船旅、バスでデンバサール迄が最終地点。其処からフランス人のカップルとウブドウの中心地へ。今日ぐらい登山あり、次々と車を、船を乗り換えての旅はとても疲れました。3人とも何とか元気に此処まで来たのでヤレヤレです。
 昨夜のホテルはモンキーフォーレスト近くの路地裏で広い部屋だったが、もっと心地良いのはないかなと捜す。
ジャカルタに帰る航空便を先ずはゲットして、ジャラン、ジャラン(散歩する)でそこらを歩き回る。流石ウブドウはバリの観光の中心地、観光客目当ての店ばかり、客引きも多い。地元の人に安くて庭が広く、バンガロウタイプの宿を聞き合わせると、とても良い宿を紹介してくれる。一目で気に入り其処へ引っ越します。大きな御屋敷の中に一軒ずつの建物の宿、花もみごとな大きな庭に池もあり、トイレとシャワー室の大きさ、朝食付き3人で日本円にして3000円、3日間をのんびりしながら、観光しましょう。先ずは溜まっていた洗濯をする。テラスは干し物一杯になる。久しぶりに気持ちが爽やかに、鳥の声と共に静かに音楽でも聞きましょう。
 ウブドウは芸能の村の集まり、今夜のバリ舞踊の予約をしては、近くのブテック街や土産物屋さんを見て歩く。
レストランの味付けはやはり辛くって、私達にはあわないので、自然と買うものは果物位になる。やはり日本食しか好みはない、旅の途中其れは無理だとは分かっているが、仕方ない事です。
 バリ舞踊は21:00から始まる、此の舞踊場は宮廷の様な作りで、大きな2階建ての広い演技場となって居て、華麗な女性ばかりの独特な踊り。演奏するガムランの残音が次々と和音となり変化して広がっていく。打楽器の類が多い。歌舞伎の様に見栄を斬り、眼を見開いて大げさな動作が似ている。女性達の合唱もあり、美しく着飾った踊りを物語に合わせて、次々と披露してくれる。舞う人も演奏する人達も、汗びっしょりの熱演で、床に正座をしている歌い手や、演奏者はさぞかし辛い事だろうと、その事が気がかりでした。時折大きな犬が観客席に入って来るので吃驚しました。其れだけ此処の人々の鷹揚さを見る思いがしました。
 夕方には何時もスコールの様な突然の雨が降ります。散歩にも傘は手放せないのが、バリの今の季節でしょうか。此の宿のオーナーの若い夫婦は幼い2人の子供を育てながら経営している。オーナーの父の持ち家を宿にして、お父さんを他所で住んでもらっているそうです。バリの人々は先ずは、ヒンズーの神様に朝の御祈りと捧げもの、それは家の奥さんの仕事、夕方も同じようにしている。しっかりと腰に民族服の様な巻きものをして、右手で輪のような形を作り、何を表現しているのか分からないけど神様を敬っている姿をみています。毎日自然な形で行われているのは生活の一部であり、取り立てて行っているのではない。良き宿に巡り合い有難いです。
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 左=ゴア・ガジャ  右=モンキーフォレストの中のヒンズー教寺院

 ゴア・ガジャ、クボ・エダン、プナタラン・サシの寺院巡り
 バリの人々の生活を見たい、そういう気持ちは市場に行くこと。朝早くウブドウ王宮の前の市場見物に行く。
 8時までは庶民の市場、各店舗前が青空市場になり、女性群のパワーが活気に満ちている。買い出しの人達と売る人達、食べ物とお金が激しく交差する。言葉は解らなくとも見ていると面白い。炊きたてのご飯をバナナの葉の上に載せて、その上に色んなおかずをトッピングして包み、其れが一食の朝か昼の食事になるらしい、それを沢山買い込んでいく人達。家で食事を作らないのでしょうか。果物は南の国故にあり、種類は豊富、次々と見ている間に売れていく。マンゴーを見つけて買ってみるけど、硬く味がない、調理用の物かもしれない。市場は見ていると楽しいけど、人と食べ物に酔いそうな気持になる。8時以後は観光客用となり、青空さんは掃除して何処かえ消えていくらしい。
 此の宿の朝食は私達の部屋まで運んでくれる、テラスで庭の花を愛でながら、鳥達と共に戴く。毎日変わりメニューでもてなしてくれる。こんな丁寧な事をして貰ったことがない旅なので、恐縮してしまいます。宿のオーナーの車での5時間の観光を昨日お願していました。インドネシアにはジャワもバリ島も本当に日本車ばかり。現地生産したのでしょう、日本車であっても見慣れない車種が多い。
 先ずはゴア・ガジャの石窟寺院、大きな象の口の中に入れば、修業場と三つの神様が薄暗い蝋燭の光に照らされて、何だか気味が悪い。寺院の前の庭には6体の女神様の像から噴水が湧き出ている沐浴場が爽やかで美しい。次に訪れたのがクボ・エダン寺院。さしたる印象もないが大きな寺院には、大男のビマ像が一体あるだけ。寺院に入る時には腰巻代わりに帯を巻いて入らなければならない。敬虔さを表し、寺院側の御志(寸志)の領収書となる。プナタラン・サシ寺院は田んぼの中に在り、雨で道がぬかるんでいる、巨大な銅鼓が有名らしいが、祭りの時には賑わうのでしょうが、ひっそりとして訪れる人もいない。帰路ローカルなお店でお昼を戴くが、やはり味は香辛料が多すぎて少し辛すぎます。
 宿に帰り、地図を頼りにモンキーフォーレストに出かけます。大きな森林がサルの住み家、何処にでもいて珍しくはないが、ここの猿達には凶暴性はないのでしょうか。人とは仲良しで、静かに近寄って来ます。グループ行動をしていて、飼育員さんが与えるさつまいもには興味を示しませんが、仕方なく食べている様子。森の中にもヒンズー教の大きなお寺があり、猿達は悪戯をしないのか気がかりです。その近くで何年か前に泊まったホテルを見に行くと、大分宿泊費を値上がりしている。私達はその宿が経営している美味しいパンを買って帰える。
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 左=バリ植物園  右=タマン・アユン寺院

 バリの植物園、タマン・アユン寺院
 朝は快い鳥の声に起こされ、毎日、品を変えて朝食は運ばれてくる。何かゴージャスなホテルに滞在しているようで、すまない気がする。バリはヒンズー教の寺が多く、時が経てばどの寺が如何で有ったかを忘れてしまうので、沢山観ても仕方がない。以前見た寺で印象に残っている寺を一つだけ観光することにする。今日はバリ最大の植物園に行こう。宿の主人は物静かで安全運転で信頼できる。バリ北部の高原地帯バトウカウ山の麓、どんどん山道を登っていくので、肌寒く感ずる。時々ビューポイントあり、車を止めて沢山の人々は眺めている。棚田や村が遠くまでのパノラマ的な風景が広がる。山の中腹から植物園は始まり、広大であるので車で廻らなくてはならない。今日は日曜日、バリの人々も家族連れや、若人達で騒がしい。数々のアクテイビテイがあり、子供達の声が響いています。とても美しく整備されて、ゴミ一つ落ちてはいない。竹のコレクション、世界中の珍しい蘭やサボテンの大きな温室がある。数々の薬草園、全てが今も育てながら研究し展示している。爽やかな風に吹かれ気持ちよく散歩しながらの観光かな。地元の大きな市場が有ったので、興味で寄ってみたが、何時もの此処も観光客には何倍も高く言うのを嫌う私達は、何も買えない。蘭の新芽の付いているのは欲しいなと思ったけど持って帰れる事は出来ない。
 タマン・アユン寺院は境内の周りをぐるりと掘割が巡らされていて、田舎の雰囲気が有り、釣りをしている人達もいる。釣った魚はとても小さい。今日は何かの催しか祭りが有ったのでしょうか、お供え物を婦人達が各自に分けて家庭に持って帰っている。ハイビスカス、プルメリアの香りのする花々に囲まれたメルと云う塔が規則正しく並んでいる。何か意味があるのかも知れません、落ち着いて何だか尊いイメージのあるお寺でした。帰り道を小さな村々を見て帰る、道の両側にカラフルな幟が掲げて有れば、祭りのある印。毎日の生活が宗教と共に生きているバリは、其れが神々の島と言われる所以であるのでしょう。私達はドリアンを買って帰り、宿で割って貰い、いざ戴こうとするが、どうしても美味しいとは思われず、子供たちにあげました。
 ウブドウは観光のみが優先している暮らしぶり、道端で子供を抱いた婦人が何か食べ物かお金をねだる姿がある。タクシーの客引きも多く、誰も相手にしないでしょうに、如何して生活するお金を得ているのか心配です。
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 クタ
 このウブドウの宿での観光がジャワ島での疲れを癒すことができた。経営者の若き夫婦はとても気持ちの暖かい人柄でした。歳が往くに従い、第一印象で相手を見抜く力は備わって来たように思います。どうか今のままの気持ちでお客様を迎えるようにお願いして、気持のいい此の宿を去らなければならない。クタ迄の送りも頼むと快く引き受けてくれる。道中は何処も同じく渋滞。バイクの強引な走り方が、その上に拍車を掛けている。曲がり角で乗って居る車がバイクと接触があったが、事なきを得て安心しました。
 クタのホテルも広い敷地の中、ちょっと古いですが、エキストラベッドを入れてもらい、大きなテラスがあるのが救い。インド洋に面して海の豪快な波を求めてのレジャーから発展し、世界中の人々が憩える場として、ホテルやレストラン、土産物店の多さ、すっかりブランド物も定着して賑わっている。暑い日差しの中デパートや土産物街を歩くと、以前見ていた店は別の店になったり、久しぶりの日本食と願は空しく、美味しかった店も今はない。観光客の呼び込みを避けるのが億劫になって来た。
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 ジャカルタ
 クタの宿は旧式でトイレやシャワーの湯の出が悪く独特の臭いがある。一日限りの宿だがウブドウの宿が余りにも良かったので、その落差が大きい。でも庭は広く、プールもあり木樹の多さや、名も知らぬ花々、多くの鳥達もやって来る。
 ジャカルタ行きの航空は1時間程遅れて乗せてもらえた。空港から予約していた宿に、空港の案内係に尋ねたのがまずかったみたい。ベンツのタクシーに乗せられたので、少し値段を高く吹っ掛けられました。
 ジャカルタはインドネシア国の首都だけあって、非常に発展著しい街です。昔に訪れた事があるが、その時にはこんなに高層ビルはなかった。近代的に洗練された美しい街に生まれ変わっている。帰国までの丸一日を観光に充てる。宿の近くのデパートに行くと、従業員さんばかり多くて、お客さんは何処にいるのかしら。地下の食料品売り場だけは、多くの買い物客で賑わっていた。  モナス(独立記念塔)までテクテクと歩く。地図上では近いと判断したが、暑いしとても遠いので、中々着かない、道は混み、時々ある信号はどの信号を見たら良いのか、正面にはない時もある。地元の人に追従して、おっかなびっくりです。やっとモナスに着けば、又そこが途轍もなく広い。柔道か空手かな、凶漢の若者達が練習をしている。陸軍のセレモニーが始まっている。若い兵士たちは訓練にも似た体操をしているし、多くの女性の姿も見られる。軍隊はこの国ではエリート職かも知れないな。やっと入り口に辿り着き地下の博物館に入る。小学生や中学生の歴史の勉強の為に、訪れている。
 直ぐ近くに真白い巨大なモスクがある。スカルノ大統領の時代に建設された。内部には信者でなければ入る事は出来ない。多分イスラム教は偶像崇拝を忌み嫌うので、何もないでしょう。唯メッカの方角に扉の様な印があるでしょう。庭で一休みしていると幼い新郎新婦が結婚の契りを済ませて写真を撮っている、10代に見える位若いのが気になります。でも二人の嬉しそうな笑顔を見ると、何だか気持ちが和み、どうぞお幸せにと祈ります。モスクの前には道を挟んで、ゴシック建築の高い塔を持つカトリック教会がある。二つの宗教の力をお互いが誇示している象徴のようです。  インドネシアの旅は急にジャワ島に変えたので、此の島の大きさを理解していなかった。バスでの乗車が長かった事もあり、とても疲れました。次回はもっと美しく小さな国に行きたいと思います。
 桜の季節は終わり、新緑が目に眩しい。我が家が一番安らぐ処でありながら、すぐに又遠くへ出かけたくなります。放浪癖があるのでしょうか。しばらくは大人しく主婦をしましょう。
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西インドの旅  〔2012.12.2〜12.15〕
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 インドには三度旅行していますが、その都度これでもう終わりだ、其れ程の心に受けた衝撃は大きい。一般的に二度と行きたくないという人と、何度でもインドに行きたいという人とに分かれるらしい。でも時が過ぎれば多くの想い出と共に懐かしい気持ちになり、眼をつぶれば暖かい心の流れを感じます。其れが旅なのでしょうと思っています。
 西インドのエローラとアジャンターの石窟寺院には、以前から魅かれるものがあった。そして西の端のパキスタン近くのバンニ地方という辺境の村をたずねる事を目的に,乾季の今がインドを旅する絶好の季節だと、相棒さん3人と出国する。今回でインドへの旅は気力、体力的には是が最後と決心しています。
  タイ航空はバンコクでトランジット。ムンバイ行きの航空の中で近くの子供がズーと泣き、走りまわり、親は人の迷惑を考えずのんびりして居るのには腹が立つ。深夜に着く。以前はボンベイと呼ばれていた都市ムンバイは小さな漁村を埋め立て発展した大都会。私達が泊まったホテルは、かの有名なタージ・マハル・ホテルの真ん前の古いホテル。何処に行くにも便利です。
 早朝よりインド門辺りを散策する。観光客の多いコラバ地区には、イギリスの植民地時代の名残の由緒ある建物が多い。堂々の構えのホテル、レストラン、コーヒーショップ、土産物屋さんが犇めいています。エレファント島行きは、今日はお休みみたい。連絡船が岸辺に沢山繋がれています。今回の旅の2つの目的のうち、どちらを先にするかを決めなければならない。まだ元気な内に遠くの辺境のブージまでのチケットを求める。やっとオフィスは見つかり、今日の午後のチケットを得る。多分即日のチケットは高い買い物でしょうが、日数が限られているので仕方がない。ホテルをチェックアウトして国内線ターミナルへ。道路には埃、ゴミが舞い悪臭、汚物だらけ。大きな黒い牛がノソノソと歩き、野良犬も車の間を危ないのに上手に走っている。道端には浮浪者達が寝起きし子供を育てている。掃気ガス、埃で身体も黒く、髪は逆立っている。見たくない現実がある。ずるいが眼を瞑り通り過ぎるのを待つ以外にはない。
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 左=ルディ村の娘さん  右=ルディ村の住まい

 ブージにて
  1時間45分無事にパキスタンの近くグジャラート州の中心地ブージに着き、空港よりオートリクシャー(オート三輪を改造して人が乗れるようにした車)でゲストハウスに直行する。其処のオーナーは多くの情報を与えてくれる。明日の車の手配をお願いする。私達が行きたいのは此の州の北カッチ地域。塩分を含んだ湿地帯で、痩せた不毛の大地や乾燥した砂漠に1000以上の独特な文化を持つ民族の村がある。その地に憧れて、変な日本人達が遥々とやって来たのだ。
 次の日の朝、散歩も兼ねて観光する。此処は全くの田舎町。大きな角を持った白い牛達がのんびりと歩き、痩せた犬達も尻尾を振って寄って来る。いじめられた事がないのでしょう。路上生活者は見かけない。一軒の裏庭には小さなコンロに枯れ木で火を起し、朝食の準備をしている。一つの水道を何軒かの家族が歯磨きに洗濯にと、共同で使っている。日本人は珍しいのかな”ジャパニ?“笑顔で頷く。”チナ?“(中国)と問われば、反対を向く私達。ブラーと歩けば伝統的なカッチの建物が有る。三つの宮殿があってその中の一つは2001年の大地震で崩れたままで、まだ修復出来ていない。朝早いので、後の二つの宮殿はオープンしていないけど、頑丈な城壁に囲まれた宮殿の大きさからも、当時の王様の暮らし振りはさぞかし華やかで、その力は偉大であった事と推察する。近くに、ヨーロッパの教会の如く高い塔を持つプラグ・マハルも堂々としている。どの建物も崩れかけたのが目立ち、観光する者にとり、もう少し昔のままに修復して欲しいと思いますが、貧しい田舎町の財政では叶わぬ事なのでしょうか。
 私達は宿でチャターした車に乗り、カッチ地域のバンニ地方の村々を訪ねたい。アフガニスタンやパキスタンから何世紀も掛けて移動してきた民族らしく、夫々が独特の文化を持っている。ブージの町を抜ければ農地が広がり、それから低い木々が茂り赤茶けた乾いた土地になる。ビリンデアラのチェックポストで申告書を書いて、入域料を払わされる。ホドカ、ゴレワリ、ドルドと小さな村を次々と訪ねるが、観光客目当てに、カッチ独特の家屋を新しく建て、その中で自分達の手縫いの刺繍した服や、タペストリー、カバン、靴工芸品等を売っている。何となく本当の物ではなく観光化しているのをみると悲しくなる。普段の貴方達の生活を見たいのよと言いたい。でもその売り物の刺繍の繊細さ、パッチワークを組み合わせ鏡を縫い入れあらゆるステッチを駆使し、その色彩感覚には目を見張るものがあった。貧しく慎ましく生活している村人がこんなにもカラフルな衣装を身につける事が、ここの女性達のたしなみであったのでしょうか。ウズベキスタンでも母親は娘が嫁ぐ時に、その家の伝統的な刺繍した布を持参させると聞いていたが、きっとこの地でもその風習は行われていると思います。
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 ホワイト・ランの4人(対岸はパキスタン)

 ホワイト・ラン
  西北のパキスタンの国境近く、トルド村には大きな白いテント張りの村が建築中、巨大なステージもあり、多くの人々が汗して働いている。何かのフェステバルを開催するらしいとか。もう少し行くと見渡す限りの白き大地が見えて来た。地平線がズート続く最果ての地。向こうの海には蜃気楼が浮かぶ。でも空は鈍い灰色できれいとは言えない。今の乾季だけに海の水が蒸発して塩の大地になった。私達は歩けるところまで、大きく手を振って、足元はザクザクと、まるで霜柱を踏んでいる感覚を楽しみながら“やっと此処まで来たゾ“の気持ちで大分遠くまで歩く。綺麗な処の塩を味わってみる。やはり塩辛い、苦さの強い味の塩。観光客もチラホラ、挨拶は“ナマステ”ネパールと同じなの。ホワイト・ランを終わってビリンデアラ村まで帰り、其処で昼食を頼んでいたので、インド料理を戴く。定番でしょうが野菜がメインで、ナンに挟んで食べたのは、予想をはるかに超えて大変美味しいものでした。帰路はカウダ村とルデイ村へと訪れましたが、全く観光客用の村でした。時折山羊、牛、ラクダ達の放牧の群れが道を横切って行きます。遊牧の民族がテント張りの即席村を作り、暮らしています。中欧のヨーロッパに国籍を持たぬ漂泊の民“ロマ”人達が仕事を求めて国々を渡り歩き、テント暮らしを見ましたが、彼らは大型のトラックで移動していました。ここでは大きな角を持った白い牛達がトラックに変わる手段のようです。多くの小さい村を訪れて、民族を訪問したけど、ドライバーさんが未だ案内に慣れていない人で、不親切でした。
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 左=ジャマー・マスジットモスクの列柱  右=ハーティースイン・ジャイナ教寺院の入口

 アフマダーバード
 宿のオーナーにアフマダーバード行きは、バスか列車、どちらのチケットが買い易いのかを聞くと、バスの方が良いと、予約までしてくれる。どんな寝台バスか不安もあったが、こうなったからには如何にでもなれの気持ち。クーラーなしの方が寒くなくて良いとの助言に従う。いざその時間にバスの乗り場に行く。意外と外観は綺麗だが中はカーテン一つで狭くて汚いベッド。私達は薄いシュラフを持っているので、ミノムシの如く寝るのみ。バスのクッションの悪さは道のデコボコかも知れない。トイレは道端でお花摘み、最終地はアフマダーバードだから乗り過ごしはないだろう。交通費と宿代を含んでの移動なので安上がり。でも、どうしても眠る事は出来なかった。体を横にしただけでも有難いと思わなければと自分を励ました。10時間を過ぎて到着する。疲れていたので駅前の星ありホテルに泊まろうと4人の意見は一致する。このホテルは時間制でチェックインより24時間が一泊の料金とは、如何にも現実的だ。利便性のある近代的なホテル、この都市は古来より綿花の栽培が盛んで綿織物生産が中心の大きな産業都市です。イギリスからの独立と自由を得るために戦った非暴力の思想を育くんだガーンデイーの運動の拠点として、大いに発展した。
 先ず次の目的地への移動を如何するかな。この旅の一番の観光の地、石窟の拠点となるアランガーバードに行く方法を決めようとする。ムンバイに空路で帰り、列車でその地に行く方法もあるが時間が掛かり過ぎる。では又過酷なバスで直通ではと、未だ皆元気なので、旅行社に行き其のチケットを押さえる。デラックスバス寝台というが、信じられない。
 さあーこれで安心、今日一日と明日の夕方まで、この都市の観光をしましょう。此の街のメインは二つの階段井戸。先ずは近くのダーダー・ハリ階段井戸へと、リクシャーを雇う。規定人数は3人までなのですが、強引にその規定を無視して乗り込む。中心街の道路の混み具合は驚くばかり。交通規制はないのだろうか。信号が殆どなく、交差点ではドライバーさんの勇気と勝気者が早く通過出来る。此処にも聖なる牛、野良犬も悠々と歩いています。 是だけの混み具合にも関わらず事故は未だ見ていない。地図上では近くなのにやっと階段井戸に着く。500年もの以前にイスラム政権時代の王妃が造ったと言われている、普通の井戸ではない。巨大な階段が下へと続いていて、その階段の両サイドの壁に彫られた石の彫刻の素晴らしさ。イスラムだから人物像はなく、樹木、動物花や草、芸術的作品が続く。其の昔は暑い日には、階段で涼を求めて色とりどりのサリーを纏った女性たちの社交場であった事でしょう。郊外のもう一つのアダーラジの階段井戸へとリクシャーで行く。市内では一人はなるべく隠れるように乗り、郊外では顔を出してもいい。太陽は容赦なく照りつける。UVカットもしてない私はシミのおまけが待っているのでと思う。この階段井戸はダーダー・ハリよりももっと規模は大きく、建築の完成度はすごいと思う。その階段には凝った建築物もあり外との吹き抜けの八角形の大きな窓は、光が差し込む様になっていて、この時代の人々は、美しい壁の彫刻を見ながら談笑に時を忘れたのではないかと想像する。この近くには青空市場があり、新鮮な果物、野菜が豊富に売られています。私達は此処でビタミンCの果物を求めました。ホテルへの帰りも凄いラッシュ。リクシャー、人、車、牛達で団子状態。是がインドだ。全ては神様の為されること、お任せする心が大切なのだろうか。
 次の日はもう少しの滞在延長を頼み、永く辛いだろうと夜行寝台バス移動に備えた。でも午前中はジャマー・マスジットのモスクに行く。金曜モスクで礼拝堂の内部にはインドとイスラム建築が混在した列柱260本の見事さには、圧倒されました。ハーテイースイン・ジャイナ教寺院には細かいレース状の石彫装飾が全体の寺院に在る。其処を多くの人々が、危なげな様子で清除をしている。回廊の神様が52体もいらっしゃるが其の眼は全て宝石が埋め込まれている。光線の具合でピカリと光る様子は、“私は貴方を何時でも見ていますヨ”と警告を受けているようでした。
 デラックス寝台バスとはいかなるものかな。多分此のインドでは冷房を入れる事がデラックスと解釈すべしで、二段ベッドは狭くまともに座れない位低い。冷房の効き過ぎで寒い。身体を支えるガードが足元だけに在り寝返りは危険も伴う。寝そべっている以外には如何しょうもない。景色を楽しむ余裕もなく苦痛の時間、最低の乗り心地を思い知らされる。約15時間位かかりましたが、時間は意外と速く過ぎてゆき、適当に睡眠も取れたらしく、そんなに疲れたはいない。アウランガーバードに着いて手頃なホテルに荷を置いて、此の街の観光を始める。
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 ビービー・カマクバラー廟

 アウランガーバード
 ビービー・カ・マクバラー廟を観光。何時か見た本物のタージ・マハル廟にそっくり。全てが大理石ではなくドームの部分だけで他は石材の上に漆喰を塗っている。劣化現象で酸化して茶色になっている。ムガル帝国の滅亡を思わせる廟でした。廟の上に登れば周囲のデカン高原の風景は珍しく緑が多く天気が良いので、すっきりと爽やかでした。
 パーンチャッキーの記念公園、アウラングゼーブ帝の師の廟が有る。今日は金曜日なので礼拝が行われるのでしょう。門の入り口には身体に障害を持つ人々や貧しい人達は並んで幾ばくかのお布施を貰うべく、手を差し伸べている。近くの丘から水を引いたという大きなプールの様な洗い場では、手や口、足、を洗い神聖なモスクの礼拝堂に入室する。その水がきれいでなく濁っているのが気になる。ここでは女性は一人も見当たらない。乞食さんにも女の人はいない。男女平等ではないのでしょうか。イスラム教の敬虔な祈りが始まるようで、沢山の敷物を準備しています。私達は早々に退却しました。
 時間的に余裕があったので、明日からの宿はもう少し明るい処にしようと捜し回り、静かで気持ち良い宿を見つけて、エローラ行きの車も予約できた。ヤレヤレで今日の宿に帰り、何時もの日本食を準備して四人で楽しい夕食となる。
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 左=ダウターバードの砦跡  右=エローラの16窟(カイラーサナータ寺院)

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 足を地に着けた釈迦(エローラ)

 エローラ
  朝食を終えて、昨日予約していた宿に引っ越しをする。何時もの事だが宿に入室する前には泊まる人の全てのパスポートを提出して、一人一人の申請書を書かされる。ずーと是が続いている。IT産業が発展している国なのに如何してパソコンを入れないのかな。他国民を信用していないのでしょうか。煩わしくって嫌になる。
 予約していた車は時間きっちりやって来た。クラッシックカーで巨漢のドライバーさん付きで出発する。途中ダウラターバードの砦跡を見物する。大きな岩山が其のままに砦になっている。近くの高校生達や短大生が歴史の学習の一端としてか、沢山登って来る。低い山登りに匹敵する。登り口に赤茶色のミナレットがある。城壁は今でもしっかりと堅牢そのもの。頂上からのデカン高原の眺めは美しく、360°の景色を眼の中に刻む。そこで初めて日本人の若者に出会う。鹿児島県出身らしく、1年かけて世界の国々を旅して回っているらしい。さぞかし日本の御両親は心配な事でしょう。時々は電話をしてあげてねと頼みます。
 エローラに着いて、車は駐車場で待機。入場料は外国人に対しとても高い。京都のお寺の拝観料位。この国の物価にしては高額だ。正面には先ず16窟がその巨大さを表す。ここが一番のメインなので、右から説明書に従いヒンズー教の石窟群から、全部を見物はいくら時間があっても足らない位なので、お勧めの窟を選んでライトで照らしながら見て回る。夫々エロチックな神様を祀っていて、修行の場はない。16窟の左側には仏教石窟群が並ぶ。仏様の穏やかな表情の彫刻、窟の内部に仏塔も彫られてここが天上と教えている。日本人には見慣れているので、ほっとするものが有る。どの仏教窟にも、僧達の修業の宿坊が備わっているのが特徴でしょうか。
エローラの最高の見どころ16窟(カイラーサナータ寺院)、本尊はシヴァ神です。100年程の間、何世代にも渡って一つの巨石に向かい、石工達がノミとカナズチでこの建造物を彫ったのです。他で造り嵌め込んだのではない。もし現代、大型の機械を駆使しても是だけのものは難しいと思います。人間の力、信仰が為し得た事なのか唯、唯驚くばかりです。内部をゆっくり歩き見物し、習性でしょうか、登るところはないかと捜し、此の寺院の上の丘に登り、この寺院を下に眺めれば、その壮大な建造物には人間の為した限りない能力を、改めて思いを巡らしました。流石世界中の人々の憧れで有ると再確認しました。車までの道に尻尾の長い猿達が私達を見送ってくれます。満足して帰路に着く。途中でヒムローと云う織物のセンターに寄るが、何も買いたいものはなしです。宿は大きな四人部屋、シャワーも良く出るし、レセプションの人が親切なのが救いです。明日はアジャンター行きです。
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 左=岩にできた窟を歩いてまわる(アジャンター)  右=美しい壁画(アジャンター)

 アジャンター
 ワーグラー渓谷の断崖中腹に古代の仏教寺院跡に描かれた壁画や彫刻を見に行くのです。歴史の流れから人々に忘れられジャングルに1000年以上経てから、イギリスの騎兵隊が密林の中に逃げたトラを追って偶然に発見されたと聞くと、インカ帝国のマチュピチェと同じような発見の仕方です。
街からは2時間以上かかりました。ドライバーさんは途中レストランに寄って朝食をとっています。展望台からアジャンターの全景を見たいと希望をすれば、少しバックして其処へ運んでくれる。元気のよい韓国の中年の団体さんと一緒に、断崖の対岸の展望台よりアジャンダーの仏教寺院跡が一望の元に見渡され、思わず溜息も出ます。サー日本の古代仏教画の源流を見に行きましょう。チケット売り場より次々と急坂な階段が続き、歩きに自身のない人はカゴかきや、ガイドさんも待って居ます。私達は自分自身で何でもします。
番号が付いているので、本で確かめながら主な処をピックアップしながら、第1窟は法隆寺金堂に描かれた菩薩像の元であり、不思議な微笑みで迎えてくれる。其の窟全体の壁画は優れた絵師より豪華に描かれ、暫し天上の世界を思わせる。壁の絵は多くの物語が美しい色彩で描かれています。照明が暗いので自分のライトを照らしながらの見物。2窟の天井の装飾、釈迦誕生の壁画が見事。保存状態がとても良い。9,10窟は屋内のストウーパと繊細な壁の絵、16、17窟は足を地に着けた釈迦とその幻の世界、26窟にはタイのワット・ポーに似たインド最大の涅槃像が、静かな寝息がするような御顔で眠っている姿。もっと窟の内部のライトが明るくして欲しい。自分のライトの光が小さいので見難い。夫々の窟の前で靴を脱がなければならないのが面倒です。係の人がソート寄って来ると、“お布施をして下さい”と、其れは自分達の内緒のお金になるのでしょと思い、拒否しました。私達は対岸に架かった橋を渡り、崖の向こうの小道を通って、シャトルバスの待つバスに乗ってパーキングに辿り着く。人間の偉大な能力をこれ程までに魅せてもらえた感激を、思い知らされたようです。今のところ中国には行きたくないけど、敦煌の莫高窟よりも素晴らしいものでした。よくぞこの地に迄来られた事を感謝で一杯になる。帰路はミカン、バナナ、林檎を露店マーケットで求めて、野菜の補給をする。
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 プネー
  今回のメインのエロ−ラとアジャンターの世界遺産の見学の拠点としてのアウランガードを去りプネーに向かいます。バスの移動に少し嫌気がして、4人なので車をチャターする方が楽ではないか、二日間の大男、強面のドライバーがやって来た。
 デカン高原の朝日に卦ぶる農村の風景は、何だか何時か何処かで見たような気がします。途中の道路はしっかりと舗装されている。時々料金を徴収されているので、近ごろ完成したのでしょう。放牧の牛や山羊達が渡って行きます。警笛を鳴らして待ってあげてもいます。時折、犬や山羊の死体が放置されています。4時間程でプネーに着く。本日も星ありホテルを選びました。洗濯やシャワーを一気にしましょう。
 ムンバイの帰りには一度位は列車に乗りましょうと意見が一致する。先ずは其のチケットが問題です。駅に行くが凄い人込み、案内所で明日のチケットを聞いてもハッキリしない。インド的英語の発音なので聞きとり難い。結局パスポートのコピーと一人ずつの申請をして、10時にもう一度来なさい。たった一枚の列車のチケット買うために何と言う面倒な手続きなのでしょう。何だか大仕事が終わった感じです。プネーの観光に出かけます。  プネーは文教都市らしい。教育と科学の中心地と言われているらしいが、そんなには見えない。相変わらずゴミは多く、牛や犬が食べている。市内は如何しても4人は乗せて呉れないので、2台のリクシャーを乗りまわす。通りには時々ラッパや打楽器の激しい音がする。結婚式が行われている。花輪を下げた新郎を囲み人々は大声を張り上げ踊っている。白いウエデングドレスを着た花嫁は顔を隠している。民族服ではなく、ヨーロッパ風が流行りなのでしょうか。車は止まり警笛で呼応する。此処にも時代の流れがあります。
 激しい日差しの中をマラーター王国のシャーニワル・ワーダ宮殿に行く。城壁はしっかりと、その上を歩いて散歩する。木樹の陰には若い二人ずれが多い。宮殿は火災で焼けてしまい、正面の門上の繊細な彫刻木材建築だけが残っていた。もっと歴史的な遺構を大切にすべきなのに修復なしでは、崩壊するばかり。プネーの一番古い守護神ガーネシュを祀って居る寺に行くと、神様はカボチャに眼と口をつけた顔、信仰とは昔から其れが尊いと信じられて来たのなら、何の疑いも持たずに信じるのでしょうか。其れ程に権威に対し従順な人々なのでしょうか、考え方に依っては不思議で仕方がない事でした。
 混乱する雑踏の中、リクシャーのドライバーさんはとても運転が上手い。スイスイと見事にすり抜けて行く。バイクと同じハンドルだから運転は楽なのでしょう。道に人が倒れていても、誰一人として見向きもしない。如何したのでしょう。何時もの事なのでしょうか。誰も自分の事に精いっぱいだからというかも。でも今なら助かる命かも知れないのに。其の人の病状を確かめてあげたい。自己中心主義で他の人には無関心。弱者や貧者に対しインドの人達は如何してこの様に無関心で居られるのかを、不思議に思います。近くの店にミネラル水を買いに行けば、又人が倒れ、若者が道に伏せって居る。こうして人の最後を迎えるのが日常なのでしょうか。道で生まれ施しで生きて誰にも知られずに死んでいく、そんな人達が沢山いるような気がします。虚ろな眼で遠くを見つめ、通る人に手を出し、赤ん坊抱き、口に手を、食べ物を下さいの仕草。インド政府は如何思っているのでしょう。私達は驚いて傍観する以外にはないのです。
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 ムンバイ(CSTチャトラパティ・シーウァージー・ターミナル)駅

 ムンバイ
 ムンバイ行きの駅は喧騒の中、聞く人もなく、列車の番号を確かめ乍、座っている人に聞く以外にはない。ファーストクラスを買ったのに、古い列車。窓を拭き掃除なしだから黄色味を帯びて外は見えない。外の景色を楽しむなんてとんでもない。普通席など鈴なりの人々を想像する。トイレは子供の頃に経験していた、線路に落ちるようになっていました。日本とは60年位遅れているのではないかな。ムンバイのCST駅が最終地。イギリスのゴシック建築の駅舎で壮麗なものですが、正面は修復中でした。今晩は最後ですから予約していたホテルに直行。インド門近くの広い四人部屋、明るく清潔なホテル。近くには沢山の御土産屋さん、レストランばかり、でも何となく入る気がせずに、残りの日本食を作り、早めに休みました。
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 左=タージ・マルル・ホテル(中央)とインド門(右)  右=ジヴァ神の三面上半身像(エレファンタ島)

 エレファンタ島
  次の日は未だ私達は元気そのもの。ムンバイの観光のメインは湾に浮かぶエレファンタ島、船はインド門の裏から出航する、多くの船が待っている。港には浮遊物が浮いて汚れている。浮浪者達が家族と住んでいて、子供達に観光客に何かを貰うように仕向けているのでしょう、手を次々と寄って来ます。IT産業で世界のトップをいくほどに発展している国が、この格差は酷い。一般の人々も自分の国の現状をどう見ているのでしょうか。悩んで居ても船は港を出て行きます、振り返ればタージ・マハル・ホテルとインド門がよく見えて美しい景色、船にはガイドを伴って各国の人々で一杯です。1時間程で島に到着。トロッコ列車で島の入り口まで、私達は歩きで、入島税と入窟チケットを払い、長い階段を登ります。両サイド色んな土産屋さんがズラーと連なる、門前町の様です。
 穏やかな表情のシヴァ神の三面上半身像のある第1窟がメインらしい。ヒンズーの神々や彫刻が多くみられるが、エローラやアジャンターを見ている私達には、その迫力や規模には叶わないと思う。如何して象の島と名付けられているのか、係人に尋ねたら、此の島には大きな象の石像が存在したが、ポルトガルが制圧した時にすっかり破壊されたらしい。博物館は閉鎖されていました。子犬達が尻尾を振って付いてくる、お腹がすいているのでしょう。可哀そうです。持ちあわせのキャラメルをあげたら、美味しそうに食べていた。階段の下りで、多くのチベットの観光客が登って来ます。向こうも自分達によく似た風貌なので、思わず握手を求めてきます。どんな目的の旅行なのでしょうか。
 私達四人は此の過酷な西インドの旅を終えようとしています。相棒さんの一人はもう少し長く居るようです。夜遅くに暑いムンバイより、寒い京都に帰ります。帰国すれば新年を迎える主婦は多忙です。罪滅ぼしの心算で掃除におせち料理に頑張りましょう。
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ィリピンの旅 (ルソン島北部とパラワン島)  〔2012.2.24〜3.8〕
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 バナウェイの棚田

 近くにありながら何故かフィリピンを旅するチャンスが無かったのですが、相棒さんの一言で、即決定する。
 無人、無名島を含めて7107島もの群島国家、100以上の多民族の国でもある。333年のスペインの長き植民地支配あり、その後アメリカ48年、日本は3年の侵略の歴史ありで、その各国の統治の影響が強く残っているらしい、サー自分の眼で其れを確かめに行きましょう。
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 ラワグ サン・オウガスチン教会

 マニラ→ラワグ(北イロコス州)
 2人は関空、1人は成田からでマニラのニノイ・アキノ国際空港のターミナル2に集まる。アジアの大きなハヴ空港、年中夏の国の太陽はギラギラと眩しい。現地は31度、冬の国からの訪れは、無性に暑く感じる。彼を待つこと暫し、少し太めになって元気な彼はやってくる。
サテ、そこで相談あり、ルソン島の観光を終えてから、どの島に飛ぶのか?ボホール島とパラワン島が私達の候補でした。先ずはパラワン島を目指そう言う事になり、往復のチケットを求めました。フィリピンの良さは航空券がとても安いことです、でも早めに予約しないと、すぐ売り切れになる事らしい。是で大体の旅の行程は決まる。
 一気に国内線でラワグに飛ぶ。1時間程の飛行、夜に着いたので、何も思う暇なく、町の観光バスが、ホテルまで送って呉れる親切。表通りに面したホテルは、夜中喧しい音が響く。朝食付きだが、選べるのはコーヒーかお茶、パラパラのご飯と、焦げた魚と黄味が白い卵一つ、安い宿だから仕方ないのかな。
 この町は鄙びた田舎町、高い建物はなく、所々スペイン風の建築物がある。午前中を此の街の観光に、先ずは中心のベル・タワー、聖ウイリアム大聖堂に。スペインの植民地にされた年月の長さが、キリスト教を十分に浸透させている。この町に不釣り合いの重厚な建築物は、主に宗教と関係している。それだけ此の街の人々の信仰篤き表れのようです。でも教会の内部は、意外とシンプルで窓もステンドグラスではなく、格子の窓、風が静かに入ってくる。暑さを凌ぐには、旅人に快い休憩の一時を与えてくれる。
 ジプニー(米軍のジープを乗り合いバスに改造した乗り物)に乗り、バロック様式で世界遺産に登録されているカトリック教会サン・オウガスチン(パオアイ)を見物に行く。交通費は驚くほどに安く、人々は優しく、笑顔で接してくれ、降りる場所、帰りの乗り場まで、教えて下さる。この教会は只今修理中、見ごたえの有る教会ではない。屋根はトタン張りで、随分貧しげな世界遺産、内部も華美なところはなく、質素そのもの。教会の側面の横に張り出した構造に変化ありの特徴がある。
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 ビガン 世界遺産メナクリンロゴ通りをカレッサが行く

 ラワグ→ビガン
 バイクにサイドカーを付けた乗りものをトライシクルという、地元の人は5?6人乗っているが私達は3人で丁度良い。バスターミナルまで乗せて貰う。デラックスバスでビガンに向かう。年中暖かいこの地は、何でも良く育つらしい、タバコの栽培が特に盛ん、青々とした大きな葉っぱが光り輝き、収穫しているところもある。トウモロコシ、キャベツ、野菜は何でもある。色とりどりのブーゲンビリアが各家庭の屋根まで伸びている。普通の田舎道をバスは気持ち良く走り2時間ほどで、ビガンに着く。
 ビガンのホテルを探す、先ずは便利さ、清潔さ、ホットシャワー有りかな、それから値段4つのポイント合格なら、そこに決める。アンテイークの家具に囲まれたホテルに3人部屋を貰って、サアー観光に行きましょう。スペインの情緒溢れる世界遺産の街並み、メナクリンロゴ通りの両サイドは16世紀に建築された建物ばかりが並び、観光客相手のホテル、レストラン、お土産物屋さん等、同じような店が多い。その通りは白い石畳になっていて、車を通行止めにしてカレッサ(馬車)が観光客をのせて、蹄の音も軽やかに響かせ走っている。私達もあの馬車に乗って此の街を一周しようと思いたち、交渉する。時間と金額は決まっているので、難しくない。ベル・タワーから、聖ポール大聖堂、ビガンの陶器工場、庶民の市場を、厚かましくも馬車に乗っての観光とは。少し後ろめたい気持ちでした。
 観光案内所でバナウエイの行き方を聞くと、やはりビガンからのバス路線はなく、バギオに南下して、コルデイラ山脈の真ん中へ北上するしか方法はないらしい。フィリピンの旅に出かける前に旅行社に問い合わせ、1社はビガンからのバスは有る、でも1社はないと連絡が有ったので、気になっていた。やはり現地の情報が一番確かであり、仕方がない、明日はバギオ行きとする。
 お昼に戴いたランチがとても美味しかったので、夜も同じ店に通うが、そうは問屋が卸さないらしい、注文したのはまずかった。相棒さん達はフィリピンビールのサン・ミゲルはお気に入りらしい。少し涼しくなる頃には、何処からともなく観光客がゾロゾロと集まりだし、世界遺産通りは満員の人だかりとなる。夜も早朝もあのカレーズの音は、小気味よく、一種のカスタネットの音。何も気にならず、休みました。
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 ビガン→バギオ
 ビガンの宿の朝食も魚のから揚げとパラパラのご飯とコーヒー、何となく変な取り合わせです。バギオ行きの長距離のバスに乗る。トイレ休憩が2回ほど、色んな食べ物を持った売り子さん達がバスの中に入ってくる。東シナ海に沿っての海岸沿い、舗装された大きな道路を走りバワンから東に山の道を行く。そこからは道が狭く、悪路となり標高1500m、風が涼しくなってきたな、町のシンボルの巨大なバギオ大聖堂が見えたと思えば、そこが今日の目的地、5時間位走ったかな。山間の起伏に富んだ街、マニラ政府も夏の間の首都として移動してくるらしい。フィリピンの富裕層の避暑地とか。バギオに着くと同時にバスは動かなくなり最終地点でなく、途中で降ろされる。何が何だか分らぬままに、リックを背負い、凄い群衆の中を3人は戸惑うばかり、今週の土、日、花の祭典があり、今日が終わりの日で、人々は帰宅の乗りものを求めて右往左往している。それにしても物凄い群衆の数、街の中心はバーンハム公園、緑豊かな憩いの場所のはずだが、今日は特別な人の渦の中です。宿をやっと捜し、少し高級ですが今晩は何処も満室が多い、テイクアウトの若者風の店で夕食を求めて、宿でゆっくりと戴きました。相棒さんは冷えたサン・ミゲルを美味しそうに、楽しんでいました。
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 バギオ→バナウエイ
 昨日のあの凄い人出は何だったのでしょう。あの喧騒は嘘のように、今朝は人影もなくひっそりとしている。バスの情報は確かめていたので、時間に合わせて、御茶と少しの食ベ物持参で長距離を覚悟して乗り込む。フィリピンの山深いコルデイラ山脈の中央のイフガオ州の町に行こうとしている。山の道はオフロードばかり、エンジンの音は軽やかではなく、喘ぐように幾つもの山を、谷を、小さな集落、を越えて行く。流石に暑い国だけありのトタン屋根が多く、壁は竹で編まれたもの、風通しは良いのでしょう。エンジンの調子は益々悪くなる、道路工事の一方通行で待ち時間が度々、決局9時間掛かりました。
 バナウエイに着いてからは急に雨も降りだして、ユースホテルの看板を見て、直ぐ其処に宿を決定しました。バナウエイで一番大きなホテルらしい。
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 バナウェイの棚田のビューポイントで(イフガオ族と一緒に)

 バナウエイにて
 昨夜は激しい雨が降っていた。でも次の朝はすっかり青空、高台に建つこのユースのテラスからは棚田が見下ろされて、朝日に照らされて、田んぼの水が輝いている。水蒸気が登る様は何時まで見ていたい、夢のような風景です。ユースの従業員がこの地は今頃では夕がたは何時も夕立があり、観光は朝早くから出掛けるのが良いと忠告を受ける。朝食はバイキング料理、値段からは考えられない豪華版、部屋は広いし、シャワーの出方も言う事なしのホテル。
 先ずは近くのイフガオ族のタムアン村へと歩き始める。昨夜の雨で滑り易くなった階段を,用心しながら、ドンドン降りて行く。小学生の子供達が下の村から登って来る、何処にでも居るような顔立ちの子供達、イフガオ族の末裔とは思えない。村は本当に小さい、10軒位が昔ながらの高床式の家に、今も住んでいる。土産物を見ないかとか、写真を撮らないかと、観光客からいかにしてお金を貰うのかを見えすぎる心根が悲しすぎる村でした。
 私達はもっと規模の大きな棚田を見たい。トライシクルを時間制で雇う、この国の人々が一番利用するトライシクルは、何と効率の良い乗り物なのでしょう。運転手さんの後ろが、気持ち良いポジション、持つところを工夫すれば、危なくない。
以前、中国の昆明から西双版納(シーサンハンナ)に向かう折に、空から元陽県の平面上の巨大な棚田を眺めたことがあるが、離れた上空からなので実感がなかった。ホテルから20分位近くのビューポイントから眺める棚田は、2000年も前からイフガオ族が耕して稲を作り、生活して来た棚田である。「天国への階段」とか「耕して天に登る」と言われている。平坦な土地が無いが為に山の斜面に必要に迫られて耕した棚田が、こうして世界遺産に成るとは、皮肉な事だなと思います。後継者不足で危機遺産にもなっているとか、何処の国にも、同じ現象が起きている。イフガオ族の民族服を着て、猿のドクロを帽子に付けたお年寄り達が写真を一緒にと、次々と寄ってきます。何がしかのお金か物が欲しいのでしょう。
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 左=バナウェイの住宅地  右=イフガオ族の家屋

 4つ程の大きな棚田が良く見えるポイントに連れて行って貰いました。明日の民俗村を連れて行って貰う事を、約束して別れました。バナウエイの中心は小さな店が寄り集まっての大きな市民市場となっています。生活に必要な物は何でも売っています、魚も意外に新しく、日本では見られない珍しい種類もあります。ビガンでも買いましたが、ここでも先ずはマンゴ沢山買って、宿に持って帰り今晩のデザートにと、楽しみは何か一つあるべきです。
 私達は欲を出して、もう少し遠くのボンドック方面のヒワンとハパオの棚田に、贅沢にも一台のジプニーを借り切って行く。トライシクルでは断られたのが、成程と思われる位道が悪い、まるで沼田のようです、がけ崩れ有り、狭い道や起伏が激しく、身体の彼方此方をぶっつけ乍、次々と小さな村を超え、やっとの思いで村の棚田に着く。日本軍の陸軍司令官、山下奉文の降伏の地を眺めながら、コルデイレラ山脈の下に広がる大きな棚田を心おきなく眺めさせてもらいました。其の帰りにバナウエイ博物館に寄る、イフガオ族やその他の少数民族の生活の道具や装飾品や風俗の物を展示していました。狩猟民族でもあったのでしょう。狩りの槍や刀はよく切れそうに手入れされています。人が入る位のカメのような物は、死んだ身内を自分の家の床下に埋めるのだと聞いて、その風俗習慣の違いに驚きました。今晩も完熟したマンゴを買って、嬉しいばかり、相棒サン達は冷えたビールを楽しみに、夫々の密やかな至福の時は過ぎていきます。
 今晩の夜行でマニラに帰ります、今日でいよいよ天国の階段、棚田ともお別れです。ユースに夕刻の6時までの滞在を延ばしてもらう。約束していたトライシクルのお兄さんは時間きっちりやって来る。棚田のビューポイントより、さらに上の道を登りバナウエイの民族村へと走る。途中の棚田をもう最後の思い出にと、じっくりと心に焼き付けました。
 民族村はイフガオ族の伝統的な家屋を其のままに、5,6軒を公開している。大きな植物園になっていて、ランの花の原種が沢山植わっています、多くの花が色とりどりに咲いていて、その間を蝶が舞っています、珍しい種類の蝶もいるので、写真をと思っても中々難しいものです。魚の養殖所もありました。係の人が暇を持て余しているようです。民族村も宿泊施設が有るので泊まらないかと誘いに来る。この大きな村の中に、日本軍が敗戦時に何処かに金塊を隠しているらしい、今も捜しているとかを真しやかに話してくれる。私達は何時も市場に寄ってマンゴを買って、楽しみにしている。多くの国で戴いたフルーツの中で、やはり一番美味しいのは完熟したマンゴです。今夜の夜行バスに備えて、のんびりとしました。
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 マニラ サンチャゴ要塞の入口

 バナウエイ→マニラ
 マニラ行きのバスは満員です、冷房が利きすぎて車内は寒い、音楽も煩い。山道をくねくねとバスはギシーと音を立てながら、意外にもひと眠りしたと思ったら、もうマニラに到着いていた。早朝3時過ぎ、コンビニで時間を過ごし、高架鉄道に乗ろうとする、荷物のチェックが厳しく私達のリックの中まで調べられる。通勤時なのに、ガードマンが調べる間に、次の人は待たねばならない不便さ、乗り換えも又チェックの始まり。列車の中は押し競饅頭、やっとマニラの中心街に。4日後のホテルを予約して、そこに荷物を預けて、観光に出かける。
 荷物が無くて高架鉄道に乗るのは、とても便利です。マニラ地区のリサール公園、スペインがフィリピンを統治していた政治の中心地、城壁がスペイン時代の面影を残すイントラムロスを囲み、一つの城壁都市となっている。世界遺産のサン・オウガスチン教会(同じ名前の教会はラワグで見学した。)石造建築の最古のもの、その造りは堂々として壁画のすごさ、威厳に満ちた教会でした。サンチャゴ要塞には、日本軍が占領していた時、地下牢にフリピン人達の捕虜を閉じ込めて、満潮時に水死させた悲しい歴史も有る。国民的英雄のリサール記念館には、彼の遺品が残り、日本人の恋人の肖像画が掲げてある。
 マニラ大聖堂には大きなパイプオルガンとステンドグラス。私達は昨夜、ほとんど寝ていないので、マニラの激しい日差しの暑さには、身体に堪えます、涼しい所に行こうと、荷物を受け取り、早いが空港でパラワン行きを待つことにしました。
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 パラワン島

 マニラ→パラワン島
 パラワン島の州都プエルト・プリンセサには空路1時間10分で着く。その日は遅かったのでシクロのお兄さんの勧めるままのホテルに泊まった。近代的な窓なしで狭く、もう少し庶民的なホテルに引っ越した。真ん中に庭があり、四角く囲んで部屋が有り、のんびりしたホテル。此の街は、島の政治、経済、教育の中心です。かなりしっかりとした街のようです。
 パラワン島の主な観光地、地下河川公園の事を聞くと、先ず其処に行くには許可書が必要らしく、其れが中々取り難いと聞く。シクロのお兄さんの機転で、発行所に早く並べば大丈夫。一番早く並びました。列に並んだ人は皆ツアーの会社の人々でした。難なく戴いて、其れを持参してツアーに入りました。
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 サバンから地下河川公園のセント・ポール山の麓の島

 パラワン島にて
 許可書の発行所の扉には、もう満員だから発行書は渡せないと書いてあったので、半ば諦めていた。こんなに簡単なら、如何してあのような張り紙をするのか、理解に苦しむ。是がフィリピンの在り方なのかな。ミニバンでガイドさんと迎えに来て、13人程のお客さんのようです。街を離れれば、やはり南洋の島、豊かな植物、果物、バナナ、パパイヤ、マンゴ、マンゴスチン、スターフルーツ、ヤシの巨木が何処にでも茂り、小さな村を豊かにしている。先住民族の村もあるそうだが、ツアーなので、そこに寄って下さいとは言えない。通りに見える小さな住み家は竹の壁、藁かトタンの屋根、高床式の簡単なもの、台風で一溜まりもなく、吹き飛ばされそうです。年中暖かい気候なので、是で充分なのでしょう。此処にも犬が痩せてウロウロ走っている、鶏も何処にでもいる。車に引かれないかと心配する。
 2時間30分程で、南シナ海に面したサバンに到着する。先ずはバイキングのお昼を戴く。もっと静かな海沿いの田舎街を想像していましたが、世界中から大挙して観光客が訪れている、全ての人々は地下河川公園が目的のようです。私達はガイドさんと一緒に、森林公園をのんびりとトレッキング、猿とオオトカゲを見物、そしてエンジンの付いた8人乗りのボートで海に出てセント・ポール山の麓まで、其のボートに乗るのに1時間30分程を待たされる。麓の洞窟の入り口でも順番が有りで、足元を絡げてやっと救命道具をつけて小さなボートでボートマンの手漕ぎで、一番前の人がライトを持たされて、洞窟の中に流れる地底川に入って行く。狭い所や広い処、海燕が沢山行き交い、その天井からの奇妙な岩や鐘乳石に囲まれた幻想的な有り様は、色々な形に見えるのを、勝手に名前を付けている。大自然が御造りになったフィリピンの秘境と云われる所以かな。年月とはよくも是だけの摩訶不思議な事をなさる神秘さに、気持はうっとりして、宿に帰りました。待つことの多いツアーでした。
 宿に帰り現実に戻って、近くの果物屋さんにパラワン島のマンゴを買いに行きました。どうもマンゴの美味しさに病みつきになりました。マンゴの種が大きいので、皮の剥き方に要領が要る、それさえつかめばよい。横にスライスして戴き方も上手になりました。この旅で一生食べる量のマンゴを食べているのではないだろうか。
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 プエルト・プリンセサ滞在
 街の通りの両側の街路樹は大木が多い、合歓の木、ヤシの木、桜の巨木で、日本の桜とは少し違っている、花も蕾も大きく、部分的に咲いている。シクロの運転手ベンさんと仲良しになる。彼が明日から桜祭りがあり、大通りには、パレードが繰り出すという。横に張られた旗が靡いています。今晩は夜市が出るのでしょう、街角ではテント張りに忙しそうです。ベンさんにお願いして、公共市場に連れて行って貰う、大きなマーケットは清潔にしてある、肉も魚も野菜も全て新鮮です、旅をしていても主婦の眼になってしまう。
 真ん前にスーパーもあって共存している。日本の物価の2分の1位かな。ヤシの実半分を機械で割って、その中のココナツミルクを削って、其れを買っていく人が多いけど、料理に使うのでしょう、どんな味になるのか、試してみたいものです。マンゴは持って帰れないので、私達をドライフルーツの店に案内してくれる。クロコダイル・ファームに行き、沢山のワニ達を見物し、60年も生きているお化けのようなワニにも会いました。そして森林公園ではパラワン島独特の動物や鳥達、そして博物館をのんびりと観光をしました。夕刻の航空でマニラに帰りました。
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 マニラ
 マニラ市内の繁華街の便利な処に4日前にホテルを予約していたので、安心していたら、以前見せて貰った部屋ではなく、もっと狭いところに変えられていて、こんなずるいこともするのだと、思い知らされた。この近くでは日本料理の店があって、味も中々のものです。コンビニや大きなデパート在りで、何も不自由しない、とても便利で快適です。 最後の1日をマニラ近郊のバグサンハン川下りをしたい。自分たちで行くのは難しいようなので、宿の近くの旅行社のツアーを頼む。明日の予定は決定しました。
 マニラで一番大きなバクラランマーケットに行こう。高架鉄道は荷物が無ければ、安いし早いし便利な乗り物、バクララン駅周辺から凄い数の店と人々の混みあいで、まるで何かのお祭り騒ぎのようです。其の匂いと暑さに私達は居た堪れなくなり、逃げ出しました。宿に帰り近くを散歩すれば、ストリートチルドレンも時折見かけますし、歩道には貧しい人々が手を出しています、幼い子供を抱いた母親の、何か諦めきった眼で、通りゆく人々見ています。其の冷ややかな表情が気になる、少しの金銭をあげても、どうにもならない事は分っていますが、すぐ私は行動する。フィリピン政府が何とか手を差し伸べて欲しいです。
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 左=バグサンハンの川下りの小さな滝  右=川下りの最終地、滝壺に入るイカダ

 バグサンハン川下り
 ツアーのバンがやって来た、他の人はなく私達3人だけなので、とても楽な気持ちです。マニラから南東に走る、田んぼやフルーツ畑が続く農業地帯、庭木の店も道路に沿ってズーとある、2時間30分位かかる。この国の最大のラグーナ湖が見えて、バグサンハン川下りの畔に着く。足元を濡れても良い支度をして、3人乗りの細く小さく、前後ボートマンの舟に乗りこむ。最初緩やかな流れのところはエンジンの付いたボートが引っ張って行くが途中では人力だけ、逆流が激しくなれば、2人は足や手を使い上手に岩の間を越していく、底が擦れる浅瀬では、ボートを持ち上げる重労働です。両サイドの渓谷の花や小さな滝の様子を、鑑賞するもよし、最終の地点で大きな滝が現れて、その滝壺に竹の筏で行くことが出来るが、滝の激流で風邪を引くのではと思い躊躇した。韓国のツアーの団体さんが、勇敢にも挑戦していました。下りはとても楽な流れに乗って、川沿いの村を眺め、渓谷美を堪能しました。でもボートマンが如何にも自分達は疲れたとか、チップを沢山下さいの要求を、何度もするので、相棒サン堪忍袋が切れてしまう。是が貴方達の仕事だから、ツアー代金の中に入っているはずと。如何するのが一番良いのか迷うことも多い。
 夕刻には私達は宿に帰りました。近くのロビンソンデパートで買い物に出かけます。どこからこんなに多くの人々が集まるのかと思うぐらい。日本のデパートよりもっと活気に満ちています。そして今回の旅の最後の晩餐は、やはり日本食になりました。
 結果論ですが、もっと効率よく回ればボホール島にも行けましたが、今回はゆっくりの旅だった気がします。私達には是で良いのだと、満足をしています。
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度目のウズベキスタンの旅  〔2011.9.26〜10.9〕
 タクラマカン砂漠をと思っていたが、家族の猛反対で余儀なく方向を変えて、ウズベキスタンとなる。私にも思うところあり、2人の相棒サンは初めてなので、観光も兼ねてアシアナ航空で出発する。今年の5月までは関空から直通のウズベキスタン航空があったのに、今は成田からだけしかない。ソウルからは乗客まばら、3席を倒してベッドに、熟睡の空の旅、その御蔭で食事はパスだった。タシケント国際空港には、知り合いの学生が待っていてくれる。
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 リシタン村のモスク(左=ノジマさん、中=私、右=ホシヤハンさん)

 タシケント→フェルガナ地方のリシタン村
 今日の行動予定はフェルガナ地方のリシタン村を計画した。タシケントからクイリク・バザールで車を雇うつもりだったのに、大学生が心配して其の世話もして下さる。私達は3日後のウルゲンチまでの航空券を求めようと、近くの航空会社に行くが、8月からウズベクの国民だけで、外国人はセンターまで行って下さい、そして$払いですと、2年前はこの国のお金(スム)払いだったので、少し多めに換金していた。この国は何の知らせもなく政府は勝手に決まりを変えて、国民さえも戸惑う事が多いらしい。
 無愛想なドライバーさんと古い車で出発する。タシケント郊外には大農場も放牧も続く。
今は綿の収穫時、多くの人が腰を屈めて、胸に大袋を抱えて綿の摘み取りをしている。この国は小学生から一般の職業の人々も、国の為に綿摘みの労役の義務があるらしい。僅かな賃金は、支払われるそうです。遠くの山脈がうっすらと見える。薄いアスファルトの道はガタゴト、小さな田舎村を次々と超えて行く。カムチック峠(2200m)もすぐ其処なのに、車はクラッチが摩耗して、ストップする度に、エンジンの掛かりが悪く、ビクビクしています。車の点検はドライバーさんの義務なのに、心がけが悪いね。キルギスの国境が近いのでパスポートチェックが度々、軍隊を大勢乗せた大型の軍用車が、連なって通って行く。時折物陰には、銃を持った兵が居る。多くの国と接すれば、多額の軍備費が必要なのでしょう。平和で有る為には、警戒怠りなくの行動を、見せておかないとならない。私達には否が応でも緊張が走る。
 次々と岩山の中の一本道を、暑い日差しを受けながら、何とか走っていく。フェルナガ盆地に近くに、緑が多く川が流れ、ロシア時代の味気ない建築のビルがある。車の調子がいよいよ悪くなり、知り合いと連絡を取り、車を換えて別の車で、やっとリシタン村に着く。
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 リシタンのブドウ(近頃はワインも造る)

 リシタン村での2日間
 フェルガナ地方のリシタンは陶器の村、マルギランは絹の産地と知られている。リシタンに以前訪れた際、日本に興味を持つ娘を、その年の秋に、我が家で3カ月預かり、今は大学3年生。夢に見たリシタンの娘に会えて、涙と涙の再会でした。久しぶりの娘は以前より、もっと綺麗に優しく成長しています。
 今晩は日本語学級の学長さんの家で泊まることになり、夕食はウズベクの家庭料理、私達に気を遣っていただいたのか、野菜中心の美味しい料理でした。懐かしいナン(主食のパン)をちぎって、スープと一緒に戴く。デザートのメロン(ラクビーボールの形)は、優しい甘さの味。夏の暑さで熟された果物の旬の時、小振りだが日本の果物は、大体同じものが有るのではないかな。良い季節に来たなと思う。
 リシタンの日本語学級は、ある日本人の方が、暗く元気のないこの村を少しでも明るくしたいと設立した。ボランティアで本を読んだり、遊んだり、日本語を教えたりの学級。その後継者はガニシェル氏である。今では大きくなり、日本人のジャイカの常駐の人も居て、英語を教える先生も居る。この村には、日本語が飛び交い“こんにちは”を誰でも言ってくれるのが嬉しい。私達が持参したキャラメルを、おやつとして、配って戴いた。
 次の日の早朝、私達は何時もの散歩で、近くをぶらりとする。泊まった家から10軒位東には、キリギスの国境が有り、決して行かないようにとの注意を受ける。ウズベクの人は自由に行き来できるが、私達にはキリギスに入国する場所が決まっていて、其れを守らなければ刑務所行きだと言われた。
 近くの民家は土と木が主な材料で、日本と同じような家屋と似ていますが、庭が広い。門が開いて居たので、中を覗いていたら、家族から招かれて、庭に生っている果物の大きな房の葡萄を、沢山戴きました。何処から湧いてくるのか水が豊富、家の前に小川が流れ、放牧の牛や羊、山羊が水を飲みにやってくる。子供たちが大きなバケツで水汲みに来ている。
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 鳩がいっぱいいたモスク(左から、大野さん・ノジマさん・ホシちゃん・児島さん・私・司祭さん)

 朝食が終わると、ガニシェル氏が、車でフェルナガ地方を、観光に案内して下さるとのこと。先ずは郷土史博物館、この地の歴史や産業、風俗について、学ばせてもらいました。
ここには大学や専門学校が多い、人口の60%が学生らしく、若い人々の町である。大きなバザールも所々有る。庶民の生活物資は、何でも揃うみたいです。肉屋さんは、頭部なしの羊やヤギが皮をはがされて吊るされている、牛の足のそのものがデーンと飾ってあり、怖くて前を通れない位グロテスク、日本の肉屋さんのようではありません。
 マルギランはシルクロードの絹の生産地として栄え、桑畑が多く、街路樹も桑の木だった。蚕を育て繭から生糸を紡ぐところから、全て手作業で、シルクの生地を作る工場に行く。京都の西陣の機織りのようでした。現代風の色合いの矢がすり模様は、ウズベクの民族衣装として、何か正式な集まりには着用している。日本の着物よりは、その度合いは大きい、もしかして母たちの時代に、愛用していた矢がすりの柄は、ここが発祥地かも知れない。此処で生産した絹地はマルギラン・アトラスとして、ブランド物として通用するらしい。
 コーカンドに行く。フダイヤル・ハンの宮殿は、前の大きな庭のあたりが、すっかりと整備されて、美しい市民の憩いの場になっている。ガニシェル氏は私達が見物している間に、自分の家に日本人を泊めている事を、公安に申告しなければならない、その滞在登録(レギストラーツィア)の証書を、各自のパスポートに貼らねばならないので。面倒なことです。
 フダイヤル・ハンの宮殿には、ハーレムが沢山あったらしい。何処も同じく権力者は、若い女性とお酒が大好きらしい。内乱で追われたので、内部には然したるものは残っていない。昼間は真夏のような暑さです。日本出国時にやっと秋の気配を感じると思っていたのに、此処にきて又この暑さ、ぐったりとしてしまう。  今晩はリシタンの娘の家庭で、夕食の御呼ばれに招かれ、嬉しい限りです。以前泊まらせてもらった部屋を大広間にしている。いずれは息子や娘の結婚を考えて改造していました。娘の一家と親類が集まり、ウズベクの料理のプロフやサラダ、沢山のフルーツで歓待して下さる。スープが無いのが物足りない。この9月に結婚した親戚の若い奥さんが、ベールを被り、矢がすり模様の上下の民族服で私達3人に、一人ずつ3度の礼を、伝統的にしてくださる、旅に在る私達は恐縮してしまいます。
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 リシタン村→タシケント→ウルゲンチ→ヒヴァ
 リシタンの陶器窯は日本語学級の同じ場所にあり、泊まった家のすぐ前なので見学に行き、ほんの少しだけを買いました。1000年以上前より、地元の天然の釉薬を用いて、独特の青と細かい模様が美しい。日常の生活に使用するよりも、飾るのが目的のようです。いよいよ、心地よいリシタン村を離れる。私の可愛い娘との別れ、涙をせずにきっぱりと。何時の日か、元気で有れば会える事を信じて、娘とガニシェル氏の家族と別れ、またしても首都のタシケントに向かう。
 今回の車はまだ新しくしっかりとしている。通る車はやたらと韓国車が多い。偶に日本車の中古車が。綿畑が永遠の如くに続き、家畜の餌のトウモロコシ(実が無いので)麦畑も続く。農業国として自給自足は出来ているみたい。昨今、綿の価格が高騰してこの国の経済を、潤しているそうです。今日は暑くもなく膚寒い位です。やっと5時間以上乗って、タシケントの国内空港に着く。国際空港と隣合わせだったので安心していたら、ウルゲンチ行きだけは、別の場所になって、第3ターミナルで、ここではない。又変えられていた。タクシーを飛ばして移動する。
 ウズベキスタン航空はサービス悪い、笑顔一つなく、乗客には水とジュースのみ。1時間30分でウルゲンチ着、そしてタクシーで30分、観光の中心地ヒヴァに行く。やっと今晩の宿に落ち着いた。広い4人部屋を、3人で朝食付きで$40、1人(1066円)大きなバス、トイレ付。2泊するので楽しみです。
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 左=イスラーム・ホジャ・メセドレとミナレット  右=タシュ・ハウリ宮殿

 ヒヴァ(インチャン・カラ)
 イスラムの聖都ヒヴァの町は、外敵の侵入を防ぐために、2重の城壁で守られる内側を、インチャン・カラと言う。私達の宿は西門の近くで、すぐ前が未完成のカルタ・ミナル、これが宿の目印になるので、迷う事はない。其の日はもう夕方、持参したコイルヒーターで熱湯を作り、即席米や味噌汁、御茶で、やっぱり日本食はいいなの思いをする。
 次の日の朝食は、2階のテラスで極普通、そして2日間の入場券を買う(1日のはない)、西門より入場する。カラの中には20のモスク、20のメドレセ(神学校)6基のミナレット(塔)がある。カラの中で歩きは、自由だが主な建物の中は入場券のチェックがある。カラの中は、中世にタイムスリップした感じ、未完成の巨大なカルタ・ミナルを仰ぎ見て、神学校のムハンマド・アミン・ハン・メセドレはホテルになっている。日本人ツアーの御客さんの、常宿になっているようです。牢獄と造幣所のキョフナ・アルクでは、テレビの撮影が行われていて、女性歌手が声量豊かに歌っているので、暫くの間、休みがてらに聞き惚れる。屋上に登りヒヴァの町を一望する。タシュ・ハウリ宮殿に、ハーレムが160室在り、正妻も4人の部屋が残っている。柱1つにしても見事な浮き彫りあり、豪華なタイルの装飾がみごとでした。アラクリ・ハン・メセドレはキャラバン・サライ(隊商の宿)であったし、イスラーム・ホジャ・メセドレはヒヴァで一番高いミナレットもあり、相棒サンは別料金で頂上まで登っていた。ミナレットは罪人をそこから突き落として、死刑にする事も、イスラムの御祈りの声を、高い処から響かせて誇負する目的もあるそうです。最も印象的なモスクはジャマ・モスクでしょうか、天窓からだけの光で彫刻された213本の柱が浮かんでくる様子は、幻想的でした。廟もあり、パフラヴァン・マクムドには泉が湧いている。その横の王家の廟の屋根がポコポコと並んでいて面白い。博物館、メセドレ、ミナレット、モスクには、観光客相手に土産物屋さんが所狭しと並んでいる。即席の店もある。管理している係の人達も、自分が作った小物を、座るイスの上に並べて、2重のお金稼ぎをしている厚かましさ。商魂逞しさはあるが、押し売りはしませんでした。
 2日間はヒヴァのバザールでメロンやブドウを買って来ては、その甘い美味しさにうっとりとしました。レストランは沢山あるが、プロフ(味付けご飯)とラグマン(うどんに似ている)以外は何を注文してよいのやら。結局持参した日本食になります。
 さあ、明日はブハラに行きます、バスはあるが時間的に余裕がないので、タクシーを予約したいが、宿と観光案内所の値段と信用度の問題です、一か八かで勝負しましょう。
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 朝日(イスラーム・ホジャ・メセドレとミナレット)

 ヒヴァ→ブハラ
 早朝の日の出。モスクの後ろから、黄色と赤を混ぜ、少し濃い赤の茜色、段々明るくなる様子に感激する。予約した車は、約束時間前にホテルの玄関先で待っていてくれる。大柄の神士、多分8時間位かかる。今回の一番辛いドライヴではないかな。一旦空港のあるウルゲンチにバックして、幹線道路に入っていく、アムダリア川に沿っての道路は隣国のトルクメニスタンとの国境でもある。ここもアスファルトが薄く穴ボコが続く。季節の綿摘みの取りいれも、もう終わっている綿畑もある。畑を過ぎるとキジルクム砂漠がズーっと続き、ラクダ草が生え、砂ぼこりが舞う。緑化政策で植林をしたのが見られるけど、多くが枯れている、砂漠化の進みの方が、早いようです。車は猛スピードで走り、言葉のつう通じないドライバーさんとは、無言の行、何時もヒマワリの種を食べては、殻を吐き出している。以前アムダリア川を通過する時に、廃船を並べて、その看板の上に厚い板を敷いて、車を通していた。いざ隣国との戦い時は、船を撤去すれば渡れなくなると聞いていたが、今はすごく立派な橋が掛かっている。管理人さんはタバコをくわえて、のんびりしたもの。国境を接するので、時々車止めがあり、パスポートチェック。トイレタイムは1回だけ、通っている道の隣には、広く新しいもう一つの道路が完成間近。アスファルトも20センチ以上の厚さあり、開通後はもっと時間短縮できると思う。この砂漠の地下に巨大な鉱物資源が眠っていると聞いたので、多分その資源の為のものでしょう。どこかの国の援助で造られていると察する。
 ブハラの中心(ラビハウズ)に到着する。砂ぼこりと暑さ、腰も痛いので、少し星ありのホテルを選んだ。でもこれが大いに失敗だった。部屋は広く清潔ですが、隣との壁が薄く、日本語が聞こえる。日本人ツアーの宿でした。何時もは静かな日本人は集団になれば、如何してこんなにも喧しいのでしょうか、不思議です。そして排水が悪く洗面所もシャワーも、水の流れが悪い。明日は変わりましょう。

    旅にあり友との出会いを喜び やがて別れはほろ苦き味
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 左=イスマイール・サーマーニ廟(中央アジア最古のイスラム建築)
 右=バラハウズ・モスク(ブハラのハン様の専用モスク)


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 タキの内部の絨緞やスザニ売場

 ブハラ観光
 次の日の朝食はバイキングスタイルのとても豪華版でした。が、近くのホテル街で以前泊まった所にモーションを懸けてみれば、前と同じく安く清潔で、レセプション方はフレンドリー、即決定する。この近くにナンを焼いている店があったはず、記憶を辿り路地を入って行くが、中々思いだせない。でもそこは匂いで鼻がピクピクッと、ここのナンは薄く食べやすく、熱々は美味しくって、宿に帰る前に1枚はお腹の中に。
 さー、ブハラを観光するぞー、地図上から北東の遠くより歩きでの順路を、相棒さんが考えて下さる。イスチロハット公園の中を突切って行く、元気な少年とお母さんが先導してくれる。
 イスマイール・サーマーニ廟は、中央アジアに在る最古の廟。不思議なレンガ積みの形が芸術的で、内部での陰影を、良く考えて建築されている。近くの道が補修中で、迷ったり尋ねたりで、やっと預言者ヨブが水不足の時に杖で叩けば泉が湧いたという、日本にもよくある伝説のチャシュマ・アイヨブに行く。以前は水を求めて(眼病に効く)、多くの人達が列をなしていたが、水を止められて内部は、すっかりお土産屋になっている。時を経るに、人の心も変わってしまい、水より$とユーロを、欲しがる商いの場所に変っている。前の庭では、地元の人たちが、鳩を持ち寄りの交換会をしている。これだけ通信手段が発達しているのに、鳩は何のためなのかな。近くのお土産屋にWCマークがあった。10歳位の女の子が守っている。500スムとある、1000スム渡すとおつりを呉れない。自分からあげる事はするが、うやむやにはしたくないので、断じておつりを貰った。
 王様(ハン)の専用のモスク、バラハウズはアルク城のすぐ前にある。多分ハンは赤いジュウタンの上を、御供に傅かれながら、モスクに通ったことでしょう。運動不足の歴代のハン様は短命であったらしい。このモスクは彫刻された胡桃柱が20本、テラス状になった空間にあり、前の庭には池のある独特な建築様式。私達は何方かに付いて、モスクの内部に、御祈りをする人の後ろに座して、静かに一休みをする。
 アルク城は巨大な城砦の上に築かれていて、観光客の入り口は一つしかないので、高い入場料を払わせられるが、内部は然したるものは残っていない。何処も売り物のお土産やさんばかり。少しの展示物の部屋では、ここもヒヴァと同じく、自分の手作りの物を、イスの上に広げて売っている。少しでも反抗の兆しを見ただけでも、即死刑という残酷極まりなしの王様達は、今の状態をどんな気持ちで、あの世から眺めて居るのでしょうか。チンギス・ハンが眺めようとして、帽子を落としたという巨大なカラーン・ミナレットに行く。その周辺はモスクやメセドレばかり、この一帯は宗教、政治上でも重要な中心地であった事でしょう。素晴らしい歴史的な建物ばかりで、頭が混乱しそうです。
 さー、タキ(屋根ありのバザール)に行こう。丸屋根で高い天井、光線が良く入ってくる。かつては職人専門の店が、今は観光客目当ての何でもありの、ショッピングセンター街となっている。ゾロゾロとお客さんの出入りが激しい。私達も民族衣装をまとった売り子さんの呼び声に、連れられて見物する。特にヒヴァで売られていたスザニ(女の子が生まれたら、母親が其の子が嫁ぐ時に持たせる、ベッドカバー、テーブルセンター、壁掛け等を刺繍して準備する布)、ユニークなはさみ(刃の部分が鳥の嘴)、刀剣、凝ったデザインのカーペット等、荷物になるので何も買わないけれど、見ているだけでも楽しい。このタキを少し離れた所から見ると、屋根がタコ焼きの鉄板をひっくり返した形になっているのが、おもしろい。
 私達は4本のミナレットが目印のチョル・ミナルに行く。青き空に美しい蒼いミナレットが4本、突き出た様子は清々しい。門番小屋として建てられたようですが、とても印象的な建築物です。旧市街の迷路のように狭い道には、生活の匂いがする。子供たちが遊んでいるのを見ていると、どの国の子供も同じ遊びをしています。そして可愛い。庶民の生活が見えるのは、旅の一番の楽しみです。
 明日のサマルカンドの行き方を、如何したものかなと迷う。旅行社は吹っ掛けてくるし、ホテルの紹介に頼るしかないのかな。
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 ブハラ→サマルカンド(5時間)
 朝の散歩はラビハウズ近くを。タキも早くから開店している店もある。お土産屋さんの呼び込みも、意外とあっさりしたもの、しつこくないので気楽です。
 予約していたドライバーさんは、早めに来ていて、レセプションの人の友人のようです。中心街は車シャットアウトなので、車止めまで歩いて出発です。道路はすっかり修理されて、以前より快適なドライヴ、広大な田園地帯と放牧、やはりこの国には、圧倒的に綿畑が多く、摘み取りに忙しそうです。一気に摘めるのではなく、2,3回に分けて。1回目が楽だが2回、3回目、後になるほど辛いらしい。大きな袋を抱えて、腰より低い摘み取りは、さぞかし腰も痛かろう。若い人でないと無理だなあ。
 長い厳しい冬に備えての牧草も、延々と続く。国境を接していないので、検問は2回だけでした。5時間ほどでサマルカンドの中心地、レギスタン広場に着く。昨夜予約した宿は、気楽に迎えてくれる。2階の日当たりのよい部屋、窓から下を通る人を眺められ、洗濯物も、良く乾きそうだ。この宿では夕食が$3で、家庭料理が戴けると聞き、早速夕食を予約する。今日も長いドライヴだったので疲れましたが、夕方のレギスタン広場だけでも散歩しよう。知っている者の強みで、裏口から入る。3つの大きなメセドレが威厳に満ち、その調和のとれた建築物に、唯見とれるばかりの私達でした。
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 シェルドル・メセドレの入口のアーチ(子鹿を追うライオンが人の顔を背に描いたことで罪となる)

 サマルカンド観光
 泊まった宿は日本人バックパッカーの溜り場。夜の7時からの夕飯時には次々と若者や同年輩の旅人達が集まり、夫々の旅の話が始まります。以前から此処のオーナーと2人の息子達は、日本人に愛され、連泊する人ばかり。こんなに気楽に過ごせる宿は珍しい。
 私達は再び、レギスタン広場より歩き始める。昨日の賑わいが嘘のようにひっそりと静まり返り、かえって其の3つのメセドレの姿を堂々と見せている。“青の都”とも“イスラムの宝石”と呼ばれるこの街の中心を印象深くしてくれる。アレキサンドロスが遠征の折に、シルクロードの中心的存在であったこの都には、驚愕したらしい。でもモンゴル軍ジンギス・ハンの襲撃により、破壊尽くされた。戦略に長けた勇敢な王ティムールと、聡明な学者ウルグベクにより、この都を見事に復活、建設した歴史が有る。もう一度裏から入場して、シェルドレ・メセドレのアーチに、人の顔のタイルのモチーフをよく見る。これが偶像崇拝を禁止したタブーになるとは、宗教の力は空恐ろしい。現代にも通用する事なのでしょうか、疑問に思います。
 ビビハム・モスクは中央アジア最大とか、修復は進んでいるらしいが、以前と変わりないようです、まだまだ未完成です。このモスクにも数々の伝説は残っている。改めて聞けば、それも巨大さ故に、常に纏わる宿命のようです。入場料は一般の物価からすると、相当な値です。管理する職員が、机の裏に隠してあるTシャツを売り込んでくる嫌らしい根性を見る。モスクのてっぺんの帽子形の屋根がボコボコと、波打つブルーの濃淡になっていて,離れて見る方が美しい。中に入っても大きなドームのようで、鳩のマンションです。糞の山と匂いが充満しています。もっと修復を急ぐべき、観光の目玉が泣いてます。
 近くのショブ・バザールに、庶民の匂いを嗅ぎに行く。サマルカンドのナンは、この国の有名品で、2年位は腐らないとか。本当でしょうか。此処のナンは分厚くて、表面が光っていて、食べにくい。夫々のナン焼き屋さんによっての違いがあり、買う人も好みがあるようです。ナンの出来立てを運んでいる少年に、“一つ下さい”と求めると1000スムと言う、相場は500スム(一枚)なのに、観光客と見て足元をみているのは分っているが、そんな時は、オマケと思い払います、それよりも熱々は何よりも美味しい。バザールでは、生活に必要な物何でもござれで、旬の果物何を戴こうかな。メロンかブドウがお気に入り。宿には共通の大きな冷蔵庫が2つもある。良く冷やして戴きましょう。朝鮮族のキムチ風のおかずが、とても美味しい。一旦宿に帰りお昼に戴こうかな。
 次の日、昼間は暑い位ですが、湿気が無いので、木陰や部屋の中は快適です。多分真夏も、こうであったでしょう。夜は10度以下の寒さ。日中と夜の寒さが激しいと、疲れが風邪を呼ぶこともある。日本人の金髪の若者が、中国よりハードな旅を続けてきて、熱と下痢で、相当辛そうだった。解熱剤と抗生剤、胃薬をセットにして、沢山の水を飲むように、そして直ぐに寝ることを約束して別れました。如何したでしょうか、気になります。
 又バザールをと思い、入口のところで尻もちを着きました。皆が見て大笑いをしたそうですが、そんなにおかしい転び方をしたのか、自分では分からない。バザールの後ろの丘のハブラティ・ヒルズ・モスクに登る。地元の人達のモスクを見学し、今来たバザールを見渡す。相棒サンは小さなミナレットに、登っていました。アラシャブの丘はモスクの前からの大通りに沿って歩けば、少しずつ見えてくる。モンゴル軍に破壊される以前のサマルカンドは、この丘の上に在ったらしい。今は荒涼とした雑草の丘。未だに発掘はされてなく、これから調査するでしょう。歴史上の繁栄の跡は、今暫くは静かに眠っているようです。

    茫々とラクダ草は忍び寄り 空しく大地は流転の歴史
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 シャーヒズィンダ廟群

 市民の墓があるところからシャヒンダー廟群の、一番奥の廟より見物を始めました。ティモール家代々、夫々のタイルに思考を凝らし、廟の外部や内部に好みのタイルを張り巡らし、まるでタイル模様のサンプルのように飾り、タイルの宝庫です。死後にも、こんなにも美しい墓に葬られて、現代もイスラムの聖地として、この国の人々は巡礼に、訪れています。いかにティモール家が、偉大な一族であったかを、知らされる。観光客は重そうに登って来ますが、私達は両側の廟を見学しながら、下って行くので、少しは登りよりは楽をしたのではないかな。そして入場料も要求されなかった。
 昼過ぎにサマルカンドペーパーの工房を、見学しようと思いましたが、バスを待てども中々で、タクシーを飛ばす。かなり分かり難い所だったので、ドライバーさんも地元の人に聞いていた。西遊旅行社のツアー3人組みにパッタリ会いました。ヒヴァでもブハラでも、お会いした事はあるので、観光客が行くところは、決まっているのでしょう。ガイドさんが、説明をしていたので、聞かせてもらいました。全盛期にはこの村に400基もの水車が回り、紙漉きをしていたらしい。今はこの工房だけが残り、養蚕の桑の木を材料として作られるので、仕上がった紙は、絹のように光沢があります。日本の和紙とは風合いも違います。和紙の滲みを生かす手法には、用いられない紙のようです。ツアーの人々と間違えられたのか、見学には入場料が必要だったのは、後で知った事です。御茶もお菓子も戴きましたので、私達は持っていた日本のキャンディを、全て分けてあげました。
 帰路はバザールに寄って今晩のデザートを買い、冷やして戴く。甘い香りに包まれて、美味しい旬の果物は、旅の楽しみの一つです。今夜の夕食のメインは、肉ジャガでした。大きなジャガイモの中までが、しっかりと味が浸みて、トロリと柔らかです。家での肉ジャガはもっと小さくしないと中に火が通る間に、煮崩れするのに、どうしたらこんなに上手に出来るのかしら。コツを聞きたいものです。宿の夕食時には、日本人食堂となり、色々な情報や、夫々の旅物語が始まります。これも一つの旅の楽しみです。
 次の日タシケント行きの列車のチケットを買いに駅へ。旅行会社は航空券だけとか、列車のチケットはその前日しか買えないと、宿の主人は教えて下さる。駅では堅い感じの中年の女性係員。パスポート番号も名前も入力して、やっと売って戴く。列車のチケット位で何と大層な事、まだ社会主義の名残がある。是も後で気ずいたことですが、少しだけですが、お釣りをごまかされたようです。その場で聞かないのが落ち度なのですが、残念でした。
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 グリ・アミールの廟の内部

 今日で3日目のサマルカンド。ティムールの眠るグリ・アミール廟へと歩いていく。サマルカンドブルーの屋根、ドームの美しさ、内装は金を惜しみなく使い、天井も壁も装飾で豪華。天井から大きなクリスタルのシャンデリアが下がっている。彼は自分の出生地のシャフリサーズに葬られることを、望んでいたのに、突然死で其の願い叶わずゴージャスな墓となり、さぞかし彼は残念な思いをしている事でしょう。多くの観光客を堪能させている。特にこの国の人々は、手で何かを掬っているような、独特な御祈りの仕方をしている。大通りの交差点に、ティムールの座像が有る。メインの通りには、花壇や噴水在り、次々と大きなホテルも建築中、この国も経済的に、発展の一途を辿りつつある。
 グリ・アミール廟の近くのルハバット廟は、地味な土色をして、神秘主義者サガルジを葬ったと言われているが“霊の住みか”との意味もある。棺の中はむき出しである。近くを野良犬が、食べ物を探しているのは、哀れで悲しい。暑い日差しの中、レギスタン広場に戻る。私達はもう少し、庶民の暮らしを見たいと思い、個人の店やスーパーの多いパン・ジャクント通りを進む。とても近代的な個人商店が連なっている。もう少し先まで行けば道路拡張工事の為に一方側が取り壊されて、無残な姿です。引越しの最中の家ばかり。人々が沢山集まっている。正装しているので、結婚式に出会えたかなと、“入って良いですか”どうぞの合図で庭に入れてもらう。何かのお祝いで、親類縁者が集まり、今晩は食事会のようです。どの国も同じ事です。ああ良い匂いがする。サマルカンドの分厚い昔からの形のナンを、焼いているパン屋さんが近くにあった。一枚を笑顔で渡してくれる。私達はキャラメル一箱を差し出して、取り換えっこしました。今晩でサマルカンドも終わりです。夕食の御馳走は何だろうかな。
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 サマルカンドのレギスタン広場のサイドから

 サマルカンド→タシケント(列車で3時間30分)
 部屋の窓から、下を通る人々は寒そうに、分厚い物を着ています。前の白い大きなビルは病院のようです。看護師さんの姿が、チラホラしています。制服を着て、髪に白い大きなリボンをつけた小学生の子供達が、元気に通学しています。孫は今頃如何しているかな。
 朝食が終わり、タクシーを呼んでもらう。宿のオーナー夫妻が見送ってくれる。駅では乗客以外は立ち入り禁止で、警戒をしている。入り口ではチケット提示して入らせてもらう。日本人のツアーの方が大勢いて、私達に“何というツアーなのですか”と問う。多分私達のように貧しく自由を好む旅を、説明しても分って貰えないと思っている。ホームには大きなトランクが、沢山積んである。日本人ツアーの方々の物、自分の荷物は自分で持たないようでは、最初からの考え方が違います。大きなトランクでは、地元のバスにも乗れないし、沢山の荷物は必要ないと思う。もし自分が荷物を運ばなくなったら、其の時は、旅を止めようと思うのは、自分だけの考えでしょうか。列車は遅れる事が常と思っていたが、順調に走って行きます。景色を黙って見ているだけです。前の席の同年代の女性たちは、沢山の食糧を持ち込んで、食べること、話すこと以外は何もしていない。あれだけ食欲有れば、太ること間違いなし、骨格の大きさからして、日本人の体格とは、格段の差があります。
 京都で奈良大の留学生だったウズベクの娘さんに、帰国前のホテルだけを教えていたけど、尋ねて来るとメールが入っていたが、どうしたかな。
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 ディアナさん(留学生)の家庭におじゃまして(左から、ディアナさん・お母さん・私・大野さん・児島さん)

 タシケントにて
 最初の日のホテルに帰る、小さな3人部屋で窮屈だが、近くにスーパー在り、便利だけの宿、持参した日本食を終わりにしようとする。約束どおりに、ウズベクの学生さんは、父親と一緒に車で来て、タシケントの市内を何処でも、案内しましょうと。先ず我が家でお茶をと、勧められて、中心街の大学の近くの8階建てのマンション、古い建物だが、5階まではエレベターがある。母親がお菓子と果物一杯で、待って居て下さる。2年前空港でお会いしてからの、お付き合いです。
 私達は残りのスムを使い切りたい。この国のお金は再両替不可なので、持っていても紙切れと同じ。チョルスーバザールに行く。この国一番大きなバザールです、その規模の巨大さ、人の多さ、周囲の出店の多さ、何もかも吃驚する。ドライフルーツ位しか、求めるものはない。でもバザールは、値段の駆け引きが面白い。中心街のツムデパートは、相変わらずの暗い雰囲気。人気はないようです。旧日本兵がソ連に強制労働で、建築したナヴォイ・オペラ劇場は、今も堂々としている。やはりこの国は元ソ連だった事を、知らしめている。テレビ塔を眺め、宿に帰り、荷物の整理をする。出国までの時間に余裕があり、近くの歴史博物館を目指したつもりが、地図が間違っていたのか、迷って工芸博物館に行ってしまう。でもそこには国宝級の陶器、スザニ、絹織物、カーペット等のコレクションは、とても素晴らしいものでした。夕食は学生のお母さんが準備していたウズベク料理のメインであるプロフを戴き、その美味しさは格別でした。学生は来年の京大の大学院生として、来日するそうですので、再会を約束して、空港で別れました。
 木犀の香が充満した我が家、今年は豊作のミカンが黄色味を帯びて、枝から落ちそうになっている。水仙の芽が、一斉に土を跳ね除けて、伸びて来ています。待ちわびた犬も猫達も、優しい顔ですり寄ってきます。留守を任せた老母に主人に感謝して、又一時の平凡な主婦に戻ります。何と自分は幸せ者なのでしょう。

    目にしみるサマルカンドの夢の青 放浪の旅は人恋しさ故に
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