論考2(登山論)
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雪崩の規模を読み切れるか
 先に北アルプス大日岳の雪庇崩落による遭難事件について述べたが、それでは雪庇の大きさを正確に判断されるか、又、当時の大日岳では雪庇の状況を正確に読みとれていたか、あるいは当事者以外の者が当時の状況に際して正しい判断が可能であったかについて考察の余地は残されていると思われる。
 自然を相手とする登山者にとって、その自然のコンデションを可能なかぎり正確に読みとることは登山の成否をにぎる鍵となることを充分知りつくしているはずである。にもかかわらず、例えば雪崩の起こる条件を数値化することも、雪庇の崩落するであろう絶対値について、これも数値で現わすことができないでいる。
 これは研究的姿勢の欠落であるのか、又は、自然の不思議・神秘として遠久の謎として受け取るべきものなのか甚だあいまいなまま今日に至っているように思われる。はたしてこの間題を科学的な解明を目的として研究するべき対象なのか、あるいは登山者の経験の蓄積にゆだねるべきか、の判断をせまられているかのようである。
 さて雪崩は雪庇よりはるかに複雑な要素があり、この際措くとして雪庇について考えてみる。
 雪庇は字義のように冬の山岳の降雪による庇、つまり屋根のひさしのように張り出したものを言う。当然大小強弱の種類のものがある。
 裸の山の尾根に積雪ほ風上から吹き出されて風下側へ大きく移動する。積雪量と温度、風などの条件によって雪庇は巨大化するなかで強固な部分とザラメ状の軟質なものができ、これが普通縞柄とザラメ状の段層となって積み重なって行く。
 弱い部分は山の分水線の風下側に激しく舌状に曲り、あるいは落下して雪庇の下部の透き間を埋める形で新たな雪庇の下支えとなって行く。こうして雪庇は自重によって圧縮され強固な部分と空洞の部分が混在し複雑な要素をふくみながら、なを降雪と強風が続くかぎり発達して行く。
 強く固まった雪庇は更なる積雪とブリザードなどによって益々発達し、一部には登山者の想像をはるかに越えた巨大なものになって行く。
 且し登山者が−般的に目測によって判断する雪庇の長さ(大きさ)は実際よりずっと小さいものに見えている。なぜそんなことがおきるのか。
 例えば10mの雪庇があるとすると目測ではその半分以下のものにしか見えない。それは先に述べたように古い雪庇が次々と新しい雪庇の下支えとなって山の分水線の風下側に蓄積されるからである。新しい雪庇はその部分の上に積み重なるように長く鋭く発達し刃物にのぴて行くが、傾斜度のゆるい尾根では風下側に広大な面積の空間に雪尾根を作る。従って登山者は裸の山の分水線を何かの人工物、自然物等によって確認するか、それが不可能の場合には、雪庇の巨大さを経験によって割り出すことになる。
 先の大日岳のときも経験豊富な講師達は後者をとったはずであり、手抜きは無いと信じたい。雪庇の先端から10m以上後退させたと言うのがその結果であった。それでも雪庇は崩落したのである。
 その後、調査団が組織され現場で雪庇を切断してデータを得られた結果が先の報告書に盛り込まれている。更に別のJAC京都支部発行の「北アルプス大日岳の事故と事件」(ナカニシヤ出版)なども、専門家による信頼に足るものであり資料的価値の高いものである。冬山をめざす登山者の必読の書であると信じる。
 またJACの会報「山」にて、竹勝生会員が「大日岳の事故と事件の謎」と題する疑問点を提示されている。
 要旨は二点ある。その一は、地元登山家は大日岳で25mの雪庇は認識の内であるとの証言のあること、そのニはJAC内部で、結束して情報操作をした疑いがある。ことなどで結果として講師等の不起訴などにより国が和解金という税金を支払う破目になった。というものだ。
 竹会員の疑問には当然関係者周辺から厳しい反論がなされるに違いないが(JAC会報「山」761号にて京都支部の松下征文会員による反論がなされた)ここでも雪庇の規模について認識に差があるようだ。当事者たちは雪庇の先端から10m後退させた位置を示しているが、25mの雪庇があったとして10m後退なら常識的なもので批判を受けるほどではない。冬山を知らない人なら25m交代させるべきと考えるだろうが、それは現実的ではない。
 なぜなら雪庇の規模の数値はいずれも推定にすぎないからである。
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大日岳雪庇崩落の教訓
平成12年3月5日、北アルプス大日岳で発生した雪庇崩落事故は雪庇に関するデータべ−スの入れ替えをせまるほど大きなものだった。
 それは国の直轄する「文部科学省登山研修所」における「大学山岳部リーダー冬山研修会」が大日岳で実施された際におきた。講師2名に研修生9名の11名が大日岳の頂上付近の雪庇の先端から10m付近で休憩中、その部分から崩落し全員が巻き込まれたが、うち研修生2名が行方不明となったものである。
 その後の捜索によって5月と7月に2名の遺体が発見され研修会において初めての死亡事故として関係者のショックは大きく、その後研修会は中断したままである。
 事故後専門家による調査が行なわれ、平成13年には「北アルプス大日岳遭難事故報告書」が出され、その中で「前期の小雪・弱風期間に、しもざらめの弱層が形成され、後期の豪雪、強風期間に巨大な雪庇が形成された」とする特異な事象により、雪庇の形成及び崩落を予見困難であったため経験豊かな登山家でも蓄積された知識経験を越えていたと判断され、責任の所在を判断する資料を得られなかったとされた。
 国(文部科学省)は、この調査報告書を根拠とし国の責任は無いものと判断したようだが、この判断は拙速にすぎたようである。
 しかしながら死亡した大学生(研修生)の遺族にとっては最も信頼されるべき国の研修会に参加させたのに何の保証もされないとあっては納得できるはずもなく、少なくとも事故責任について明らかにしてほしいと願う心境が表明され、過失責任を問う刑事・民事の控訴が富山地裁におこされた。
 講師達は早くから「原因・理由が何であれ、山で遭難事故を起こしたことは登山家として恥ずべきであり、自分のミスであると考える。遺族の無念を思うと、言うペき言葉がない。伏してお詫び申し上げる」(山本一夫氏談)と言い、自らの仕事を投げうって捜索活動にあたっていた。
 科学的な正確さを求めて責任の有無を論じる時代となっているが彼等講師達の言行のいさぎよさは正に現代の武士の姿をみる思いがしたものだ。
 そして彼等の姿に同情する人々が彼等の支援に結集して行った。
 特に講師の一人が所属するJAC京都支部においては全面的なバックアップ体勢が組まれ「支援する会」が結成され、署名・募金活動を全国的レベルで展開することになった。そして結局刑事事件としては嫌疑不十分で不起訴となった。
 民事の方では、平成18年4月富山地裁は原告の主張を認め、国に一億六千七百万円の支払を命じた。が、国は不服とし名古屋高裁に控訴Lたものの、和解に応じ上記金額を遺族に支払うことに合意したものである。
 以上の大雑把な経過を看て行くと、国は当初の判断を誤ったのではないか、ということである。
 冬山の研修会の企画及び主催者でありながら、専門家の調査報告であるとは言え、全面依存する形で全ての責任を逃れ得るとし、責任がないのだから謝罪しない、弔意の財源は無いので応じられない。としたことでどれだけ多くの人々が長い期間苦境に立たされたかはかり知れないのである。
 こんなことなら講師になる人は皆無となるはずで国の計画は始めから欠陥があったのである。
 JACの会報にて会長の重廣氏は研修会の早期再開を希望されているが、同じ轍を踏まないよう国との約束を改めてからにするペきものと思う。
 当会ではリーダー保険が会の費用でかけられている。これをリーダーが碍をするものと勘違いする人が居るが、とんでもない誤解である。
 中高年なら大事故に至らないと思うが、それでもリーダーの心身に及ぼす重圧は巨大なものがあり、その負担を少しでも軽減することができれば、と考えられたもので、むろんこれで万全とは言える程のものではない。
 山でのリーダーの判断は理屈で語れるはど簡単なものではない。何年経験してもなを自然から学ぶ姿勢が無ければ思いがけない事故に見舞われることがある。会員緒氏にあっては、そんなリーダーに多くの支援を願いたいのである。(2009.4 青嶺543号)
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理論は経験を説明できるか
冬山の経験者にとって雪庇は恐い存在ではあるが登山者を助けてくれる有難い存在でもある。
 我々の経験から言えば雪洞を雪庇の切れ目を見つけて、その下部にもぐりこませるように作ると堅固なものになり克つ利便性も高いものになることを知っている。豪雪地帯では尾根上の吹きざらしにテントを張るよりはるかに住居性に優れていて多用した。
 この点を冬山未経験者では雪庇はあぶないから25mの雪庇なら、25m後退させるべきだとおっしゃるので閉口する。
 例えば有力山岳雑誌の「岳人」698号2005年版のトピックス覧に次のような記事がある。
(裁判の)尋問ではまず「庇と吹き溜まりすペてが雪庇である」という雪庇の定義を統一し、「研修会においては、風下側にできる吹き溜まりに雪庇と承知し、休憩することは通常絶対にない」ことを確認した。これは、これまでの口頭弁論で、文科省側が「登山では雪庇の吹きだまり部分には進入することもあり得る」としていたためである。  とあるが、これを登山者はどう解釈したらよいのか困惑する。
 尾根の分水点から風下側に張り出した吹き溜まり全部が雪庇で、今まではこの部分に踏み込んでいたが、これは間違いで、雪庇の全体に踏み込むことは、絶対にない。と言い換えた理由は裁判上の技術上のことか、または、今後、文科省の研修会ではそれを徹底させるつもりなのか、明らかでない。
 しかし実際の登山では、雪庇の安全度は、登山者の冬山経験によって判断されており、雪庇の全てを利用せずに登山が行なわれている事実は皆無と言ってもよい状況にある。  「岳人」は更に次のように記述する。「研修会は安全第一で雪庇に進入することはない」という前提を原告被告双方とも確認しており、部分的に「登山の本質論」を持ち出す答弁(講師等の)は話をはぐらかすようにも聞こえた。」とあるのだが、我々登山者側からすれば、その前提自体がゆがんでいるのである。裁判とはそんなものかも知れないが、実際の登山と室内論議との差をそのまま放置させるべきではなかったのかも知れない。
 有力山岳雑誌の「岳人」ですら、登山者側よりも純理論の側に立っているかにみえた。
 問題は、雪庇の大きさの判断である。経験ある講師ですら認識外の巨大雪庇に判断を誤った結果だったのである。まさか大日岳の雪庇が42mもあるなどと一体誰が予見できたのだろうか。(後述する)
 世界中の氷雪専門家の間ですらこんなデータは初見のものだった。
 事故の後現地大日岳では様々な角度から事故の検証作業が行なわれ、貴重なデータがもたらされている。その内容は登山者のみならず、純理論のうえからも従来の認識を変えるほどの精度の高いものであった。
 「北アルプス大日岳の事故と事件」(ナカニシヤ出版)のなかで、実に前代未聞の42mの雪庇が報告されている。
 別図を参考とされたいが、事故の年の雪庇は実に42mに及び05年の30m強との差は10mもある。事故の年の雪庇の規模はいかにも巨大であったことが分かる。
 00年3月の図面の破線部分が崩落した部分であるが、当事者達ほ雪庇が42mもあるとは考えておらず、せいぜい25m程度と考えていたようだ。
 登山技術の理論家、金坂一郎氏は「世界山岳百科辞典」(山と渓谷社)で「雪庇の大きなものは数mから、ときには10数mにも達する…」と述べるように一般的にはその程度のものとして認識されていたのである。ただ豪雪地帯や特に地形的特徴から季節風を強く受ける部位については、それより若干巨大化する傾向のあることは知られていた。
 その他、薮山では完全に雪庇の上を歩くのが常態化しており、小生など常習犯であった。それは危険だから止めなさい。と言われてもそれなしでは藪山は登れない。雪庇の崩落は数回経験したが、薮をつかむか反対側へ飛び込むなどしてやりすごしている。雪庇の上を歩くには、それなりの経験が必要なのだ。
 さて図面を参考とすると、42mの雪庇(誰もこんな巨大なものを信じなかったが)の全て、42mも後退させて登行する必要性は全くないことに気付くはずだ。その半分の20mで充分だし、雪洞の建設も20m以内なら充分安全でほとんどの冬山登山者は経験しているはずだ。
 05年の図でも30mの半分、15m後退させるのが常識的である。雪洞を掘るのは風上の雪面ではまず不可能で風下側、つまり雪庇が発達する側とするのが普通なのである。
 そこで問題なのが、雪庇の規模を知る方法である。尾根の特徴や、岩場の形、人工的な構造物などで知り得るが、それら一切が無い場合ほ登山者の経験に頼るしかない。そこが問題の核心部と言える。
 大日岳の件では、25mを予想したとして10m後退させたのだが、実際には42mもあったことになる。講師たちは常識を上まわる雪庇の規模に判断を狂わされたのだが、それが重大な過失であるか否かが問われたのである。
 長期にわたり絶え間なく登山技能向上につとめている登山家の深い経験という領域に未経験者が理論という武器をもって分析し黒白をつけようとするのである。
 それは無理なのは経験者なら誰もが知っている。それでも講師たちに、バックペアリング法とか、ゾンデ棒とか様々な位置確定のための諸技術を持ち出して質問が浴びせられたが、いずれも常識的でないし、それらの技術を使って山へ登れるものではない。経験の領域を理論で突き破ることは不可能であった。それが不起訴ということなのだろう。  実際の大日岳に出来る巨大雪庇をみると雪庇の先端は刃先のようではなく、ビルの壁のように垂直に切り立っている。一見雪庇とは思えない形状をしていて、これが崩落するとは想像し難いものがある。しかし、現実はそんなビル壁状の雪壁が15mも崩落したのである。まるで巨大地震がおきたように―。
 山岳事典の類も、冬山登山者も、ここに新しく雪庇の巨大数値を書き改めることが要求されている。(2009.5.10青嶺535号)
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登山技術の検証〈独創的技術は邪道なのか〉
 山岳雑誌の雄「岳人」はこのごろ引退又は引退間近い岳人を取上げて「備忘録」(語り残しておきたいことども)というシリーズを作って長年登山界に身を置き一家言ありそうな人物に出場させ存分に語らせ、記者(現役登山家)に記録させている。
 かく言う小生ですら編集部から七人目の出場依頼を受けて最初は何のことやら困りはてたが、資格は編集部が決めたこと、依頼者は簡単な質問に答えてくれればよいとのことで引き受ける破目になった。その結果が七月号に記載されている。さてどんな結末に至ったかは読者におまかせする。
 さて備忘録の五人目に登場された松本龍雄氏と言えば谷川岳の岸壁に初登記録を沢山持っておられる生粋のアルピニストである。その記録の一覧表はプロフィールに明らかにされている通り誰もが納得する内容であり、現在もなおインドアクライミングの実践者として知られる猛者中の猛者だ。
 その松本氏の発言は誠に厳しいものがあるが、「岳人」五月号の記事中の発言の一部に少々腑に落ちない部分があったので、それを考察の対象にしてみたいと思う。
 「私はアルピニストだから植村君みたいにエスキモーブーツは履きませんよ。登山靴を履きます。そしてちゃんとアイゼンを着けます。ピッケル一本あればいかなる強風であれ自分を守れる。だから植村君は最初から最後までアルピニストじゃなかったんです。」とあるのだが、むろんこの記述は記者(岳人の山本修二氏による)のもので松本氏は話として語っただけである。
 私のときもそうだが山本氏の記事は大概正確に意を伝えているから大筋は外していないと思う。
 小生は以前に日本の東と西では登山のスタイルやアルピニズムの理解が異なることを会報に書いており、それを集めた「蒼山遊渓」の小冊子にも納めている。その問題がそのままこの場面にも露出していて今さらながら西欧と日本という東西の他に、我国の国内においても東西の異なる考え方が解消されずに固定化していることにおどろく他ないのである。「蒼山遊渓」の中の「人類の課題は今」「関西に谷川岳はない」「日本東西登山史小考」「マナスルの評価」「日本の山からアルピニズムを追出した人」などを読んでもらえば、先の疑問はほとんど理解してもらえると思っている。
 やはり東京の人は「谷川岳」の存在が、圧倒的であり、その岩壁を登って初めて一人前の岳人になると考えており、またそのスタイルが登山の王道と考えている。「西日本に山岳は無い」と言い放つ人さえ居るのだ。
 しかしそれこそ「関西に谷川岳はない」のであり関西人は必然的に「水平思考」となり、関東の「垂直思考」とは違ってくるのである。
 植村氏は師と仰ぐ加藤文太郎のスタイルを追った形跡がある。その植村氏の後を鳥取大学山岳部の人達が追っているかにみえる。例えば鳥大OBの安東浩正君は04年度の植村直己賞を受賞したのだが、植村氏の業績に深く傾倒したことは植村氏の郷里に近いことと無縁ではない。加藤、植村、安東と続く関西の巨人達の行動の類似性は−層明白となる。安東君の受賞対象はユーラシア大陸のV字縦横断を自転車や徒歩などによったこと。片言の中国語、ロシア語、チベット語をあやつり、零下40度のツンドラを駆け抜けて、しかもそれを50万円で済ませる卓抜なマネージメントでしめくくっている。
 鳥大山岳部はホームページを開いているので見れば分かるがチベット、雲南省、特に東チベットには早くから入り調査活動をしているのが分かる。
 こうした行動を小生は「水平思考」と呼ぶのだが、これは谷川岳などによる純正アルピニズム?の「垂直思考」とは大きく異なってくる。
 先に松本龍雄氏が植村がマッキンリー登山に際し竹竿をもち、エスキモー靴で登山したかのように受け取れる記述になっているが、それは誤解というものである。彼は氷河のクレパスに落ちる可能性を低くするために竹竿を使ったにすぎず靴もピッケルもアタックの際には使用したのである。素人なら知らず誰もエスキモー靴で竹竿かついで山頂をめざす登山家は居ない。
 むしろ対クレパス対策に知恵をしぼって独創的な工夫をしていることを同じ関西人として評価したいと思う。
 装備や技術は対象たる山の性格によって変わるものだ。アイゼンとピッケルさえあればどんな山でも登れるわけではない。F水平思考」からみればそれらの道具は特定の限られた山道具にすぎないのである。それこそ今西錦司さんの「山が技術を作る」のであって、その意味を深くかみしめて行きたいものだ。
 竹竿と言えば越後の藤島玄さんの時代の沢登りに使用しているのを見た。巾のせまいゴルジュなどで威力を発揮したが、これも土着の発想による工夫と言える。又、加藤文太郎は「地下タビ派」だったし、冬の富士山にもその上からアイゼンを付けて登っている。食事は自分で作った油であげたダンゴである。
 北陸の登山家達は大部分「ゴム長派」である。その大御所は金沢の長崎幸雄氏で少し前の時代の岳人だったが、地元の白山はおろか、冬富士もゴム長で通している。最近の例では越後の羽田寿志さんが徹頭徹尾ゴム長で通している。その記録は、「新潟の低山薮山」や「知られざる山」などにくわしいので彼がどんな登山を志しているかが分かる。
 もし東京の岳人が、以上にあげてきた地方の岳人達の登山をアルピニズムとは無縁のものだ。とするのなら彼等は、一休何なのか考えてみなければならない。
 谷川岳のあの暗い壁とバットレス状岩稜。あるいは後立山東面の幾っかの短い岩のパーツを登るのが欧州から来た純正アルピニズムだと言うのなら彼等はいったい何者で何を志しているのか不可解な存在となる。しかし、アルピニズムとはそんなせまい解釈ではないはずだ。アルピニズムとは行為をまねることではなく、全ての困難に対して独創的な技術で解決して行くことではないのだろうか。つまり「山が技術を作る」のであり、環境が登山者を作るのであり、もし仮に東京の近くに谷川岳が無かったなら全く違うスタイルの登山が生まれていたはずである。
 もっと言えばアルピニズムとは精神のことであって外見のスタイルでは決してないのである。
 おそらく松本氏はアルピニズムを武士道と重ねて合わせて理解されているようだ。剣の道は一筋の名刀によって支えられるものとして、様々の怪しい道具を使う剣士を南蛮の妖術使いの如く邪教徒扱いされているのではないかと推測するのである。
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三角点をめざす登山とは
 三角点を論じた本は沢山ある。−等から四等まであって、一等は数が少ないので価値が高いとか、四等は最近でも増設され続けているとか、三角点を求める登山は盛んである。
 登山者が登山とは無関係の三角点の所在地を求めるのはむろん近代以後のことでそれ以前の日本の歴史とは無関係であり、もっと強く言えば日本の風土の辿ってきた歴史を否定する根拠とも言える。それが近代登山と結びついて低山における登山意欲を高める結果となったのは興味深いことである。
 私は三角点の本来の目的や数学、理科的な問題を論じるつもりはないが、三角点が登山界に提供した役割は当初の想定外のことであったとみられることから、なぜ三角点へ行くこと(登ること)が登山と結びついたのか、又は価値が生じたのか、については大いに興味がそそられる。
 水準点と三角点によって国土の測量がなされ地形図が作成されることは誰でも知っているが、三角点は必ずしも山の頂上(−番高い場所)にあるとは限らない。北アルプスの常念岳を引合いに出すまでもなく、そこに一等三角点が設置されていようとも、山頂は三角点の場所ではない。
 古い社寺が山頂に鏡座している場合でも三角点は遠慮して別の場所に置かれている。(京都の愛宕山など)これをみて三角点を目標とする登山者は悩むことだろう。仕方なしに山頂と三角点の両方を確認して一件は落着するが、奇妙な話である。
 私など山頂の方に登って満足しているが、三角点の方に肩入れしている御仁には納得しないようだ。
 低山の薮山となるともっと深刻である。山頂はおろか中腹だったり、平頂の場合とんでもない場所に座っていたりする。人が行かないので木の根に巻かれていたり、猪の食料確保のため掘りかえされて泥に埋められていたりする。
 中には破損や欠落しているものなどがあると、大騒動となって研究班が出動し、原因を調査したり、捜索隊が出動したりる。
 こうした行動は、むろん研究熱心から出発した行為であり、批判するに当たらないが、登山の本来の姿からすると、少々脇へはみ出しているのではないかと案ずるのである。
 三角点を登山の対象と考え実践しはじめたのは、おそらく関西が突出していて、その源流が今西綿司さんではないかと考えている。今西さんの著書を読んでいると益々その感を深くする。
 三角点がないとへソが無い感じがするとか、山の中心である山頂部分が複数ある薮山となると、三角点の存在によってはじめて山頂に登った感じが得られる。とも聴いた。
 おそらくそれは本音であったと思う。日本アルプスの槍や穂高に三角点は登山者にとって不要であるが、どこが山頂なのか複雑な山容をもつ薮山ならば明確な規準となる三角点の石は決定的な標識となってくれる。それが山頂を定める目的ではないにしても登山者にとって安心の根拠とはなり得よう。
 三角点の存在を強く印象づけたのは、おそらく「山城三○山」の選定がからんでいると思われる。京都の藪山の有力所にまだ山名すら確認されていない時代に、今西さん達は何を根拠に三○山を選定されたのか、おそらく地形図に表現された三角点の存在する山を選出して、更に現地で山名の採集を重ねた結果であった。
 今西さん達が京都北山に目をつけたのは、そこが誰も登山の対象にしておらず新天地であったからである。今西さん達が保守的な伝統的感性の持ち主の集団であったのならば旧来の歴史的な山ばかりを対象にしたはずで、何の変哲もない低山の藪山で名すら無い山などを対象とするはずがないのである。その精神が根本となって、京都大学の登山スタイルが決定しているのである。
 つまりそれは、山の高低に関係のない近代登山であり、困難を追い及めるよりも未知を追い求める探検的スタイルであった。
 藪山にも歴史や伝統は存在する。それは我国特有の文化に根ざしたものであるが、三角点の設置こそは、その伝続とは全く異なる近代文明が日本の低山という深層にまで及んできたことを意味する。今西さんの登山は、京都という日本の伝続文化の中心地に生まれながら、それを越えて近代登山へ傾斜して行ったものであるが、それは一時代を形成して終った。だが今なを多くの後進が今西流登山を実践している。
 だが心配なのは、今西流登山とは、伝統を踏まえ、それを越えて行くことにあったのなら、後進の登山は必ず今西さんを越えて行かねばならないことになる。それがはたして現今の京都の登山界で実践されているのかどうか、それが問題なのである。単なる今西スタイルの信者で終るのなら、今西さんはけっして喜ばないと思う。
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山の道具を選択する
 登山の際に使用する道具は、その道具を発明した人にとって最良のものが作られているが、他者がその道具を作った人と全く同じ条件のもとにその道具を受入れることが可能か、との問いにはほとんど正確に返答することができない。
 道具の必要性に気付き具体化する段階で別々の視点があるからで、その結果、多岐にわたる道具が考案される。そして最終的にはコストと利便性に優れた若干の道具が残って一般化する。但しその道具は最良のものとは限らない。
 欧州で発明されたピッケルを日本の雪山に持ち込んで成功を納めたのは雪と氷に対応した優れた特性による。これを一般の低山へ持ち込むのは登山がステイタスだった時代の反映であったにしても度の過ぎた行為として馬鹿にされた。
 山の世界にも笑話にされる事例は多いが、道具の誤使用は笑話では済まない危険な要素があまりにも多いのだ。
 最近の例では、Wストックの流行がある。
 外国のトレッカーたちが使っているのを見て国内に持込み使い出したのとみえるが、道具屋とタイアップしたガイド達が客に広めたこともあって爆発的に流行している。
 米国のアパラチアントレイルなど長大なものや、ニュージーランドのルートパーントラックなどにくらペ日本の山はいかにも繊細である。道の両側にあけられたストックの穴の列に登山者も立派な自然の破壊者であることを知るのである。
 高齢者が膝を痛めて杖を使う受身の場合と違ってWストックは攻撃的な使用パターンである。スキー競技の距離のように4点確保と動力源としても使える。
 ある日北海道の沢中でWストックを使う遡行者に出会った。彼の説明によると水量多く変化の少ない沢なら有効で、逆に滝やゴルジュの発達した沢では無用の長物だと言う、がその通りだろう。
 北海道の山奥のキャンプ場で熊におぴえながら一夜をすごしたとき知り合った単独行者はロッキー山脈仕込みのトレッカーでもあった。日本の百名山をすべて単独で登ると言ったが、その数ヶ月後、南アルプスの笊ヶ岳で消息を断った。
 警察、消防など公的出動が終ってから家族は山梨県のある沢登りを専門とする山岳会に依頼し、捜索してもらって三日後に発見した状況によると、現場は山抜け(山の斜面の−部が崩壊)の地点に鉄板がしいてあり、その60m下に転落遺体があったという。さすが沢屋は目の付け所が違うのだ。
 この状況から判断されることは、彼はWストックを鉄板に置いたときスリップしたと考えられる。山側にフィックスロープがあるのに両手のWストックに信頼をおきすぎたのではあるまいか。
 Wストックは、おそらく動物に例えるなら山羊であり、猿のように両手を「つかむ」という行動を捨てたのだからバランスだけが頼りだ。だから岩場や沢、薮山には不向きなはずである。
 Wストックに問題がある。と判断される事故例では平成18年9月2日JAC京都支部の奥美濃左千方登山で朝倉英子氏の転落死亡がある。  彼女の若い頃一般山行はもとより、北海道にも同行したことがあるが、その後の経歴からみると高く美しい山をねらって海外へ向ったようだ。JACは彼女の希望によく答えて五千m級の山に沢山登って輝かしい実紙を残したが、小生からみると奥美濃のような薮山は苦手のはずだし、今までの経験が生きなかったのではないかと推測している。
 このときのリーダーに聞いてみると彼女はWストックのうちの一本をリーダーに渡した後、事故の少し前になって「返してほしい」と言ったらしい。そして彼女は海外のトレッキングのようにWストックで薮中に突進んで行ったことになる。そして日が落ちて事故現場の夜叉ヶ池手前の小規模な露岩地帯に入って行くのである。
 小生はWストックもー般高齢者の使う杖も使用しない。これはよほどうまく使用しないと逆効果で重荷になるからだ。薮山や岩場で山羊型で四点ともバランスで行くのは至難の技術で、小生にはとてもできそうにないからである。
 なお、余談ながら事故の一週間後、逆コースを登り下山して家族と夕食を共にしている知人が居るのである。
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薮山はなぜ魅力的なのか
 当会と交流のある東京の「わらじの仲間」では、会の目標を「薮山」であると規定している。
 「わらじの仲間」は沢登りの開拓期からその実績のすごさで日本中知れ渡った老舗である。その集団が会の目標を「薮山」であると言ってのけるのはさすがである。
 薮山が目標となるなどと世間では時代おくれの変な会だと腰が引けてしまうようだが、それは「薮山」の内容を全く知らない素人考えによるからである。いや、素人考えと言うより、最近の世間的評価に基く実態を反映しない憶測こよるものと言った方が的を射ている。社会的通念は時としてそんなものなのである。
 薮山とは直訳すれば、薮に覆われた見映えのしない日本的普遍的な山ということになる。里に近い寺社の裏山や古墳、公園等は春秋の景観で、あるいは借景で保存育成の対象となるだろうが、おそらくこの国では日本アルプスに類する岩山は特殊な存在であり、その他の95%は評価されない薮山ということになる。
 日本では特殊な山であるのにヨーロッパアルプス型の山へ人が集中し問題をおこすのは当然のことなのだ。無い物ねだりで高山やすっきりした壁を求めるからだが、そんな人は日本の山を見切って外国の山へ行ってもらうしかない。
 外国なら何から何まで揃っていて力量次第で何でも可能である。
 それでは国内の山の大部分をしめる薮山はどんな所なのだろう。それの実態をまず確認しておく必要にせまられる。
 「わらじの仲間」が想定する薮山は、その代表格として飯豊や朝日や上越の2000m前後の山となる。その山脈の主要な尾根こは登山路が作られ、山小屋もあるのだが、彼等が目標とするのは、そんな道ではない。大きく広い山塊の懐中深く内臓する血管とも言うべき沢筋である。それは毛細血管とも言うペき無数の枝分かれした細流から水を集め流れ下って渓谷を作っているのだ。
 誰も見たこともない沢の奥にまで分け入ってこそ発見する日本の薮山の美を、それを可能とする技術を持ってる者だけがゆるされ観ることができる。
 そんな幸福をわが身のものにするために激しい試練に耐え忍ぶことができる。他人が無理やりやらされる「シゴキ」ではなく、自分が自分を鍛えるのである。この世の極上の美を会得するためにのみの目的のために――。
 「沢登り」この登山スタイルは日本の薮山の最高の極致ではなかろうか。
 樹林の無い山に水はない。岩と氷の高山には渓谷はなく荒々しい激流があるだけである。そこでは沢登りが生まれようがないのである。
 この国では昔から深山幽谷は人界ではなく、山神や物の怪の住む場所だった。都に住む人々はそんな土地を都の華とは対極にある妖怪の支配するとんでもない所だと考えていた。
 風の音、木樹のすれあう音、枝の折れ落下する音、奇怪な鳥の鳴き声にも、それは天狗や山姥の仕わざに違いないと恐怖におののいたのである。  そんな山と人界との境には、「塞の神」が祭祀され特別な人間だけが通過がゆるされていた。
 特別な人間とは、当時の社会からはみ出した最下層の存在を無視された山民だった。
 このような社会の仕組みのなかで、マタギが山中に入る際に独得の「山言葉」を使うのも、木地屋が「貴種流離譚」に頼るのも、さらに各種の歓迎されざる下層職業にたずさわる人々も団結して特殊な闇の組織を構成してゆくことになる。
 裏社会とは、表向き存在しないが必要度の高い存在のことである。
 そんな人々は生活や社会的な部分では恵まれざる位置にあったが、自然のなかではおそらく最高位の贅沢をほしいままにしていたはずである。
 美の価値は時代と共に変化する。彼等の時代には山の景観は価値の低いものであったに違いないが視点を変えれば、健康で充実した生活を送っていたのかも知れない。
 幸福とは他者との比較で論じるペきものではなく、自身と目的とする対象との間で考えるべきものと思われる。
 そして現在である。この国の大部分をしめる薮山は、いぜんとして評価の対象外である。そんな薮山こそ「沢登り」というキーワードで味わいつくすことができれば、それは過去から現在に至る間に全く存在しなかった新たな価値を生み出す可能性を秘めているのではなかろうか。「わらじの仲間」の達見を評価したい。
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登山者をソロに向わせるもの
 登山における究極の姿はアルパインスタイルのソロということになるだろう。
 世界レベルでみると、登山はエベレストが登られた後、分派活動がはじまって様々なスタイルを生み出した。それぞれのスタイルが完成をめざして拡大するが、やがて先づまりで幾つかの部分が統合し集約されて行く。発展的解消といえるが幾つかの部分は趣味的世界で生き残るとしても最後はアルパインのソロとなる。
 単独、無酸素で八千米の巨峰をアブノーマルなルートから登ることを可能とする登山者はごく少数である。ヒマラヤの巨峰群のノーマルルートを超え、ヴァリエーションに至り、酸素を捨て、更にソロに至る間にほとんどが脱落する。
 高所対応の内体改造とフり−クライミングの技能を磨き、氷雪技術及び辺境の生活術のマスター、長期間の孤独に耐える精神力をもつ者だけがゆるされる世界である。
 Soloというのは単なるsingleness(単独)という意味を超えている。音楽用語の独唱・独奏に担当するから「演じる」意味がふくまれる。その点で言えば厳しい山の懐中で秘術をつくして困難や孤独と生命をかけて戦う米粒のように小さな登山者のプレイ、が満場の聴衆の前で独演する音楽家の姿と奇妙にオーバーラップするが、山のソロはそれをも超える。
 パーティを組む登山は人の数だけ困難の分散があるものの、孤立無援のソロは間違いなく山の発する巨大な圧力を全部一人で受け止めてなお、山の威圧感に打ち勝たねばならない。その差は天と地ほどのものがある。山の真の実力とはソロにおいてはじめて証明されるものと言ってもよいのだが、それはたえず死と背中合わせになっている。
 更に実力という表現のなかに現われない部分がある。それは「あきらめないしつこさ」とでも言うペきものかも知れない。困難からの離脱、逃亡をナルシシズムで正統化するのも、「打ちてし止まむ」の持主でも不可だ。鉄の意志は前進の時も後退の時も発揮されないと敗者になる。
 「ソロ」という本を書いた丸山直樹氏は「隔絶感」こそがソロ登攀者を苦しめる最大の圧力だという。Remotentenessは隔絶・遠隔の更なる先端とは直訳だが、丸山氏は「ひとからの絶対的な距離感」と言っている。
 辺境とは人界の果てである。その先はブラック・ホールのような何でも呑み込む世界である。そこは仲間の声も救助の手段もとどかない場所である。  世界最強のソロクライマー。山野井秦史氏はそのあたりの感情を「二度と帰れないのをわかっていながら、そのまま地球を離れていく感じ」と表現するが、それは未知の分野を切り開いて行く者すべてが大なり小なり味わわされる感情だろう。
 ヨットで太平洋を初めて渡った堀江謙一氏もまた日本の領海から一歩外へ出たときの言い知れない恐怖を語っている。それまではいっでも引き返せるし体調が悪くなれば帰ればいいんだ。と自分を説得しながら進むうちに、とうとう引き返せない地点でギリギリの覚悟をする。後は前進あるのみだったと、この感情はヒマラヤや極地探検ではメンバーの全員が味わったはずだが、ソロでは一人で引き受けるペさものとなる。
 その場面に立ったとき、思わず小便を漏らしてしまうほどの恐怖を知る人は少ない。平凡な生活を欲する人にとって、あえてそれを知る必要がないからである。
 山を楽しむことで満足できる人はあえて恐怖を体感することもないが、諸君がもし何がしかの向上心と未知の領域を知ってみたいと思うのなら、ヒマラヤ・極地などにくらべるペきものではないが、小さな恐怖を味わうことはできる。そして、その恐怖心を克服した数だけ君は進歩し進化しているはずである。平凡と対極にある隔絶された先端に向かって進む人には自己という個の全知全能を研ぎすませておくことである。事の大小を問わず、その恐怖を乗り越えることができたとき、君はその恐怖をコントロールする術をマスターしているはずだ。
 人はなぜ人界を捨て恐怖の世界へ立ち向かうのだろうか。人類の版図の拡大のためか、全く個人の意志の表明なのか、復路を想定せず旅立つ人はけっして絶えることはないのである。それはなぜなのか、そこにはたぶん本物の何かがあるに違いない。
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価値の更新は永遠に続く
 登山になぜグレード制が採用されたのだろうか、序列化、差別化、習いごと化への道を辿ったグレード制について考えてみる価値はある。
 登山は第一義的に「高さへの挑戦」であった。欧州で最初に目標とされた山がモンブランであったことや、ヒマラヤでも英国がエベレストにこだわった理由もそこにある。
 他にも、その山塊の代表的な山も心理的中心であった。またモンブランの場合には彼等の精神世界を支配するキリスト教にとって残された空白部を埋める作業の一環でもあり、結果的に古い神秘主義時代から科学という新しい概念が信じられるようになった。産業革命に先立つ意義の大きさがわかる。
 第一義的価値観はエベレストが登られたとき終わった。登山者だけでなく人類史上の客観性をもつ価値の終りである。しかし多くの登山者は、それに気付かず、また気付いた者も承服できず次善の価値を創造する必要にせまられた。それが「高さ」から「困難」へ絶体価値を変えることであった。困難な山は高い山よりはるかに数が多いし一山で多数の価値が生じる。
 このシステムは多数の登山者を納得させ収容できる決定打であると考えられた。
 「困難への挑戦」は、ついにモンブランより低いアイガー北壁やドリュの西壁やグランドジョラスの中央稜・ウォーカー稜という形になって現われる。しかし困難な山を登る価値は一般人にはなかなか理解されなかった。モンブランやエベレストなら誰でも分かるが、アイガーやドリュやその他の針峰群となると客観的に低く扱われることはさけられない宿命だった。
 そこで考えられたのが高さではなく「困難度」の数値化であった。高さ自体も標高という測量データによる価値なのであり科学によるグレード制と言ってもよかった。が、しかし一般には広く受入れられ客観性をすでに持っていた。
 困難の数値表示も「RC」(岩登り)によって定着し、沢や冬山にも適応させ、ついには山全体にも応用されるようになった。
 高い山への憧憬が失われたことで希望を失いかけていた多くの登山者達を困難な山が価値付けされることによって救われたと言うべきである。
 今までの登山とは全く違う新しい時代が来た誰もが思ったに違いない。
 名声や権威でなくグレードにより格付けされた登撃ルートを登った者こそが誰からも讃えられる時代になった。技術と運に恵まれた者こそが近代アルピニズムの放振り役として認知されるようになった。
 町の山岳会も最先端の価値基準として「山岳会主義」のなかで、これを実践して行った。これで近代アルピニズムは不変で永遠の発展を約束されたかに見えたのだが幾つかの問題が生じることになった。それは構造的で本質的なものだった。
 グレード制とは質の数値化であり、行為の序列化、差別化に他ならない。しかも、山を格付けするかにみえて実際には登山者の能力を格付けするものであった。これは様々な問題を生じさせる動機の源ともなり得る。それは純粋な山への憧憬からシステムそのものへの信仰となって行く危険をはらんでいたのである。その結果、次のような派生要因を作った。
 登山者の目標が山そのものから他の登山者との競走と序列上位へ駆け上ることに向う。つまり山岳そのものより数値そのものへの挑戦が始まったのである。
 数値そのものは「到達度」の測定という機能をもち個々のトレーニングのうえで自己の位置を知る計算器の役割を果してはいるが、それが固有進化し競技化し最終的には見世物的な機会を作ってしまった。
 グレード制の重大な欠点が見えてきたのだ。そして決定的なことは「困難」と「危険」との境界が定かでないことであった。困難の克服は必ずしも次に現われる危険を克服するものではなかったのだ。
 グレード制は6段階から次々と上屋を建築するように引上げられて行った。それは予想されたものである。そしてその段階へ到達できる登山者がひとにぎりの者でしかないことに気付いたことによって、グレード制に対する厭戦気分が高まりはじめて行ったのである。そして更には、次のことが言える。人間が神の領域へ進出するかのような行為の失敗は、すなわち死であった。
 自分達は山の美しさや爽快さ、あるいは運動の楽しみを味わうために山へ登るはずが、いつの間にか、機械的なシステムに組込まれ、競走させられていた。また学校のように学級制度や到達度の評価によって価値を定められてしまっていたことに対する反省が頭をもたげてくる。
 一級や二級の山は登山のトレーニングの場としてしか価値を認めないこと自休奇妙なことなのに誰もそれを言い出せないのであった。
 それがグレード制時代に生きた世代の老化によって、若いときから必死で頑張った制度は、これでいいのか、と考えはじめた。年令からくる先づまり感が襲ってくる。  周辺をみると、自由な登山を楽しむ中高年が様々な形態の登山をやっている。それらを自分達は格下とみていたのに現実はまぎれもなく大多数を形成していた。
 そこへ、インタレスト・グレード(興味度)の理論が登場して、これこそ乗換えのチャンスと思ったかも知れない。思えば高さの価値から困難へ、そして個人の感性による自由な登山の時代へ、と激しく変化する。これこそ登山史上の抗し難い潮流と考えるべきだろう。
 しかし、考えておくべきことはインタレスト・グレードというのは個人の興味度によって行なわれるものであって、以前のように高さや、困難という、ガイドラインが全く無い状態のなかで切開いて行く行為なのであるから、それ相当の厳しい判定がなされるはずである。個人の選定眼や感性の優劣が出てくるはずである。
 百名山巡礼やガイドブックの受売りなどが評価されることはまずないのである。老練な選者によって評価される登山スタイルとはいったいどんなものがあるのだろうか、すべての人が自由のもつ厳しさと戦うことになりそうである。
 そして最も特徴的なことは、集団が一つの目標をめざすという従来の価値観から全く逆の方向性をもつことである。つまり興味度というのは各個体によって異なっている。それが個の興味度を満たそうとすれば当然のこと、個人主義にならざる
を得ない。百人百様の興味度があり、価値が生じる。「登山は個人のものである」という言説は、ここに定まる。
 各個が自由選択のもとに自分の進路を確信をもって進むのであり、その結果は当然のことに成功する場合と失敗がある。後者が圧倒的に多数派となるが、それでも幾つかの成功者が出ることだろう。それが次の世代のアクション・モデルとして生き残って行くのではなかろうか、それと同時に各個が自分の選んだオンリーワンの魅力を終生味わうという自由は残って行くことになる。
 一つのシステムは行きづまると多様化が始まる。そして次のシステムが構築される。それが制度疲労することで更なる新しいシステムが考えられる。現在は、その谷間にあって多様化によって次のシステムの現われるのを各個が手さぐりで模索している段階だと言えるかも知れない。
 さて、諸君の意識はどのあたりを漂流しているのだろうか。誰かの受売りをしていないか、ガイドラインを求めていないか、既存の価値観を追っている場合ではない。たった一つの花を求めて荒野を一人行くのでなければ新しい価値は見つからないのである。更には、その獲得した価値は絶体的に、その開拓者の信じるものなのであって、他の評者のテリトリーの圏外にあることである。不用意な評価認識を披露したりすると、逆にその評者の質が左右される場合が生じる。こわくておそろしい時代の到来である。
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「内部純化」というパラドックス
 かつて日本赤軍が「総括」と称して仲間をリンチして死亡させていたことや、旧ソ連などの共産主義国の粛正と称する仲間や異分子を追放又は暗殺する行為は現在も独裁体制の国や地域であきもせず続けられている。
 イデオロギーに属さなくとも、あらゆる組織や学校でさえも、この種の批判の度を超えた「総括」がはびここっている。これはひょっとすると人類の遺伝子レベルの性(さが)なのかも知れないし、どんな進歩的な時代になっても無くならない所業なのかも知れず、生物学・人類学・心理学の重要なテーマとなり得る。
 そのプロセスは決まっている。ある組織が特定の目的のために結成される。その目的があまりにも大きく彼等の努力にもかかわらず一向に成果が得られず、逆に組織そのものや執行部を批判されるに及び仲間からも路線変更を求めたり脱走、逃亡者が出てくるに及んで幹部はついに体制を守るために組織の「内部純化」という手段に出る。つまり組織がまとまらないから目的に対する戦いが弱いので、純度を高めてより戦闘的な組織に作りなおすために、仲間のうちの異分子を見せしめとして、できるだけ残虐に処理する。つまり恐怖統治である。気の弱い者はこれで充分統制できるが、理論武装した者にはそれを超える理論で説得にあたる。但し執行部が理論闘争に負けた場合や、それが予想される場合は非合法な手段に出る。それが反対派及び中間派の抹殺である。
 こうして組織は単純なものになるが、規模縮小を余儀なくされ、その分戦闘的な集団となって行き、更に支持者を失うばかりでなく、やがて自己破滅への道を進むことになる。あまりに大きすぎる目的に対し自らのカ量不足と無謀な理想によって、彼等自身をも苦しめるのだが、むろん彼等はそれに気付くことはない。近ごろ流行の「新撰組」にしても正に絵に描いたような暗殺、粛正の嵐が京都で数年間続いた。
 彼等は正にラストサムライではあったが武士になることに憧憬し成就したことで目的を達成した彼等に国の行末を論じることなど無理な話であった。おしむらくは近藤や土方に柔軟な頭脳があれば、また粛正暗殺してしまった伊東甲子太郎や南敬助のような人物を受入れる度量があれば新選組はもっと違ったものになったはずだ。近藤、土方は明らかに新時代を描く伊東との論戦に敗れている。言論や思想で表現できないものが近藤にあったのなら、粛正や暗殺の手段しかなかったのでは単なるテロリストと変わるところがない。その意味では近ごろの新選組の評価はラストサムライの美意識があるにせよ甘すぎる嫌いがある。
 新撰組の「局中法度書」」なるものに、「一、士道ニ背ク間敷来 一、局ヲ脱スルヲ不許 一、勝手ニ金策致不可 一、勝手ニ訴訟取扱不可 一、私ノ闘争ヲ不許 右条々相背候者、切腹申付ベク候ナリ」とある。近藤、十方等は最初の「士道ニ背ク……」を「徳川封建体制二背ク」と重ねて理解したために斜陽の幕府ではあっても、その側に殉じなければ武士道が成立しないと考えたのだ。武士道をせまくとらえた近藤等と、日本を論ずる輩とは次元の異なる世界に生きている。しかも近藤、土方等は正に絵に描いたような「内部純化」をためらいなく行ない続けている。
 武士道は美しいがその解釈の仕方によって無用の悲劇が生まれている。武上道を語る際にはこの点を原典こ照らして読み解く必要がある。
 ところで山の世界でも全く同様、路線闘争がつきもので、わずかな相違で離合集散をくりかえしている。ここでも「内部純化」の手法が使われて粛正まがいのことが行なわれた。集団で全員一致の行動をとろうとすると、どうしてもそうなるが「組織のなかの個人主義」をとる当会では無縁のはずなのに、時々他者に強制する人が出てくる。他人の好んでやっていることに口出して自分と同じことをやらせようとすると、自己の力量を高める方向に進むべきである。
 熟練者からみるとつまらないことに精出していたり山の価値観が稚拙であったりする人が居て、つい口出ししたくなるものだが、自らが気付かないと本気で聴かないからやめた方がよい。自己責任でやってもらうしか方法はないが、長い年月を必要としようが仕方がない。逆に真剣な人にはそれなりの対応をすればよいのである。組織一丸の行動は美しいマスゲームや団体競技を見るようで清々しいが、彼等が一人一人になると昆虫の脱皮の時のようで、いかにもひ弱で心もとないのである。
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決断を要求する山
 そんなに多くの山に登って何が目的なのか、どんな意味があるのか、などと問われる。
 登った山の数は3000山を超えていようがそれでもなお国内で登らねばならない山は沢山ある。つくづく百山程度登って日本中の山は終わったとうそぶく御仁はうらやましいと思う。
 山の登り方には個人差があり、それぞれ価値に差があるわけではないが進路はいかに定められるのか、興味深い。
 名山ばかりねらう人、高山を目標とする人、海外、氷雪の山、未開の山、ありとあらゆる分野で人は自らのアクションモデルを築き活動している。その方法論はどこから導きだされるのだろうか。自分の性格、得意部門を延ばしただけなのか、それとも他に理由があるのか知りたいものだ。
 同じ山をくりかえし執拗にねらう人、最高峰のみ他は眼中にない人、山の困難な部分のみをねらう人、地域限定のローラー作戦の人、山の未知、謎を深耕する人、団体登山しかしない人などは、性格の反映かも知れないが、おそらく、それだけでなくその人の置かれている複雑な組織や対人関係がからんでいるのだと思う。その点フリーの単独登山は自由度も高くその人の感性、性格、性癖が反映される。
 小生の登山は幾度も変化しながらも日本の自然のもつ特徴的な渓谷が自分の感性にふれる部分を大切にしたいために、未だに沢登りをやめないが、定年後の時間を有効に使うために長期の山旅形式で沢山の山に登っている。これが登頂数を増加させる原因である。自分の性格上ピークハントが合っているわけではないのに、なぜ続けているのか、その理由が本編の主題である。
 定年後の貧乏人にとって低コスト登山は避けて通れない。しかしこれに同調する人は居ないので単独行が常態化する。長期の山旅ともなると実に厳しい登山が連続するが、それが奇妙にも得難い副産物をもたらす。持参する資料(大部分5万図地形図)と資料は数キロにもなるが実際の山では自分の経験による判断がすべてを決する。長期の山旅で数十山もの山を登るうちには無数の決断、判断の山が築かれる。その決断が適切でない場合も当然のこと失敗例として自身の上に容赦なくのしかかってくる。  登山行為においては成否を決する重大な判断もあれば、どうでもよい軽いものもあるが重大な局面でのミスは命とりとなってしまう。
 山の遭難者は一個のミスではなく不運にも、数回連続して判断ミスを起こした結果、ついに後もどり不可能な状態に至る。春日俊吉氏の一連の記録本によっても証明されたことであるが登山者自身はそれを重大とは認識していないようである。それはおそらく信頼できる仲間が居る安心感がそうさせるのであって、自身の問題として判断力の強化につとめることはせず常識で何とかなると考えている。
 技術や体力強化に関心を払うわりに登山能力のソフト面に気を配る人は居ない。これは登山を考えるうえで非常に危険なことだ。
 低コストの貧しい単独登山者は嫌でも一日数十回も決断の時を迎えている。登行中や移動中をふくめ24時間の雑多で連続する決断、判断の山をさばき切らねばとうてい目的に到達できない。
 あらゆる情報と経験を駆使して判断するものの地域差、山の性格によっては経験の通用しない場合さえある。判断と言えない重大判断もある。
 情報も中央のものと現地のもの、あるいは現地住民、旅行者などからも全方位に仕入れる。アンテナは終日受信状態にしておく。地域の祭礼、行事などにも参加して住民と付きあうし酒も呑む。これは集団登山では不可能だろう。
 山岳会などのパーティ登山は一個の閉鎖的集団である。それに対して単独者は住民など現地環境などを取込み味方につけて有利に事を運ぶ現地密着型である。
 小生が気楽な仲間との車登山の楽しさを認めながらも、なお厳しい単独の低コスト登山に執着する理由は沢山の山に登るのが目的というよりも時々の決断、判断力を磨くためである。これを欠いた場合決定的な失敗を重ね他者に迷惑を及ぼす可能性があるからで、それこそ自身の登山者としてのプライドがゆるさないのである。
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マロリーの発見
 マロリーの遺体が発見されたというニュースに驚いた。中国隊がそれらしい遺体を見たとの情報から新たに捜索隊が組織され、ついに発見に至ったもので、その時の記録ビデオがテレビ放映された時の驚きと感動は筆舌につくし難いものがあった。
 マロリーは、滑落したとみえる。それでもなお斜面に喰らいつくように登攀の体勢をとったままの姿勢だった。敗者として横たわる姿ではなく死してなおエベレストへの登頂を試みんとするような迫力こそ我々が登山をはじめた頃マロリーにいだいていた憧憬そのものの再現だった。
 登山界の混迷が伝えられる現在、マロリーは再び立ち現れて我々の行くべき道を指し示しているかのように思われてならなかった。折からマロリーの発言として社会的にも有名となった「山がそこにあるから」が話題にのぼっている。
 日本山岳会「山」657号にて本多勝一氏は「マロリーの言葉として有名な(Because it's there)は日本語として未だに(そこに山があるから)と訳され、マロリーの精神とはまったく反対の解釈がなされている。マロリーは未踏峰としての世界最高峰に登る精神のことを語ったのであるが一般的な(山があるから)といった俗物精神とは正反対である点…(以下略))」
 この一文に続いて「山」664号にて1923.3.18日付のニューヨークタイムスに記載された原文のコピーが取り上げられた。
 小生はこの原文を正確に読みとる英語力を持ち合わせていないが、いずれ多数の訳者によって正鵠(せいこく)を射るものが出てくることになるはずだ。
 マロリーがエベレストに燃やした情熱の一端がこの言葉に現れている限り現在遣われいる「山があるから」という一般社会の認識するマロリーの言葉とは明らかに違うはずである。なぜなら最高峰が未踏であり、それを登るための精神というものが簡単に一般社会に理解されるわけがないからである。目標として多数の山があるのではなく、ただ一つ目標とする山があったからである。  もしマロリーとアーヴィンの隊がエベレストに登り生きて帰ったとしたら彼等は、少なくともマロリーは登山から足を洗っていたかも知れない。他の山々も悪くないがエベレストに燃やしつづけた情熱は明らかに失われていったに違いない。他の8千米峰が未踏であったとしてもマロリーにとってその価値はエベレストに比すれば小さなものであったと思われる。
 ところでマロリーの言葉が原文に充実に理解され、可能なかぎり本来の意味が伝えられる日がくるとして、その解剖学的な手法による正確な「言葉」がすでに一般社会に流通してしまっている「誤った意味」の方を駆逐し修正されることが可能かどうかである。
 マロリーの言葉が研究しつくされるとして、はたして未踏の8千米峰の無くなった現代に正しく理解され得るかどうか極めて疑問としなければならない。
 マロリーは未登のエベレストを登らんとする精神を述べた(登山の根源的な意味をふくむと思われる)くだりは、はからずも一般社会人がいだいている登山者の行動に対する不思議な感情とがこのときある一点で交錯する結果になったのではなかろうか、マロリーが望まぬまでも…。
 一般の社会は容易に登山者達の行動を理解出来るものではない。そしてまた登山者自身も、自分がなぜ山に登らんとしているか不明なのである。
 マロリーの発した言葉が始めから正確に伝えられていたら、おそらく「そこにあるから」は話題にのぼらなかったかも知れない。それが誤訳?(はたして誤訳かどうかは疑問であるが)されたこと自体、聞きとる側に一定の期待されるべき答えのようなものが積みあげられていたのかも知れない。多くの場合、質問者は返答の幾つかを予見するものである。登山者に対する質問にはいつの場合においても「なぜ山に登るか」の答えを期待しているものである。
 質問者が答える側の意味を正しく聞きとる作業もおそらく困難の伴うものである。本件で言えばマロリーの言葉を正しく理解する作業はマロリーの名誉のためにも必要であるが、その言葉によって生じた「なぜ山に登る」の意味を登山者達が真剣に考える機会を作った意味は非常に大きいものであったのではなかろうか。
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マロリーは二度答えた
 マロリーの言葉の問題をしつこく追っている。もういいかげんにしろとどこかで声がするがまだ不充分な点が見逃せずもう少し追うことにする。それだけマロリーの存在が登山界をゆるがすほど巨大なものであったというべきかも知れない。
 マロリーに対するインタビュー記事の原文を知る機会を得ず間違った解釈が広く山岳界や社会に蔓延たことで多くの人々がその犠牲になった。マスコミや多数の岳人達が悪意なき関与をしてきたことは事実ではあるが残念なことである。やはり子引き、孫引きではなく原典を読むことの大切さがここでも指摘される。
 この度マロリーの原文を読む機会を作った本多勝一氏の努力に感謝することは当然のことではあるが、原文を読む限りマロリーの側に注目すべき点が存在することが判明する。例えばマロリーは「なぜエベレストに登ろうとしたのか」という質問に対し、「そこにあるから」と答えた(以上は原文の解釈)に対し、一般に流通している話では「なぜ山に登るのか」に対して「そこに山があるから」という問答になっている。この間のことは以前にも述べているので割愛するが、それではなぜマロリーは一旦「そこにあるから」と返答しておきながら続いて再び質問者に誠実に答えようと態度をかえたのだろうか。“エベレストは世界最高峰の前人未踏であり人類が克服すべき「課題・難題・挑戦」であり本能だと思う。宇宙・ジャングルの奥地・深海の底部・大気の薄い高度などへの挑戦は人が何と言い叫ぼうと純粋なロマンである。”(原文解釈)(注・カッコ内は適切な訳語に迷いがあるので三点並べている。)
 この部分は明らかにマロリーの誠実な返答とみてよいと思う。最初はわずらわしい質問者(多数の質問者があったはず)に対して意表を突く返答で軽くいなしたつもりが質問者の誠実な態度によりマロリーも態度を変えたのか定かでない。
 つまり原文には二つの返答があることになる。これを仮に前の「そこにあるから」をAとし後者をBとしておくとして、もしマロリーが質問者に対してBの返答だけをしたとするなら後世にマロリーの言葉は残らなかったと言えよう。
 マロリーはマンメリーやシプトンなどと共に英国を代表する岳人であったことは誰も異論のない所であるが、今日ほど名を知られることはなかったはずだ。
 マロリーはやはり「山がそこにあるから」、原文解釈は「そこにあるからです」を発したスーパーアルピニストとして社会に認知されているのである。それではマロリーはなぜ返答を二度もしているかである。
 おそらくマロリーは自己の内院にAもBもその他にも複数の解答のような発展途上の言葉を養育していたのではなかろうか、その本流を行くのがBの方でこれは誰もが一度は考えるもので返答としては平凡なものである。それは当然エベレスト遠征隊の誰もが考えていたものとみて間違いないと思う。
 それではAはいかにして発せられたのだろうか、これがこの問題の最大のポイントである。
 先に述べたように質問者の態度に合わせたのか、あるいはマロリーの知られざるユーモアのためか、あるいは早く質問者から逃れたいためか、類推する他ないが、今日でも一般社会人から登山者に発せられる質問に「なぜ山に登るのか」は続いている。その際に誠実に返答することのわずらわしさはマロリーの時代も現在も変わりがない。(むろん山の質の問題があるが)そのとき大多数の岳人はどのように返事をするのか興味深いのである。
 ある人はマロリーの言葉でお茶をにごし、ある人は誠実に答えようとして悩むことになる。
 何か短い一言で説明できないものか、そんなことを考えるのも当然の成り行きである。
 単なる習慣・成り行き・嵌(は)まった・仕事など様々な返答をする岳人を知っているが、いずれもピタリと決まる言葉が見つからないのである。そこでマロリーの言葉の借用となる岳人も出てくることになる。「そこにあるから」は時代を超えて生きる不滅の名言であったかも知れない。マロリーもやはり一言で説明できる言葉を模索していたのであり、一度はそれを発してみたものの不充分とみて念を押す結果となったのではなかろうか。マロリーの人間的な姿を見る思いがする一瞬である。
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なぜ山に登るのか−マロリー以後の考え方−
 表記の言葉は一般社会から登山者に発せられるものであって、登山者自身が同業者に対して発せられるものとは全く考えられていない。
 有名なマロリーに対する記者(リポーター)との問答はよく知られているが、山のことをよく知る登山者が自問する場合にはいったいどのような答えが用意されているのか、それはあまり知られていない。
 ただ登山者と一口に言っても千差万別で、山の取組方にも様々なスタイルがあって、一律にこの問題に対応できる立場にない登山者もあることだから、まず対象となる登山者の数を一般に伝えられている登山者の総数の約1割程度とみておきたいのである。  1割の数量がどの程度なのかも不明なのに先を急ぐのも気が引けるが大雑把ににみて、その程度か更に下廻る程度のものだろうとみている。
 さてマロリーのように硬軟というより、詩的か科学的かの両用の答えを用意することなどできない登山者にあってみれば、真正直に質問者に答えるより他ないことになる。そして悩むのだ。
 ほとんどが逃げるか、その場から立ち去るかのなかで正直者は真剣にその答えを模索する。そんな人が少数ながら居ることは居たのである。
 ある人は「山が呼んでいる」などと映画のカバーのような奇妙な答えを用意したし、新田次郎の一連の小説にも何か答えを出そうとした形跡を感じる。が、それは少し古い世代のロマンのように受け取らざるを得なかったように思う。
 登山者達はなぜか「氷壁」井上靖著を取り上げたがらないが、この小説には登山者の心理的な側面がよく出ている。そして最近では「神々の山嶺」夢枕貘が欲できた大作である。
 ここでは「そこに山があるからではない、ここにオレが居るから山に登る…」と羽生丈二という登山者に言わせている。むろん登山行為は人間の作為であるから人間なしでは成立しないのだから確かにその通りなのだが、その実存主義的発言も空虚に響くのはなぜか。
 これも「なぜ…」を正確に言い当てているとは言い難いからだろう。
 夢枕貘氏は別の対談のなかで「なぜ生きるのかという問いとまったく同じだなというのが分かったんですよ。(中略)生きることに答えがないからと言って生きるのを止め何のと同じであって、もし答えがあるのだとすれば、それは、頂上に行くための途上であり続けることなんだ(中略)つねに自分はあるピークを目指して歩いている途中の人間なんだという自覚の問題だと思うんですよね」と言い切っている。(岳人604号)
 成程、ここでは一つのピークに登る人間と言っているが、長い人生を物差しとしても同様であり、登山を長く続けている人の心理描写としては優れたものだと思う。ときどき我々が登山の理由としてあげてきた「習慣」というのが、これに当たるかも知れない。「長年の習慣だから」というのもどこか逃げの意味も若干含まれているので感心しないと思っている。
 山に登ることと、人間の生きるのと同じ、というフレーズは優れた感性から生み出されたものに違いない。しかし何か腑に落ちないものが残る。
 それはおそらく登山行為をしている登山者の生態を「生きる…」という方程式で説明したにすぎないのではないか。
 人間がなぜ生きるのかが説明できないことは以前からよく分かっているのだから、両者が同一というのでは答えを出さずに敵前逃亡したと同じことではないか、むしろ同一とするなら両者とも、人間はなぜ「生きたり山に登ったりするのか」の答えを出さなければいけないことになる。
 そうではないのではないか、生きることはおそらく「他力本願」であり、山に登ることは登らなくても生きて行けるのだから勝手な行為なのだ。それは徹底して個人の問題であり、能動的な行為なのである。その特殊な行為をする登山者は苦悩を背にしながらも、目的を明らかにしておかないと一般社会から以前通りの質問を受けることは避けられない。
 小生はまだ答えを出すのは早いと思う。今一度、マロリーの段階までもどるべきではないかと考えている。
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予測と現実
 英国の古い諺(ことわざ)に「戦争では強い者が、いつも勝つとはかぎらない。これは賭けをする理由になる」というのがある。世界の中であらゆる賭博が公認で行われている国が、英国とスウェーデンである。
 その理由は簡単だ。不法にすれば地下にもぐり犯罪の種になるからで、公認してルールを決めた方が次善となるからだ。
 その結果、世界中のあらゆる物事が賭けの対象にされ、日本の大相撲や選挙の結果まで対象にされている。当然のこと、イラクや、アフガン戦争も対象から外されることはない。
 賭けは人間の遊びのなかで究極のものかも知れないが、遊びについて論じた有名なホイジンガの「ホモ・ルーデンス」には、この賭けの遊びは除外されている。これに対して、同じ遊びを論じた、R・カイヨワの「遊びと人間」では賭博は遊びの重要な要素であると述べて遊びの研究は更に進化して行くのである。
 カイヨワは遊びを四区分する。つまり、Aアゴーン(競争)Bアレア(偶然)Cミミクリー(模擬)Dイリンクス(眩暈(めまい))とあるが、これには多少の説明が必要だ。Aはギリシャ語でスポーツと理解できるが、この中に決闘がふくまれるのは日本人の理解を越えるかも知れない。Bはラテン語でサイコロなど人智の及ばない全くの偶然性の結果を楽しむ。Cは英語で物真似だ。これは子供の遊びが適当である。
 問題は、Dである。イリンクスはギリシャ語で渦巻き、であるが、これを「遊びと人間」の日本語訳では「眩暈(めまい)」とするのだが、このなかに回転木馬、ブランコ、ワルツ、祭りの見世物、スキー、登山、綱渡りとあることである。カイヨワは、この分類を「一瞬だけ知覚の安定を崩し、明晰な意識に一種の心地よいパニックを惹き起こそうとする試み」と述べているが、ジェット・コースターや、バンジー・ジャンプ、などもこれに入る。
 登山をイリンクスとしたカイヨワは明らかに岩登りを意識している。そこでカイヨワは先にあげた例のうち最初の方から順に、パイディアからルドゥスに至ると述べる。聴きなれない言葉のパイディアは即興と陽気などの原初的能力と言い、最後のルドゥスは「無償の困難の愛好」と順次変化して行く。
 これによると登山などはルドゥスであり遊ぶことを、それがいかに困難であるとも、それ自体を楽しみ努力をおしまない精神といったことになる。
 イリンクスもかなり幅があることと西欧の登山と我国のものとの差を考えると、すんなり理解しにくい所があるようである。  ところで冒頭に述べた賭けの部分が登山のなかに存在するのだろうか。賭けは遊びの中で極めて重要な要素であるが、これが登山に存在するとなると反対する人が出てくるはずだ。きっと「そんな危険なものは登山にはない」とまるで清教徒(ピューリタン)のようなセリフがかえってくるかも知れない。
 むろん「一か八か」の長半賭博のようなものは無いと信じたいが、なかには運を天にまかせる式の大胆な人も居るから皆無とは言えない。
 同じ賭け事でも競馬などをカイヨワはアゴーンにふくめているが実際にはアレアに入れるべきものだ。なぜなら、馬の血統や体調や騎手、枠順、馬場のコンディションなど人智が及ぶと考えて自身満々で馬券を買ったとしても勝てるとはかぎらない。
 勝てるはずもないのに勝てそうに思わせる仕掛けが賭け事にはある。登山は自分自身をうまく乗りこなして目的を達成するはずが、事前の調整に失敗すると無残な結果となるから命がけである。知らない山となると成功の確率は低くなるのでよほど努力しないと追いかえされる。余力をどれだけ残して下山するか、は個人差のあることだが、ここらあたりに賭けの要素がある。60%で終わる人は臆病とすれば、80%が適当かも知れないが、時として90%を超える場合もある。少しの努力で頂上に達するのに引下がるのはつらいものでついオーバーするが、このときの残業を可能とする秘蔵の体力が最後に物を言う。
 登山に冒険の要素を外せば単なる娯楽にすぎなくなるが、実は冒険は賭けの要素が強いので極力除外してきたので登山を魅力のないものにしてしまったのだ。登山にはサイエンスを超えた運(フォーチュン)の介在する余地は少なからず残るのである。
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山の生産者と消費者
 登山界に生産者と消費者があると仮定すると、それは明らかに、未知の分野を開拓する性格の人が前者であり、そのデータをガイドラインとして、辿る人が後者であると考えられよう。
 初登と次登者の差は雲泥の差であるが、未熟な考察者はその意味が理解できず後続にも初登と同じ価値があるかのように考えて本まで書いた人が居る。
 もしそれが本当なら、今日、ヒマラヤの巨峰群がすべて登られたのちの登山界の衰退ぶりを、どのように説明するのか、本を出した人は今ごろ深く恥じているか、あるいは知らないままで居るかも知れない。
 登山は体力と技術だけではなく、深い洞察力・考察・知性・感性・推理力がないとただの強力(ゴウリキ)や馬方で終わってしまう。センスなき登山者は先頭を行くことが不可能で、こればかりは持って生まれた資質があるから努力でカバーするのも苦しいが経験を積むとある程度のことは可能である。そのような人物がよきリーダーとなって行く。
 初登と二登との差が無い場合がある。
 マッターホルンでは別のルートから初登をねらっていたグループがあったし、南極探検のアムンゼンに対してスコット隊のような場合がある。彼等は初登者からの恩恵に欲していないし、たまたま遅れただけで初登者と同じ価値をああえられてもおかしくないのである。
 先行者の資料を読み、その恩恵を得ておきながら、初登者のような顔して、その苦労を語る人が多いが、消費者が生産者のつもりになっているにすぎない。
 日本百名山のことでは各方面から論じられているので今さら語ることはないが、これも前論と同じことで、深田久弥氏が生産者であり、他はすべて消費者にすぎない。深田氏の敷いたレールの上を多くの客を乗せた車輌が次から次ぎへと走っている絵柄であるが、この恥ずかしい風景を当人達は誰も気付かず、ひとかどの登山をしていると錯覚している。
 おどろくべきことに、その昔山岳会で相当な登はんをした人が中高年者の登山は百名山を巡ることだと信じこんでやっていることだ。三百山、一千山など、そのうち今西錦司さんの1,500山もやる人がでてきそうだが、残念ながら全部消費者にすぎず、そこから創造され後進に伝えるものは何もない。
 消費者の価値を低くみる理由は簡単なことだ。何の苦労もせず先行者の残したデータを踏襲して行けば良いからで、そこには生みの苦しみも、独自の感性もアイデアも発見できないからである。つまり先行者のルートを追っているにすぎない消費者でありガイド本を買うかクチコミで入手した情報が頼(タノミ)の綱なのだ。
 それでは、生産者とはどんな登山者なのだろう。またどうすれば生産者になれるのだろうか、そこが問題の核心部である。  ここでことわりを入れておく必要がある登山者の全てが生産者である必要はなく、要は生産者と消費者とのバランスがとれていればよいことである。問題なのは消費者が生産者のつもりで居られると困るのである。少なくとも、リーダークラスは意識的に、生産者で居てもらわないと進歩がない。同じ山を登り続けても、そこには工夫次第で生産的な登山はできる。
 生産的登山とはいったいなにであるのか、小生の経験的に表現するならば、それは誰もやっていない方法論を駆使して山をみることだと思う。
 今や、登山は「登山」という形式があって、その形式を守ろうとしているかに見える。ヒマラヤで常識だった極地法は安全に確実に登るために考えられた方法であるが、それが形式化すれば過去のものとなり、今や先端派はそれすら無視する。
 かつて登山は「冒険」だった。冒険というと世間では一か八かのバクチのような受け入れ方をするのでこれを外(ハズ)し、健全なものであるかのように形式化し、サイエンスとスポーツの比重を高めたが、巨峰群の初登が終わった現在「冒険」は復活しているがし、他の分野ともボーダー・レスの時代となった。冒険はバクチではない。実行に移す前に大半のエネルギーを傾注しなくては成功はおぼつかない。インドア・クライミングと言ってもよいが、これができないと冒険は危険なものとなる。ガイドラインの無い未知の世界を行く人こそ本当の生産者で、その人物は登山の現場で山と語りあっているものだ。「山のことは山に聴け」で登山の最高の教師は山なのである。
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近代アルピニズムの解体
 近代アルピニズムという場合の「近代」とは一般的な時代的区分なのか、それとも登山行為の転換期を指すのか甚だあいまいである。
 山へ登ることの全体をとらえる全登山史を土台として他の要件(職業・軍事・芸術・測量)のついでに山に登る時代から、山に登ること自体を目的とする登山に目ざめたときを転換点と見てそれ以後の登山をアルピニズムとして考えるならば社会的な近代とは少しずれているもののほぼ要件を満たしている。
 しかし近代アルピニズムと言う場合には、それより更に積極的な山への態度を表現しているように思われてならない。山へ登ることを目的とする登山であっても国見や展望を期待する登山では従来の延長にすぎないのであり、登るのに困難のともなう山への挑戦自体を価値の高いものと認める時代になってはじめて近代の名を冠するに価するのではないかと考える。現実の登山史のなかで明確にピンポイントにその一点を指摘することは困難かもしれない。しかし概観するに近代アルピニズムの内容を検討すると次の三要素の集合体であることがわかる。つまり(1)高さ (2)未知の要素 (3)困難性 などである。この三点を完全に満たしている山は何といってもエレベストであった。従って近代アルピニズムの最高に盛上った時代はエレベストが発見され、計画され、登頂されるまでの時代であった。
 こう言ってしまえば「そんなはずはない、エレベスト以後も8千メートル峰の初登頂時代は長く続いたし、バリエーションルート開拓時代は続いている」とおっしゃる人が多いと思われる。
 この指摘は多くの賛同者があるものと思われるし、実際に登山者人口も増加しているから一理があるように見える。実はその事実こそが大衆化時代というものであった。社会のどの分野でも先駆者の成功によってどっとその分野へ参入する人がふえる。しかしその大衆化時代はすでに下降線を辿っていることの証明なのだ。
 流行を追うなら最初に飛びついた方が長く楽しめるが、後発組はあっと言う間に流行は終わっている。株でもうけた人が話題となったら終りで同じことを後からやったら損するのは当然であるが、多くの人はこれをやってしまう。どの社会でも全く同じ現象がおきているのである。後発組がすべて損するとは限らない場合がある。それはオリジナルの全く新しい路線を行く場合のみである。
 話が少しそれたが、近代アルピニズムの頂点へと導いたエレベストが登られてしまったときから下降線を描いていると断言できる証明は先にあげた近代アルピニズムを形成する三要素を思い出してほしい。このうち(1)がエレベストが登られたことによってすでに消滅している。エレベストより高い山が、この地球上に存在しないのだから近代アルピニズムの第一番目にあげるべき(1)が無くなり、(2)と(3)で近代アルピニズムを支えることが可能か、と言う問題なのである。
 しかし先に述べたように後発組はその事実のもつ意味を充分理解できずに仲間の人数の多さを安心として、まだまだ先があると勘違いをしていただけのことなのだ。
 実はエレベスト初登によって近代アルピニズムは(1)の消滅を転換点として(2)と(3)がバラバラに解体されたのである。しかしその実態を大衆は充分認識することはなかった。近代アルピニズムは永遠に不滅だと信じ切っていたのである。(1)を失ったため登山をやめて行った人の他に大多数の登山者は次の受け皿として(3)を選んだようである。「より困難な山」を求める限り(1)が消滅しても価値ある登山は可能であると、それ以後は近代アルピニズムの旗印は(3)に移ったかにみえる。しかし(2)は困難よりも未知の要素を価値の上位にみる登山を展開した。それは地球上の地理学的未知が存在する限り可能となるが、いずれこれも消滅する運命にあるといえる。(3)は近代アルピニズムの受け皿として正当性をもったかにみえる。しかしこの道も困難と危険との境界線が不明確なのであり、成功を幸運に頼ってしまうことがおきてしまう。優れた登山家ほど長く生きることの困難な時代をどう評価すべきか当惑するばかりである。近代アルピニズムの消滅以後、現代アルピニズムがもし成立するとすればそれに価する価値とはいったい何によるべきなのだろうか。
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登山界にタブーはあるか
 登山界にタブーがあるか否かを問うこと自体、かなりのリスクをともなうものだろう。
 ある人は山へ行くのは自由だから少なくとも日本国内にタブーは無いと言い、ある人は山で絶対行ってはならない行為があるからタブーは存在すると考えている。
 前者は行動の自由を問題にしているのに対し、後者は登山者自身の行為のなかにタブーを発見している。成程世界中には山はおろか入国さえ困難な地域が存在しているから、前者の言い分は分かるとして、後者の場合は登山者個人の内面の問題なので常識の内とみなしてよいのではなかろうか。
 登山界のタブーとは登山のタブーではない。登山を行なううえで組織や、それを統括する機構などもふくまれるから、もっと様々な段階でタブーが存在していると考えた方が良いだろう。
 小生が遠からず登山界で取上げざるを得ないタブーをまず三例あげておきたいと思う。
 その第一は個人が所属する山岳会やその上部組織に対する批判はゆるさないという断固たる意志が感ぜられることだ。特に体育会系では登山に限らずタテ社会の厳しい序列と掟があり、一切の批判はゆるされず破れば破門となるし提案なども受入れられることはない。上位下達が基本で組織構成上、下部の意見をくみあげるようになっていない。
 問題の多い官僚機構を同じで、まずこの点を改めないと登山界の将来は暗いだろう。
 第二は登山者自身の思想である。この場合は過去の有名人が対象となる。特に詳細に研究したわけではないが、幾つかの山書の古典を読むだけで、かなり思想的転向をくりかえしている人が居るし、特に詩人の無節操ぶりは相当なものだ。
 文学界ならすさまじい批判にさらされたはずの人が、登山界では問題になった話を聞かない。
 皇国史観からリベラリスト、進歩派があるかと思えばファシズムからマルクス主義、リベラリストへ、など様々なタイプがある。国粋主義から戦後は北京放送しか聴かなくなった人を知っているが、まったく目を見張るような転向ぶりである。
 政治に関係ないといわれる登山者であっても一定の見識をもって行動している。それを思想とみなして差しつかえないが、それを変更する場合には、なぜそうなったかの説明が必要である。それなしに昔からそうだったかのような顔で居られたら困るのは読者の方である。昔から登山界は人を批判してはならない大人の世界と言われてきたが、人間性や人格そのものでなく、その作品の整合性を問うことがあってもよいのではなかろうか。
 第三はチベット関係と言う微妙な問題にふれずにタブーの存在を語ることができないだろう。
 昨年ヨーロッパの街角で「ダライ・ラマ」の顔が大きく印刷されたポスターを何度も見た。これが「クンドウン」というダライ・ラマの半生を描いた映画であった。同時期の「セブン・イヤーズ・イン・チベット」同様中国のチベット政策を批判的に観た(チベットを扱う場合どうしてもこうなるが)内容の本の映画化なので現地のロケができずやむなく前者はモロッコで、後者はアンデスで撮影された。  「クンドウン」の方が原書に忠実に描かれたといわれるが、我国ではほとんど上映されなかった。ビデオがあればぜひ観ておくべき映画だ。
 それにしても事チベット問題となると、なぜ我国のインテリ達はおしだまってしまうのだろう。日頃歯に衣着せずに批判の口説を展開する人も、チベットで混乱がおきたというニュースにも全く反応しないのだ。この冷淡さは何だろう。その裏側に何がかくされているのか、それを詮索することもタブーなのだ。
 登山者も現地で騒動を経験した人が沢山居るはずなのに、人ごとのように語るだけである。
 チベット問題はどう控え目にみても、中国政府のやりすぎである。これを批判できないのは、政治的には中国の逆襲(前の戦争責任論)が怖いからだし、登山者の場合魅力的なチベットや西域・青海・四川・雲南の山々から〆出される可能性があるからだろう。こうして日本の登山者達はチベット人の不幸と引きかえに、ヒマラヤへ登山に出かけているとも言える。こんなことを書いた小生は、中国から出入禁止になるだろうか、もしそれが実現したら本物のタブーだったことが証明されたことになる。
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現場を知らないヴェテラン登山家の危うさ
 植物の文献及び資料に「ドクダミ」は北海道に生育しないことになっているが道南には幾つかの小群落があり、知人は煎じ薬として用いたと述べている。「スズラン」は小生宅に沢山あるしいくらでも増える。南限は大和宇陀と聞いているが、実際にはもっと南にあるかも知れない。「ニッコキスゲ」の南限は、京大の演習林だと言うが、当会の竹内君は白倉山で発見しているし、一説には、もっと南にあるとも聴いた。以上は文献を頼りに文章を書く人にとって悩ましい問題である。信頼され権威をもつに至った資料(図鑑)を信じるあまり断定的に書いてしまうと様々な角度から批判を受けるが、文献自身が信頼され常識化してしまうと一般人としては、これを俳諧における季語や「枕詞」のように使用して観念的で固定的な作品を作ってしまうおそれがある。
 日本山岳会(以下JAC)の会報「山」681号にて山田哲郎氏は、根深誠著の二作品「白神山地立入禁止で得をするのは誰だ」と「白神山地ブナ原生林は誰のものか」(いずれもつり人社)という刺激的な表題をもつ本の書評を書いた。これに対し、同誌684号にて著者の根深氏は痛烈な反論を展開している。論点は二点あり、その一つは山田氏の思い違いのようだが、もう一点の方は思い違いではすまされない深刻さを秘めている。
 小生は白神山地問題が生じた当初から雑誌や会報や自著の本などで嫌になるほど書き続けてきたし、現在ではこの考え方は登山者一般のコンセンサスを得ていると思っていたのが見事に肩すかしを喰ってしまった。しかも名の知れた岳人が、この程度の認識しかもっていなかったことに二重のおどろきを禁じ得ないのである。山田氏は、「本書は自然保護を考えるうえでの好著であるが、禁止・規制を外した場合オーバーユースにどう対処したらよいのだろうか」と結んでいるのだが、この結論は現場と距離を置いた場所で観念的に導き出されたもので、素朴にすぎる。オーバーユースとは過利用で、例えば尾瀬や上高地のような所を言うが、「白神」も同じ扱いをするミスを犯している。つまり現場の実態を観念論で片づけてしまっているのだ。山を知らない素人ならわかるが、長年登山をしてきた人の無責任な批評は罪深い結果をもたらす場合がある。
 尾瀬と白神が、どう異なるのかはそれぞれの山の実態を知る人なら説明はいらないが、実際に理解できる人はJAC会員のうちでもごくわずかだろう。それほどJAC会員の質は落ちている。鈴鹿でも「お前の本でオーバーユースになる」と言う岳人が居たが現実にそうなっているのかを聴きたいものだ。怪しい道ばかりの鈴鹿を自由に歩ける人は限られているしオーバーユースなど無縁である。人為に人を呼びこむ装置さえなければ山はいつまでも静かである。
 白神が世界自然遺産になった経緯など長くなるので割愛するが、問題は現在入林規制されている所を開放したらオーバ−ユース状態となるか否かである。もしそれが生じる可能性があるとしたらそれは地元民や登山者でなく商業者の進出である。それも世界遺産というブランドを当て込んだ観光及び商業活動だろう。まず確認されるべきは、白神山地は人跡未踏の原始林ではないことだ。長年地元民が利用し自然が行なう再生産との上の均衡のうえに成立している自然である。白神の自然を護ると言うのなら、その均衡状態こそ維持されるべきなのに、なに故に入林禁止で人間と自然との隔離分断なのか、また一部学者の言う自然システムの破壊なのか、ここにも現場の実態を知らない空論が噴出している。彼等は日本にまだ原始林があったと勝手に勘違いをして過剰反応しているにすぎないのである。
 禁止をはずせば世界遺産成立以前にもどるだけのことで、オーバーユースになることはない。なぜなら前述したように人為的設備を付さなければ大衆がどっと入林できるわけではないからだ。ただ近年盛んな渓流釣りのマナーの悪さはひどいので話し合って自粛される必要がある。
 自然を護ることは、自然を尊ぶことでなければならない。自然の懐で生きてきた地元民や自然に憧憬するごく少数の登山者などを排除する西欧流の自然保護思想に毒された観念論は白神の現場の実態を冷静にみれば、以下に陳腐なものか分かるはずである。
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ブロッケンの幻映
 ドイツのほぼ中央部にハルツ山地がある。千米に満たない低山の森のなかの最高峰がブロッケン山で「ブロッケン・ゴースト」として衆知であるが、標高はわずか1,142mにすぎず、しかも山頂には構造物が沢山あって登山の対象とはなり難い。ベルリンの西方ヴェルニゲローデから登山電車があり、ブロッケン現象を期待する観光客が物めずらしさから沢山つめかけ名所となっている。
 山のないドイツの中心部を形成するこのハルツ山地こそドイツ人の精神と身体の郷土と目される。
 一年の三分の二が霧に覆われるこの地方には魔女伝説が色濃く残り、土産物には箒に跨った魔女人形が売られている。魔女伝説は古くケルト文化の迫害と言う一面をもつが、ゲーテの「ファウスト」に登場する一場面は過去の歴史的なハルツ山地の伝統観念を現代に伝えている。外国人の観光客は市販のガイド書に従って過去のハルツ山地を求めてやってくるが、この山地には十九世紀末から二十世紀にかけて全く新しい運動が始まる。その端緒はハイネの「ハルツ紀行」であった。「ブロッケン山はドイツ人そのものだ」と言うのである。ハルツ山地の地理的位置はドイツ社会の転換期に民族の根幹をなす精神文明の確認を求めて辿る舞台として格好の存在感をもっていたのである。
 プロイセンの王都ベルリンを中心とするドイツ文明の退廃ぶりを批判する「ハルツ紀行」は1824年に書かれ、「ブロッケン山はドイツ的平静さ、理知的なもの、寛大さをもつ」と位置づけるのだった。「ブロッケン山はドイツ人そのもの」という謎はやがて解かれて行くことになる。つまりドイツ人はハルツの森を歩き廻り、ドイツ的風土に感化することによって真のドイツ魂をもち、新たなエネルギーをたくわえることができると信じられるようになった。
 ハルツの山を二週間渡り歩くことによって得られるもの、それは反都市的な健康的肉体美の精神といってよかった。こうした流行や運動はやがて1896年ベルリン大学の学生、ヘルマン・ホフマンをリーダーとするグループによってハルツ山地横断の実践となる。
 そして1901年にはカール・フィッシャーという若冠19才の青年の時代に正式にワンダーフォーゲルが国家公認の団体となった。
 ハルツ山地・ブロッケン山にはじまる魔女伝説から自然志向、そしてワンゲル運動へと転じる一連の変化の実態は、どこかで同じような例を聞いたように思えてくる。実はアルプスのモンブラン初登に至る一連の経過とそっくり同じパターンがドイツの森でもくりかえされていたのである。
 アルプスの山々も悪魔の住家であり、みにくい地球のコブにすぎなかったものが最初芸術家によって海洋の美に対する山岳の美として受入れられる過程で登山が開始され初登競争がはじまる。
 いずれの場合もキーパーソンは哲学・思想芸術家であった。それが一部の階級(貴族や学生など)に受入れられ大衆化して行く。そしてアルプスはより高く、より困難で未知の領域をめざすアルピニズムを生み、ハルツ山地では脱都市、脱文明による自然指向と健康的人間と社会の浄化という概念を誕生させた。この2つの方向性は一見無関係にみえて全く同じ思想的範疇に属している。
 しかし異なる因子も存在した。アルピニズムが人類未登の山岳に対する挑戦という大衆化のむつかしい面をもつのに対し、ワンゲルでは大衆化が容易であり、ついにドイツ全土へ広がって行くのだが、ここで疑問が生じる。それはワンゲル運動以前にハルツ山や他のドイツの森を歩く行為やハイキングは存在したし、ブロッケン山には山小屋も造られ「俗人の大群」(ハイネの言葉)が跋渉していたのになぜ新たにワンゲルなのかという問題なのだ。
 時代の転換期に都市の近くの森ではじまった若者達の運動はドイツの中央部のハルツ山地に中心を移し、山歩き、徒歩旅行、野宿、キャンプファイヤー、飯盒炊餐といった行為で飛躍的な技術革新と工業化のなかで生じた社会のひずみに叛逆するかのようにのめりこんで行く運動原理は「都市から自然の中へ」のスローガンと共に古き良き時代のドイツ精神への郷愁が底辺に存在したとみてよいだろう。  隊を組み組織の連帯感を共有し、ついには都市悪の極みとみる酒タバコの追放という過激な行為まで正当化してしまう若者(ユーゲント)たちはやがて第一次世界大戦に続き、ナチスに取込まれ亡び去って行く。退廃した都市文明からの離脱という自然主義者達はあまりにも政治に無知であったと言うべきかも知れない。
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ハルツの森の放浪者たち
 何かにとりつかれたようにベルリン郊外の森を歩きはじめた学生たちによってワンゲルの基礎が築かれたこと、それがみるみるうちにドイツ全土の若者に支持されるに至る原因については様々な見解が出されている。
 その最も有力なものに当時の社会情勢があげられている。産業革命からはじまる技術革新による社会の大転換と工業化、都市化が進むとき社会のひずみが最大となり、これに危機感をもつ若い人達が現われ退廃した都市文明を批判し自然主義へ移行する実践行動をはじめた。自然発生的なものが次第に意識的となり、ハルツやチューリンゲンの森に舞台を移すことで全国的になった、と……。
 これを箇条書きにすると(1)世紀末の転換期 (2)都市の工業化による文化的退廃 (3)歴史的・民族的伝統文化の凋落 (4)改革への準備 (5)身体の鍛錬 (6)風土への愛着と傾斜 (7)社会浄化 (8)山に入ることの聖浄化現象 (9)若者 (10)不満分子などとなる。
 (1)は世紀末にはびこる終末論とも言えいつの時代にも存在する。(2)技術の転換期には必ず出てくることで現代日本も同じ。(3)伝統と確信は対立し易いが調整はむつかしい。(6)は伝統文化への回帰現象であり、(4)(5)(7)は(9)によって形成される特権的性格であり、戦後我国での登山ブームもこれに相当する。そして(8)によって決定的に運動として成立して行くことになる。
 古代中国なら官職を辞し山中に隠棲する。日本の中世なら郊外の藪中に隠居するのかも知れないのだが、彼らはほとばしるエネルギーをもつ若者だった。社会の浄化と伝統文化を担って(4)と(5)を実践すべく『灰色の都市を抜け出して風土の森の中』へ突入して行った。
 社会の改革には三方法がある。一は戦闘も辞さない革命方式。その二は、言論戦による合法的なもの。第三は自らの主張を実践によって示す。ことである。特に第三は言行が一致するとき最大の説得力をもつことになる。ハイネの1824年の「ハルツ紀行」には次の一節がある。
 さらば美麗なる大広間よ
 さらば着飾った紳士淑女よ
 ぼくは山に登り行き
 笑いながら君達を眺め下ろそう
 この詩が発表されてから80年後、ドイツのワンゲル運動は盛りあがるのである。1852年世界最高峰のエレベストが発見され、1857年英国においてアルパインクラブが発足している。山へ登ることの価値はすでに実証されていたのである。
 ハイネは1789年にモンブランが初登されたことを踏まえたうえで、健全な精神は脱都会の自然に求めるべきこと示唆していたとみるべきだろう。そして1901年ワンゲルが公認の団体となったことでハイネの方向性は支持された。
 しかしドイツの森にはすでに自然を楽しむあらゆる活動が存在したし、ハイキングもあった。当然のこと、それら既存のものとワンゲルは混同され娯楽性の強い団体も存在したはずだ。それでもワンゲル活動が既存の団体を吸収し呑みこんで巨大な組織に転じたの葉改革に対する国民的合意とドイツ精神の高揚に期待がもたれたのだろう。
 そしてワンゲルの勢力が高揚する1914年第一次世界大戦が始まり4年後に休戦となる。ワンゲル組織が戦争とどのような関係をもったかは不明であるが彼等は高い戦闘力を発揮したことだけは確かだろう。ここで登山とワンゲルの差が明らかとなる。登山は山へ登ることが究極の目標であるが、ワンゲルの目標はあくまでドイツ的な身体浄化による社会改革がテーマであった。従って組織を束ねる理論があるはずもなく綱領もない。個人の純粋な自然指向から反社会的な人種浄化論まであるなかで巧妙にナチスに取込まれ戦力化されワンゲルは被害者の立場で語られるのだが、はたしてそうだろうか。ナチスもまた政治綱領も論理の一貫性もないなかでユダヤ・ロマ(ジプシー)廃付や黄禍論まで正当化する。
 極論を承知で言ってしまえば両者は同じ土壌に芽生え一部が異状増殖しファシズム化したとみることもできる。
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「西尾寿一の部屋」へ戻る
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「私の空間」へ戻る
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