論考4 (地名論)
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繋(綱木・津奈木)峠
<ツナギへの興味>
 全国の山を歩きながら、特に登山の対象を超えるような地方的な低山を注目して行くようになると、この「ツナギ」が妙に気になってくる。
 これは何だ。と気にしだすと、次々に「ツナギ」地名が形を変えて現われてきた。それが、先出のツナギを名乗る漢字地名群であった。
それらのツナギ地名の場所は違っていても内容は共通する意味をもっており、その地名がその場所に定着した時代においてツナギのもつ本来の姿が機能していたはずである。
 時代を経て機能としての役割は忘れられても地名として各地方に残ったものの共通性を考えると、そこには地形・民族習俗・歴史的な政治・行政の形式が読み取れるのではないか。それを思うとツナギは只者ではない。
 ツナギの発生とその意味の伝承、伝播の状況は、この国の一部分の歴史を物語っていそうな気がするのであった。これは相当おもしろい作業であるような気がする。
又、綱木・貫・津奈木は、本来は口語体の「ツナギ」から「繋」へと文字化する段になって直接的な表現をさける意識が働いたか、地方的に別の文字を使ったかのどちらかであろう。従って最初はどの地方でも「ツナギ」の意味は共通性があったはずで、その意味が流通した後になって、それぞれの地方の文化的環境の相異によって若干の変化がみられるのは地名のもつ宿命のようなものである。
 九州の津奈木は一見万葉仮名のように見え、古い時代から存在したかにみえるが、それを証明はできない。しかし印象としては素朴で好感がもてる。ひょっとしたら「ツナギ」の意味が、九州から北上して東北に達している可能性も視野に入れておく必要があるのかも知れない。
 「ツナギ」を辞書でみると期待を裏切る結果となる。それは、つまるところ「ツナギ」の実態が現代においては消滅したか、使用に価しなくなったかなのだろう。もしそうなら、ここは民族学の出番とならざるを得ない。

<「ツナギ」の源流>
 ツナギ(グ)を辞典の類を引くと、綱の活用語化とするのが大勢である。離れている複数以上の物を一本の網によって離れないように結びつけたり、離れ行く物(者)を捕えしばることの用語として使用される。
と言うのだが、これだとたいして面白くない。一昔前の忍者物の本で見たのは、特定の場所に忍び込んだ仲間との連絡をとるのに、「ツナギをつける」という用語を使っているのを思い出した。これは現代なら通信であり、綱という実物でなく見えない知識(情報)のやりとりのこととなる。ここにツナギの本来の意味があったのではないか、現在のツナギは、この本来の姿を見失いツナギの一部分の理解にとどまっているのではないかと考えられる。
 現在は情報が氾濫し、インターネット時代となっているが、それは正しく「ツナギ」そのものなのに、言葉としてのツナギは絶滅したかに見える。

<山言葉にみるツナギ>
 ツナギ(グ)は山民の狩言葉として万葉集(巻十六)に残されている「射(イ)ゆ鹿(シシ)を認(ツナ)ぐ川辺のにこ草の…」で逃げゆく鹿を追って川辺の湿草の足跡の状況を判断して行方を察知する技術を持っていたのである。
 17世紀末には「猪狩古秘伝」が出て信じられないくらい奥深い狩の技術が示されている。それは逃げる動物の足跡の種類はもとより、その体型、体重、雄雌の差など、更には手負いなら、その傷の状態、飛散し草に付着する血液の形などの他、その獲物との距離などを判断し、追跡すること、それを「ツナグ」と言う言葉で表現している。
九州の椎葉村は猪狩の村としても有名で柳田國男も調査に訪れているが、特に久連子(クレコ)の集落は現在もその気配が濃厚で素朴な手造りの博物館にはこれといった物は残っていないが雰囲気は感じられる。
 山の猪狩の言葉として「ツナグ」が狩人と獲物とを結びつけることが、実際には情報の獲得となり、それが軍事や商業活動・技術の伝播などに転用された可能性が高いのである。 あるいは民族移動や軍事の方が先であったのかも知れない。
 縄文系の採集時代には狩は山・川・海において最も重要であったから狩の言葉は生活の中心に位置していたはずのものが、弥生農耕中心時代となると、狩言葉は変質するのは明らかであった。

<川の港にみるツナギ>  先に猪狩のツナギについて述べたが、ここでは川の港を「津」と呼ぶことから、その川の港を幾つか連ねる形を「ツナギ」と言う説のあることを紹介したい。
それは、『知ってなるほどの語源1000』の村石利夫氏の説である。
 そこには「津というのは川のみなとのことで、海の港とは別のものであった。「ツ」という言葉を語源として、つな・つなぎ・つゆ(梅雨、汁)など、つながるものを表す。そこで津というと、川沿いにあるA・B・Cと三つある津の一つで、三つをつなぐ一つ」とある。この説は西九州の「津奈木峠」などを見事に説明できている。
 しかし「ツナギ」の更に先の「ツナ」(綱)もふくまれるとなると若干の不安を感じてしまう。
 綱の元が津奈であったことにあり、更に津奈の元が「津」であったことになるからだ。
 先に「ツナギ」の発生源は狩の山言葉ではないかと論じたが、ここでは逆に川筋からおきていることになる。
 川や海の水辺の舟を使った作業は網(ロープ)を使った技術によって成立するものではあるが、はたしてどうなのか確かなことは闇の中というより他ない状況にある。

<ツナギは職業として成立したか>
 ツナギの役割について先に山岳における猪狩や、川の港のことを述べたが、それらはいずれも事柄の核心は、情報の収集にあったと考えるならば、時代を経て、これが軍事における偵察活動及びスパイ行為となって専門化して行くことになる。
 昔の忍者はより具体化した形式をもつが、この分野は今日でもなを盛んであり有効な手段とし認識され日々進化し強化されている。
けっして表面化してはならないが必修科目のような存在である。そして最も強化された集団が、その情報を正確に首長に伝えた結果、又それを有効に判断したときその集団は生き残れたのであった。当然のこと、その分野に長けた者がその職につき能力を発揮して行くのだが、反面において、世間はその職業人を一種の差別の目で見ている。「忌むべき者」としてである。今日の核技術や、ゴミ処理工場のように、必要なのに、生理的に憚るものを感じてしまうものらしい。

<江戸時代のツナギ>
 ツナギの漢字化と全国的な拡散はおそらく江戸時代に確立されたのではないかと推定しているが、大事なことは、この時代に「士農工商」の職業による順位が確立された。しかし当然のこと、この順位にも加えられなかった職業集団があったのである。
 多種多様な職業に携わった人々は公然と裏社会を形成する者、山中に逃避する者、黙々と人生を生きた人達のなかに当然のこと情報活動として忍者のような存在や、高級役人の姿をしながら、その任務に当る者もあった。
 そして彼等の指令のもとに働く下級労働者の一群があったのである。
 彼等は表面上は一般人と変わらぬ姿をしながら特定の役割を演じるため影の部分を宿して峠や国境付近に集落を作り小規模な畑を作り寒村の農夫を装いながら偵察活動及び他国の情報を持ち帰る使者などの管理にあたっていたのである。
 藩政時代における国境付近の寒村のほとんどがその役割をもっていたと言える。
 その村の多くがツナギの名で呼ばれていたのは注目しておくべきことである。そうした村の存在はただ単に荷の運搬業のみで終るのでなく、先に述べたような特別な役割を課されていたはずである。関所や木戸が設けられ人の出入りを厳しく看視する業務は表面上は別の機関が受持つべきものであるが、物事には必ず裏表があるもので特務命令を受けた人物や組織はけっして表面に出てこない性格をもっていただろう。多くの「ツナギ」村はそんな役割を裏に秘めていたと推定されるのである。
 公的裏社会は確実に存在したのである。
 家系の優良を求めて系図の創作、あるいは金銭による買取買収行為が公然と行われた時代にも、なを闇社会は公私共、実在したのであった。
 江戸時代を中心として士農工商の順位は職業のみに終らず人格にも及んでいた。それにふくまれない職制の場合、様々な差別が発生したであろうことは「貴種流離譚」や「落人伝説」にみるまでもなく、地位の上下や、貴賎に対する関心は非常に高かったのである。
 順位の下位者や無格者は富という実力行使によって格差の無力化に走ったが、それでも目に見えない差別は厳然として生きていた。
 以上のようなその時代における政治的に低位に置かれた職業集団は個別に分散したのち、それぞれの集団間の連絡には、表に現われない裏のものが生じる可能性があり、これを「ツナギ」と呼ばれた時代があったはずである。
 「ツナギ」地名を追うことで、その時代の「ツナギ」の実態にせまることができるのだろうか、後年には単なる商業上の連絡や、荷の輸送路上の地名となるなかで、それを可能とすることができるのか、極めて難題といえるだろう。

<繋・綱木と助郷>
 「ツナギ」という地名群には確かにアウトロー的な一種のいかがわしい響を宿している。
 そのような感情を廃するために、繋・綱木・津奈木などの漢字を採用して焦点を暈す作業が行われたのは、時代の変化と文化の浸透そのものであった。
 ツナギという他所に居る同業名の間による連絡網を言うならば、それが地名として残るにはそれ相当の理由があるはずだ。
 なぜなら、繋という地名は、その特殊な地形のもつ立地によって生じたものだからである。最初から綱木や津奈木であったわけではない。
 東北の北辺に、繋という原初の形の地名が残されており、第二波として新潟・福島・山形・宮城・岩手のラインに綱木が進出してくる。それ以南の地方には、ツナギそのものが消滅している構図は一定の規則立った事実を物語っているように思える。
 繋とは早く言ってしまえば地方的な流通業と、その労働集団の関係の深い土地と言えよう。
それは江戸時代確立された「助郷」とも似ていた。助郷は街道交通を円滑に行った街道筋と宿場近辺の住民・農民・馬・船など徴収して役業にあたらせるもので徴収される側は疲弊した。そのため利益を受ける者や、更に遠方から余剰人員を集めたり、金銭による代替を認めるなどして可能なかぎり負担を減らそうと努力したことが記録に残されている。
従って繋とは、特定の地域共同体と別の共同体間の移動に関する共同利益を得るための仕組みであり、それが峠や川や海の場合でも基本理念は同じである。又、そのような地形的立場ゆえに経済上の自立不可能の土地に共同体の求めに応じて定住することになった一部の民が居たことも充分想像されることであった。
 繋は地形としての峠だけを意味するのではなく、通行困難な土地を通過させるための人々の知恵が加えられてはじめてツナギの名が生きるのでる。単なる峠ならばけっしてツナギなどという名称は使えないからである。
 むしろ峠という無人地帯より、峠に近い麓か、中間の小平地に利便性ゆえに半ば強制的な力学が生じて住むことになった村に、その名が生じたとみるべきものであった。

<繋と綱木の周辺>
 綱とは英語でロープのことだとすれば、特定の二点間を結ぶロープを連想するは他、物と物をしばる、あるいは固定する道具ともなり人類は太古から綱には大変お世話になって来た。
 神聖な綱となる伊勢の二見ヶ浦の二岩間を結ぶ注連縄であるし、神社には欠くべからざるアイテムの一種でもある。
 山村での松茸山の縄張りや侵入禁止区域の設定などがある一方、神聖なものでは「網付森」といった山名が四国に多数みられる。
 以上あげてきた事々は一見それぞれが無関係に存在しているかに見えるのだが、実際には見えざる一本の縄があるように感じられる。
 それを知るには、おそらく従来のアプローチを超えた別の視点を要すると思われる。
 今回は我国の北海道をのぞく東北地方を中心とする繋や綱木の地名を追って、その性格をみてみたいと思う。
 小生の山旅は目的地を結んで一直線に走るのではなく、行く先々でさんざん遊びひっかかりながら次第に距離をつめて行く、つまり道中を楽しみながら行く形をとるので様々な物事・行事に巡りあい通りすぎて行くなかで、時として忘れ得ずに記憶にとどめているものがある。それが幾つか集積して頭の中で一定の形に成長したものが、時として題材となり、疑問点となって起きあがってくる。
 東北の北部に「繋」の地名が盛んに出てくるのは、以前から気付いていたが、宮城県の志津川あたりで「綱木」があり、これが共にツナギと読み、同じ性格をもつ地名であることに気付いたのだった。
 これは、一体何だ。という印象はいよいよ強くなって行くなかで、山形の米沢にも新潟の新発田市にも、福島の中通の山地にも「綱木」が生きているのを発見した。これはもう何らかの調査が必要であることは明らかであった。この原稿を書きはじめてからも、次々と新たな「ツナギ」を見つけることになった。
 現代人にとって、何の意味もない化石のような繋・綱木を酔狂にも興味をもってしまった以上出かけなくてはならないのである。

<津奈木の発見>  九州にはツナギは消滅したものと思っていたが熊本水俣市の北に「津奈木町」があり同名の温泉もある。しかも津奈木太郎峠まであっておどかされた。八代市までに佐敷太郎峠・赤松太郎峠と大きい峠が三本もあって、地元では「三太郎峠」と呼んでいるが現在はバイパスがあって通行者は少なくなった。これらの峠はいずれもツナギの性格をはっきり持っていて東北の繋や綱木と全く同一のものと認識可能である。更に、この場合でも津奈木の名が単純にどこにでもある峠の名でないことが証明されている。峠をもつ街道が双方向に機能する場合に限られるのだ。一方からだけの通行ならツナギの発生する余地は極めて少ないのである。

<ツナギの種類>
 ツナギは繋・綱木・妻木・津奈木・小貫などと漢字表記されるが、地名辞典の多くはこれらを一括して「ツナギ」と扱って同じ意味としている。つまり、ツナギとは「荷物運搬中の中繋所」と理解しているので、本来は「繋」が正しく、他はあまりに直接的な表現をさけた結果の産物と言える。
 特定の組織の中で仲間どうしの連絡網としてツナギをとる場合のあることは時代劇などで知られているが、その場合のツナギは明らかに「繋」であって、綱木や妻木であるはずはない。何らかの理由で直接的な表現が忌む場合、又は、秘密に類する事柄が生じた場合において、同意異字のツナギが生じたものと思われる。
 「駒木」はそのものずばり馬を繋ぐ木のことで綱木から来たものと考えられるが、各地に集落名として残っている。繋・綱木の地名は、関西にはほとんど見られないが、形を変えて密かに存在していても気付かないのかも知れない。

<ツナギの時代>
 先に東北地方に「繋」地名が多いと述べた。岩手県に限っても20箇所程度あるが、逆に「綱木」は東北南部に限られる。宮城・山形・福島・新潟に集中しているのが特徴である。 この相違はツナギの意味・内容ではなく、時代差ではなかろうか、その理由は「繋」という直接語を嫌う意志が働いている可能性があり、それを一面で文化の進化過程と考えることも、又、流行の残した残跡ともみえる。
 言葉の都市化とは物言の表現を間接的に、あるいは美的なものとする意志が働くことである。直接的は「はしたない」という都風の価値観によっていましめられる傾向は強く、地方へ行くほど強烈である。
 ある時代において_あるいはツナギのままであったものが、時代と共に地名の進化をもって、同音異字に至る傾向は強いのである。
 綱木はまだしも、妻木や小貫となると、全く字面からは何の意味なのか見当もつかない結果となってくる。

<ツナギ地名を訪ねる>
 岩手県北上市と、秋田県横手市を結ぶラインは和賀川筋に鉄道・道路が平行し集中するが、この地は正に戦略上の物資輸送・情報の伝達ルートとしても最重要地点であることが一見して分かる所だ。
 和賀川は川尻で北へ90度方向を変えて、和賀岳・高下岳などに水源を求めている。広大な巾着袋状に広がる流域は隣藩の秋田に近いことから度々紛事のおきる土地柄として有名だった。そんなことから南部藩では特に重要地点として小繋沢に関所を設けていたものとみえる。小繋沢は、そうした藩命によって、多角的なツナギ行為が藩令によって行われていたことが知られる。
 又、盛岡市の西に繋温泉がある。源義家が入湯した際、馬を繋いだ由来をもつと伝えるが伝説の後付にすぎない。本来はもっと重要な交通の要衡であり、それは現在も不変である。
 東北でも岩手と秋田を結ぶ付近はツナギでも「繋」の集中する所である。
 秋田県二ツ井町二ツ井宿に「小繋」の地名が川筋にある。米代川の大曲折する地点で「きみまち坂」という陸上交通の難所であり、最近の大雨により大崩壊があり車が埋まりながらも子供一人が救助されたことで有名となった所だ。札付きの難所であり、昔から陸上、川舟による物資輸送に際して「繋」が行なわれたことを地名が物語っている。
角川地名大辞典(秋田)にも小繋の役割の大きさと、近隣諸村の助郷の実態を伝えている。この小繋の村の役割は明らかに川舟による荷役であり、遠く能代からも舟頭付の舟の提供があったと述べている。
 「岩手の地名百科」(岩手日報社)には、繋が、盛岡・雫石・葛巻・紫波赤沢・遠野上郷・川井・江繋・山田豊間根・二戸福岡・白鳥・一戸相綱木・軽米上館・山形・戸呂などと多数にのぼる。小繋・小繋川(沢)・大繋(沢)などあり、又、繋塚・繋日向など散在している。これに対して綱木は少数派でしかも南部に辺在しており見事な住み分けが自然発生しているかにみえる。
 ただ繋が比較的小規模であるのに対して、綱木が、峠の部分のみならず、峠道のはじまる基点となる双方の村落にその名が残ることは流通の現摸の大きさを物語るもので注目される。
 次に綱木の所在地の代表的なものを幾つか取上げてみるが、その共通する所と違う点についてみてみたい。
  A 宮城県東和町
  B 新潟県三川町
  C 山形県米沢市
  D 福島県西会津町
  E 山形県米沢市栗子峠
  F 福島県川俣町口太山北麓一帯
  G 福島県川内村大津辺山西麓
 などであるが、それぞれ綱木に大・小が加えられるなど複数の綱木がセットになっている所が先の繋地名との大きな違いある。これはスケールの大きさを示す他に意味があるのか考えてみたい。

<ツナギ地名の実際>
 東北南部に集中する綱木(大・小)これらの峠又は村落は地方的な村落と村落を結ぶのみならず他国(他藩等)へ越境する規模の大きいものである。そこには当然のこと荷の移動に関して様々な制約と手継ぎを必要としたはずであり、藩政時代の出張所のような関所があった可能性が高い。
 特に米沢(C)のものは、米沢から綱木峠を越してから綱木川に入り綱木集落に入る念の入ったものである。綱木集落の奥は会津藩へ越える吾妻の大山脈である。綱木の村には会津との交易の品と駄馬が集っていたはずだし禁制の品を検査する役所があったはずだ。
 (B)の例は新発田と会津境の津川を結ぶ山間部の村に上・中・下の綱木の村があり、綱木川がそれらの村を貫流している。この村は明らかに越後中部の新発田藩と国境の村である津川を通じて会津と交易をしたことを物語っている。そのルートは綱木・新谷・松野・行地・諏訪峠・津川となり直線的な行程となる。
( D)は飯豊山の懐深く分け入った木地師たちの村「弥平四郎」や「弥生」から会津へ製品の搬出や食料の搬入の経路であることは明らかであり大綱木・小綱木の地形は峠状の境界とみて特徴な形の村落が生まれたものとみたい。木地師たちは会津坂下に自ら足を運ぶより、綱木で米や日用品と交換できるのならよほど有益だったはずだ。
 (G)おそらく綱木の名をもつ村の南限かと察せられるが正に化石のような存在である。広義には福島・二本松などといわきを結ぶ経路上にあって何らかの重要な役割を果したものと思われるが、両者間の距離はあまりにも長い。
 そこでツナギにも二国間の交流のような政治・経済の両者にとって重要なものから、極めてローカルなものがふくまれていたらしいことが分かる。せいぜい20キロ程度の交流圏をもつ複数以上の村々間のツナギ的交易を受持つ意味を考えてみたが、証拠があるわけではない。
 問題は(A)である。現在も明確に地名が残るが忘れられた地域となっている。しかし地名と地形を類推すると明らかに見えてくるルートがある。それは志津川の港を基点として内陸部の、おそらく平泉へ向う線である。その線は志津川・大綱木・軽米・上綱木・下綱木・七曲峠・藤沢町となる。それらの街道筋には人夫・駄馬の類が行列を作り茶屋の類も存在したはずである。
 川上の綱木、又は繋は主として荷の中繋所として機能した例として受取れるが、更に別の機能についてふれておく必要があると思う。「繋」とは広辞苑などでひくと荷物の運搬のことばかりではない。その機能については、
 1. ヒモ・綱などで離れている二点を結ぶ
 2. 一定の場所に留めおく(船など)
 3. 点をヒモなどで結んで続きにする(団結させる)
 4. 足跡を辿って行方を追い求める(マタギの狩)
 5. 別々にあるものを連結して一つにする
 6. 切れないように望み(命を)をもたせる
 などとなるが、荷の中繋的なものはこの中にあるがそれのみでないことが分かる。
 5と6に関係するが忍者などが連絡手段をツナギをとるというのもうなずける言葉である。
 またソバ粉に何%かの小麦粉をまぜるのを「繋ぎ何分」とか表現する場合もある。
秋田の雄物川筋の近くに繋部落があって、昔番屋があり船から役銭をとる役所だったと聴いたが物資の引き継ぎの他に税金をとる関所にも同様の名が使われていることがある。 柳田國男の「葬制沿革史料」にも「契約講の仲間が講の申し合わせにより、一定の未銭を出して贈って来るのがツナギであり…」と言い、穴銭にヒモを通して凶年の為に資金を留める一方法だったし、村の会合の飲食を軒別に集めることもツナギであった、と述べている。

<森吉山のツナギ地名>
 秋田の森吉山の北面一帯を水源とする小又川があり現在でも秘境の名に価する幽邃地である。
 マタギで有名な阿仁に近く渓流釣りや渓谷遡行者のメッカの感を呈するが、下流部に大規模なダムが作られ多くの村落を呑みこんでしまった。水没した村落のうちには江戸時代国境警備のため秋田藩が若干の藩士を派遣した、藩士の村「砂子沢」があった。
 自給自足の全く人為的な村であり不便のため家族まで呼び寄せて帰農した。とされるが、その暮らしぶりを想像するだけで身震いするほどである。藩命とは言え罪人の島流しのような扱いによく耐え最後は農民で終った砂子沢の村からわずかながら外界と継がった形跡として地名がのこされている。
 その一つは「小繋森」であり、二つ目は「_(土に尼)繋沢」等である。前者は鷹巣の浅利城へ抜ける最短ルートであり、沢名も「小繋沢」であるが現在は廃されている。後者は鹿角・田沢湖方面への平易な沢だ。
 砂子沢峠は大葛金山(オオクソ)など北部一帯に散在する鉱山へ直接監視できる距離にある。
 たしかに「砂子沢」の村は山深い秘境に違いないが藩政の機能を維持する上で合理的な位置にあったと言える。
全く外界と隔絶した土地に住むことを強制された人々は生活の糧を自等獲得すると共に藩命の仕事に従事するかたわら、マタギや釣り師のようなことまでやったに違いない。彼等にとっては秘境でも何でもなく生活の場であった優れた渓谷や原生林を現在の人間は秘境と言っているだけである。
 なお小繋森は尾根筋に明瞭な道が通じていることを竜ヶ岳(一等三角点の山)に登って分かった。登山口は浅利城跡で立派なキャンプ場もあり利用できる。
 もう一ヶ所「ツナギ」で重要な場所を紹介しておきたい。それも昔はマタギ村だったと言われるが現在は立派な水田が作られ別天地のような雰囲気のよい村である。

<鳥海山のツナギ地名>
 鳥海山の東麓に「百宅(モモヤケ)」という、これも外界と隔絶した標高500m程の小盆地の村がある。この村へ入るにはすべて厳しい峠越えを必要とする。
 その昔通りかかりの聖人が「よい村だ百宅の人が楽に暮らせる土地だ」と評したことによる名称と聴いたが、由来はともかく問題もあろうが桃源郷と言ってよい土地柄である。
 小生が鳥海町百宅を通ったのは湯沢から笹子峠を越え上直根で折返し、峠越えで百宅経由で鳥海山に向ったときのことであった。
 鳥海山の溶岩台地を玉田川渓谷が深い溝をうがち幾重にも厳しい渓谷を発達させるなかで奇跡的におだやかな小盆地を残していた。それが百宅で美しい水田が数キロに渡って続いていた。鳥海の山中でこれだけの美田をもつ村のあることにおどろく他ない。その百宅から玉川渓谷の「法体の滝」はすぐだった。やや作られすぎだが広大なキャンプ場もあり休養に最適だった。
 さて当の百宅の村である。ほとんどの人は通りすぎてしまうのだが、この村が昔マタギの村だったことを知れば何かしかの痕跡を残しているはずである。
上百宅と玉田渓谷の間の峠に「ツナギ沢の山の神」がある。百宅マタギが山へ入る際の結界であり、この地点から「山言葉」に切り変えて、水無大森・三滝山・兜山・百宅大森などの山へ入ったという。
 百宅には三つのマタギ衆がそれぞれ組を作り山の神を祭祀したが「ツナギ沢の山の神」のみは全員の集る場所であったという。
つまり、これこそが他の組と一党打ちそろって「山の神」とを「繋ぐ」入口だったのである。
 彼等は山入りのとき全員が集り「山の神」に誓いを述べ、それぞれの山へ泊場を定め長期の狩に向ったのだが、それ等を可能にした根本は「山の神」とマタギの「ツナギ」の儀式によるものだった。
 こうしてみてくると「ツナギ」は人と人のみを繋ぐのみでなく、物資や神との関係でも成立することを教えられるのであるが、元は明らかに神の恩恵に深く欲したいと願うシステムであったことが分かる。
 そして現在において神を自然に置き替えて考えるとき自然と人間との関係を「繋ぐ」ものは何か、と考えさせられるのである。現代人には新たな「繋ぎ」のシステムの構築がもとめられているのではなかろうか。

<阿武隈のツナギ地名>
 最後に、この原稿を書いている途中の山旅にて発見したツナギ地名についてふれておきたい。それは福島県阿武隈山地の口太山(くちぶとやま)の北麓にひっそりと点在する「大綱木・小綱木」の村落である。先に見出しにした(F)である。
 東和町の道の駅から川俣方面へR349号を北上すると東へ細い枝道がある。相馬方面へ向う異なる道を探していたので渡りに舟とばかりこの道へ入った。車の全く通らない細い道を幾つかの峠を越えると村落があり、大綱木の表示がある。学校も「綱木」でこんな山奥で田畑も少ない村がいったい何の労働で生活しているのか不思議であった。
 続いて少し大きい峠に至り、東へ下って行くと峠から急に人家が多くなった。しかも山の傾斜の厳しい場所に石垣を積んで現在も人が住んでいるのだ。ここにも綱木の名が提示され、ガードレールにも書かれている。
 田畑はごくわずかに存在するが、生活の糧は明らかに他に求める必要がある。
 この疑問を解決する間もなく浜通りに出てしまった。付近に工場は全く無いし、自活困難となれば、他にいかなる道が残されているのか小生には理解できないまま今日に至っている。
 この綱木・大綱木の集落は中通りと浜通りの中間にあって阿武隈山地のうち標高の高い部分にあたり、両者の間の物資輸送の中間点にあたる。その意味では「繋」の本来の機能を果す位置にあるのだが、今日では国道・地方道の主流から外れていて、全くローカルな地位のまま放置されている。
 口太山は先に述べたが、その北麓の腰の位置を東西に横断する形である。口太山は明らかに雨乞いの山であるが、別称、朽人山と呼ばれていると聴くが「姥捨山」の伝承もあるとも聴く。それほど、この土地は田畑耕作に不向きな高原地帯で西方には阿達ヶ原の伝説も知られるように昔から困窮を極めた土地柄には違いない。
 だからこそ農民であったとしても生活の糧を別の労働に求める必要にせまられたのだと考えられるが、それが運送業であり様々な職業となって現われた可能性が高い
。  主要道路から外れ、静かな山村の姿を好む旅人の自由はあるにしても、現在の綱木の姿は、他の綱木同様忘れ去られ廃されて行くなかで阿武隈の綱木のみは、多少の衰退はあるにしても、相当数の人口を残している姿を何と解釈したらよいのか迷うのである。
 運送業としての絶対的な優位性は消えた今、労働力は外部に求められるしか道はない。それは、出稼ぎが最も手っ取り早いが、はたしてどうなのだろうか。興味深い問題である。 繋・綱木・津奈木の地名を各種地名辞典の類を概観してみると職業に一定の共通性があることが判明する。
 福島県川俣町の場合「男は皆農桑に服事す、女は皆養蚕・製糸・織絹を業とす」とあり、農とは養蚕のための桑の木を作ることであった。他の村々も大概似たような村の形態であるから石高の計算上も常に低い段階にあって助郷や「繋」の仕事は副業として成立し易い素地があるといえよう。(2009年1月)

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信州・飯綱山の謎
 飯縄山1917m(飯綱山)は、長野市北方の黒姫山と戸隠山とが三角形に並んだうち、長野市に最も近くにあって、開発の影響を最も強く受けている山である。
 美しいスロープに原生林や湖沼が点在し、夏のシーズンには多くの登山者や、キャンパーなどでにぎわうのだが、ゴルフ場・スキー場の建設も急で山の自然性や美観の点で大きな問題をかかえている。
 戸隠・黒姫・野尻湖などと共に、北信の観光地の一翼を担っているのだが、この山の実態はどのように評価されているのか、また、どのような由来を秘めているのか、あまり知られていない面が多すぎるように思う。
 登山者が、体力にまかせて登頂し、広大な展望を楽しんで、それで終りとするにはこの山の重量感に対し甚だ軽率にすぎるように思われるのである。  飯縄山の慨観では、三省堂のコンサイス日本山名辞典(以下資料@とする)によると「第三紀層の上に噴出したコニーデ型火山で(中略)頂上は草原で、展望がよい。山頂近くに飯縄神社がある。
 戸隠山・小菅山とともに江戸末期まで信濃三大修験道場の一つ。妖術の「飯縄法」はこの地からでたという。天狗の「飯縄の三郎」が住んでいたという伝説がある。(後略)」とあり、他に飯縄山が二山あると述べている。
 その一は「坂城」図幅の上田市西方にあり、932mで地形図に山名が入っている。これを分類上、一応「当郷飯縄山」と表記しておく。
 その二は、大糸線神城駅東方13キロ、小川村にあって、280m「大町」図幅となっている。
 この飯縄山の存在については相当難解であった。大町の図幅で、標高が、280mしかない地域はなく、青木湖ですらすでに800mを超えていることから不明のままになっていた。
 ところが大町図幅を詳細にみていると、豊科から長野に至るR19号線の北方、信州新町の日原に、飯縄山△866mがあり、さらに図面の北東・新町の東にも△634mの飯縄山がみえる。
 さらに「大町」図幅の北東端角にも飯縄山コンター1200m余がみつかった。
 おそらく推定する限り、先の辞典の山が、これに相当するものではないかと思われる。但し、標高が1000mも間違っているのと、山の所在地の表現が遠廻しにすぎるようで、ここは鬼無里と表現した方が分かりやすいのではないかと思う。
 こうして飯縄山が五山も見つかり、それらの山が長野を中心とする南部一帯に集中していることの特異性に注目せずにおかないものがある。更に、注意してみて行くと、塩尻の南の山域にも「飯縄城」という中世末期に城があったとみられる「飯縄山」のあることが判明した。
 信州において飯縄の名をもつ杜のある山は探せばまだまだ出てくる可能性が高いが、それらは、いずれも現在では信仰が忘れられている可能性が高く、また、他の神との習合あるいは合紀されて人々の関心を引かなくなったものも多くあるものと考えられる。

1 飯縄山の所在地
 A 飯縄山△1917m(長野市北方)「戸隠」
 B 稲立飯縄山ca1280m(鬼無里南方)「大町」
 C 奈良尾飯縄山△866m(新町日原西方)「大町」
 D 新町飯縄山△634m(新町東方)「長野」
 E 当郷飯縄山△932m(上田市西方)「坂城」
 F 塩尻飯縄山  (塩尻市南方)「塩尻」
もちろん、これら以外にも「飯縄山」が存在する可能性が高いのだが、以上あげた飯縄山はいずれも信州の一定地域に集中していることからみると、特定の地域に存在する特別な事例ではないかという感がする。それは飯縄信仰圏という時代的背景を背負っていたともみられる。
 この地域には、もっと調査すれば、まだまだ飯縄山が存在する可能性は高い。それは、飯縄社、または飯縄宮の存在が多数あるからである。その飯縄社が、地域の氏神的存在となり、さらにその地域のシンボルのような山の頂に存在するのであれば、それは立派な「飯縄山」である。その名称が、地形図上に出ていなくとも、その講中が氏神のそれと一致し、祭祀が続けられているか、又は、過去に続けられていたのなら、それは飯縄山といってよい。

長野県のその他の飯純杜一覧
(社名)      (祭神)       (所在地)
飯縄社       倉稲魂命       松本市大字島内
飯綱社       倉稲魂命       南安曇郡豊科町南穂高字飯縄
飯綱神社      保食大神       北安曇郡八坂村字威柄
飯縄稲荷神社    椎産霊社       更植市稲荷山
飯綱神社      宇気母智命      更植市大字八幡
飯綱神社      保食之命       須坂市沼目字西沖
飯縄神社      保食之命       上水内郡小川村小根山
飯綱社       保食之命       飯山市蓮
飯綱杜       食稲魂命       下高井郡木島村山岸字三本木
飯綱神社      保食命        下水内郡豊田村豊津字脇添
飯縄天神合殿神社  保食命        長野市三輪
飯縄神政      保食命        長野市三輪字武井
飯縄神社      保食命        長野市茂菅
飯縄社       稲食魂神       長野市浅川西條字福岡
飯縄神社      保食神        長野市七二会字大久保
飯綱神社      飯綱大神       岡谷市湊字増久保
飯綱社       倉稲魂命       上田市上田原字ニッ石
飯綱神社      倉稲魂神       上田市下塩尻字赤石
飯縄社       保食神        小県郡長門町古町
飯綱神社      宇迦魂命       佐久市常田字家地頭
 地形図の大町・戸隠・長野・坂城・信濃池田・松本・須坂・中野、といった図幅には、そのような条件を満たすような例や、それを暗示するような例が幾つかみられるのである。
 それらをすべて調査することから始め、その実態を解明するのが本筋ではあるが、ここは、それらの代表格として、表記の例をあげて飯縄山と神社の性格をみてみたいと思う。
 個別の例が六例という少ないものながら、その形態や実態は、それぞれ大きく差のあるものであったから、−応のサンプル的なデーターとしては役立つのではないかと考えている。
 飯縄明神ほ、飯縄社、宮、地蔵などと様々な表現がなされるが、それはおそらく、その地域の信仰形態によるものと思われ、御岳信仰と並列して祭祀されたり、合祀されたりしている。地蔵と習合したものや稲荷とも関係が深い。
 従って、飯縄社は勧請された時点で山岳をはなれ、里の宮として祭祀されている場合が多い。
 飯縄社の信仰又は「飯縄の法」(後述する)は、必ずしも山岳であるべき理由を失って行ったのだが、それは松代藩(元禄10年)において88社をあげていることからも分かる。
 「長野県町村誌」(明治初年)では、98社をあげており、鎮守や惣郷中や、個人持の例さえあって必ずしも山に祭祀されているわけではない。
 そこで山の頂上に祭祀された飯縄杜と、里に祭祀されたものとがどのような関係にあり、また性格の違いがあるのかも見ておかなくてはならない。
 筆者のみるところでは、山頂に石祠の小さなものが、その村の方角を向いている場合などは、かなり古い時代から祭祀されたものと思われ、現在見捨てられ、登拝路すら判然としなくなっている場合でも、その信仰は相当確かなものがあったとみられる。
 また飯縄社が里にあったり、他の社、例えば八幡社などに合祀されている場合は、前者が山頂の奥宮に対する里宮として考えることができる。
 後者の場合は、明治の「神社合祀令」の強制により無理矢理他の社へ習合させられたものとみるペきだ。その場合、合祀の対象は、主として里宮の方で、山頂の石の小祠はそのまま放置され薮にうもれたまま時を経て、ついに村里人にも忘れられてしまったと考えられる。
 上田当郷の飯縄山の場合を例にとっても、山頂の小石祠の存在は昭和30年度くらいまで確認されていたが、その後いつの間にか不明となっている。里人の想像では誰かが谷へ落としてしまったのでは……と驚くべき発言を聞かされた。信仰の忘却は、ここに極まった思いがする。
 全休的にみて、山頂の祭礼は途絶え、里宮に集約され現在も細々と形式的にせよ信仰が続いているのはまだ良い方である。名も知らぬ薮山の頂に名残りの石祠が秘かにねむっている場合が多いのではないかと推察している。

2 飯綱山の山名由来と出身地
 飯縄山は「飯綱山」の場合もあって、この名は新しい時代のものだという。1例の多い「飯縄山」は本来(イイナワ)であって、(イイツナ)とはいえないことから「綱」の字が使われたのかも知れないが、仮名の場合は(いつな)が多く(いすな)もある。
 飯縄の名称につしナては諸説あるが、「山岳宗教史研究叢書」(九)(以下資料Aと呼ぶ)でほ次の例をあげている。
 (1)イヅナの神を祭り、イヅナの法を修した所がイヅナ山と呼ばれるようになった。つまり山が元でなく、法がもとであるという説
 (2)稲荷の社で瑞垣に飯縄というものを張りわたすのでこの名がおこった。
 (3)飯縄の仙台説
 (4)飯縄山頂に産する天狗の麦飯と称する砂、つまり飯砂により飯縄山と称し、それにおこった飯縄の法が各地に伝わって、あちこちに飯縄山ができた。
 以上のものが出ているが、一般には(4)のものが信じられ、「資料I」も、これと断定している。これは(1)の説の逆なのだが、(1)では、法が元なら、その法がどこから出たのかが問われそうで少々無理を感じないわけにはいかない。
(2)は、現実味がある。稲荷と宇賀・豊受・飯豊などは「保食神」として共通の基盤があり、稲と飯は同根のものである。これに縄をつけるのは、古来からの習慣であることから、この説を一概に除去することははばからる。
 (4)における「麦飯」の例も、簡単に稲荷を習合する可能性が高い。従って(2)と(4)は、別々の説ではなく共通の基盤上に存在しているものと考えたい。
 問題は(3)である。飯縄山は仙台の飯縄山から出ているという大胆な説である。
 資料Aでは、謡曲「鞍馬天狗」のなかに「飯縄の三郎」が大天狗の供をしているといい、浄瑠璃「本朝三国志」では「飯縄の三郎三尺坊」があるという。以上は飯縄の名の出所であるが、明らかに飯縄の名の出所が仙台であるとするものが、「和訓栞」で=一説に奥州仙台飯縄山に祀るをもって飯縄三郎と呼子也といへり。、信州戸隠、越前日永嶽、武州高尾山などに祀り。陀吉尼天の邪法なりといへり。遠州秋葉山三尺坊の祠も、百年以前戸隠より祀るといふ。と述べ=、「塩尻」でも=或人日く「いづなは何んの神ぞ」予白く「陀祇尼天なり。我国神にあらず、奥州仙台飯縄山に祀れば飯縄の三郎と呼ぶ。遠州秋葉山に祀りては三尺坊といふ。讃岐の金毘羅、京都の愛宕等にてはまた名を異にす。=事のついでに、あげられている次の二点についても引用するが、「名言集」では「イヅナハモト仏家陀吉尼天ノ法。陸奥国仙台飯綱山ニ祀ルニヨルト云フ。又稲荷社ニ、飯綱卜云フモノアリトモ云フ」とあり、「茅窓漫録」では、「世に伊豆那の術とて、人の目を眩惑する邪法悪魔あり、何の世何者の伝へしかしらず「大倭本草」に、天竺の茶耆尼天の法なる、、事載せたり。伊豆那というふは、飯綱又飯縄とも書く。もとは奥州仙台飯縄山に此の法を祭るゆえ飯縄三郎と呼ぶといへり」(原文のまま、飯綱と飯縄が混合しているが)
 以上の引用はすべて出典を仙台とするものであるが、実際に仙台に飯縄山が存在するのか知らないが、これはど明確に表示しているのは興味深いことである。
 秋葉山の三尺坊と飯縄三郎が混合して以下のような印象をもつが、それはおそらく修験の共通性と「飯縄の法」といわれる妖術的な要素・要因によるものとみられる。
 また陀吉尼天との関係では、保食神としての共通性を認められる。稲荷・宇賀などと共に、飯豊・豊受なども同様である。人から人へ伝播するうちに習合し変化して行くのは民間信仰の常で、おどろくに当らない。
 登山者として注目しておきたいのは、「越前の日永嶽」とある点である。筆者の認識では美濃の奥山に日永岳があるのを知っているが、これが飯縄三郎と関係があり、また修験の山であったということは知らなかった。別の山である可能性が高いが、越前の「日永岳」とはどんな山なのか興味深い存在である。
 また日永岳と共に戸隠・武州高尾山など飯縄三郎を祀り、さらに秋葉山三尺坊の祠も百年前には戸隠より祀るというのは、三尺坊は飯縄の法をマスターした天狗であり、先の山にもその系列に類する天狗が居ることが推定される。
 それらの天狗を宿ず修験の山々が、先にあげた山々であり、ひとつのグループ化された存在でもあったと考えられる。
 そこに修験のネットワークが存在し、各地の聖山を結んで山伏達が活躍したのであろう。

3 飯縄山のはじめ
 飯縄山が信州か、奥州かは結論が出ないが、推論すれば、どうやら「飯縄の法」が伝播してから出た話のようである。
 飯縄の名のもとは、やはり保食神とし、食糧とする陸稲の類を想定していることば明らかで、同じ奥州の名山「飯豊山」の例でも明らかになる。  飯縄の山伏が麦飯のような土中の菌類を保食したと伝えられるのも原因説のひとつであるが、もとより、それが大量に発生したわけではなく象徴的な意味としてなら理解できよう。
 飯縄の修験は隣の戸隠山のものと、−体だったらしいが確実な証明はされていない。ただ資料が不足しているだけである。
 修験の開山という点では信州の開発過程からみて戸隠よりも飯縄・黒姫の方が先のように思えるが、修験の行を考えると、戸隠の厳しい岩場は都合のよい行場を提供してくれることから、時代と共に重要な存在となって行ったのではないか。おそらく、前山とみられる(長野市から直接戸隠は見えない)山々の行者が共通の行場として戸隠を開山したとも考えられる。この考え方の利点は、飯縄大明神が戸隠の鎮守であるという伝えがあるからである。これは何を意味するかといえば、戸隠を本院とし、飯縄を前衛とする考え方である。これによっても、どの方位を正面としていたかが分かる。
 戸隠山には三院があり、中央に「戸隠権現」があり、左右に「飯縄権現」と「白山権現」をあてるのは宝光院の柱松神事である。宝光院の本地仏は地蔵で、それは飯縄の本地仏でもあったことから、戸隠と飯縄との関係を推定することができる。
 資料2ではこのあたりのことを「文永7年(1270年)宝光院衆徒が離山し、飯縄山の東峰霊仙寺山の麓、霊仙寺に移ったことがある。この寺は真言宗であるから、飯縄信仰を奉ずる宝光院衆徒は真言宗であったらしく、天台宗の中院衆徒とは対立していたらしい」といっている。
 戸隠山と一体であったのち分離して飯縄の独立がなされたという説は、この例によっていることが分かる。
 また「飯縄と関係の深い宝光院の本地仏が地蔵菩薩であったことは、飯縄の信仰が早くから愛宕の信仰と関連していることを物語っている。愛宕信仰は古くから勝軍地蔵信仰と習合し、中世には愛宕・飯縄の法と称せられてられて一体に近いものとみられていた。」
 とあって、この「勝軍地蔵」こそが、戦国武将の信仰する根拠であり、飯縄に武田、上杉など集団の有力武将のほとんどが領地をあたえて戦勝を祈願する原因ともなった。
 武田氏と上杉家も共に、その中世的性格から、古い信仰形態を守る姿勢をとったことは理解されるが、周辺の小領主たちも例外ではなかったはずだ。その記憶が残されるか否かは、歴史に強く印されたかどうかと正比例する。
 武田氏以上にカリスマ的存在だった上杉氏にも飯縄信仰と密接につながっていた証拠が見っかっている。
 上杉氏は七才のときから父の判断で曹洞宗の寺に参拝し、城内にあった真言寺院で「真言秘密の法」を授けられたという。
 後年、大覚寺から法師大和尚や謙信と号されるようになり、高野山から真言密教を皆伝されている。このあたりに政治的な配慮が垣間見えるが、この時代は上杉氏だけでなく、全ての武将がそうしたものだった。
 上杉氏は中世武将としての資格多くを得たが、そのなかでも、先の愛宕勝軍地蔵と共に「飯縄明神」が存在する。他にも摩利支天、阿弥陀・弁財天・などがあるが、先の二点が強烈に存在感を誇っているようである。
 飯縄の存在は、この時代最も輝いていたのだ。
 愛宕の方では、西国武将ということになるが、明智光秀が本能寺に至るのに、愛宕参詣をしたという例は、愛宕の勝軍地蔵に信長を倒す祈願としたのであったことが分かる。
 戦国の世にあって、飯縄や愛宕の地蔵は、絶大な信頼を得ていたことが分かるが、信者の武将の幾人かを敗者にしたとしても、それは飯縄や愛宕の勝軍地蔵の本意ではない。
 飯縄の方に話をもどそう。飯縄の妖術的な面を指摘するには、修験の時代の前に、土着の信仰が残映していないかという点も考慮しておく必要があると思う。
 信州の北部には、そのような記録がない古い時代の遺物がよみがえって新しい信仰と習合し、その胎内で生き続けて行くという可能性を捨て切れないと思う。飯縄の法に限らず、妖術的な面は、現在にも生きているような気がする。

4 飯縄社と千日太夫
 先に飯縄は戸隠と習合あるいは、同一化した形で信仰圏が成立していたのが宝光院の独立という形で別の組織化が進められたと述べた。それは、真言・天台という両派の対立の他、本来的に別の性格を両者共に所有していたと考える立場もある。それは修験以前の原始土着信仰という傾向を、飯縄の方がより強く所有していた可能性が高い。それが両派のその後の信者等の組織のありかたに反映しているように思う。
 千日太夫という飯縄独特のものは、飯縄修験における代々の先達の名で、飯縄山八合目あたりの山中に屋敷をもうけ飯縄信仰の中心となったらしいが実態は不明である。
 千日太夫は飯縄山中での先達として活躍したらしいが、それが全国的規模での講中を組織的に展開し代表としてその上に来るような他の修験の山々の例とは違って、北信一山の飯縄山として信仰を守るといった形、あるいは一家としての世襲を続けていた家天のような存在であったようである。  飯縄山が、他の地域へ分祀されて行く傾向は、一山としての統率の弱さを示しているようでもある。特に本山の近く、せいぜい30km圏に多数の小飯縄山が成立しているのは、そのことを証拠だてている。
 それらの山上に立てば、本山の巨体が望めることを考えると、本山へ参詣登拝するうえで何か都合の悪い事態があったのではと推測する他にはない。また本山側だけでなく、他地方の飯縄信者達が集合して大きな講を作ることもないのは、何か理由がある可能性も残される。
 そんな千日太夫にも武田信玄は安堵状を出し、領地若干を寄進し、長刀を奉納している。
 北信から中信にかけて武田氏の強い勢力下にあって、名高い武田軍団が通行する小さな峠道の茂筋にも、武田軍の支隊の通った形跡と、伝承が残されている。これも広義には、飯縄信仰と継がっている可能性を暗示している。

5 飯縄の法
 「飯縄の法」というものが戦国武将に利用信奉される傾向があったが、これはいかなるものであったのだろうか。
 本来、呪術、妖術、奇術、祈祷といったものは、仏教以前より、土着的に存在していたとみられることから、飯縄がこれを残し修験のなかで活性化させていたとしても不思議ではない。それが、他の修験の仏教色の強さと対照的に見えるのは当然とするが、飯縄のそれはかなり強力に発揮されていたらしいことが推察される。
 「弁財天信仰と俗信」笹間良彦著(資料3)ではわずかに飯縄の法にふれている。「茶吉尼天は修験道の飯縄明神信仰の飯綱の法や愛宕の法と習合し、飯縄の法としてクダ狐を使って、人に狐をつかせたり、去らせたりしてさまざまの悪業を働く修験者が横行した。
 このために稲荷の使いとされ、または稲荷神そのものと思われた狐、つまり貴狐天王は白晨狐王菩薩として修験にあがめられた。天下の管領の地位にある細川政元などは熱心な信奉者であったから、野心多い戦国期の武将までこれを信奉した。特に飯縄明神に信仰厚かった大名は、武田信玄、上杉謙信である。」
 戦勝を祈祷することば誰もがやったことに違いないが、相手方を呪う術といった方法は、中世から戦国には特に盛んであったようである。
 資料2でも「飯縄の法は中世にも「魔法」と称せられたが、戦乱の世ではその魔法、秘法が武芸、武術に役立っものと考えちれ、武将で飯縄を信仰するものが多かった。(中略)もちろん正統な武芸ではなく、呪術に類するものであったから、平和な時代になると、妖法としての悪い面が出た」とあるように忍術同様、正規なものではなかった。非常時に万策つきてなを活路を求める必要にせまられてやむなく取り入れられるような術であった。
 上田にあった真田氏が、飯縄の術を知らなかったはずはなく、盛んに利用活用し、特徴的な軍団を編成したとしてもおかしくない。もしそれが正解だとしたら、真田の栄光の一端は飯縄によるところが大きいと思われる。事実、真田家の類、松代藩には多数の飯縄社(宮)が勧請されていることである。飯縄の法は藩士の家にも伝えられ病気の治法にも活用されていたようである。
 多数勧請された飯縄社は、民間の生活のなかにも深く沈下して行ったことであろう。それが、時として狐つきの療法として厳しい行為に及び死亡に至らしめることにもなったことも度々あったはずである。
 今日でも、飯縄の法は、地下にもぐって進化しながら、どこかで生き残っているように思われる。

6 飯縄社のその後
 飯縄社は他の修験道のように全国的な信者組織としての講中登山はなかった。それには、修験的性格よりも、呪術・妖術としての性格が強く、しかも中世以後、その面が武士や民間に望まれたことから、その方面に進んでしまったようでもある。それが結果的に組織の弱体化を進め、信仰の分散化につながったのではないか。そして、個と個の集団は共通の信者組織を作るまでに至らなかったのである。
 鎮守としての飯縄社は、修験的性格を失い、むしろ稲荷の性格に似たものになって行った。そのことば飯縄杜の名を稲荷に変えたり並記したりする実例のあることでも分かる。
 収穫の豊かさを望み、雨乞や日照りに参詣するといった鎮守の性格の他にも、時として本来もっていた妖術的あるいは呪術は、不治の病の治療にもあてられたであろうと察せられる。
 資料3は、その後の飯縄社のことを次のように述べている。「広く普及したこの信仰は、秘法・邪法として民間にうもれてしまい、飯縄社そのものは、まとまった組織を持たぬ一個の神社となってしまった。近世飯縄社で発行した「飯縄山縁起」は、近世の飯縄社が、ごく普通の一個の神社となっていたことを物語っている。(中略)全国的に信者を持っていたが、飯縄社では御師や宿坊のような、参拝者のための施設は全然なかった。幕末のころ、当時の流行に従って式内の古社の名をとり「皇足穂命神社」と改名した。」
 飯縄の誇高い歴史と伝統を捨ててまで、時流に合わせて行こうとする姿勢は、この社の特徴でもあったかも知れない。
 「山と里の信仰史」宮田登著は(資料4)修験の山伏が平地にあって、何らかの形で飯縄や戸隠の縁起を説く者が多かったといっているが、このような例は各地の山岳修験道場で行われていたのである。特に八海山の例では、山麓である魚沼郡の里民との関係を調査した立派な研究がなされている。それはほかの修験の場合も普遍的なものであった。
 現在、飯縄信仰を統括している組織はない。それは昔からそうだったので、活動状況をつかむことは不可能である。里宮のあった荒安において若干の人々が官主の代りを勤めているにすぎない。
 飯縄の本山におしいては細々と全国から代参の形で登拝しているらしいが、荒安でも数をつかみきれないという。
 ただ地方に分祀された社では、その土地の鎮守として盛大に祭祀されている例はみられる。

7 飯純情仰に関係の深い文献
 飯縄山の信仰に関する文献は単一のものは少なく、他の文献に出ていたもの、あるいは研究一般のなかから抜き出したものなどが主である。それもまた飯縄信仰の性格の一端をあらわしているように思える。ここでは、ごくその一部のものを取り上げておきたい。
1 コンサイス日本山名辞典、昭54  三省堂
2 山岳宗教史研究叢書(9)昭53 名著出版
3 弁財天信仰と俗信・笹間良彦・平3 雄山閣
4 山と里の信仰史・宮田登・平5 吉川弘文館
5 信州の神事 平2       銀河書房
6 日本の神々(9)1987      白水社
7 善光寺道名所図会・巻23
8 日本民俗学・71号「飯縄信仰試論」 宮本袈裟雄
9 日本歴史257号「上杉謙信と飯縄信仰」 小林計一郎
10 信州百名山・清水栄一 昭54  相原書房
11 信州山岳百科(3)昭58 信濃毎日新聞社
12 エアリアマップ妙高・戸隠 小林経雄 昭文社
13 日本山岳ルーツ大辞典 監修 池田未則・編著 村石利夫 平9 竹書房

8 飯縄杜(宮)の探訪
 (A)飯縄山 △1917m
 飯縄の本山たるべき飯縄山の登山道は現在4本あって、最も利用されているものが戸隠中社からの2本である。
 西登山道というものと、怪無山の北を通るもので、どちらかを登り、他を下るという環状ルートをとる人が多い。これは戸隠との共通性と施設が充実しているからでもある。
 飯縄山が戸隠との共通の登山基地をもつことが、地理的とはいえ、飯縄信仰を弱体化させて行った理由のひとつでもあった。
 中世において飯縄が優勢(分祀杜の数からみて)であったものが、中世末から近世に至る時代的な背景として、山岳観の変化もあったと思う。平凡ともみえるコニーデ型を好まれた時代から、峨々たる岩山を好む行者修験の時代は、飯綱山を戸隠の下位に置きはじめたとみることができる。
 それは現代という時代たまで引き継がれているように思う。
 ここに一枚の絵図がある。(別図参考)
 この図会によれば飯縄山の本道は南登山道からということになる。
 長野市北方、荒安の村にかって飯縄の本拠があり、里宮がある。ここから南登山道を経て飯縄神社の頂に至り、さらに現在三角点のおかれた絶頂に達するのである。その道筋を図会は明らかにしてくれている。南登山道の急峻なこと、笠山や戸隠の剣の岑が見えていることなど、飯縄山の後に霊仙寺山があることなど、この図会によって江戸期の多くの事実を知ることができる。
 神水の水場のあることや、仁科氏の屋敷など資料性も高い。
 現在の飯綱山は、修験、信仰としての遺物は荒廃の一途をたどり、観光地としての役割を果たそうとしているかに思われ、登山としても観光登山であって、スポーツ性はとなりの戸隠山に−歩も二歩もゆずっている。これも、山の性格によるところであり、黒姫山においても云えることである。
 登路のひとつ霊仙寺山コースは長いので、下山に使う人が多いのだが、ここもスキーリフトがかなり高い所までせまっている。また周辺にあった湖沼群も、観光地化し、またゴルフ場となって、本当の自然(自然の原始性)を求める人々からは敬遠される傾向がある。
 飯縄山の本山を登って、かっての飯縄信仰や修験を想像することは困難となった。まして「飯縄の法」などといった中世の呪術の存在を臭ぎとることなど不可能といえる。そして次々と失われる遺物をおしむ人すら無くなりつつある現在、やがて文献のなかにしか飯縄の実態が残されなくなって行くことだろう。
(B)稲丘飯綱山 △1280m
 この社は鬼無里の南、大洞峠の東にある。地形図にもあり、資料(1)にも出ているが、その所在地の同定には一苦労を要した。
 中条村・稲丘の鎮守とみられ、1280mの頂上には「稲丘神社」の堂々たる本堂が建立されている。稲丘は地名に違いないが、稲荷を連想させるようで面白いが、事実として関係は深い。
 登路は東西からあって、西からのものがよく整備されている。東側のものは頂上まで150m程度余しか残されていないが、そこまでの林道の整備がされず、一般者は通れない。
 かってよく登拝されたとみられ、杉の巨木が並木となって残っていて、登る感じは東側が優れている。
 堂の裏から、飯縄山の本山が堂々と巨体を横たえているのが見える。不思議なもので、これだけ近くに本山があるのに、分祀した神を祀るのか、分祀する必然があったということを考えさせる風景である。鎮守として飯縄山のうちでは最も信仰の厚い現役の神がここにある。
 この山は信者でなくとも、もっと登られてもよい山である。
 先に資料@出典で、小川村の飯縄山の標高が、わずか280mしかなく対照の山が見当たらなかったことにふれた。この山はどうやら1280mとするところを何かの間違いで280mとしたのであろうと確信をもった。
 稲丘飯縄山がこれに当たることと判明したが、その後(資料L)日本山岳ルーツ大辞典という大部の辞典が発行された。この辞典では、12000もの山名のルーツが述べられているのだが、問題も多いことが分かった。
 この辞典のルーツは資料@であり、そこに出ている名を見出しとして個別に解説を試みているのだが、例えば、稲丘飯縄山の標高の間違いが、そのままになっていることからみて出目ははっきりしている。
(C)奈良尾飯縄山 △866m
 松本から長野に至る国道19号線は犀川と平行して走るが、その日原という所があって、その上方地形図にもあるが素朴な古風をとどめていて好感をもつ山だった。
 表記の奈良尾は、この山の西斜面に畑作(タバコ・ソバ)などの作付を行う村の名を冠したが、やはりこの村の一番高い家の裏にある墓(相当古くて放置されているように感じた)から登路があるが、廃道に近い。
 墓場から薮を分けて尾根に出ると、不充分ながら昔の道形があり、尾根通しに頂上に出る。二次林の下に笹があり、樹の間でした。飯縄本山が見えている。三角点は20mほど南にあった。
 頂上には薮中に50cm角の右の祠があり、南の日原の方を向いている。それよりやや西に少し小さめの石の祠が同様に座していた。
 小さい方が古い祠とみられるが、今はもう誰も登拝する人も居ないらしい。薮の中に、ポツンと石祠があって、人々の記憶から去って行くのであろう。
 この飯縄山は、分祀された時代が相当古いようで、高登屋、奈良尾の村をふくめて日原の信仰圏において、里に近いどこかの社に合祀されているようだ。明治の通達「合祀令」によるところであり、小中の神社・山の神・庚申など、無数にあった社殿や祠などが、集められ統合されて行った。
 この飯縄山も神体を抜かれて、石の造形物として、山に忘れられ残されているのだろう。
 それで充分である。我々からすれば、流浪するご神体よりも山自身を精神の中心として登拝していた山村民の知恵、あるいは、山と山村民の交流の一形式として認め得ることができただけでよいと思う。山は自然に帰り、山を対象として活動する我々の手に帰って行くことができるからである。山は、その土地の土着する人間の所有するものではなくなって行くのである。
 この山も登山の立場からみて面白い存在となっている。現役の信仰が残る山よりもはるかに深い要素が発見できるからである。
(D)新町飯縄山 △634m
 正しくは、信州新町の飯綱山というべきかも知れない。
 新町の役場から東方、矢ノ尻の東方に634mの三角点があり、5万図地形図にも山名が記入されている。
 この山に登るべく夜のうちに矢ノ尻から峠の四辻を右をとり細い林道に入ったが、地図と違う位置に突然「飯縄宮」があっておどろいた。夜のことで事情が判明するまで停止すべきと寝てしまう。矢ノ尻と△の中間あたりである。
 翌朝△の方を先に見に行くことにする。早朝食事もせずに、朝霜にぬれて薮中に入ると畑と薮との境に測量の赤いポールが建っており、三角点を見つけた。飯縄信仰の影もないただの畑の山だった。ここから四辺を見渡せば、東方の山々は雲海のなかに頭を出して高山のようにみえる。低山の早朝は見捨てたものでない。
 引き返して「飯縄宮」に行く。地形図の位置は、矢ノ尻と△との中間あたりに鳥居印とマイクロアンテナの印がある所である。ここには立派な飯縄宮があって、どうやら△の位置から、ここに移転したものと思われる。△より高く、680mはあるので立派になったように見えるが、なぜ移転したのか、その理由について興味がある。
 鳥居をくぐると草地の小広い広場があって、その最奥に簡素ではあるが社殿がある。脇には小祠があって、これはおそらく雨乞に関する神と思われる。
 この飯縄山は本山に最も近く飯縄というより稲荷の感覚で祭祀されているように思われた。分祀された神は、その土地にとって必ず役立つ神でなければならない。保食神という厳しい土地にこそ必要な神が、息長く祭祀されるのは当然のことであり、今日のように恵まれた時代には、神の存在の本当の姿が試されているのだといってよい。
 ここの飯縄宮の現役という立場が、いつまで続くかは祭祀圏の生活の質によっているのではないかとさえ思われる。
(E)当郷飯縄山 △932m
 今まで取り上げて来た飯縄山の四山は、比較的近い地域に散在しているが、この山(社)のみは、中信とみられる上田市の西方、別所温泉の近くに目立たない姿を横たえていた。
 なぜ、この山のみが放れた地域に存在するのか、その実態は謎につつまれているが、およそその推定はできるので、それは後に記述することにする。  別所温泉の北、上田から松本をつなぐR143号線がある。その北に「当郷」という在所がある。その裏山が飯縄山で、地形図「坂城」にも名が出ている。この山の存在に気付き、調べてみようとしながら数年がたち、平成9年秋にとうとう重い腰をあげた。
 この山が、もし現在も飯縄信仰を続けているなら、おそらく北面の「室賀」であるとみて高速道路の「麻積」から草湯経由で入った。ところが地元で聞いてみると全く知らないという。ここの飯縄山は「当郷」で祭祀されており、そこへ行って聞けということで大廻りをした。室賀と当郷を結ぶ林道の峠が工事中で不可だったことによる。
 当郷から逆廻りで峠に出て飯縄山の南側を走る「飯縄林道」(ゲートあり)の終点あたりから登る算断をしてみる。はじめ下って行くが、やがて登りになり草茂る廃道化した林道をなをも行くと、どうやら地形図の位置より先にのぴていて浦野との境界尾根付近に出た。
 この付近は小広い台地状になっており、後で聞いたところでは城があったという。
 この台地には境界尾根と東から踏跡が登って釆ており、山頂に向っても小径があった。薮に覆われているもののかすかな踏跡は山頂に導いてくれて三角点に着く。しかしながら期待した「石祠」はなかった。山頂付近は段階状に、(棚田状に)なっていて、そのどれかにかくれていたのかも知れないが、小生が探した限りでは不明であった。
 帰りは尾根通しに峠まで出たが、薮でルートの読みがむつかしいルートであった。
 飯縄山に登るには登ったが、不完全燃焼気味なので里で調べてみることにする。
 まず当郷の氏神とみられる「阿鳥神社」に合祀されているのではないかとみて付近で畑仕事をする人に乞うと寺村の西沢氏が郷土研究家なので聞いてみよ、とのことで行ってみる。
 西沢氏は高齢ながら一人在宅で色々と面白い話が聞けた。その時の話によると、飯縄山には石造の小祠が昭和35年あたりまで山頂の少し南側の小平地にあったが、その後は知らないという。現在不明ならば、誰かが破壊したか谷へ落としたか、石垣に使ったか――という話に信仰の荒廃を痛切に感じてしまう。
 信仰の有無と関係なく、古い時代を語る大切な物証を粗末にする精神構造こそが問題とされなければならない。
 ここの飯縄山は、やはり当郷の祭祀するものではあるが、山頂の登拝は昭和の初期にはうすれ、大庭にある里宮が現在も祭祀を行っているという。
 早速大庭へ行ってみると、子檀嶺岳から派生する尾根の末端にあった。鳥居もなく入口に庚申塔があり一見したくらいでは通り過ぎるくらいである。草にうもれた石段を登って行くと小広い台地が傾斜して、その奥50mの所に小ぶりながら立派な社が鎮座していた。神域は柵でかこまれて入れないが、細々と当郷の老人達が飯縄信仰の灯を消すまいと手入れに余念がない姿をみるような気がする佇いである。
 一間四方くらいの小社殿の脇の樹林の梢越しに飯縄山がのっペりとした姿を横たえているのがみえる。里宮が大庭という広々とした水田地帯に面し、見下ろす台地に存在することは、昔日の勢力の度合いを判断させる。里宮が当郷の祭祀するものとしても、その所在地を村の中心地でなく、入口のあたりに定めることは、この社が単に当郷という一村のものではなく、上田市や、青木村、及び別所温泉をふくむ、近隣一帯の祭祀圏を有していた可能性を示唆しているのではないか。
 付近には中信の名刺、大法寺、大法寺、東昌寺などがあり国宝もあるという。
 当郷は現在、上室賀へ越す林道があるものの地形的には行止まりの村である。しかし、この村を通過するうちにおびただしい「道祖神」があることに気付く。旅人が通る街道でもないのに不思議である。この件について例の西沢氏に問うと、意外な返事が返ってきた。
 西沢氏の話を総合してみると、次のようになる。
 A 道祖神のこと
 道祖神は当郷だけで三十数基あり、家々の辻にもあって、その数にまずおどろかされる。西沢氏の家の入口にも水田の石垣の上に無造作に置かれている。このように多数の道祖神がこの地にあろことについて西沢氏は言う。
 昔(おそらく江戸から明治のはじめか)には、麻績へ抜ける街道であったという。修那羅峠越えは有名ながら、こちらも多くの旅人が通ったという。伝承では、武田軍の支隊が通ったらしい。佐久から北信、安曇へ出るには幾つかの峠が発達したが、いずれも利用されていたという。
 最終目的地の位置によって使い分けられたのであろう。武田氏などは、度々北信へ軍隊を派遣していたからうなずける話である。
 武田信玄と飯縄権現とのつながりも深いものがあって、このルートは武田氏の秘かな軍道のひとつだった可能性が高い。
 B 飯縄山の城址について
 西沢氏は山頂の城址について、信州大学の調査に参加し(S30年代)よく記憶していた。そのときの状況と調査結果のコピーをもっていて我々に示してくれて時間の経過も忘れるほどだった。
 先に飯縄山の頂上部のことにふれたが、この山の南から東へかけては平坦地が多く、この部分にかなり大規模な城が中世のころに作られ、これは真田氏(上田市)の時代より古いものという。
 また山頂の南面の支尾根にも城があったという。
 これは地形からみて砦のような性格のものだったらしい。
 いずれにしても、せまい地域にこれだけの城を築く必要があったことにおどろく他ない。
 私見ながら推定の見解をひとつ述べておきたいと思う。
 唐突ながら「加賀藩の隠し道」というものがある。これは北陸の加賀藩と江戸藩屋敷とを結ぷ道のことで、これが両者の最短距離を結ぷ直線であったという話である
 加賀藩は外様で何かと幕府の観視下にあったことから秘密の連絡路をもち特別の飛脚が通る道を確保したというのである。この道がどこにあったかを調べる人は昔からあった。最近では、池内紀氏が自分で歩いて、道標、石仏などの調査から推定されている。
 それによると、江戸、秩父、十石峠、佐久、望月、別所温泉、修那羅峠、麻績、大町、針ノ木峠、立山となっている。成程、これならほぼ直線で金沢まで到達する。識者の定説も、このルートで落ち着くとみてよいが、細部ではまだ変更の要がありそうである。それが別所温泉付近である。
 加賀の飛脚が温泉に入る必要はないので別の、より直線に近いコース設定を考えると、望月、丸子、当郷、真積、聖、大町となる。これなら、より直線に近くなる。但し当郷から奥の道は現在廃道となっていて辿ることはできないが、西沢氏の話で昔は安坂へ抜けられたと言っている。当郷という山村が現在とは違った顔をもっていたことが西沢氏の話で充分納得できた。
 むろん加賀の隠し道の件では、他に、室賀を経由するものや、望月、長門、武石、保福寺峠、四賀又は本城、大町というコースも考えられる。  おそらく複数のコースが設定されていて、事柄の性質によって使いわけられ、また重大な密命をもつ場合には同時に複数人員を複数コースに走らせたかも知れない。
 加賀の隠し道については、研究者のうちには、証明、証拠がないとして取りあわない傾向が強いが、それは事柄の性質上秘密裏に処理されたのであって、証文や証拠を残さないのは当然のことであった。証明できないから無かったのではないのである。このあたりに文科系の想像力が意味をもつのである。今後にも面白い題材として研究してみたいものだ。
 山名辞典の取扱いについで
 平成9年に竹書房から堂々たる山名辞典が発行された。
 監修が池田末則氏、編著が村石利夫氏で、特に池田氏は地名研究の第一人者で信頼できる人だったので、これでもう山名でなやむことはなくなるのではないか。長年山名、地名で苦しんできた小生としては困難からの開放が約束されるものとすぐに書店へ走ったものである。
 しかし内容をみて少々問題のあることも判明して買うのを中止してしまった。
 小生の関心の深い地名の幾つかをみてみる。例えば「聖山・聖岳」を引くと、両山とも、聖と呼ばれる行者が山中に庵を結んだことによると出ている。中信の聖山や広島の聖山の場合は、この解説でよいが、三千米峰の「聖岳」の場合は困ってしまう。これだけの大岳で厳しい山に庵を結ぶ聖が居たかとなると、かなり、アブノーマルな想像を必要とする。
 また本編の主題である「飯縄山」の件では、三件が出ている。このうち本山別格とすると、まず、上田当郷の飯縄山であり、小川村の飯縄山である。新町の二つの飯縄山は除外されている。
 このうち小川村村の飯綱山では、出典を資料@のコンサイス山名辞典に求められたことを示すように標高を全く同じにして間違ったままうつしとっている。それは良いとして、解説の内容も奇妙である。
 飯縄山の山名由来としては先にあげたもののうち(4)をとっているのは妥当性が高いのだが、問題は(4)の説の上半だけにしていることである。
 飯縄山の本山において地形的な特徴として、イスナの由来を示す「飯砂」が認められるにしても、他の飯縄山には、そうした特徴はないのである。名の由来が他の山に当てはまらないのである。(4)を正しく理解すれば、後半の「飯縄山(本山)におこった「飯砂の法」が各地に伝わって飯縄山が出来た」のである。
 地形・地質が同じではなく「飯砂の法」が伝播したのである。
 この辞典はどうやら時間に追われて早く出すぎたのではあるまいか。

 結語
 飯縄信仰とはいったい何であったのだろうか。
 原始的な信仰の形態を残しながらも、仏教や地域的神道の影響を受けて習合し独自性を失なって行くなかで中世から戦国時代に大きな勢力を得た。  この時代の特徴として戦勝と武運の長久を願い、それがさらなる要求となって、もともと内在していたアニミズム的な呪術、妖術、奇術、祈祷といった傾向が再評価されて行ったとみることができる。
 武田、上杉、真田などの近隣の武将はもとより、主に東国の武将たちによって信奉されて行った理由もそこにあった。
 他の地場信仰や、山岳信仰などは、一般庶民に向けた信仰形態に変化して行ったのとは好対照をなしたといえる。
 戦国期の不安感から各地の武将(主として東国の)の求めに応じたのが「飯縄の法」というもので、これが呪術、妖術的な性格をもつものであり、修験の色彩の濃いものであった。秋葉山の三尺坊や、愛宕山の「勝軍地蔵」などの天狗連合ネットワークなどが飯縄信仰のデザイン作成に加担し、強力な体系を作り上げたものと推察される。
 武田、上杉を大スポンサーとして彼等の勢力下の地域に飯縄山(信仰)が分派されて行ったのである。この時代の分社の数はかなりのものがあったと考えられるが記録は残されていない。
 江戸期の記録では、松代藩(天禄10年)で、八十八社。明治初年で、九十八社(長野県町村誌)とあるが、前者は松代藩内の数に対し、後者は長野県全域であるから調査方法や精度を問題としながらも全般には急速に数を減らしていることが分かる。
 武田・上杉時代にはおそらく、村の数だけ祭祀されていたと推測されるし、飯縄山分社も意外な山に存在したかも知れない。
 明治の「神社合祀令」のように、各地に散在した小祠のような弱小のものは集められて、村社・郷社のような所へまとめられた可能性が高い。意外な所に偶然発見するかも知れない。
、武田・上杉の時代に盛んになった飯縄信仰は、主として東国の旧時代の武将によって資金的保護がなされたとしても、西国の新時代の例えば、信長・秀吉といった武将や、キリシタンにとっては邪教以外の何者でもなかったから、西国において飯縄信仰は育たなかったのは自然な成り行きと言える。  しかも、信長が勝利し、武田が没落したとなると飯縄信仰は低落の一途をたどることになった。
 飯縄と関係の深かった愛宕などの信仰は、明智光秀も本能寺の信長襲撃の直前に祈祷拝参しているが、このような旧態の武将は時代に呑みこまれて行ったということになる。
 戦国時代が終り、家康が天下をにぎると、あれほどもてはやされた武断派や、戦闘的な技術は衰退の道をたどり、武術も平和の維持するもの、例えば柳生流のようなものが将軍の指南役に抜擢される。実践的な剣や、居合いのような人を殺すのを目的とするような術は必要としない時代となって行くなかで、飯縄山のような信仰は信者を失う傾向はさけられないことであった。
 飯縄のような山岳を中心とする信仰は他の山岳信仰と同じように、仏教化するか、民衆を対象とする方向へ習合して行くなど、庶民的、一般社会ヘシフトされるのが普通の姿であるのに、飯縄は孤高の誇りが災いしたのか、あるいは武田・上杉時代の繁栄が忘れられなかったためなのか明らかでないが、この微妙な時代に、確かな判断をするリーダーに恵まれなかった可能性がある。
 適切な表現でないかも知れないが、ニ階へ上ってハシゴをはずされた状態のまま、ついには民衆の支持を失って、荷稲などへの改名(改宗ではない)が進み、過去が不明のままになったのではなかろうか。

※この原稿は京都山の会会報(青嶺)531号〜534号に記載されたものの転記である。

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聖岳語源再考
 この原稿は「青嶺」343号の「聖岳を読む」に対応して書かれたもので、これを読まれることを願います。

 先に南アルプスの聖岳と同類で「聖」の漢字をあてられた山々について、深田久弥著「日本百名山」を例にあげて一考察を試みた。つまり聖の解釈として「高野聖」をあてた理由は理解できないわけではないが、本来の「聖」は、中国流の「聖者」の意をそのまま流用するようなものではなく、日本流の聖が別に存在することを述べた。高野聖は、日本流聖の典型であり、その他にも当然多様な聖が存在したのである。聖と俗との混合した聖の真の姿を知った時、聖岳の価値が減じると思われる人も居るかも知れないが、実際はそうではない。聖岳はいぜん社会のなかで堂々たる位地を占めているのである。国史大辞典(注1)は、日本の聖を大別して、念仏聖・遊行聖・勧進聖・唱導聖・高野聖などをあげ、近世には三昧聖という葬祭に関与する聖まで排出したと述べられているが、その他にも現実に明瞭に識別・区別できない無段階的な層の聖があって、実際にはそのような階層が大部分を形成していたと思われ、先の区分は後年になって成されたものにすぎない。
 聖の多くは奈良時代の民間仏教を出発点とする「庶民教化の先端にいた民間の宗教者」(国史大辞典)というのが定説とする一方、仏教以前に存在した宗教者が、仏教伝来にともない教義の習合をみた結果とも考えられる。むしろ後者の方が確実にあり得たのではないかと考えている。
 ところで拙文「聖岳を読む」を読まれた方から手紙をいただき、聖岳の由来について、高野聖などではなく、もっと土俗的な意味をもつはずと、ご指摘をされ、文献として「コンサイス日本山名辞典(注2)三省堂、及び「富士山はなぜフジサンか」(注3)谷有二著、山と渓谷社などを示された。
よく勉強されていると感ずると共に、拙文は聖岳の由来については言及するつもりはなく、唯、高野聖の解釈について述べたつもりだったが、はからずも聖岳の語源・由来について踏み込んで行かざるを得ない立場にあると認識したのである。
 聖岳の語源・由来については「聖」の意味の解明と南アルプスの一雄峰になぜ聖の字があてられたのかの二点を解明する必要にせまられる。
まず聖岳の由来について、山岳関係の書からみてみたい。

<コンサイス日本山名辞典>(注2)
 この辞典は三省堂の辞書シリーズの一環として、日本の山名を取上げたもので、初版は事実誤認があったとして回収され、再出版されたものである。山名について多くの類名のあるものについては由来・語源の説明があるが、その他は、所在地を表示するにとどまっているから、語源を探るについては不満が残る。
 「山名は南東を流れる聖沢が、ヒジを曲げたような形をし、その「ヒジル」から転化したといわれる」と他の文献からの引用といった形をとりながら、ヒジという人体用語を語源に採用している。その引用されたとみられる文献について表示がないものの、他の文献同様風聞に近いものを採用している。

<信州百名山>
 信州は山国で、百名山を選定するのに大変な苦労をされているが、ここで、聖岳を著者は「ヘブる」からの転と聞いて、一応受け入れているものの失望の意を表されている。聖岳という大岳に対する語源に対する扱いとして不充分の感をもたれたものと思う。しかし他に調査はされていない。

<信州山岳百科>(注5)
 信濃毎日新聞社が発刊した三巻に及ぶ大冊で、信州の名ある山岳をほとんど網羅している。
 この本では二説あげており、ここでも「へつり」からヘズリ沢が発生し、聖沢になった説と、「南信濃村史」の、近づき難い山の印象として聖岳の名が発生したのではないかとの説をあげている。
 名古屋渓稜会が「山と渓谷」誌に発表した聖岳西面の地域研究において、地名にふれた一項があり、ここでも前例の「ひじる」→「ひじり」説をあげる他、聖岳から沢に向って(聖沢)肘を張り出しているようにみえることから「ひじ岳」→「聖岳」へと進化した説などをあげている。
 その他にも、昭和6年発行の地形図に「セイダケ」の名称があり、これは、遠山地方でいうところの「西沢ノ頭」にあたるらしい。また、この山域の西側一帯、伊那側では「遠山」を聖岳と考えることがあったという。
 小島鳥水の「白峰山脈の記」には南アルプスの全域をとりあげているが、赤石山脈の名称の源流として、古歌を論考して推定を試みる部分がある。これによると、古来赤石山脈の中核部をなす、赤石・荒川・聖岳などの大岳は、街道筋などから見えない深部にあり、古代から中世に至る間にも土着民以外の人の目にふれず、話題にのぼることもまれであったと考えられる。そこで鳥水は古今和歌集から二首の歌をあげて論考するのである。
 ○甲斐が根をさやにも見しがけけれなく
  横ほりふせるさやの中山
 ○甲斐が根をねこし山こし吹く風を
  人にもがもや言ってやらむ
 さやの中山は東海道中の小さな峠で、普通「佐夜の中山」(小夜の中山)といって、西行もこの地で歌を詠んでいて、東海道を旅する人々にとって、一服の涼とでもいうべき好展望を得られる所だったようである。
 ここで「甲斐が根」が問題となるが、通説では、これを富士山と考えるのが一般的であるが、鳥水はこの説に同調しない。
 曰く「この佐夜の中山から見た甲斐が根というのは、富士山のことであるか、白峰山脈中の或山であるかというに、私はこの土地を踏査の結果、富士山でなくて、白峰山脈中の山であると信じているのであるが……」と述べている。
 W・ウエストンも「赤石山登山記」や「峠路」で、白根山のことを「甲斐が根」と呼ばれていると記している。
 甲斐が根の甲斐の字は、甲斐国より峡間をとる考え方もあるがどうか――。
東海道の佐夜の中山から甲斐の山が見えないのは明らかとしながらも、重々打続く深山は、それらの山の彼方には甲斐国があると見立てることも可能である。
 「甲斐が根」は古歌からみて、明らかに南からの視座であり北方に連なる重々たる未知の空白部(山岳部)が、やがて甲斐国に続いていることを示唆しているかに思える。この視点からすれば、甲斐が根が、甲斐国に専従すべき性格ではなく、北方の重々たる山並みの総称としてとらえたのではないか、又は、後になって、白根や赤石といった大岳の連なりを指す意味としてとらえることも可能だったかも知れない。
また「甲斐ヶ根」が富士山であるとの説も、富士が甲斐国の専有でなく、むしろ駿河の山とされる江戸時代の認識からして不都合にみえる。
両者とも決定的な証明を欠いているが、強いて言えば前者の方により理がありそうに小生には思える。
 「甲斐ヶ根」という名称にこれほどまでにこだわる理由は、この国の地名認識の慣例にある。この国では昔から地名を地理的名称と限定せず、もっと広い意味をもたせて来た歴史があるからで、地名の区域もあいまいなものが多く厳格ではなかった。人の移動で区域が拡大したり地名そのものが移動した例さえ存在する。
 西欧文明が激しく流入した明治以後の限定的地名認識をそのまま江戸期以前のものに置きかえることの無謀さを知っておく必要がありそうである。
地名移動の例として信頼できるものに「吉野」がある。
 吉野の原意は「好ましく人間に優しい土地(野)であり、単なる農耕地でない部位」と読めるが、この意味では里山のような感覚をもってしまうが、実際には人が住み、また利用していた所である。
吉野山という場合には、その山は「吉野」という原意をふくむ山ということになり、人間の利用に耐え、しかも大きな恩恵をもたらす山ということで、吉野が「山」より先にあるのである。
 「吉野沢」(谷)も全国に散在するが、慨して滝の少ない通行しやすい沢(谷)である。これを通行者(遡行者)だけの判断に求めるのでなく、里人の利用活用が多く、しかも恵をもたらす沢の意と理解すべきものと思う。
 その「吉野」が京都大学の足利健亮教授の研究では、吉野川の右岸だったものが、その後に左岸に移り、吉野山となって決定的になったという。
もっとくわしく分析すると、この地方は、高取山と芋ヶ峠を分水界とする南側一帯であり、高取山の山足が吉野川に向って落ち込む手前で一旦角度を変え、その後はゆるやかに川辺へ続くのである。これが挟義には上市から、下市までの間であり、広義には、現在の五条あたりまで続くのである。
 狭義に解釈するとして、この一帯は北方からの風を断っ高取山に守られて南面する。人間が住居とするも、農耕するも最高の自然条件をもっていることがわかる。この土地に早くから人が住み、一定の規模となり、市が発生するのはもはや自然現象といっても過言ではない。
 飛鳥に都が出来る以前より、もっと言えば石器及び縄文時代から、この地は「吉野」であったはずで、現在、六田(ムダ)の橋名となっている「美吉野」が本来の姿を伝えるものと思われる。
 その吉野から正面に朝夕必ず見ることになる山が「吉野の山」となったとき、その山が本来の「吉野山」の名称を引張る役割を演じてしまったのである。
 このような例は他にも無数に存在するはずだ。
 長い言い回しになったが、「甲斐ヶ根」をどのように理解すべきかの「考え方」を提示してみたかったからで他意はない。
 しかしそれらの名は聖岳の名称発生よりはるか以前に溯ることになると思われるので一応措く。
 聖岳の名の根拠として最も信頼され定説化されているものは、前述の「ひじる」(肘)「へずる」(這いずる)の類似の二説である。
 <富士山はなぜフジサンか>山と渓谷社の谷有二氏は、以上の説を分かりやすく解説してくれる。つまり、尾瀬ヶ原の景鶴山と同じく、ケイズル→ヘイズル→(這いずる)→ヘズル。となり、聖岳の方も、ハイズル→ヘイズル→ヘズル→ヒジリ→聖。という図式を示している。これが現在定説とされるものだ。
 これで聖岳の名称論議は完全に終わったかに見えるのだが、はたしてそうか、実は本格論議はこれからなのである。
 その後、月日を経て忘れかけていたころ、新に新解釈があることが分かった。
 それは「山名考」(注6)池田光二著という私家判で著者の死後、家族が出版された遺作であった。
 そんなかに聖岳のことが出ている。著者は「山名研究」は生涯のテーマであったらしく内容は生々しい。山本朋三郎氏と言えば駿河の有名な岳人で南アルプスに詳しい人である。その人の解釈として「“ひじりあんどん”“ひじり窓”“ひじり棚”などと昔呼ばれた言葉を引用、これら一連のものが四角形をしていることから、聖を角型の形容詞として、天子・高僧の坐る所は聖の座であり、高く四角い威厳の座である。それに似た長方形の切り立った山頂の形から“聖の座に似た形の山”と名付けられたのでは、という推論です」とあり、続けて、山本氏は前の説の他に「聖沢の頭の山で聖岳という沢名語源説と“ヒジる”が腕の肘から来る動詞で“曲がりくねった沢の頭”説もあるが、無理な類であると納得しない」という。
 そして池田氏は、自説をあげておられる。それは「“はいずる”“ヘブる”“ひじる”の転訛説で、へづり沢・へづり山とか呼ばれたものが、いつしか高い山を畏敬する気持ちと一つになって、聖岳とした方が自然に受け入れられるのではないか」といわれている。そして他にも類説のあったように、尾瀬の「ヘイヅル・ケイヅル」転訛説に同調されるのである。
 ここで、池田説は他に類型があるが、山本説の「高僧の座」説は目新しいので取り上げるべきものと思う。
 この説は、後に提出する小生の説とも共通する部分も少々あるように感ぜられるので無視するわけにはいかないのである。
 その件は後に扱うとして、まずは、沢名からの転であるとする説について言及してみたい。
 日本山岳会の会報などを通観してみると、日本の山名は、沢の名が、そのまま山名になる場合が多いと言い、赤石や、聖の場合にも、その例が認められやすい素地となっていたとみられる。この見解は、その山岳の周辺で生活する住民の使う名を尊重する立場であり、沢筋は人間の生活の場及び通路ともなっていることを裏書している。
 しかし沢の名が山名になるには一定の条件がある。その山岳が、他の地域の人間の視野に入らない場合や、遠望の視界に入らない死角になっていたり、重々たる深山の、さらに奥に存在したりする場合などである。それらの山岳の存在を特定の地域住民が独占に近い形で意識的、あるいは経済的に専有してきたようなローカルな山岳において、ほぼ前述の例が多数認められ、現実には、低山あるいはマイナーの山に多く見られる。
 これと対照的な見方としては、名著「名山図譜」や日本の名山のほとんどが沢名でなく、逆に山名から沢名が発生している例が多いのは、その山岳が、特定の地域的存在から脱して、より広域の意識的存在になっているからである。日本のほとんどの名山はこの例にあたる。
 岩科小一郎氏は「あしなか」(注7)33輯「山名覚え書」で、山名の発生について3例あげておられる。
 遠望地名、利用地名、占有地名などがそれで、他に宗教地名・事象地名・形態地名などがあるが、それは措く。
 遠望地名は、日本の大岳のほとんどがこれで、広い地域の共有的存在となり、旅人の見聞するところとなり、中央の関心も生じたのである。
 遠望地名に対して、利用地名や占有地名はローカルな地名と考えられ、沢名が山名となるのも、この例に入る。このようにローカルな地名が、全国的に認知される場合は、登山者が地元で地名採集したり、参謀本部の測量部が調査して図上に表示するなどとなったことによる。
 荒川岳や、赤石岳や、聖岳が沢名より発生したとする説は以上の例による。しかし以上の三山が、沢名より出たのなら、極めてローカルな山ということとなり、この点でも相当の疑問が残る。(深田久弥は「日本百名山」で荒川三山のうち一番高い東岳を「悪沢岳」と表現している)
荒川岳が現存する沢名と同一なのは明らかであるにしても、本来は「荒川」という表現は、山と一体として認識されていたと考えるのが正しいのではないか、沢や川の名が地形の様子を表現しているのは当然とするが、荒川の場合は荒川岳の大崩壊という激しい地形的特徴を表現しているのだから、これを単純に沢名と考えるのは間違っている。小渋川が、はじめから荒川とよばれているのであれば確かにその説は納得されるが、3000mを超す大岳の名には、その存在感の巨大さからみて独立した名が使われるはずだ。

<赤石岳の場合>
 赤石岳の場合も赤石沢の赤い石(ラジオラリヤ)をもって沢の名が生じたとされるが、実際には聖沢や周辺の沢や尾根一帯にも赤石がみられることは、この付近を歩いた登山者ならよく知っている。特に聖岳一帯の赤色チャートの規模は相当のものがある。
 昭和17年「幽山秘峡」を書いた三田尾松太郎(注8)は次のように記述している。「登路に美しい赤色の岩塊が到る所に横たわり、恰も聖僧が緋の法衣を纏っているかのよう。聖という名も何だか此の石に因縁が有ったように思われる。
 赤石岳ではなく聖岳でも赤色チャートの大規模な露頭に注意を及ぼしている点に注目される。赤色チャートは赤石岳(沢)だけに存在するのではない。
 また、大鹿村の大西公園あたりから小渋川の奥に端正に静まる赤石岳の姿は無積期には赤く見えることはよく知られている。以上の実例からしても、赤石の由来が、赤石沢だけに存在すると考える根拠が乏しくなる。しかし、赤石沢にはラジオラリヤが劇的に露出していることは事実であり小暮理太郎も尾根から赤いラジオネリヤの露頭を見たと「山の憶い出」(注9)に綴っているくらいだ。
 赤石沢だけでなく、この山域全体に露出する赤い岩の存在などの情報が集積されて「赤石岳」の名が妥当性をもつに至ったことは容易に推測される。従って遠山からはるかに遠い赤石沢の情報のみが赤石の名を決定的にしたのではなく、むしろ山体(地質の特徴)からくる山名の方が優先するのではないかと考えられる。
 明治8年来日したドイツの地質学者ナウマンは「日本列島の構造と生成について」という論文の中で、後年有名となった「フォッサマグナ」を発表している。
 吉田口から富士山に登り展望した結果、日本中央部を横断する大きな裂目を目の前にして奇異の感に打たれたのが端初であったという。
 この時、すでにナウマンによって「赤石山系」という表現があり「赤石楔状地(スフエノイド)という地質上の名称が使われている。ナウマンが、なぜ「赤石」の名を使ったのか、地質的特徴による表現なのか、または、その土地で使われていた里称を使ったのかは不明である。ただナウマン教授の地質学教室から育った若い学者達が「赤石楔状地」と呼ばれる天竜川と富士川との間の大山塊の調査を命じられ超人的な登山を行った記録が梓書房発行の「山」10月号(昭和10年)に出ている。
 これは当時その登山を敢行したなかの一人横山又次郎という地質学者が80歳を過ぎた老境にあるとき、その業績の巨大さ、先駆的な仕事の重大さに気付いた「山」編集者が、横山又次郎の研究室を訪れ、聞きとりの形で綴ったものである。
 「南アルプス横断の思い出」という一文にはテントもない軽装で途方もなく長大な旅行を敢行していて、後年10日間で南アルプスを単独で縦走した加藤文太郎のそれをはるかにしのぐ猛烈なものであった。
 「南アルプスと現在言われているが、ナウマン先生が指示されたフォッサマグナの西側(東側の誤りか)にある厖大な赤石楔状地(スフエノイド)と呼ぶ山地を、先生の命によって、地質調査所に奉職したばかりの我々が実際に踏破豫察してやる、と言うのがこの登山の発端である。赤石と呼ばれたのは先生が白峯の名を知っていられなかったからかも知れない。」というのが要点であり、明治15年8月3名で、富士川と天竜川とに挟まれた山地を東西南北網の目のように踏査に出かけるのである。
 地質の専門家とはいえ登山の素人が、不充分の装備で、しかも「当時参謀本部の図面は未だ出来ていなかった。同部が測量を始めたのは一両年後である。」という状況で未知の山岳地帯に踏査を敢行するのは、現在なら完全に無謀と批判されてもしかたがない。
 しかし彼等はこれをやりとげ、赤石岳にも登頂をはたしているのである。
 その成果とは別に、ここで注目したいのは、ナウマンが名付けた「赤石楔状地」や「赤石山系」という名称である。前述引用文のなかにも、白峯という名称が、この山地に流通していたはずで、それをあえて「赤石」という名を使ったかが謎である。
 ナウマンが白峯の名を知っていて、あえて赤石を使った場合と知らなかった場合とがある。
前者の場合なら、赤石周辺の地形的、地質的特徴が、他と著しく異なっていると認識したことになるし、後者なら、富士山に登ってフォッサマグナの東に展開する大山塊の盟主が、赤石岳を中心とする位置にあるとみた結果に思える。
 ここで当然のこと、ナウマンが赤石岳の名を生み出したとする説について疑念が生じることである。ナウマンが「赤石」の名を使った原因は、やはり地元民(特に大河原と思われる)の一部がアカイシの存在を意識して登山者にそのことを話し、また彼等も、この山(赤石岳の)他の山とのいちじるしい違いとして「赤石」の存在をアピールしたはずである。
 しかし地元大河原において、この時代には「アカイシ」の名は本命ではなかった。「日本山嶽志」(注10)の補遺編にて、小島鳥水の説による「赤石山ハ、絶頂三岐シ、荒川嶽・鍋伏山・赤石岳ノ三連峰ヨリ成レルガ故ニ、名ヲ三ツ峰トイヒ、絶頂ニ祀レル山神ヲ、三ツ峰神トイヘリ、或ハ曰ク、総称シテ荒川嶽トイヘリ(以下略)」とあって解題に時間を費やす必要がある。
 このうち鍋伏山は、明らかに現在の小赤石岳であるが、荒川岳(この山も三個の峰から成る)から事は複雑となってくる。
 しかし明瞭なることは、アカイシ以前に「三ツ峰」と呼ばれ、あるいは荒川嶽と認識されていたことがある。この場合、荒川嶽の名称は、何かの聞き違いか、発言者の思い違いの部類に属するものと思われるので外すとして「三ツ峰」の方は、山が信仰の対象とされ登拝されていたことを証明している。
 単独行で有名な加藤文太郎は「南アルプスを行く」の文中、小赤石の南に「蚕玉大神」が祭祀されていると記してあると述べているが、現在は何もないし人からも聞かない。むしろ、登拝を怪しみ、信仰そのものが無かったと主張する人すら存在する。
 「蚕玉大神」は明らかに、養蚕業者の奉ずる神で、信州では、どの山頂でもよく見かける石碑でめずらしくないが、これだけが登拝の原因だとは思われない。必ず、山そのものを尊敬する本来の祭祀の形式があったはずである。蚕玉神は、その主神のもとに合祀された脇役にすぎないとみている。
 本来は、もっと格式高い神が山頂の座(山頂は神が天空と地上を往来するために聖なる場所として空白とする)に降臨するするという形式のもので、山頂ではなく、少し下った岩陰のような窪地に祠を造営したはずである。
おそらく山頂をいくら精査しても何も出てこないのは当然のことで、岩陰や、南面する窪地などに経筒などが埋められている可能性を排除できないのである。
 ではなぜ「三ツ峰」が「アカイシ」に変ったかである。この問題は推測の域を出ないが、おそらく地元の現状をよく知る山師や、猟師その他の山稼人夫のたぐいが、この山の独特の岩質の色をもって、ごく仲間うちに「アカイシ」の名を使っていた可能性がある。
 これを地質調査をする一団が聞きつけ、報告したことから、彼等によって採用されたとみることも可能である。本邦で採用されてきた地名由来の原因則によらない、科学的な調査(地質の)による極めて合理的な採名の方法である。
 山をながめたり、歌や古伝説にもよらず、ひたすら山と密接につながってきた人間によって山名が確定しためずらしい例ではなかろうか、これが3000mを超す大岳に生じたことが面白いし愉快なことではなかろうか。
いずれにしても、この時期から「赤石」の名は、地質学の進展と共に急速に流通しはしめるのである。
 以上のような状況を踏まえて考察するなら、やはり赤石の名は、ひとつの沢の名から生じたローカルな名称ではなく、地質学的特徴からくる地学的名称であることが納得されるのである。
 ここでも「赤石岳」から、赤石沢が生じた可能性が非情に高いものになってくるのである。 甲斐ガ根あるいは、白峯、白根などがつ使われていた時代から近代科学によって急速に正確な地形を掌握し、三峰から派生する大井川西側の大山脈を「赤石山脈」と称するようになった可能性が非常に高いとみなければならないのである。

<聖岳の場合>
 聖岳の場合はどうか、前述理由からして単純に沢名を使ったという説には疑問が残る。そこには山名は沢名より発生するという図式が固定化し習俗化していないか、語呂合わせのように強制付会した可能性を捨て切れないのである。
 例えば伊那側の遠山では西沢ノ頭(山)を使い、おそらく通俗的には「西山」の名さえ使用されないのではないかと推測する。それらの名をなぜ使用しなかったのか、遠山の地が中央と継がった歴史は古く、大井川奥地に人が入ったのは伊那側の山人、つまり杣や猟師、岩魚釣師だった可能性は高い。
 冠松次郎の「遠山郷」には、その間の事情について示唆に富む内容の一文がある。
 「大井川最奥の集落である田代、それから寸又川の谷奥の人達は、信州の遠山方面から大井川の谷へ入って来た落人だという話である。とにかく大井川の下流からは勿論、安部川から大日峠を経て大井川へ入る道もなかった昔、これら集落の人達は生活用品を求めに、信濃俣から易老渡に下り、はるばる遠山の和田まで出かけて行ったという。そういうことから、大井川の奥は遠山川の方から開けて行ったのではないかと思われる」と述べている。
 おそらくこの地方の開発状況を歴史的にみれば遠山が突出して先んじているのである。
霜月祭や、花祭りの古態、あるいは都との交流の歴史の古さを思えば遠山の古い時代の活況は、背後に聳え連なる巨岳と大河の恵によるものであったことは容易に推察できるのである。
 大井川上流部の空白部は明らかに伊那側から、なされたものであり、そうした意味では、巨大な山岳が壁として人間の活動を規制していたという事実は少ないのである。赤石沢の名も聖沢の名も、沢名から発生したというより、この山地に興味を示してきた多岐にわたる人々の山岳観によって発生したと考えるべきだ。
 赤石岳から赤石沢が生じたとする論も先に述べたが、聖岳から聖沢を生じたとするのもあって良いと思う。むしろ聖岳は逆の方が正当性があるのではないかと考えられるのだ。
 先に聖沢は「へずる」や「ひじる」から生じ、最も有力なのが「へずる」つまり沢を歩く際に側壁や廊下をトラバース状に移動することとされるが、それならば、周辺に「へずる」べき必要度の強い沢は沢山あるのになぜ特定の沢にその名が残されたのか疑問が残る。
 さらに「へずる」沢がなぜ簡単に「聖岳」になり得たのか、聖岳が成立する前に「聖沢」が成立している必要があるのに、その経緯が欠落している。
 多くの先例に習って、聖岳の名をも沢名から始まったとするジンクスに同調するために急いで、「へずる」又は「ひじる」の沢名を「聖沢」という好字に格上げしたか、である。
 そのような地名の進化は当然可能ではあるが、なぜか、なぜそうなったかの経過を知る人は居ないのである。また文献も無い。おそらくは地名探索をする人の思いいれが、「本物」を作りあげた可能性が高い。
 「聖沢」の前身が「へずる」「ひじる」沢であった証拠が見つからないことは、この説の重大な欠点という他ならないのである。悪く解釈する嫌いはあるが、場合によっては「聖沢」から(へずる・ひじる)の名が考案された可能性すらある。
 「へずる」「ひじる」という土俗的(土地の人が使うような)な名称を採用したとみせかけた可能性もある。つまり「へずる」「ひじる」の代表的な二例の地名が聖岳成立以前に確かに存在したという証明が得られていないことは、それを暗示している。
 なぜ一例ではないのか、もし土地の俗称を登山者や地理学者が採集したのなら、どちらか一例のはずで、全く意味の異なった二例をあげて口語体として同一視する方法はとらないはずである。ここに「へずる」「へずる」の語源説は、先に「聖岳」があって順次沢名へと移行して行った過程で、苦しまぎれの語呂合わせに作文された疑いが濃厚になるのである。
 「へずる」沢が先にあったとして(無かったかも知れない)話を進めるならば「へずる」という土俗的名称を「聖」という名に変更するのは相当の教養者でなければできない。それなら誰が、それをしたのか、その人物が浮かばないのは当然のこと、無為自然にそうなったはずもないのである。「へずる」又は「ひじる」から聖沢及び聖岳が成立したとする説は実は重大な欠陥のあることが分かる。その点を明らかにできない場合には強制付会の疑いが非常に強くなるし、地名移動の慣習をあまりにも簡易に適応してしまった結果ともみられかねないのである。

<山名から谷名へ>
 私は実のところ聖岳は、山名が先にあったという説に傾いている。その根拠をこれから述べてみたいと思う。
「富士山はなぜフジサンか」谷有二著は先に取り上げたが、聖岳の「へずる」説の分かりやすい説明と同時に、それに対する反証になる資料も豊富に集められている。氏の研究姿勢の素晴らしさを物語るものであるが、その中に「幕末の頃の「駿河志料」という本には「日知ガ岳(ひしり)」とあるので、朝日岳方式の朝日が一番早く当る山とも考えられる」という一文がある。「日知ガ岳」は他の文献でも「一番早く日照が当る」という意味で「聖岳」の別称として扱っている。「上河内岳・日知ケ岳・奥西河内岳……井川奥の深山」と駿河志料は記述するが、奥西河内が赤石岳に相当するように感じられて面白い。「日知り」「火知り」は民俗学の分野において大きな意味を認められているものなのだ。
 実のところ「日知り」の意味を知ったなら、この名称は素通りしてやりすごすような微少なものではなく只者でないことに気付くはずである。
 「日本地名大辞典」(注12)(静岡県)角川書店には現在流通している「聖岳」の由来・語源について述べているが、「日知ケ岳」についてふれた部分もあって注目される。
 『西沢ノ岳とも呼ばれる。また早々に太陽の恩恵を受けることから日知ケ岳ともいわれた。(中略)山名は沢の屈曲が肘を曲げた形であること山体が高僧の座、聖の座にていることなどによる』とあって、聖岳に関する語源説の一切を網羅していながら、独自の見解を述べていない。
 ここでも「日知ケ岳」を日照という一面的な扱いで終わっているのは残念である。
 同じ静岡市の一隅に「聖一色」があり「日知り」との関係を調べてみる必要を感じる。なぜなら「聖一色」とは「聖の村」の意だからである。
これと同じ地理的要因をもつ地域が中信の聖山である。この山は、むしろ前述したものと連続した地域としてとらえた方が正しいかも知れないが。
 聖山の北と西の山腹に「聖」の名をもつ村があり、そのうち北のものに樋知神社がある。こうした状況からみて、この山名は村名から来たことが類推される。
 おそらく西日本で「水分社(みくまり)的性格をもつ社が「樋知神社」であり、そのシステムを奉じて社守を認じた聖職者集団が「聖」という村落であったとみることができる。なぜなら、そのような高地で一般農民が生活をおくる理由がないからである。
 聖山から北東へ流れる川を「聖川」といい、北西に流れる川も「聖沢川」である。同じ名をもつ二つの川名の存在も聖の村がもたらしたものであろう。 二つの聖沢を巡る聖山の山麓一帯は犀川と千曲川とにはさまれた標高600〜1000mの丘陵であり起伏に富んでいる。この地は稲作不適で畑地が多く昔は焼畑だった可能性が強い。
 長野市の西部山地の無数の山村群と同じく、この山地にも多数の小山村が山麓にしがみつくように点在している。その小山村の名称が面白い。
 聖川の流域には「聖沢」があり曙・古矢場などがあり、周辺には、花見、花見池(大と小がある)慶師、大月、日方、成上、灰原、日影、軽井沢などが連なっている。焼畑であったことを推定させる地名が沢山みられるのは注目される。
 また状況証拠ばかりながら、この地が他の山村と違った地名と地形、雰囲気を持っていることを指摘しておきたい。
 聖山や聖川の地名の源流をさぐって行くなかで、これらは南アルプスの聖岳の語源をさぐる糸口にもなることが分かる。
 中信の聖山の山名発生の経過は次のようになる。
 1.日知り的職制の発生
 2.日知り者の根拠地の確定
 3.日知り者が対象たる天体と気象の受益者たる農耕民の間に信頼関係を築く
 4.地名(山名・川名等)の発生
 5.以上の経続(時間)による語源発生の忘却
 このようにみてくると、この例が、にわかに南アルプスの聖岳の語源発生と重なるものではないにしても、最も有力な根拠にはなるはずである。
 他の地名(山岳)調査の際に慣例となっている、沢名より山岳名を求める方式は、安易にすぎるように思われる。その方式は他で述べたように、あくまでローカルな地名において普遍性があるものの、中央的な大岳においては、むしろ少数に属するものと思われる。
以上、日知りと聖山の関係について述べたが、もし、それらの「日知り」が本来の「日知り」であったなら、問題の大部分は氷解したも同然だと思われる。
 その「日知り」について知るには山岳関係の文献では無理で、歴史、民族学の分野に頼る他ない。
 「広辞苑」では(注13)
 1.日のように天下物事を知る人、天文暦数に長ずる人
 2.日のように天下をしらしめる人、天皇
 3.物事に長じる人
 4.神仙、仙人
 その他9例あげて日知りの概念を述べている。

 「我が国民間信仰史の研究」(注14)堀一郎著では、聖を「語の元来の意味は、単純に日知りであり、知日の合成になる智とも通じ(中略)即ちヒジリの語は和漢の意とやや異なるものであったにも拘らず、漸く習合し、更には(中略)仏教的用法も混入して来たものであろう。」とある。
 「岩波古語辞典」では(注15)
 1.神聖な霊力を左右できる人、天皇をいう
 2.神通力のある人、仙人
 3.優越する能力をもつ人
 4.高徳の人
 5.行者、修験者
 6.遁世、廻国の僧、時宗の僧
 7.高野聖
などと大概一致した内容となっている。

 吉川「国史大辞典」では
聖・庶民教化の先端にいた民間の宗教者、語源は「日知り」とされ、霊能を有する宗教者を指す。とある。
以上のことからみて「日知り」が聖に転化した経緯が読みとれる。これからみても駿河地方において「日知ガ岳」の名が現れたことの重大さが分かるのである。
 日知りについて、もう少し詳しくみてみたいと思う。
 民俗学では「日知り」を暦のもつ日読みを司る人物として扱っている。「日本民俗文化体系」では「天体運行を判断し、自然暦などを作成する側に立つ存在が日読み=日知りの役割を担っていたのである。それは年号改元の基礎というべき部分に相当する」と述べ、支配権を「日知り」という職能に置いて、「天皇の分身のような形でミコトモチが各地に派遣され、その地を執行した(中略)すなわち国司や国造にあたるもの」ということになる。暦を支配することで国家を支配することが可能となったということである。
 さらに、より地方的・局地的に存在した「日和見」というのも、原始的な「日知り」的形態をもつものであった。例えば村の名主(西日本では庄屋)なども「天気をたえず注意し、作柄への影響に留意しつつ、遊日の設定を行うという名主の機能も表面的には行政上の立場かも知れないが、村の日常生活の根幹と深く関わっている」
 「日和見」は農業を主としているのに対し、海辺の民もより以上に「日和見」をした。それは、「日和山(ひよりやま)という港付近に残る小山によっても明らかで船頭は構造的に不完全な和船の運行に際して細心の注意を払っていたのである。
 南波松太郎著「日和山」(注16)はこの方面のよき資料である。
 漁師など海によって生計をたてる民もまた「日和見」は重大な意味をもち、出漁に際して、特定の見張役(日和見役)を配置し、その判断に従ったのである。その日和見役を「日知り」とし、代々世襲の家筋があったとされる。それはまた、時として呪術的な性格をおびることにもなった。
 鯨をとる港では、鯨発見の第一報は、そうした「日知り」的性格をもつ長老が発し、さらに出漁中の気象と天候急変の予測、津波の監視なども同時に行ったという。いわば、その地域の最大の実力者像が、そこに見られるといってもよい。このようにみるとあらゆる職業的差異を超えて、「日知り」は存在し、その地域を指導統率していたことが判明する
 海を見おろす小高い岩上に、日永座って沖をみすえて動かない一人の人物のありようは、権力者像としてよりも霊能者としての印象が強い。そのおかれた重大な役割ゆえに人々に尊敬されるが、当人の勤めは、けっして生安いものではなかったのである。
 古代盛んに行われた「国見」も「日知り」「日和見」から発展して国盛を山上からみる行為として儀礼化されたものとみることができる。
 宮田登著「日和見」は、おそらく「日知り」に関する和少ない資料、文献だと思われ、そこから自然と人間、特に、山岳と人間との深い関係を知る手懸りをあたえてくれそうである。
 「あしなか」80輯に、静岡の著名な岳人、前出したが山本明三郎の「南アの伝説」と題する一文がある。そのなかに、静岡市内から見える山として、荒川岳、聖岳、大無間山などをあげておられる。山岳重々として、おそらく素人には判別できないほどのものと思うが、そこに聖岳の名があることは、前述「駿河志料」に現れた「日知ガ岳」と符合する。もし、駿河国に天皇のミコトモチが居て、あるいは地方的な「日知り」が住居しており、北方の白い巨峰を天候判断の基準とし、日々観測していたとしたら、「日知ガ岳」の名は、現在の聖岳において残存していてもおかしくない。従ってその「日知り」が「日知ガ岳」となり、多くの原始的「日知り」か「聖」となった例を踏襲するならば、明白に、聖は昔「日知り」であったことになる。これは完全に遠望地名ということになるのである。
 以上の説が事実とするなら、聖沢の名は、山名からもたらされたことになる。また「へずる沢」が、すでにあったとしても、山名と習合することは容易なことである。聖沢以前に、へずる沢、ひじる沢の名があったという事実の証明を確認できないのである。むしろ、聖沢から溯って語源を推定した可能性も排除できないのである。
 また「日知り」が駿河国だけでなく、遠山など、その山が見える位置に存在する村の場合にも有効のように思われる。
 焼畑が主力だった信州北部・中部では、「日知り」の多い地方でもあった。地形の複雑さによる天候変化が農業に及ぼす影響を考えると地方的な「日知り」が無数に割拠し、地域的リーダーとして豪族化したり、宗教者として一国を支配することもあったとみられる。そのような「日知り」の存在は、地方経済・政治と結びつき、それが地名として残っている例も沢山ある。
 谷有二氏があげた、更級と筑摩の境にある聖山と北山麓の樋知神社。これも「日知り」の存在を察知できる証明である。樋知神社などは、明らかに農業に関する水分(みくまり)的性格をもち「日知り」が土地と密着していた好例である。
 更級郡には他にも「樋知大神社」や「日知水分神社」などがあり、中野郡には「日和山神社」「日高見神社」があって、それぞれ村社となっている。これをみても「日知り」が霊能的、呪術を使って占術などを行った性格から変化して、実利的に土着化し、神道のなかに埋没して行ったことがわかる。
 上田正昭氏は、「日置が日神=太陽暦の輝きと、かげりを判じつつ、審神(さにわ)や日読みの仕事に携わる形態から、王権の世襲に伴って、その職能が変化して、日継ぎの神事から、火継ぎの神事にも関係するようになった結果「火置」のような火による浄化の管掌に携わるようにもなった」と述べておられるが、宮田登氏もまた、「日置」が、日本古代の「日置部」「日奉」なども「日知り」であるという。「日置」は西日本全域に分布し「日置」神社」も無数に分布することから「日知り」は、津々浦々に、その機能を発達させていたことが分かり驚く他はない。
 信州にも「日置神社」や「瀧社」などが多くあり、祭神は「彦火々出見命」とあって、なにやら暗示的である。
 駿河の磐田郡津具村に伝わる「日知録」について考えてみたい。
古来、三河、駿河、信州の接する地域は、天竜川の峡谷と深い原生林の覆う秘境の名にはじない土地柄であった。日本一小さな村、富山村に代表される落人の定着、定住する村々は、政治、宗教などにたずさわる人々の隠遁の場でもあった。富山村の「熊谷家伝記」はそうした人々の記録である。
 津具村は、富山村の南、駿河北辺にあって、足助から根羽・飯田に向う南北の幹線路に対して、駿河から根羽を経て明知・岩村に通ずる東西の交通路でもあった。
 津具村の上津具というところに、山崎家という旧家があり、この家の「山崎譲平」という人物の残した「日知録」が注目されている。
 山崎家が、いつから住みついたのか、その職制について知ることができないのは残念であるが、日記のように日々の事象を、ことごとく克明に記録する作業は、遠く「日知り」の職制を想い起こさせるに充分のものがある。
「国境いの村(注18)安藤慶一郎・矢守一彦共著、学生社、昭和47年刊、は「日知録」について、くわしく紹介しているので参考となる。
 山崎家は、このとき、「村に悪疫が流行したおりに、遠州から医書と薬品を求めて救済にあたり、これが契機となって、それ以来、医業と漢学塾をかねることになったという。
 「日知録」が残されたのは近世末である。そう古い文献ではないのだが、大事なことは、この時代にあって、なを「日知り」の記憶が鮮明であることである。しかも、山崎家が村の難事に対して救済事業に奔走している事実である。これこそ、古来から伝承されてきた「日知り」の機能そのものの残映ではないかと考えられよう。
 おそらく近世においてなお、「日知り」的残映を各地の山間部や、海岸部、あるいは辺境において見ることが可能であったことが類推される。
「日知り」の系統に属する人々は、おそらく、各地の神官となったり、政治的有力者となり、あるいは名士となり、その地域の発展に参加したはずであり、山崎家のように、村の難事にあたり、救済に奔走することもあったと考えられよう。
 村に残される旧家・長者・名主・庄屋などに属する名家の遠い過去を知るよしもないが、その家柄が古ければ古いほど「日知り」の機能をもつ霊能者を出発点にもつことが推測される。
 どうやら、「日知り」的機能は、気象などに代表される変化の激しい日本列島の開拓時代にその変化に対応する知恵として発生、発達した海洋民的特徴をもつものであったようだ。
 「日知り」が、そのような習俗をもつ、民族の頂点として、天皇の職制に組込まれ、民族統一の方法論となるのは自明のことであった。
ある日、丹波の低山歩きのとき、日知り(聖)と関連がありそうな社を発見することになった。
 綾部の東、釜輪(かまにわ)町の北に矢所という数戸ばかりの小在所があり、その上に鳥居の印が標高360mの尾根上にみえる。その上方には459mの釜輪二等三角点があることから、鳥居経由をルートにした。
 矢所の民家の横から登路があり、立派な石灯籠があり、100mで昭和4年建立の石鳥居が狛犬をともなって、すくっと建っている。桜と紅葉の古木が春と秋の祭礼の折の美観を約束しているようで、設計も確かな手腕をみせている。このときは11月だったので紅葉が美しく秋空を染めていた。
山野の木でなく、何か都会の寺社にでもあるような花車(きゃしゃ)な柳腰をみせていたのは印象深い。
 しばらくで左に「秋葉神社」が小祠をみせ、矢所から巾1mの登拝路はよく整備されて、約30分で問題の社に着いた。社務所と拝殿を兼ねたような建物の奥は石灰岩の奇岩の露頭が原生林とみられる仄暗いなかに乱立している。この石灰岩そのものが神体とみられる。
 小さな本殿が東に向いて建立されているが、もとより後年に付け加えられたものだ。
 付近の森は自然のまま保たれ神さびた雰囲気が漂っている。立派な社殿をもつ現在の社にみられない古態をたもっているのがうれしい。
馬ノ背状の次の峰にも奥官がありセットになっていることが分かる。
 社の縁起では大和から移動されたとあり「聖権現」と称し、又は「日前神社(ひのくま)」ともいうらしい。
 山家(やまが)の城主、谷氏が保護に勤め4月16日の祭礼には神楽が奉納されるという。
 明治の神社合祀にも生き残ったのは、山家藩主の庇護によるものだろう。
 この「聖権現」(日前神社)をどう解釈するかである。先の由来記には「天元5年5月3日大和吉田村より移す。永禄6年再建」とあり祭神に、「石凝姥命・聖命」と記してある。前者の神はよく分からないが、奇岩を神と見立てた古代の神の様子を想い浮かべることができるが、後者は、これを権現と称することは、付近の山に多くみられる例である。例えば釜輪の中心を流れる乙味川の奥山である588mの山を権現山と称することからしてまず普遍的なものだ。
 むしろ、この場合は「聖」そのものが仏教の関与しない形で残っていることに注目したい。我国古来の「日知り」が「聖」として存在していることは「聖」が仏教以外に存在していることを証明している。
 角川日本地名大辞典(京都府)によると「火の奥古峠にある日前神社は、奥山の権現さんと呼ばれ、雨乞いの神として信仰を集めている」とあって簡単な現代解釈を伝えてくれる。
 この社も、元々は山の奇岩が神とされる神体山の系譜に連なっている。近くにも(この山の北面5km程度)神奈備の社が存在している。「河牟奈備神社」祭神・天下春命(あめのしたはる)とあり、これも雨乞いと関係が深い。また亀岡には「出雲大神宮」が背後の御影山(千歳山の一部)を神体山としていたことは明白で、共に山と神の関係の古態を示している。
 どうやら長い道草をしたようである。このあたりで本道に立ちもどらねばいけないようだ。
 邪馬台国の卑弥呼のことを考えてみれば理解されるように、昔から集団の長は霊能者であって、天体であれ、気象であれ、あらゆる事象を観測して集団の利益に供するのであり、その能力を保持することによって、自らの地位を確保できたとみるべきかも知れない。
 「日知り」はやがて仏教伝来によって、その地位をおびやかされる。焼畑などが稲作普及によって減少するなかで「日知り」の職分が低下し仏教と習合するような形で延命を図った可能性が、柳田國男の「毛坊主考」が教えてくれる。
 毛のある坊主とはいかにも民俗学の分野らしい表現である。
 仏教が中央で教義中心の格式と権威に守られているとき、地方では俗社会の仏教が「毛坊主」によって営まれていた。彼等は寺を建てることもできずにただ、営々と庶民の葬儀や一般儀礼を営んでいたのである。彼等の多くが「日知り」の末であったという。彼等がはたして仏教を理解したとは考えにくい。むしろ何も知らなくても、先祖から受け継いだ形式によって、庶民の役にたとうとしたのであろう。
 中央仏教からは無資格の者とさげすまされようとも意に介さぬ一群の僧が毛坊主だったのである。「日知り」は仏教と習合することによって、「聖」となっても土俗的臭いを残すことになった。
 しかしながら「日知り」は、大部分が仏教に呑みこまれて行ったと考えられる。
 のちの「聖」がすべて「日知り」からの転ではない。そこには、中央の権威ある仏教と、それになじまない一般庶民信仰との格差をうめる職分が新に生まれていたのである。それを仏教と言えるかどうかは別として、各種の零落した知識層であったのかも知れない。
 以上のように「日知り」の顛末をみてくると、深田久弥の「高野聖」説もあながちはずれているとは言えなくなってくる。但し聖が仏教の高僧ではなく、逆に下層の毛坊主に類する自称僧であり、よからぬことにも手を出す者から、中央の得度されないが正真正銘「聖」の名にふさわしい重源のような高僧も居たから話がややこしくなってくる。
 ただ、ここで一つだけ明らかに誤認と思われるものがある。例えば「高野聖」のように、仏教の側から零落した存在として「聖」を観ることである。この視点は明らかに高所から低い部分を見下ろす態度とみえる。これは仏教中心主義と言える。
 反対から観た場合には全く異なる風景がみえてくる。つまり「日知り」の側から見れば新しい思想である仏教の人気(国家仏教による)を利用活用した方が有利とみて習合に向ったと考えた方が正しいのだろう。
 古いシステムをなりわいとして来た知識人が新しく進歩的な、しかも国家が帰依するような新システムに移行しないわけがないのである。
 従って、この場合は「日知り」(聖)の大部分が仏教化して行ったものの、得度されぬまま独力で正規僧のまわりで雑用をする者、あるいは庶民の求める形で仏教のまがい物を提供する者も居たはずである。しかし彼等はあくまで仏教者が零落したのではなく、「日知り」が仏教化したと見るべきなのではないかと思う。極端に言ってしまえば、仏教の教義など無関係に見よう見まねで仏教者の役割を果したのだろう。しかしながら、彼等こそ仏教をこの国のすみずみまで知らしめる役割を果したことは正規仏教の比ではなかったのだ。
 正規の得度僧のなし得なかった巨大な仕事を数と自らの生活のために行った彼等の役割を、仏教の下位に置き、零落した者と見る視点は間違っていると思う。
 平安時代、都で始めて空海が雨乞い祈祷を行ったという。しかしそうした仕事は元々「日知り」の仕事であったのだろう。
 国家が「日知り」に見切りをつけ、仏教を支持したことから「日知り」たちの困難な未来が立ちはだかってきたのである。
 だからこそ、正真正銘の仏(日知りの側からみれば仏も神も同一であろう)の実態と対面しょうと本物の修行をした一群の者も居たのであり、彼らこそ無名ではあったが「名僧」にふさわしい存在であったのだろう。
 南アルプスにおける聖岳や、赤石岳の名が、はたして、沢の名から転じたのかは、以上のことからみて、再検討されるべき時がきていると思われる。少なくとも、現在定説化している山名由来説は崩壊するのではないかと考えている。
 沢名から山名が導かれるという方法論は、山岳名を決定する際に、今や定説となり、何でも、この論拠に従う性癖ができてしまっている。が、しかしその方法論はローカルな場合に限られるのではないか、今まで他の地域の人々の知り得なかった土地において使用されるべきものではないということを我々に教えてくれているようにも思えるのである。
 地域を越えた象徴的な名山、例えば富士山のような大岳は中央から名がもたらされるのであり、周辺の地域が仮に名称をつけたとしても広まることはなく消えていくのは必然となる。この場合は逆に山岳名から沢名・地域名が導かれるのである。
 古来から名山とされ、古文献に登場してくるような山々は、おそらく五街道といわれる古い幹線道路からもよく見える偉出した山容を誇る山であって、特定の地方でのみ見られていた山ではない。従って、遠くから見えるような大岳の名はローカルではあり得ない。その地方を統括する中心的地方、そこには、前述したような中央から派遣されている「日知り」的機能をもつ職制から中央へ伝達され記録されるのである。これが古文献にのこされているのである。
 その山々に生活上、あるいは生産活動の場を求める山人、つまり杣や、木地屋、炭焼、猟師達が、その山に精通し俗称として使う名が、そのまま記録されるのは、近代以後のことである。
科学という概念が記録を必要としたのである。地図の測量、地質調査、動植物の調査、気象、等々、近代科学の概念は日本のあらゆる未知の部分に浸透していくことになる。
 登山者など旅行者の旅人もまた物めずらしさも手伝って、ローカルの事象を記録し、日記や紀行文に残すようになった。山村や木地屋、猟師(マタギ)などの使うローカル地名が、彼等の手によって洪水のように都会人のうえに降り注がれて行った。
 民俗学、特に山村民族に感心を払う人々によってもたらされた地名の多くは、今日でも定説化した地名となって伝えられている。
しかしながら、古来より中央に伝えられた地名が、必ずしも、その土地の精通者達が昔から使用できたものと同一でない場合がある。それらは、行政、宗都、民間信仰、習俗などによっているはずであるが、それらを選択し確定する作業は、本件ののべることとは別である。
 この原稿を書いている折、井伏鱒二の「富士の笠雲」を読んで「日知り」の末ともいえる人物が登場してくるのに出合った。この当時、社会の要求する職制としての自然の観察をする人々がまだ健在であることにおどろくと共に「日知り」機能が日本の社会の基層にまで浸透しており、支持されていることを知るのである。
 御坂峠の茶屋で出合った二人の客。年老いた男と小児(女)があった。8ミリ撮影機で富士のノウドリを撮るために峠にやって来たのである。
 この老人は易者といい、宿(茶屋)の主人は「あのお客さんは、毎年、いろんな仲買人に頼まれて、天候を見る商売をしているというよ。干瓢の仲買人や海苔の仲買人や小豆の仲買人が、あのお客さんに天候を占ってもらいに来るというよ」というのである。ノウドリは「農鳥」で、他の山にも例は沢山ある。富士山にも農鳥があったとは知らなかったが、井伏鱒二の筆によると「農鳥は富士の七合五尺目あたりに現れる。これは山肌の窪みに消え残った雪が、鳥の飛んでいるような形にみえるから農鳥と云うのだそうだ。春から夏にかけて次第に小さくなっていき、6月下旬ごろから後は砂埃をかぶって山肌と見分けがつかなくなる。昔の岳麓(郡内)の百姓は、その形によって野菜や人参の種を蒔き、次に、豆、粟、黍(きび)、玉蜀黍(とうもろこし)を蒔く時を判断すると云われている。天気予報のない時代には、百姓が天候を判定する標準になっていた。岩にもすがる。膝にも相談というのが、昔の岳麓の百姓の根性で……」
 井伏鱒二は、御坂峠の茶屋に30日間も投宿し仕事をする合間をみては、宿主や客や、富士山を観察して「富士の笠雲」を書いた。
 富士の天候の変化の激しさは当然としながらも、それを観察するのは、自分だけではなく、多くの人々の存在することを知ったのだった。
 自身も富士にかかる笠雲を詳細に観察して天候の急変を予測して当ててもいる。
 峠に8ミリ撮影機をもって農鳥形を観察しにやって来た老人もまた、時代を経た「日知り」の姿に違いないのである。歴史や、文献に現れることの少ないごく限られた人によって、おそらく世襲されてきたとみられる「日知り」機能は様々な形態となって日本社会の陰で生き続けてきたのである。老人の職業として表面的に示されている「易者」も、また形を変え一般化した「日知り」の後の姿と考えることもできよう。易者の老人は、「あのな、御主人、今年の農鳥は、例年より早く出来たのとちがいまっか、二週間くらい」「10日早いとして、農鳥が今あの恰好だとすると、今年の5月、6月いっぱい、全国的に乾燥するのと違いまっか。7月は寒暖、常ならんのと違いまっか。」と宿の主人に話しかける。
 「そうかも知れんですな。しかし自分の判断では、農鳥が早いと、から梅雨ですね」と答える。
 白髪の男はまた富士山の方を見ていた……と続くのだが、農鳥の観測もまた、里の農民が個々に勝手に判断するのでなく、これを専門とする特定の人物があって、その指示によっていることが想定されるのである。その特定の人物こそが「日知り」なのであり、地方的、土着的「日知り」から地域を経て、国家規模となる「日知り」こそは、天皇であったと考えられるわけである。
 聖岳に関して、高野聖のことを少し書いたことから意外な方向へ発展してしまったが、はからずも定説化している地名、山名の幾つかは再検討に価することが分かった。その作業は、善悪や、黒白を明らかにするといった性格のものではなく、そこにこめられた人々の意志を知る行為として尊い価値をもつものと考える。
 この度も零落した聖の姿の過去が「日知り」という古代日本社会の指導的方法論で統一されていたことなど思いもよらなかったことである。
 日本の過去に聖が単に徳ある「高僧」といった一筋縄でくくれなかったのは、そうした地方的霊能者や、日和見者のもつ性格を受継いでいたからであり、その高能力と共に零落した姿をも同時に受入れ認識する必要があることも知り得たことは貴重であった。
 聖岳の名称の定説化によって、もはや過去を振返る人も居なくなりつつある現在、その可能性について成果をあげるか否かは別として、正面から取組む人々が出てくることを期待して、ささやかな一石を投じておきたいと思う。(1993.7)

写真1写真2
 丹波の日前神社(聖杖現)

<参考文献>
注1. 国史大辞典 吉川弘文館
注2. コンサイス日本山名辞典 昭和54年 三省堂 徳久球雄編
注3. 富士山はなぜブジサンか 谷有二 昭和58年 山と渓谷社
注4. 信州百名山 清水栄一 昭和54年 柳原書店
注5. 信州山岳百科 全三冊 昭和58年 信濃毎日新聞
注6. 山名考(私家版) 池田光二
注7. あしなか 33輯 岩科小一郎
注8. 幽山秘境 昭和17年 三田尾松太郎
注9. 山の憶い出 小暮理太郎
注10. 日本山嶽志 高頭式 編
注11. 単独行 加藤文太郎
注12. 日本地名大辞典(静岡県)角川書店
注13. 広辞苑 三版 岩波書店
注14. 我が国民間信仰史の研究 堀一郎
注15. 岩波古語辞典 昭和49年 岩波書店
注16. 日和山 南波松太郎
注17. 日和山 宮田登
注18. 国境の村 昭和47年 安藤慶一郎・矢守一彦

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毛無山の検証
 「コンサイス日本山名辞典」(注1)をみると「毛無山」「木無山」「水無山(谷)」が出ており、共に木や水のない山であると解説している。他に一般辞典である「国語辞典」などの類書の大部分も同様で、漢字の定義そのまま直訳してすませているようである。
 先の山名辞典などは、国語学の専門学者でなく、現場をよく知っているはずの登山家が編集を担当しているので、もう少し実態を観察して観念的な他の辞典の解釈から脱出してほしかったのだが残念な結果となっている。
 これはある意味では辞典という膨大な労力を要求する作業の煩雑さから細部への注意が拡散されてしまい、実際として以前に出されている類書の解釈を踏襲することになってしまうのだろう。
 新解釈が、以前の解釈を超えて信頼されるようになるためには実際の登山中に惰性でなく注意深く対象の山そのものを観察して行く必要がある。そこで得た新情報をもとに、文献に照らして違う箇所の発見とともに、間違った解釈がなされている場合には速やかに訂正して行くことが求められている。
 しかしながら実際には、ほとんど訂正されることがなく、古くから、すでに定説化してしまっている解釈が、いつまでも流通している場合が多い。
 地名学の世界でも、これと同様で何の疑問もなく漢字の直訳がまかり通っている場合がある。
 小生はもちろん地名の学者でも識者でもないが、あまりにも実態とかけはなれている解釈に出合って、これは素人ではあっても、常に現場と接している人間として一言発言しておく必要にせまられていると感じたのである。
 本稿では多数の地名辞典とともに一般辞典や、地名学界の論考の幾つかを参考として可能な限り実態と比較しながら考証を行なってみたいと思う。

 <水無山とは>
 まず「水無山」を前出の.辞典(注2)では「沢の水が伏流となって水の無い状態となっている山・峠をさす」と述べるのだが実態はどうかである。辞典は水無山を三例取上げているが、筆者はこのうち二例と三例の山に登っていて水のない山ではなかった。ただ二例の山には「カラ(涸)谷」があることから、この谷の水に期待している村があったとするなら水無山の表現が出てくる可能性はある。しかし反対側では別の表現が現れる。なぜなら水無しではないからである。
 一例の会津の水無山では隣に金山という山があって鉱山があったとみられることから、水に関する意味がこめられていたとみるべきで必ずしも水が無かったのではなく、『良質』の水が無かったとみるべきだろう。西日本の古い鉱山地帯に「水沢」の地名が残されているのと一脈通じるものがあるかも知れない。
 水無川が越後三山にあって豊富な水を魚沼地方に供給していることや、各地方の水無谷(沢)もやはり水が無いのではなく、逆さに水の豊富な川や谷(沢)が多いのではないかと思う。水の無い谷は「涸谷」「空谷」「洞谷」などの表現が多用されるのである。「水無山」の解釈は再検討されなければならないと思う。少なくとも「無」という漢字を、そのものがないことを意味するのかどうか「無し」ではなく、「成し」ならどうかなどが問題として考えられる。

 <毛無山・木無山>
 毛無山の毛は木の意で、山の表面を覆う樹木を動物の皮と毛とみたのであろう。木無山も同じで毛無山の発生より後に使われた表現法とみられることから以下は「毛無山」に統一することにする。
 毛無山は先の辞典では18例あげられており、毛無森など同類とみられる山をふくめると二十数例に及ぶものがある。実際にはこれより多いので感心がもたれる。
 またその分布が北海道から東北北部に集中しており、西日本、中国地方の一部、又、越後西部の高田地方にも同名の山が集中している。一地方に集中するという例証はおそらく、その地方の文化の流れと連動しているものと思われ、中央との関係も考慮する必要がある。それらの毛無山は地名学にアイヌ語説や純粋な日本語説など様々に解釈されるのである。
 毛無山は「樹木のない山」として大部分の辞典が漢字通りの意味を解説しているのだが実際には水無山同様、この説明では実態を伝えられないのである。
 特定の山を取上げて、すべての山を論じることは困るのだが、すべての山を検証することも困難である。そこで大部分の山のうち、登った山と見た山、あるいはその土地に住む知人に聞いてみたりしたものを元に判断をしてみたいと思う。
 北海道の毛無山は木のよく茂る千メートル以下の低山ばかりである。青森、岩手、秋田などの毛無山も同様である。これはアイヌ語の「ケナシ」(川辺の林地・湿地の林)などに由来するものだと思われる。これに対して新潟、長野、山梨などは相当の高山で山頂に木のある山と、そうでない山が混在している。
 中国地方などの山は木がよく茂っているものが多い。
 以上を概観したところでも、毛無山が必ずしも木の無い山とは断定できないのである。毛無山の本来の意味とは何であるかは別の方法で求められなければならない。少なくとも辞典類の解釈は実状と異なっていることは確かである。

 <毛無山の論点>
 地名学界においては辞典と同じく正反対の論が対立している状況があり、木の有無とアイヌゴ説、また山と平地、村落の場合など多岐にわたることもあって煩雑を極めている。そこで筆者の知る三例をあげて、その論点を整理してみたい。

 1、落合重信氏の場合
 兵庫県に「木内(きなし)」「木梨」があることから、他に代案がないからと断って、アイヌ語が残存している可能性を示されており、キナシとは木が無い意味でなく正反対の意味として実際と合致すると述べておられる。
 また前の地名も北海道でいうところのキナシと同じ地形から村落の名になったのではないかといわれている。(注3・4)

 2、吉田茂樹氏の場合
 アイヌ語説を否定され、辞典類のいう木の無い山の意とし、アイヌ語のケナシは山岳名ではなく原野や川原・谷沢に用いるのに対して本州のものは山岳名であり禿山か山頂に木がなく草原を示していることから全く別のものとする。従って村落名の木内、木梨等は地形用語でない全く別のものとする。
 毛無山は東日本型の地名で西日本では例が少ないのは、別の表現があるとして次のように述べておられ、少し長いが引用する。(注5)
 日本古語で木のない山を「カブロ(禿)山」という。別名「カムロ」と呼んで、『新撰字鏡』にみえるから、古代末期あたりから、木のないハゲ山を「カブロ山・カムロ山」と呼んでいたことになる。ところが、その「カブロ山」なる山名が、なかなか西日本からみつからない。ところがよく注意してみると、「冠山」というのがあって、「カムリ・カンムリ」と呼んでおり、大体において、山頂になると木が乏しくなる山である。そこで、これを分布図に示してみると、OK線以西の地域に集中しており、「ケナシ山」と「カムリ山」は、なかなか同居しないのである。中国山地の場合でも、出雲・吉備国境あたりに、「毛無山」があるが、石見・安芸国あたりになると、「毛無」が姿を消して、「冠」ばかりとなる。東北地方でも、中央部に「毛無」が急に乏しくなると、「神室(カムロ)」という山名が出てくる。これなどは特殊な分布であって、基本的には、OK線以西が古くから木のないハゲ山を「カブロ山」と呼んでいたことになり、「冠山」は「カブロ・カムロ」の転訛した同義の山名となし得るのである。中には冠をかぶった形の山というのがあるかも知れないが、一般には冠状の突出した山を「鳥帽子(エボシ)山」と呼んでおり、この「エボシ」は全国的に広く分布する山岳名で、最も数の多い地名である。「冠」が西日本ばかりで、「鳥帽子」が全国分布というのは、もともと異なる形容であることを意味しよう。大分県大分郡庄内町には、「冠山」があって、別名「鳥帽子岳」という。これは、冠も鳥帽子も同義と言うのではなく、古くは木の乏しい形容から「カムロ山」の意で命名されたものが、崖山のごとくけわしいので、後の言葉で「エボシ」と別の形容語を用いたものと思われる。(地名の由来より)
 吉田氏の説は以上のようなものである。

 3、<山中裏太氏の場合>
 山中裏太氏の「地名語源辞典」の「木無山」の部には次のような説明がある。『木の無い山、ハゲ山のように思われるが、実は木の繁った山でこの名の山は全国に多い。木無・毛無山は発音の当て字で、字そのものには意味がない。木梨山というのも同じ意味か。』とある。毛無山の所ではアイヌ語で解けるのではないかといっておられる。
 以上代表的な三者の意見をみて論点が概ね判明するのであるが、次にあらためて個々の論点を整理してみよう。

 <論点の概要>
 落合・山中両氏は共に北海道のアイヌの語地名をもとに本州の「ケナシ」についても同質の地形があるかどうかの可能性を示唆したものと受取れる。また山岳名のみでなく平地の村落にもアイヌ語名の残存があるかどうかの検討をしたいと述べておられ、さらに「ケナシ」は木のよく茂る山であって禿山ではないとする見解である。これはアイヌ語とアイヌ族が北海道だけでなく広く本州にも活動を及ぼしていたと認めるものと思う。
 したがって当然、毛無山は木の茂っている山であり、(事実その通りであるが)平地にも現在北海道で使われているケナシと同様の地名が形を変えて存在するものと考えられるのである。
 これに対して吉田氏の論拠は明解にアイヌ語説を否定されて、木無山とは禿山であると断定されるのである。
 さらに西日本では木無山の変わりに冠山が「禿(カブロ)」からの転訛した形で存在するとし、東日本にも毛無山のない地方には「神室山(かむろ)」があって、共に山頂が禿か草地となっていると述べておられる。
 また冠山は烏帽子岳とは異なる形容であり崖山ではなく木の乏しい山の意であるとされている。
 地名・古語などの辞典なども吉田説に近いが、しかし吉田説に対し賛同したものとはいえない形をとっており、むしろ漢字のもつ意味をストレートに解釈したといった消極的な受身の見解とみてよいように思う。しかしながら、これが一番多数派なのは辞典本来の目的からすれば無難ではあるが、研究の跡がみられないのは残念という他ないと思う。

 <吉田説の問題点>
 落合・山中両氏の説はアイヌ語を語源とする点からみて本州にアイヌ語が認められるか否かにあって、木の有無は当然源意に支配されるのであるが、吉田説となると広範囲に検証を要することになる。そこで次にその問題点をあげて検討してみたい。
 1、アイヌ語説の否定
 2、毛無山は木がない山である
 3、西日本では冠山が、古語の禿(カブロ)と一致し毛無山と同じ山容である
 4、東日本の神室山も毛無山と同義で禿(カブロ)と同じである
 5、冠山と烏帽子山は全く異なる形態の形容である

 大体以上の要点とみてよいと思うが、一見して相当大胆な見解であることが分かる。
 筆者は登山人であるから実際の山について知っている限り意見を述べてみようと思うが、まず5の問題では同調しかねる意見である。
 烏帽子山は全国的規模で分布するのに対し冠山は西日本を中心としており、「禿(カブロ)」からの転訛であるとされるが、元々冠は鳥帽子と同義の頭にかぶる帽子であって、出発点がすでに同じであるから山容も同じ形の山になるのであって不思議でも何でもないことで、実際にも同じ山で冠・鳥帽子と二つも名を頂くのもうなずけるのである。
 筆者の登った「冠山(岳)」は沢山あるが、木のない状態を中心に考えた冠山ではなく、明らかに烏帽子山と同じ山容であって山の形状によるのである。
 鈴鹿の鎌ヶ岳は元は冠山であり、木が無いのは事実ではあるが、これを禿(カブロ)とみる人はおらず、山の鋭さを表現しているからこそ、のちに冠や鳥帽子よりさらに厳しい形容として『鎌ヶ岳』を使ったとみられるのである。越美境の冠岳もやはり第一印象で納得する山名である。
 冠山は中国地方にも多くあって、このうちの幾つかはカブロから転訛したと桑原良敏氏(注6)は述べておられるが、冠山はすべてがカブロでなく木の有無とは関係のないものが相当あることを認めねばならないと思う。
 冠山や烏帽子山の他にも同類として、甲山(兜山)・頭巾山などがあって、冠や鳥帽子と云っても通用する形をもった山である。
 それではなぜ鳥帽子が全国的に分布するのに対して冠や他の類似の名前が少ないのかという疑問が出てくると思う。
 しかし、これは簡単である。
 冠が西日本に歴史的に依存するからで東日本になじみがないからである。
 古墳に冠を入れた時代から為政者の住んだのは西日本であった。
 鳥帽子が全国的なのは神道の祭礼や修験の山伏が頭につけて深山幽谷を渉歩し、どんな貧しい村にも普及していたからに他ならない。春と秋の祭りには貧富の差もなく、すべての村民が参加していたはずで鳥帽子を見ないはずがないのである。従って鳥帽子は、炭焼きや、木地師・マタギなどであっても山名として残すことが可能となる。
 また冠は中世以後使用されることがなくなり鳥帽子が全盛となって封建時代を生きつづけたのに対して冠はやはり時代的な名称として短命であったということができる。
 中世においては元服儀礼において男子の頭上に鳥帽子を頂くことが通例となった。成人男子の頭には必ず鳥帽子があったのである。これが取りはずされたとき、その者は異界に旅立ったことを意味した。
 冠と鳥帽子を異なる形容として使い分けることは不可能であって筆者が考えるのは、禿(カブロ)からの転訛組と山容表現組とが異なる出発点をもちながらも、共に「冠山」に到達したものと考えたい。
 4の問題は吉田氏の大胆な発想ではあるが疑問が多い。
 神室(カムロ)山地は広大なブナ森林をもつ山地で主峰には神室山があって魅力的で野生的な山塊である。地元では毎年九月一日に山頂の神室神社に参拝に登り、神楽が奉納される。単なる禿山でなく篤い信仰の山であり山名の神室も、禿(カブロ)より、北海道名寄の近くにある「カムイロキ山」(注7)が最もふさわしいものと思う。カムイロキ山は神聖なる神の山としてアイヌの信仰のあった山で共通する条件をもっている。神室はアイヌ語の転訛とみるのが自然なような気がする。なぜなら、これだけの信仰をもつ山を禿山と呼ぶことは考えられないと思うからである。カムイロキを神室とするならば信仰の伝統をもアイヌから引き継いだと考えられるわけである。
 神室山の峰つづきの「鏑山」(カブラ)は大鏑山1119mと小鏑山(禿岳)1261mは名称も、神室山と近いが神室山の信仰圏と異なっているが、地名として影響下にあったことをしのばせている。
 鏑山の二峰は、鬼首峠以南の地からみる山容から来ていると思われ、事実そのような形状をしている。つまり鏑である。鏑矢は矢の一種で儀礼用(注8)のものとされ、昔の会戦の折、戦闘開始の合図や特定の儀礼(神前の儀礼か)の際に使用されるもので、弓から放たれ空中を飛ぶとき、特異な音を出すといわれている。鏑矢の形状は、野菜のカブの形状とも類似しており、元々は野菜のカブから連想されたものかも知れない。
 以上のことを考察に供すると、鏑山の形状が著しく類似していることにおどろく他ないのである。
 また神室山の山地には「加無山(カブ)」997mがあり、男加無山と女加無山とにわかれたドーム状の形をしている。これも明らかに「カブ」からの転であり、この地方に「カブ」の山名が異状に分布していることにおどろくばかりである。
 神室山は宮城県二口川水源にもあって登山者は、これを「仙台神室」として区別しているが、仙台YMCA山岳会の深野氏は自著(注9)で詳細な研究をものにしている。
 やはりこの山も鏑山と、禿山の別称があって、山容は岩場の発達したドーム状である。
 山形の鏑山と似た形状をしていることから地名発生には共通の基盤が感ぜられる。
 神室山、鏑山、禿山、加無山などは山形県に集中しており、仙台神室山などは、深野氏の調査では、山の仕事人が山形県側から分水嶺を越えて活動していたことが分かっており、やはり神室山は、山形県に発生源をもつ特殊な山名であることが分かる。
 東北地方の山の特徴は概ね山頂部が草地に覆われるのが普通であって、それが平頂であれば田代が発達し、なければ形態として鏑の形にみえるものが多いのである。
 そこで神室山・鏑山をすべて「禿山」とするなら、他にもっと多くの禿山が存在しなければならず、特定の地域だけの名称で終わっていることの意味を説明しなければならない。
 同じ特徴をもつ山に対して禿山・毛無山など単に植生の状態を表現する山名を特定の山に集中的に命名することがあるかどうかである。植生を表現する場合の山は、他に特別に目立つ特徴をもたない山に対するものが多く、山稼や杣など山の木を材料とする職業者が特別支配的にその山と関係していたものと思われる。新庄の神室山のような大きな特徴をもつ個性的な山に対して命名されることは考えられないのである。
 山頂だけが草地の山は日本ではめずらしいものではなく、普通はこれを特徴として禿山や毛無山などと呼ばないものである。したがって、神室山・鏑山などの名称も他に理由を求めるのが本筋ではないかと考えている。
 3の問題では、冠山と禿山が同義で鳥帽子とは異なるとされるのだが、これも逆さで禿山のみが別物と考えるべきである。
 冠と烏帽子は同類で鳥帽子は冠から分離発達し一定の時代認識のもとに儀礼化、習俗化し風俗として一般化して行ったのである。
 近畿・北陸などの冠山は明らかに形態からくるもので、冠を象徴的にとらえているものとみえる。そこに鳥帽子より上位にあるものとして冠のもつ権力的特権階級の装備品として明確にとらえる姿勢がみえる。
 畿内あるいは、その近隣に存在する冠山と、烏帽子山の違いは、その山の姿をみれば明らかになる通り「冠山」が格段に光っているのである。そこに古人の階級意識を読みとることも可能である。
 その山に木がないことをもって、禿山とすることは不自然で、岩山に木が生じないことは物理的なことで大きな特徴ではない。富士山に木がないからといって、木無山と呼ばないのと同じで、日本アルプスも、ほとんど木が無いのに木無や毛無は存在しないのである。
 冠と禿は元々別々のものであって、禿山の方が、その後になって、近以の好字(冠に)に改めたにすぎないのである。西中国山地の調査(注10)ではそれが明らかになっており、各地の冠山でも明らかに証明できると思う。
 植生によって命名される山名は非常に少ないのが現実である。また宗教的な意味と冠を土中に埋めたとする古来に類する源をもつ冠山も存在することを留意しておかなくてはならない。
 2は毛無山が木の無い山などと断定することは実状を調査すれば明らかとなるが、苦しい弁解に映る。むしろ反対の結果となることの方がはるかに多くなるはずである。
 1については現段階では判断できないが、肯定する材料が多いことは確かである。現に北海道には多数の毛無山があり、千メートル以下の低山ばかりで植物はよく茂っている。アイヌ語のケナシの源意が川沿いの林という解釈であったのなら、このような低山の毛無山が発生しても地名進化のありかたとして肯定できるもので東北地方の毛無山も昔からアイヌ民族の文化圏であったから同類である。
 吉田氏は北海道のケナシは山岳の名称ではないというのは間違いで、多くの毛無山(岳)が密集している。東北と北海道における毛無山の相違は環境による相違であって意味の相違ではない。
 それでは北海道・東北・中部・中国地方・四国の一部に毛無山があって他の地域になぜ毛無山がないのかである。さらに中国地方や四国の一部にまでアイヌ語が及んでよいものかどうかである。吉田氏は毛無山のない所では冠山・禿山があると解かれたわけである。しかし古地名の宝庫、近畿の大和にも古く毛無山があったのである。
 「万葉集」の巻八には次の歌がある。
 「神名火の磐瀬の社の霍公鳥、毛無の岳に何時か来鳴かむ」
 この歌は明らかに毛無岳と表現しており、池田末則氏は「日本地名伝承論」(注11)の中で毛無はナラシと詠むことが可能で書記や田地売券に「毛無之」などの地名が見えるとし、「毛無は毛(木)が無いということではなく、木の生えた岡の義である。木・毛は上代仮名の乙類に相当する。」述べておられる。さらに法隆寺の近くの地名に「毛无墓」や「毛無」の小字が残っているとし、調べればもっと多くの毛無の小字名が発見されるかも知れないともいわれる。これをどのように理解すればよいのかである。
 小字名こそは原初の地名が忠実に残されている場合が多く全国の小字名を残そうとする努力が続けられているが、消滅したものが大多数をしめるのが現状である。しかしながら、そこに「毛無」を発見することはそれほどむつかしいことではなさそうである。大和に残されている地名で他の近畿にないとはいえないからで、むしろ大和にはそれがよく保存されていたと思われるからである。
 もし毛無からある時期に好字化され、木梨や木内に変わっているとしたら、そこに原初のアイヌ人の影を認めぬわけにはいかなくなるだろう。もし大和にアイヌ人が住み、倭人が、その地名を引継いだとしたら「ケナシ」が「毛無」に変化することはあり得るし、さらに木梨や木内になることは肯定される可能性がある。
 大和政権に引継がれた毛無は西日本や東海・北陸にも多少意味を違えたとしても、調度、大和政権がマイクロウエーブ中継所の役割をはたしたと同じ効果を生じたものと解釈できぬことはない。
 このようにアイヌ語地名説は西日本にまでアイヌ語が及ばないとする考察には疑問が生じてくるのであり、再検討されるべきものがあると思う。特に古く大和地方にまで「毛無岳」の名がある事実に注目しなくてはならないし、当然、他の畿内各地にも存在した地名であったとみられ、発見されないからといって、これを否定することにはならないと思う。

 <小字名の漢字化>
 山名に限らず、地名一般について言えることであるが、普通地名が発生する経過は、おおよそ次のような段階を経て確定されて行くのではないかと考えられる。
 A、里称あるいは、特定の人がその土地(山岳)に深い関係を結び呼び習わした名称が一般化し、特に「小字名」として認知される。この場合は、特定の小地域の知るところとなる。数人から数十人程度。
 B、そうした小字地名を支配層が束ねて税を課す段階で官の認知するところとなる。
 C、小字地名に先住する百姓その他の土着民ではなく、それよりやや大きい地域全体の注視すべき対象の山や川などの共通名称。この地名はAの小字名より大きい村落や郡単位程度とみてよい。
 以上のように地名は、その地名を認識する人間の数によって大きく異なった結果となるが、小字名となると初めから漢字が使われることは少なく、多くの場合「口伝」つまり「口語体」であって、人の口から口へ伝えられるもので、それが由あって文書化される段階で無理矢理漢字のアテ字を使うことになる。
 漢字化される段階は、つまり外国語の訳のように本来の意味が忠実に伝えられる場合にはじめて信頼に足る意志の伝達が可能であるものの、そうした例は極めて少なく、逆にアテ字のように全く意味のない別の字が使われて途方に暮れることが多い。
 北海道のアイヌ語圏において和名化(漢字を使って)された地名の多くが当時としては苦心の作であったとは言え陳腐なものとなったのはよい例である。  国策とはいえ困った努力をしたもので、なぜカナで統一しなかったのか悔やまれる。
 最近になって元のアイヌ名にもどす努力がなされていることは評価できる。
 以上みてきたように地名の漢字には信用できない要素が多いのである。そこで漢字の側に比重を置くのをさけ、呼び方(名)の方に体重を移してみると、特に小字名において、その名称を、その土地との関連が強く結びつく場合が多いのである。
 そこで「ケナシ」の場合をみると、古代地名においては、ケナシは「毛成し」となるのであり、ケナシを現代風に「毛無し」とするのとは異なるのである。
 古人の使う山地名としては単純明確にオ(尾)とタン(谷)で、シル・ジュル(湿地又はゆるい谷)と共に極めて少ない用語ですませている。木はむろん(毛)で、鈴鹿・霊仙山には「ケズラオ」という極めて原初的な、古代的な地名が残されている。
 これなど毛(木)の茂る面をもつ尾根と解釈され、実際にその通りの現状となっている。
 以上のように概観する場合「毛無し」は古代的・原初的な「木のよく茂る山」の毛無し山から、後代になって(おそらく近代以後と思われる)古代からの地名習慣が忘却されて、現代的直接的な「木無し」や「水無し」が出現し、両者が混在することによって採名者が幻惑されてしまったのではないかと案じられるのである。

 <結語>
 毛無山や、木無山の名称は、考えてみれば本邦第一級の堂々たる山岳に対して命名され得るような名称ではない。
 そこには、より地方的なマイナーな意味合いがふくまれている。その地方の生活及び、労働と密接に繋がっている名称とみてよいのである。
 例えば、その地方の労働等、資材の供給などに用する山などが考えられよう。
 ある一定の時代に栄えた地方において都市造営について、建設資材の供給がなされたか、それを求め得る条件をそなえた山などがそれである。
 そこには、おそらく豊富な木材があったはずで、そのような同名の山名が、特定の地域に集中していることは、そうした条件を共有する山々が沢山あったということである。もちろん、その山が、他の山名をもっていた可能性もあるのである。
 今日伝えられる山名のうち複数以上の名称をもつ山があるのがそれで、その地方の中心地からはずれ、その山の周辺の小集落に属する里山などが、別称を使う例は沢山あるのである。
 特に山名にこだわる場合には、そうした里称・古称についても調査する必要がある。
 毛無山の大きなもの、立派な山としては、天子山塊の毛無山(1946m)がある。木の無い山としては、何といっても隣の富士山の方がはるかに適当であるにもかかわらず、その名をつけたのには他の理由がなければならない。
 新潟県高田地方から、野沢温泉にかけて、三つの毛無山が存在する。
 まず、大毛無山1429m、毛無山1022m、毛無山1650mである。
 それらの山々の中心的地方が、越後高田で、昔は越後の中心地であった。この地方が、アイヌ語圏であるか否かの論は困難であるかも知れないが、中央から、大和政権から毛無山の命名の方程式を学び、それをそれらの山名に摘要したとしたら、大和地方と共通の証例として受け入れることが可能である。
 しかも、それらの山々は、いずれも豊富な樹木に覆われているのである。ブナの巨木の茂る山々が、いかなる理由で(ケナシヤマ)となったかは、自明のこととなるのである。
 毛無山は「毛成山」で杣・木地屋などがひそんでいる木のよく茂る山の意とみるのが結論的に云えるようである。
 そこで木のよく茂る山と、木の無い山の両方に、毛無山の名があることに注意され、その理由についても判断を求められる。
 おそらく、木の無い場合の毛無山・木無山は、新しい命名と考えられる。本来の毛無山の命名の仕方が忘れられ、おそらく近代に入ってから漢字の意味をそのまま直訳し誤って理解された結果の産物ではないかと考えられる。
 そのように考えてみると、現実に、草津地方の「破風岳」の北方にある可愛い「毛無山」は完全に、その条件を満たしている。
 この山の現況は、軽石の散乱する見透しのよい草地である。木は全く生えておらず、火山活動が近代に及んでいるからである。
 または、付近ではごく最近まで大規模な硫黄鉱山が稼動していたのである。
 以上のことからみて、ここの毛無山は、この鉱山関係者の命名である可能性が高い。
 したがって、ここの毛無山の命名の歴史は、ごく新しいものであることの他に、毛無山の字義が近代のものであることをも知ることができる。
 毛無山は現実においては明らかに木のよく茂っている山が多い。もともと毛無山の名称は、実際に山で労働する人々と、それを管理する人々によって命名され得る地方的な名であり、中央政庁などが関与することなど、ほとんど無い名である。従って、途中で改名された多くの毛無山があったに違いない。
 毛無山の命名時代に溯って、植生の調査をすることは今や、困難ではあるが、より徹底するには、それ以外にはない。その山の開発状況を知ることで大概、その間の条件を知ることも可能であるが、……。
 おそらく、その山の植相状態においては、木の無い山は少なく、その後、人気的な開発などの結果、木の無い状態が作り出されているわけであり、それをもって、毛無山の命名がなされたのであれば、山容の変化によって改名がなされなければならなくなる。
 おそらく、そのような短期的な植生の変化に対応するような命名の仕方はないものと思われる。
 極相林の状態で、その山の状況を見極めることにおいて現実の毛無山の過去の姿を考えてみるのも必要かも知れない。

 (追記)その後「山ことば辞典」岩科小一郎著、藤本一美編、百水社発行(1993)が発行され、そのなかで「ケナシ」の項目があり「禿山を毛無山と呼ぶのは、人体の禿頭を連想したばかりではない。樹木が大地の毛であるとの観念から出ている。山林を売り渡す際に、山の毛を売るとか、地所を売るのに毛の下を売ったというのと関係があったのである。坊主山と同意語」とある。
 これも前に指摘したように「毛無山」のすべてをカバーするほどの権威はない。むしろ辞典の多くが使用する例にすぎないのである。樹木が大地の毛であるとする「人体語」の用例はあると認めるが、樹木のように伐採によって度々変化する山の表面の風景によって、その山の山名とするようなことは極めて困難で、「山働人」「炭焼き」が、一時的に、極めて限られた地方的な命名を行なったとしても、それが恒常的に里民に伝えられ、時代を越え、歴史を通じて使用されるようなものになり得ないということである。
 昔、毛無山であったが、今は立派な森林に覆われている山であったのなら、おそらく、山名もすでに変えられているはずである。
 山名というようなものは個人の所有というよりは、相当広範囲な地域に通じ客観的なものである。
 また、山林を売る場合の「山の毛を売る」という表現は額面そのままを受取るより、山民の「隠語」と考えた方が確かなように考えている。坊主山も、実際の場合禿山より森林のよく茂る山が多いことから、植生状況よりもその山の形状から来たと考えるべきである。現実の坊主山を観察すれば明らかになるはずだ。北アルプスの坊主山も、中央アルプス北部の坊主山も、ともに形状から来たものと認識するより他ないのである。

毛無山検証図
  毛無山検証の図

 文献
 注1、コンサイス日本山名辞典 S54 徳久球雄編 三省堂
 注2、コンサイス日本山名辞典 S54 徳久球雄編 三省堂
 注3、ひょうごの地名再考 S54 落合重信 神戸新聞センター
 注4、歴史と神戸28巻2号 H1 神戸史学会
 注5、地名の由来 S54 吉田茂樹 新人物往来社
 注6、西中国山地 S57 桑原良敏 渓水社
 注7、北海道の地名 S59 山田秀三 北海道新聞社
 注8、広辞苑(二版) 新村出編 岩波書店
 注9、神室岳(1983)深野稔生 やまびと双書
 注10、西中国山地 S57 桑原良敏 渓水社
 注11、日本地名伝承論 S52 池田末則 平凡社
                                           (1989年5月)

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田部重治と有峰の昔
 明治42年夏、富山から神通川沿いの飛騨街道を、米と味噌を背にした六名の若い集団が、脇目もふらず一心に有峰をめざして歩いていた。
 厳しい炎天の道を「砂けぶりを立てて行く」一行の行程は十七里(六十八キロ)に及び、これを富山、朝四時出発、茂住(もず)鉱山(五万図の「有峰」の前は、「東茂住」であった)から跡津川沿いに、佐古、大多和の村を経て、大多和峠を越えて、有峰の寒村に着いたのは夜の九時であったという。
 一行のうちに、この道筋に通じた者はおらず、大多和の村で、十四〜五才の少年が、以前一度行ったことがあるというだけの理由で道案内を頼み、おぼつかぬ足どりながら現地に着いた。
 当時の有峰は十二軒、そのうちの一軒に泊まり、その家の主人の案内によって、翌日五時前出発で薬師岳往復、翌日往路を疲労のため二日をかけて富山に帰っている。
 この恐るべき健脚の一行は、山岳紀行文集の古典的名著「日本アルプスと秩父巡礼」などを遺した田部重治と、その弟や甥達であった。
 「日本アルプスと秩父巡礼」のなかには「薬師岳と有峰」という一篇があって、有峰の初期の様子がよく分かって貴重な文献ともなっている。

 田部は「日本アルプスと秩父巡礼」の自序に次のように記している。
 『(前略)初めは海洋の歎美者であったが、十年前から趣味が一転して、山岳及びそれに附属する森林渓谷に多大の関心をもつようになった。そしてそれが作者に与えた影響の多大なるものであったことを認め、それによって得た健康、それによって得たる一種の人生観は、それ以来作者の個性の内に深く根づけられていることを感ずる』
 趣味が一転するほどの深い衝撃を受けた山岳と、それを構成するマンダラ世界のような別世界に接した意味深さを率直に認めて、その感動を文章化するとき彼は自発的、自照的でなければならないと考えている。
 「山に入る心」では、島々谷から徳本峠に至り、眼前に新雪の穂高岳と対面したときのことを「今まで、私の考えて来たことの如何に価値少なくて、私のしてきた行為の如何に卑しいものであったかを感ぜしめられた時、この秀麗なる姿は、人生の美わしい気高い姿の象徴として、私の憧憬の対象となり、私の感情の内に深く織り込まれるようになった。」と述べ、「薬師岳と有峰」でも、薬師岳の頂上での感動を「これらの壮麗な山に、この神秘的な渓谷は、私が予想していたものよりも、はるかに優れているものであった。そしてこれを知らずにいた私の何と貧弱なものであったろう。これを知った私の何と今や富めるものであろう。」と述べている。
 田部重治という人物は、東大英文科卒で、教師という当時の超エリートであるにもかかわらず、単なる西洋流の山岳観、自然観で山をみていない。日本の実在する山岳を直視する態度から、新たな日本の真の姿を発見していた。またたえず山岳と私という自己とを対比させ、堂々たる山岳の父性を師と観念していたようである。
 山岳の巨大な父性と清潔ないさぎよさに、ともすれば社会の小事にゆらぐ自己の弱さをふるい立たせ、また学びの対象としていたことが分かる。それが、強烈な山岳への接近となって現れていく。
 山岳風景の発見こそが、田部にとって、越中人の「立山登山」という試練を経なかった身体の弱さを克服し、さらに人生上最大の師の発見ともなっているのである。それは、越中人の「立山登山」が物心つかない若年になされるのに対し、田部のそれは、西洋文明を知り、文化の何者かを知ったうえでなされている点で、はるかに意味深いものがあるように思う。
 田部が、東京で登山の面白さを知り、郷里に帰り、早速弟や甥を集めて、早月谷から立山に登り、さらに有峰から薬師岳への登山を次々と実行させて行けるのは越中の土地柄でもあった。
 立山に登らねば一人前の男ではないとする越中ならではこそ、登山が理解され、実行されていくのであるが、その慣習は、その後も強力な登山家の輩出となって現在に引継がれている。
 田部の「自照的」紀行文は、その後も多くの単行本となって遺っているが、それは、小暮理太郎、中村清太郎などと共に、小島烏水などの自然観、山岳観とも繋がっている。
 先入観なしに日本の自然、山岳そのものを観て行こうとする態度である。この態度は、その後、「静観派」とも呼ばれていくが、時代と共に退潮となり、現代ではほとんど死語となりつつある。
 志賀重昴の「日本風景論」にしても、日本の風景を、西洋の価値観、観念で評価したものであっただけに、小島烏水の人脈に繋がる日本の伝統的風景の評価には正統的な文化の継承をみる思いがする。
 田部重治という登山家は未知を求めることはあっても、高さや困難を第一義的に求めていくことはなかった。高さや、困難をもふくめて、それが未知であるかどうかが、まず前提なのであった。
 毛勝山登山や、小暮理太郎をパートナーとする槍から剱岳への大縦走などは、アルピニズムといってよいが、秩父巡礼や、山村を訪ねるような旅のようなものをふくめると、その行動様式には、「登山家」というより、学究者、求道者に近いものを感じる。
 田部が中国山地を歩いた紀行を知る人は少ないが、信州より雪の多いことにおどろいている。
 未知や僻地を訪ねて行く旅が、宗教者が巡礼や遊行の旅に出るように、田部にとって不可欠の要素であったと考えられるのである。
 田部は西欧の学問的洗礼を受けたにもかかわらず、その態度は一貫して現地主義であった。
 西欧人の日本旅行記や、西欧的価値観によって日本の後進性を批判したりする進歩的知識人等、受売り派の紀行文が氾濫した時代にあって、忠実に現地の状況を紀行する田部の態度は、現在でも新鮮さを失っておらず評価されるべきものがあると思う。

 「薬師岳と有峰」という一文は、明治四十二年夏の <神通川の上流−跡津川−大多和峠−有峰−太郎兵衛平−薬師岳> の行程で実行されたが、次の年には、薬師岳から信州にぬける心情を抱きながら、<水須(すいず)−クマゴ−東笠ヶ岳−有峰−真川−立山温泉> というルートを歩いた記録を紀行文としたものであった。
 この紀行文には多くの興味深い情報が入っている。例えば、有峰の状況、つまり有峰のおかれた山村としての性格や、道路、祭礼、巨大な山岳との交流など活用されるべき貴重なデータが山積している。
 有峰は戦後早く、ダムの建設によって水没し、有峰の西にあった小口川水源の湿地帯も、祐延貯水ダムの出現によって水没した。
 従って有峰という村の存在すら知らぬ人々が、今日、和田川沿いの有料有峰道路によって、薬師岳の登山を行っている。
 昔の有峰についての情報は、至って少ない現状からみて「薬師岳と有峰」の紀行文は得難い存在である。
 明治のころ、越中にあって有峰についてすでに伝説の領域に入っていた感がある。そのあたりのことについて、紀行文は次のように述べている。
 「小児の時分から私たちは、有峰の事について色々面白い伝説を聞かせられている。私の村と同じ郡でありながら、有峰といえば全く絶海の孤島にある未開の異人種の住んでいるところという風な感じを、何となく抱かせられた。たまに有峰に行った人があると、皆でよってたかって有峰の珍しい話をきくことが楽しみとなっていた。人家のないところを八里も行かなければならないことや、郵便脚夫が一週間に一度鉄砲を担いながらそこへ行くことや、平家の遺族がそこにいるという伝説などが、私たちをしていつかそこを訪ねて見たいという心持を漸次高めさせていた。」
 有峰は、いかなる理由によって開村したかは、この時すでに謎であった。その村は近隣の諸村からしてもすでに伝説の彼方にあった。
 有峰に通ずる道は大別して神通川沿いの飛騨街道を大多和峠を経てするものと、今ひとつは、水須から峰越で東笠ヶ岳を越え、小口川を渡り達するものの二本があった。前者は実に87キロに及び、後者も32キロの行程を必要とした。
 小口川、和田川、真川などの川筋は厳しくて一般的ではなかったことから、よほどの事がない限り、有峰と越中側の山村との交渉はなかったとみられる。
 筆者の想像からすると、有峰は木地屋、曲物師などの木工職の人々が良材を求めて、山中深く分け入ったのだろうと思う。事実、薬師岳登山の折に真川流域に曲物師の小屋跡をみている。有峰の十二軒の家も、木材関係の職にあったものとみられる。また祐延(しけのべ)の湿地帯にも分村のようなものや、木地、曲物師たちの小屋があったはずである。
 有峰やその周辺の木地師、曲物師はおそらく越中からではなく、飛騨から、大多和を経て入ったのだろう。越中の里人が有峰の存在を遠く伝説の彼方にみていた理由はそこにこそあった。
 おそらく木地屋に代表される山稼の一類は、飛騨方面、つまり南から容易に木材資源の豊富な有峰周辺にたどりついたに違いない。
 そして行きつく所が薬師岳であったはずである。薬師岳こそは彼等の労働の厳しさからおきる様々な病気や、身体的不安を癒すよりどころであり、以前からもっていた薬師信仰を「有峰」に定め、その奥山として薬師岳の頂に登拝することを習慣づけたのではなかろうか。
 従って有峰は、行政的には越中に属しながらも、実態として飛騨に依存し、人的交流(婚礼、祭事等の習俗)も当然のこと南側にあったのである。有峰伝承が越中にあり、飛騨に少ないのは、そのために他ならない。飛騨では、有峰が秘境の地に違いないが(最終到達地としての)伝説のたぐいの発生する土地ではなく一類の仲間であった。
 越中側は外様大名の代表前田氏であり、飛騨は天領であったから、越中の政策は、実に細心の注意を要したはずで、水須から長駆尾根道を開き交流を求め、伝説を流布して、有峰をたえず、意識のうえに登場させておく必要があったのである。
 しかし、有峰の側にとって所属の違いより税の軽重の方が問題であった。一説には両方から官使が来たらしいが越中側が熱心だったとみえて、地形(分水界を国境とする)常識的なものに落ちついたらしい。
 越中側の国境に対する執念はすさまじく、黒部奥山廻り役などにみられるように、定期的に国境の警備を行っていた。その点、信州松本藩や、飛騨の天領代官などは、直接利益のない山岳地帯の関心がうすかったとみられる。
 越中が有峰を確保した理由は、有峰が藩財政に寄与するか否かよりも、外様大名としての特別の意識上からくるもので、全て政治的なものと判断される。何としても国境を明確にする必要があったのである。
 伝説が流れるという事実は、その土地との人的交流が希薄だった証拠である。いかに政治的版図に組みこまれたとはいえ、人の交流は飛騨であり、大多和(おたわ)であったのである。
 有峰の住民は、自ら進んで藪を切り開き水須への道を開いたとはおもえない。おそらくこの道は越中の藩命で開かれたと考えられる。
 有峰の古図によると、村の一軒の名に「ヤクシ」という家があり、これが薬師岳の山頂にあった薬師の里宮ではなかったかと伝えられている。
 薬師岳に登拝する人も里宮に参拝したのちミソギをすませて登拝したはずで、その信者達はほとんど飛騨の、そう遠くない地域の人々だけであったという。その信仰圏はおよそ推定できる。
 やはり、薬師信仰は、木地屋を中心とする山住みの集団のものであったとみるのが無理がないようである。そうした山住集団は木地屋、曲師などの木材資源を求めるものの他に、鉱山関係がある。有峰の南、東谷をたどり唐尾峠を越え南へ下ったところに、有峰より先に開発されたとみられる山之村がある。この村は幾つかの枝村があって、鉱山が開かれた証拠がある。
 岩井谷、和佐府、打保などがそれで、古い地形図には、鉱山が記録されている。
 この付近には、標高八百米程度に有峰と同じような「小野」地形が見られることから、立村の理由となった。まず、船津が拓かれ、跡津川をたどって佐古(さこ)や大多和に至るならば、ごく自然に有峰に至る。それは自然な開発過程であった。
 それとは別に、山吹峠や伊西峠を経て山之村に至るものがあり、山之村は、跡津川筋の厳しい渓谷をさけて、青木峠を経るよりも、前者の方がよく利用されたはずである。
 その後になって、森茂、伊西、笈破(おいわれ)などの小規模村集落が、山之村と東茂住や、船津への中継地として利用活用されたのではないかと思われる。
 越中街道の東側を形成する高地一帯は、森林資源と共に高山地帯でもあって、現在よりはるかに活発なものがあったはずである。このような飛騨側の山村(寒村)との人的交流と信仰の共通性は当然のことであった。
図1
(図1) 広瀬誠 著
「立山黒部奥山の歴史と信仰」に出た大山村付近略図

 図(1)は、広瀬誠氏の「立山・黒部奥山の歴史と伝承」にある「大山村略図」である。この図によると、現在の地図に出てこない地名が幾つかみられる。その一つに、湖水に描かれている旧有峰から東谷をたどると唐尾峠があって、山之村に至る。この道を「飛騨間道」とある。
 この道は、おそらく三角点一七三〇米の東の鞍部を越えて山之村の上流にあった「阿曽布村」へ下り、当然のこと下流の山之村、打保へも行けるが、さらに山越えして上宝村へぬける道が通じていたものらしい。それは推測ではあるが、加賀藩の「かくし道」の一つだった可能性がある。
 先にも述べたが外様大名が生き残る術として、あらゆる方策のなかで、まず第一に情報網であり、江戸と本国との表の道と隠し道である。秘密に人に知られずに通ることを可能とする道こそ最も必要としたのが加賀藩だった。
 柳田国男は、隠し道のことにふれ、江戸と本国とを結ぶ最短のコースを思いめぐらしている。このところを、池内紀氏は「加賀様の隠し道」のなかで推理している。二点間の最短距離とは、針ノ木越に違いないと。
 針ノ木峠なら、信州から峠に至れば、国元から派遣されている「黒部奥山巡り」の屈強な一団が居るはずで、もう何の心配もない地域に入ったことを意味している。
 江戸と金沢という途方もない距離が、案外簡単に繋がることが分かってくる。
 藩がかなりの経費を投入し黒部奥山へ調査団を派遣してきたのは、領地確保と国境巡検や資源調査ばかりでなく、最も重大な使命をおびて江戸と本国を往来する密使のためだったと言えるのかも知れない。
 ところで、「隠し道」が針ノ木峠を経由するのが最短距離だったとして、先に書いた有峰経由の話はどうか、である。おそらく「隠し道」は一本ではないはずで、複数の、それも思いもよらない山間地を通っているはずである。それが、先にあげた「飛越間道」だったかも知れない。なぜなら、広瀬氏は前出の著書のなかで「奥山廻り役」は毎年「立山から黒部川を越え、針ノ木峠を検分し、烏帽子岳、鷲羽岳をめぐり、薬師岳から有峰へ下るのが順路であった。奥山巡りの記録には、有峰村でカイモチ(ぼたもち)や酒のごちそうになり、花の粉(わらび粉)の贈り物を受け、山旅の疲れを休めた。彼等が鷲羽岳から有峰に出るには、薬師沢を遡り、薬師岳頂上に立寄ってから、小畑尾峠を越えて有峰へ下るのが普通だった」とあるからである。針ノ木峠から、佐良(ザラ)峠経由が早いとしても、有峰という休憩地をもっていることもあり、これを活用するのも悪くないと思えてくる。
 隠し道という性格上、実際には、思いもかけない道が隠されているはずである。
 ひょっとして今日の北アルプスを直線的に横断することだってあり得ることである。佐々成政が越えた苦労を思い出してもよいが、この場合は殿様でなく隠密のような使命をもつ伝令である。平和な時代を基準に物事を考えるべきでないと思う。
 おそらく、信じられないほどすごい行為が行われていた可能性を否定してはならないと思う。
 図(1)には、まだまだ面白い情報がつまっている。
 有峰の東に「小畑尾峠」から薬師岳に登っているのが「薬師詣旧道」で、図(2)の図面にも破線がみえるのがそれで、この道は三角点一七八八米の南の高点、千八百米を越し、一旦真川に下り、再び薬師に登りはじめるもので、後年、田部一行の登山ルートだったと思われる。
 小畑尾峠というのは現在廃道であるが、峠の名称からみると、この尾根の周辺にも出作り畑があったものらしい。また真川に下った所は平坦な部分があり、当然、木地屋、曲物師の小屋があったものと思われ、田部一行の記録にも曲物師小屋が出て来て納得させられる。
 日本最奥と称される奥山にも、人間の営みが印されていることを登山者が確認したことになるが、それなら開拓的登山というものが、いったい何であったのか問い直してみなければならない。
 図(2)は、更に面白い事実を教えてくれる。
 大正元年の地図には、すでに祐延湖があり、水須からの歩道が描かれているばかりでなく、水須から有峰に至る「有峰往還」とも呼ぶべき道が、東笠山を越えて祐延湖へ下る地点から、わざわざダムサイトへ遠廻りしていることである。これは明らかに、ダム湖ができてから付け替えられたことを意味している。地形図の破線はそれを証明して余りある。
図2
(図2)大正元年測量の「東茂住」 五万分ノ一地形図の縮小約70%による

 元はダムの底に沈んだと思われる低湿地か池畔の小屋を経て直接三角点一六一六米と三角点一六九九米の間を越えて有峰の中心部へ下っていたものと思う。
 湖底の道はむろん、その後の道もほとんど廃道化しており、わずかに痕跡を残すのみである。
 祐延の名はどこから来たのか、集落はあったはずなのに記録をみないのは、早い時期に失われたものかも知れない。また祐延とはシケノベと伝えられているが。
 もう一度、唐尾峠のことにもどる。前出、広瀬氏等の研究でも「古文献」のうえで唐尾峠の位置が大多和峠の東にあって、大多和峠そのものであったりで転々としているらしいことである。そこで有峰の東谷をつめて打保へ抜けるという表現が怪しくなってくる。東谷なら三角点峰の東で全く違う鞍部である。このことを知ってか知らずか、新しい地形図には和佐府から西へ向かい2個の三角点峰の中間にある鞍部に「唐尾峠」名が印され道も描かれている。先に唐尾峠の位置としてきた所には新たに林道が建設され、これは東谷を経由するのである。つまり、唐尾峠といってきた鞍部が林道化されているのである。
 新旧の地形図の情報が混乱していて、判断が困難になったのである。
 古文献でも唐尾峠の位置が混乱していることから、これは今となってはどうにもならない。
 広瀬氏の著書には、もう一つ興味深い話が出てくる。有峰の村名由来と、焼畑の名称である。
 「有峰はもとウレイと言い、これに有嶺という漢字をあてていたが、藩主により『ウレイは憂いに通じて縁起が悪いから、以後有峰を訓読してアリミネとせよ』と命じたので改めたと伝えられた」といい「この伝承はほぼ事実とみてよい」とされている。
 広瀬氏の周到な吟味の結果であるから、それだけの裏付けのあること承知する他はない。
 次に有峰でも焼畑が行われていたらしく、焼畑の意である「ソウレイ」から有嶺が発生したとする「焼畑起源説」と北飛騨方言の「ウレ、村里の奥地の方、または辺地の里」説があり、広瀬氏は後者をとっておられる。
 焼畑の名称は、西日本と東日本で異なっていることは別稿で述べているが、東日本でも、「ソレ、ソリ、ゾリ、ソウレ、ムツシ、ムツジ、ヤマムツジ、コバ、夏焼」といったものが知られているが、また、川の末、川の上流、川の先端、の意に、「ウレ、ウレイ、ムレ」があるので判断は微妙を極める。
 「ムレ」は朝鮮語(群)で山のことであったり、牟礼と同じ扱いの場合もある。「分類山村語彙」によると、第一頁に「ウレ」が出てくる。
 「高山の絶頂に近いところ、木の梢などのウレも同語。山奥の村の地名に『ミウレ』というのは水上のこと、『サウレ』は『サハウレ』即ち渓の奥と解せられる。」とあって似たような語彙に対し、二方面からの解釈をせまっているかのように思える。例えば焼畑説は飛騨側とすると、越中側からは、水上あるいは辺境の意とも考えられる。
 元の住民が、どのように自分達の村の名を扱っていたか、「ウレイ」が、はたしてアリミネの住人が使用したのか、越中側の呼名ではなかったのかどうか、そのことが明らかにならなければ、村名論は水かけ論同様である。
 ここは両論併記として、時間をかけて研究続行がベストではなかろうかと、外野席から勝手ながら申し上げておきたい。
 乏しい資料ながら、通読して思うことは、有峰の住人は、おそらく政治的な命令によって、この山間の辺境に住むことを強要されたとは思えないのである。彼等は自発的に、木材という資源を求めてたどりついた最終地点だったと思われる。
 資源を求めて移動する民の種類は多岐にわたるが、彼等は特定の政治集団に属するのではなく、「歩き筋」といって、彼等自身が稼ぎ場を求めて常に移動をくりかえす非定住民であったこと。これ以上奥地のない行き止りの土地で引返すこともできず、安定的な暮らしを求めて、あらゆる稼ぎ口を求めたのであろう。焼畑を行うのは、その最終至達点であり、食料自給の最後の手段であったとみえる。そのような苦しい生活のうえで心の支えになったのは薬師信仰だったのかもしれない。
 しかし時代と共に信仰がうすれ、薬師岳山頂の祠や薬師像や、薬師信仰以前の鉄剣の奉納なども近代登山以後の大衆化によって、心ない人々によって持ち去られてしまった。
 明治維新によって行政区分はさらに厳格となり、兵役、年貢などと共に郵便制度などの発達によって、有峰は完全に越中との交流をせざるを得ない状況となっていった。
 そして、近代にダムの底へ沈むことになるが、それ以前に有峰は、亡びゆく行程にあったのである。それはそれとして、当時の有峰は北方に組み込まれ、真川、和田川、小口川、熊野川などの厳しい谷々に塞がれた北方への通路は、長駆、水須より尾根筋をたどるより他なかったのである。
 その水須からの道を、郵便夫は週に一度、鉄砲肩に有峰を往復した。この時代、他の山域でも、測量や、地質調査に従事する国家的仕事を行う人材には鉄砲やピストルを持たせ、また持つ権利をあたえていたようである。
 水須からの道は現在完全に廃道である。この道については「北越の山歩き」橋本広氏は、調査し歩いてみたいと述べている。「私の一つの念願に、有峰往来踏査がある。有峰往来は今は廃道だが、かつて有峰の人たちがたどった道。小口川の水須の口番所から、水須山、高杉山、熊尾山、東笠山と西笠山の鞍部を経て、祐延湖に至り、有峰湖畔に出る道である。祐延、有峰間は道跡がわかるが、あとは完全な廃道である。」
 その水須から近く、熊野川筋に、河内の集落がある。それが槍ヶ岳開山の、播隆上人の出身地であるというのも理由のないことではない。
 おそらく、播隆は立山や薬師岳に登っていたはずである。そこから見る連山の最高峰と見える槍ヶ岳を開山することを考えるのは、自然の成行きであった。
 その場合、有峰と薬師岳の信仰を知っていたはずであるが、それが表に出てこない。越中人が、薬師岳や、その他の高峰を登らずに槍ヶ岳に向かうことはないはずである。それは当時としては当然のことで、記録する必要がなかったということである。
 田部の二回目の有峰行は翌年夏だった。
 今度は若者を頼んで水須より峰越で入った。朝四時出発で水須で正午となり、そこからさらに、三十二キロの峰越道があった。「クマゴ」という渓流のある小屋場で泊まっている。クマゴは、熊野川の支沢のある地で、熊尾山と東笠山との間に相当するものと思われる。
 翌朝すぐに東笠山に登り、初めて這松が眼につき、地蔵堂があったという。そこから下って「シケノベ」という平らな湿地があって、小口川の源流には、つぶれた小屋があった。
 シケノベは現地の祐延でダム湖になっている。「シケノベ」は「湿地辺」ではなかろうか。
 これが有峰往来道の昔の姿であった。
 田部一行は、有峰で二人の若者を大多和で帰し、案内なしで薬師岳から上ノ岳などを経て信州へ出る予定で出かけるが、薬師岳で中村清太郎一行と出逢って、引返している。
 この当時、有峰から水晶岳へ水晶を取りに行くことはあっても、信州へぬける案内のできる者が居なかったようで、もっぱら、北アルプス内部への登山は、信州と越中の人夫の仕事であったようである。
 有峰へ帰った田部一行は、信州方面への山行を断念し、真川から立山温泉に出、大日岳登山、針ノ木峠越で大町へ出、更に、白馬岳に登って、この年の登山を終えている。
 北アルプス登山は今日では平凡となったが、有峰の状況と有峰往来道のことには興味を引かれる。
 有峰での話で、毎年二人を村の費用で伊勢参詣にやる(代参)ことや、村の無人の尼寺で五月から七月の間、富山から教師を雇って子供に教育をさせたこと、日露戦争では、動員令で上滝町から二人の飛脚が村田銃を肩にして水須から山越えで有峰に来たことなど。
 このような伝説的な寒村にも動員令で飛脚が来て、村からも出征して行ったということは、国家による実務的な統治と民間との差が相当あったことが分って面白い。
 有峰の最も容易な道は、この村の発生時代から見ても飛騨の大多和からである。大多和は、大きい峠の意で「大タワ」からの転であったはずである。
 笠ヶ岳の名は、越中の里から大きく傘を広げた二つの峰が見えることから、これを東と西の笠ヶ岳とみたことは、小口川の鉢伏山についても云える。
 アルプスの笠ヶ岳は、その概念の延長であるが、こちらは傘よりも、円錐の萱屋根である。
 笠ヶ岳の西峰と東峰は共に平頂で、昔は湿原であったとみられるが、西峰は涸れ、東峰のみが広い湿原をもっている。これを一九九三年六月に登っているが、このときの模様を会報「青嶺」に発表している。以下は、この要点の再録である。

 有峰まで入って来た人は例外なく北アルプスを目指して行く。薬師岳が屏風のように立つ姿は迫力充分だが、これを少しはなれた外周の山々からながめてみようとする人や、未知を求めて規模の小さい山々を登ってみようとする人はいない。
 例えば有峰湖の西に、小口川の源流を貯水池にした「祐延湖」がある。清潔で小ぶりでダムとも思われない純情な面持ちで静まっている。
 その祐延湖の西に連なる千六百米台の山脈がある。
 西笠山三角点一六九七米、三角点東笠山一六八七米はこの山脈の最高峰として山頂に高層湿原をもって秘やかに座している。
 薮さえなければ堂々の立派な山なのだが、雪国のこと、そんじょそこらの薮とは桁違いで、もっぱら残雪期に地元篤志家に登られている山だ。
 有峰の有料道路は六月でないと通れないから、この山へのアプローチは手の打ちようがない。小口川沿いに林道が建設されているが、工事中で現在は通れない。林道が完成したとしても、除雪をして車を通す必然性も経済性もないから、自然にとけるまで放置されるだろう。六月下旬までは通れそうもない。
 薮が出ているのを承知のうえで六月の上旬に祐延湖畔にやってくる。二日程度でこの山に登るには、もうこれ以外に手段はない。
 ダムを渡って対岸の釣人の踏跡を辿って行く。すぐ踏跡は消え猛烈な薮となり、仕方なく水辺を歩く。五万図「有峰湖」の西笠山と東笠山の間に登って熊野川方面に行く破線路を使うつもりだ。取付の付近は人の気配の全くない素晴しい桃源郷で、水芭蕉が何気なく咲いている。透明度の高い湖水はそのまま呑めそうだし、背の低い草地に腰をおろすと眼前には薬師岳や立山が残雪を光らせて申し分のない景観である。
 地図の破線路は、はじめ見当たらず、やむなく濃密な薮こぎをするうち左側より深く掘込んだ溝のような道が出合う。道型は明瞭ながら、すでに太い薮が覆ってまともに歩けない。所々ナタ目があるので最近でも通った人が居るらしい。
 取付きから一時間くらいで広大な尾根に出る。展望は雄大極まる。山岳同定も忙しいが、知った山の姿を久しぶりに見て、これほどうれしいことはない。西笠山は一キロ強ながら二時間費して広大な山頂に至るが、三角点をようやく探しあてて、きれいな石を抱きかかえた。この三角点を手でふれた人は少ないはずである。残雪期登山は苦労は少ないが、三角点不明の場合が多いのが欠点である。
 点々と残る雪から雪を伝い渡り歩くのは苦労の多いことである。登ったり降りたりで行きづまり薮となるが、消耗が激しい登山だ。風景の良さ、環境の良さに反比例するわけである。
 東笠山から北に続く地図の破線路は消失していて、悪戦苦闘の末、高層湿原に辿りつく。雪が消えて間がないが、もうしばらくで花が咲くことだろう。
 北への縦走の予定を断念。広大な展望を腹一杯吸い込んで、直下の祐延湖めがけて藪に入る。最後は谷に下り、ボロボロになった雪渓を渡り歩いて何とか湖辺に出た。あなどれない山である。美しいものには刺があるという諺は普遍的である。
 春の山もいい。ブナ、トチ、ナラなどの巨木の新芽の葉ずれ音と春の息吹きを運んでくる風に身をまかせて祐延湖に憩う。去り難い場所というのはこんな所をいうのだろうと思う。
 相棒にせかされて湖辺をあとにした。
 予定では熊尾山まで縦走だったが、季節がおそすぎた。先にも述べたが、そんな山をねらう心境は、大物ねらいの釣師のそれと似ている。
 残雪の山や、深い森林に覆われた山々には、特別な世界がある。

 越中、有峰の話は、アーネスト・サトウの「日本旅行日記」(一八七八年)にも登場してくる。
 サトウは、立山下温泉の主から話を聞いただけで、せっかく高山までの道中で接近したのに通過してしまっている。このとき欲を出して実状を英人特有の科学的な観察眼で描写しておいてほしかったと残念に思う。次にサトウが聞いた部分である。「その村落の人々は平家の血を引き、身内だけで血族結婚をする奇妙な系統であるという。全部でわずか十一世帯、それぞれに三つか四つの家族がいて、金銭を持つことを許されない。外見は皆よく似ており、知力に限りがあるというのだ。ここからだと真川の川筋をたどって七里半であるという。この真川は湯川と合流して常願寺川となる。この他に上流から続いてくる道を八里歩いて行く方法もあるそうだ。」と記している。
 また「日本旅行日記」によると、一八七九年には(サトウの一年後)デビッド・マーシャルとエドワーズ・ダイヴァースによって、外国人として初めて有峰を訪ねて「日本アジア協会紀要」に発表している。それによると、彼等が事前に、サトウが宿主から聞いたような伝説、伝承、風聞の如き予備知識があったとみえて、現実との相違点などにふれている。
 知恵の足らぬことはないとか、物品の交換や金銭の使い方も知っており、貧しいが幸福そうで、子供は怖がらずに、差出すビスケットを受取ってくれたといっている。
 これをみても越中側の伝説のたぐいは、あまりに実状を知らないことの興味と一種のおそれが入り混り、あらぬ方向へ走り出していることが分かる。または、藩が、意図的に、そのような情報を流したのかも知れない。いずれにしても、有峰は越中との交流が少ないことを示している例である。
 有峰の人々は、特別の人種でも痴呆の集団でもなかった。生活習慣として山稼をなりわいとするうえで、少しでも楽な方向をめざして自然に山奥の土地に住むことになっただけの、ごく普通の人々であった。それが他郷との交流不足と情報の欠如によって、特殊な人間の村であるかのように扱われたにすぎない。
 それは後年、サンカが日本人と別種類の人間であるかのような論争がなされたことと一致している。そこには異分子を排除する方向とは別に、外部への興味深さも合わせ持つ日本人の姿が立ち現れているのである。
 有峰に関する伝説は、前出サトウの「日本旅行日記」にも訳者が注記として「立山黒部奥山の歴史と伝承」広瀬誠著から引用の形で入れている。
 有峰に関する資料は沢山あるが、まず広瀬誠氏のものが白眉で、これ以上のものは現在得られない。この本を資料として派生する文献はさらに多くなるが、まずは原典として評価は高い。
 前記外国人の有峰訪問は劇的であったが、願わくば、当時最も日本通であり、神道にも通じていたサトウが訪問し詳細な記録を残しておいてくれたらとくやまれる。前出の広瀬誠氏も「彼に数日のひまを与えて有峰実見記を書かせなかったのはかえすがえすも残念である」といわしめている。
 有峰は今や湖底にあるが、研究者のために筆者の知る限りの一般的な文献をあげておきたい。
  1.「日本旅行日記」       アーネスト・サトウ
  2.「日本アルプスと秩父巡礼」  田部重治
  3.「越中アルプス縦断記」    中村清太郎
  4.「立山黒部奥山の歴史と伝承」 広瀬 誠
  5.「黒部奥山史談」       湯口康雄
  6.「村の記憶」         山村調査グループ編
  7.「ああ天地の神ぞ知る」    池内 紀

 以上のうち、1は、平凡社の東洋文庫に収められており、4・5・6は、いずれも、富山在地の桂書房の出版になる。
 このうち、新しいが「村の記憶」が優れて入手できる。越中における廃村をとりあげた秀作であるが、越中にこれだけの山村があったかとおどろかされる。地道な調査と、それを丹念に収集して出版する努力は賞賛されて然るべきものがある。                                   (1993年6月)

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「洞(ほら)」地名考
 奥美濃の板取川は沢登りや渓流魚釣りを好む人にとっては一度は必ず訪れたことのある川だと思う。その板取川の奥には川浦(かおれ)谷といって遡行に困難な谷が密集している川筋がある。「男一人を川浦にやるな」というくらいの谷で昔は入口に関所があって入谷できなかった。
 このあたりの山は国有林でなく民間所有で奥地には熊狩りの道が細々とついていた。そんな具合でこの谷に目をつけた登山家は入口からでなく裏から入って堂々と関所を出たという。
 川浦谷の第一の支流に西(にし)ケ洞(ほら)がある。困難な谷でしかも長いので途中一泊となって「洞・天井」という山に出る。この山はなぜか(ホラの天井)でなく(ドウの天井)といわれているが西ケ洞の天井(山)との意味では同じである。
 ホラの漢字を読み変えただけで、洞窟と同じ性質のものだろう。もともと板取川の入口に洞ノ戸があって、その奥はすべて「洞」と考えられていたから、洞は浅い谷筋ではなく急な谷間のような土地や、洞穴、あるいは空虚な空間を意味しているのだろう。洞の解釈としては現代も同じで国語辞典や地名辞典の大勢はほぼ同じ解釈である。
 岐阜市の北方には洞の地名が集中して帯状に飛騨に達している。このように特定の地域に密集している地名については昔から地名学者によって興味がもたれ研究されているが、未だに決定打が出ていないのは他の地域にほとんどないか極端にすくないので比較検討の機会が少ないのも原因のひとつである。
 さらに各種の洞地名に対して現実の地形特徴が必ずしも一致しない欠点があって研究者を困らせている原因ともなっている。従って洞地名を「浅い谷」「深い谷」「大きな谷」「穴倉」「開拓地」「村落」いった具合に多岐にわたる解釈が出て、実際の洞の名義が確定しないことにもなっているのである。

<洞地名の分布>
 洞(ホラ)は洞(ドウ)と共に岐阜市の北方の低い山地一帯から飛騨にかけて濃密に分布することは先に述べた。近畿地方には幾つかの地域で存在するが濃密ではない。伊奈から伊豆にかけての山地にも若干のものが存在している。東北の一部にも部分的に濃密なものがある他、全国的に観光地などの渓谷及び洞穴などに「洞」を使っている例がある。鍾乳洞などは典型的なものである。
 洞の地名は存在しない地方には全く存在しないという特徴があって、この点でも非常に面白い地名であることが分かる。

<洞地名と地形>
 洞地名には幾つかの異なった地形があって、その傾向を次にあげる。
  A 浅い山地の谷間に開かれた村名
  B 窪地形(小盆地状)にある村
  C 山麓の平坦部の村
  D 大きい谷
  E トンネルの天井をとったような谷(廊下やゴルジュをもつ険悪な谷)
  F 洞穴・鍾乳洞
  G ドーム状の独立峰
 以上のような地形に分類される。AからCまでは村落名であるが平坦部と谷間及び盆地の村とに分かれる。これを仮に「地形A群」としておく。DとEは共に谷であるが大きい谷と岩盤の発達した険しい谷とに分かれるが、これを仮に「地形B群」としておく。Fは洞穴の解釈で鍾乳洞と共に洞の最も正統的なものと考えるが地形B群のEの谷には滝の釜や淵などの見方のなかに洞穴をもふくまれるので共通した語意があることに留意しておきたいのである。
 これに対してGにおける山岳には「大洞山」「洞谷山」「東洞山」「洞山」などがあるが、大部分が谷名からきたものである。付近に洞地名が集中している地方は当然としながらも全く洞地名のない地方の山にも「大洞山」がある場合がある。
 伊賀、伊豆などの外にも、日本山名辞典(注01)には数例のものがあって、付近に洞地名があるものもあるが、ないものもある。
 付近に洞谷や村落名に洞が使われていない地方の大洞山には類型がある。例えば伊賀の大洞山のようにドーム状の水の乏しいタイプの山には東側に開拓された新しい村があって水路を掘った可能性がある外、大既大洞山はドーム状の山形をしていることで一致している。これは中が空洞になっている石灰岩質の山の場合を意識したものと、経験など宗教的な側面が考えられる。つまり法螺貝が修験と共に一般に浸透した結果の産物とも考えられよう。
 法螺貝の名もまた源流は「洞」の空洞を意識したものであり、法螺(ほら)はあて字である可能性もある。中身が空洞となっている様はドーム型の山と意識のうえで同義とみてよいと思う。
 以上大洞山の側は洞地名の発展及び、進化の状況を物語るものと映るが、穴洞の意義として同質のものが険谷とドーム形の山との間に存在するように思う。近隣の「洞の堂」なども同じである。

<地名研究者の見解>
 地名研究者にとって洞地名は特に注意される地名とみえて、それぞれの解釈を発表されているがまさに正反対のものもあって学会においても見解が分かれているほどにこの問題は難解といえよう。
 代表的な見解をあげてみよう。まず鏡味完二氏(注1)のものでは「水の少ない短小の谷として朝鮮語の(フレ)や洞の(コル・トン)から初め谷の意から村になった」とするのに対して松尾俊郎氏(注2)は「原(ハラ)からの転化」説をあげている。岐阜北部の洞地名密集地に「木知原」(コチボラ)があることから洞の前段階として認めたものである。
 これに対して、ほぼ正反対の見解がある。
図1 図1

 吉田茂樹氏は「地名の由来」(注3)の中で五万分の一地形図「大垣」の池田町の部分にある「山洞」(図1)をあげて、洞は洞穴や谷筋の意味ではなく、元は開拓地のような土地をいうのではないかと述べられている。
 地形図の「山洞」は池田山麓にあって農地以前は池田山の山麓を構成するゆるいスロープ状の野といってよい土地であったのだろう。
 山洞には谷筋が認められないので、この地に洞があるのは洞とは元来、穴状の地形を指すのではなく開拓地のことであり、「後世に至って奥地を開拓した人が、誤って谷の意として用いたため、一部で方言化し谷をホラと呼ぶに至ったと解されよう」とある。
 洞の地名には若干の平地の洞が認められるが例外的といってもよいくらい極端に少ないようである。
 昔の開拓地を洞とすれば洞はもっと数多く平地に存在しなくてはならないのだが、ほとんどこれがみられず、逆に地形進化の側からみて消滅したのであれば付近に存在する同時代の古地名が残存する理由を説明しなければならなくなる。
 吉田氏は「古語のハル(冶・墾)よりきた語で(墾(ホリ)田(タ))でハル・ハリ・ホリと開墾の意が原意であると述べ、村から谷名へと誤認されたものといい、さらに松尾説に対しても、「古語類苑」の『地勢提要』にコケハラがあるため原をホラと呼ぶのは後人の誤認であるという。また「中世末期の新開地として誕生し、近世に至り「新田洞・新開洞」なる地名があるように、もはや新開地といった程度の意味をもつ語に変化し、こうした中で奥地の住民が誤って谷の意とした地域が出現して、ホラの意が多様化していった」と述べて洞が谷であるという現代の解釈を文献的に否定されるのである。
 地名研究者のうちでも以上のように見解が分かれている現状は洞の地名解釈が定説化しておらないことを意味しており、ここに普段から沢登りを通じて洞地名と接している筆者等の実地を踏まえた意見を述べる意味もあるのである。

<研究者の説と現地の状況>
 地形A群において鏡味説と吉田説の可能性は「谷から村」説と「村から谷」説と正反対のコースをたどるもののそれらの地名は現実に存在するので問題はないが、地形B群では相当異なる。
 両者共地名調査が人の住む村落が対象となっているようで、山や谷そのものの地名については欠落しているようである。
 鏡味氏の「浅い谷を洞」とするのがよい例で、これは岐阜北部の村落を対象にした調査結果であり、さらに北部に続く洞地帯は無人地域として、その特徴を見落としているように思われる。
 その特徴とは、地形B群のうちでも、洞穴に近い谷々の密集地帯である。洞はまさに洞穴そのものといった印象をもつ、この一帯の谷は登山者でなければ見ることができないものであり地名研究者が見落すのも無理はない。
 この一帯の洞は疑問の余地のほとんどない「洞」であり、洞地名の発生は谷から村落へという説と一致する。
 吉田説の村落から谷へと至る地名進化論は「洞穴」の語義が古くから確立している以上無理があるように思われる。まして後年になって誤って谷を洞と呼んだとする見解は疑問の多いものに映る。

<吉田説の検証>
 新開地の古語ハル(冶・墾)を洞の原意とする説は「山洞」をあげるまでもなく岐阜北部の洞地帯においても相当の説得力をもつものと思われるが、「奥地の住民が誤って谷の意とした」理由がよく分からない。なぜ誤ったのだろうか、この点が説明されていない。
 筆者らが認識している洞の意と大分異なっていることに違和感を感じるが、吉田説に対する問題点を次にあげて検討してみたいと思う。
 一、 洞穴、洞窟など今日使われている日常的な語意が近世以後に成立したのなら洞穴など空虚な意味を内包する洞の名義は何であるか―、また開拓の墾(ハル)や治田(ハルタ)がなぜ洞と同義なのか、文献以外での証明が必要であり、現段階では、それがなされていない。
 二、 開拓は必ずしも低地から奥地(山地)に至ったのではなく、むしろ山間の「小野」といった土地に稲作などが発達した歴史的事実の解釈をどうするか。
 三、 仮に奥地の開拓民が誤って谷の意として使ったにせよ、それが文化の逆流をおこし洞の意が未開地から都市へなぜ伝播したのか説明が必要である。
 四、 洞がなぜ地名として美濃の一部に存在し、他の地域に少ないのか。
 五、 奥地を開拓した民がなぜ洞の意を誤って谷の意としたのか。
 六、 低地の開拓地としての洞がなぜ地名として消滅したのか。

 以上がその要点であるが、(一、)は古語辞典(注4)でみると「堀・濠・彫・洞」などがあり、前三者は開拓地に関連した用語とみることができる。
 洞は明らかに洞穴など、穴もしくは深い空洞であって、これに似た形態の谷、ゴルジュや廊下の発達した谷と考えることができる。
 洞は穴として古い時代に「大和(やまと)言葉」などで確立している限り、険谷を洞とすることに反対することはむつかしい。従って、(五)の、誤って洞を谷の意として使ったとする意見は成立が困難となる。
 また墾(はり)・冶(はる)、などの開拓用語から洞(ほら)になったとする見解には、美濃加茂市に「冶(はっ)田(た)洞」があることから「新田洞」同様、用語の二重使用となるおそれがある。治田も新田もそれ自身が共に開拓し終わった状態を意味しているから、これに更に洞を開拓用語として加える必要があるか問題が生じるのである。
図2 図2

 治田洞の地形は、峡間に拓かれた村であるが、上方には岩場が張りついた険谷があって、袋のようになっている。(図2)
 治田洞は正に峡間に拓かれた村なのである。
 これに対して大洞が付近に二ケ所、牛ケ洞がみえる。それらは治田洞に比較すれば、はるかに広い谷筋である。これをみる限り、「大洞」とは、単に大なる意味ではなく、広い意味をもっており、そこでは牛を放牧することも可能なほどのものがあったことを伝えてくれる。谷名と村名とが同じものである場合が大部分であることに注意されるべきである。
 わが国における農地開拓は低湿地がより大きな先進技術を必要としたため国家及び大寺院の資金及び技術力によるものが大部分であって、水稲などの先進地は小野などと呼ぶ小盆地が進んでいた。これは水利工事が安易であったからで開拓が平地から山奥に至ったとする説とは反対の結果となる。
 しかし、水利不備の地域はこの限りでないが、現地の洞地帯をみると必ずしも吉田説に一致するものではないようである。結論的に開拓とは水利次第であるから、最初は適地から初められるもので、順次、水利不備の土地に移るのであって、平地・奥地の観念では解けないものである。従って、(二)の説も相当難解なものとなる。
 (四)及び(六)も充分説明されなければならないが、少なくとも、平地から洞地名が谷に至ったのなら平地の洞がなぜ簡単に消滅したのか解せないのである。しかし最も不思議なのは、(三)の問題である。平地開拓の村から奥地の開拓に入った住民が誤って谷の名としたことも根拠がないが、なお不審に思うのは、そのような誤って奥地で使われた洞の語意が、なぜ逆に都市に伝えられ、今日のように全国的に安定的に使用されているのかということである。
 これは言葉が悪いが未開地から都市へ文化が逆流していることになる。しかも美濃の限られた小地域から発信された文化は全国を制覇するのである。
 洞がなぜ村の名となったかは、開拓などによる二次的原因ではなく、原初の地形的特長によるものと考えた方が無理がないのである。

<他の洞地名の解釈>
 洞地名について朝鮮語やアイヌ語の説がささやかれているが東北のものについては、アイヌ語のホロ・ナイ(大川)の転化説などが有力としながらも、口語から漢字化し「洞」の字を使った時点で若干の変化が生じている可能性があるので何ともいえない。しかしここでも洞は洞穴状の谷とする部分は動かないと思う。
 朝鮮語では洞を「コル・トン」と読み、初めは谷の意、のち村の意となった。とすることから、鏡味説のよい援軍である。
 洞を岩盤の発達した険谷とするのは、ほとんど動かない事実であり、渓谷の状況を知る者にとってはごくあたり前のことながら、実地見分をしない研究者にとっては困難な検証であったろうと思われる。どうやら学者といえども山岳に関連した地名については門外漢のように見受けられるので登山者の側からも地名研究に参加することも今後に必要なことかも知れない。

<京都の洞地名>
 洞の用語については以前から問題となっているらしいことは知っていたが、これほどとは思わなかった。谷においては「洞」地名は美濃北部のみではなく、かなり広い範囲に分布している。
 京都の北部にも洞という集落がある。若狭に近いことから古い時代から交流があったとみられ、それほどの辺境とはいえない所であるが開拓時代は当然中世に遡るはずである。
 この地になぜ洞が使われているのだろうか、付近には洞がないことから開拓の意から来た洞でないことは明らかで、出所は村落の西に流れる「洞谷」にあることが推定される。洞谷はゴルジュの発達した険谷で、上流に二本の音谷・吉谷という沢登りに適した滝の多い谷があって登山者に人気が高い。
 本流沿いの道は「洞峠」に至っている。以上の地理的要因からみて、京都の洞は、谷の形状から谷名が発生し村落名や峠名に発展したとみた方が自然である。また他の付近にはゴルジュの発達した谷がほとんどないことも有力な証明になりそうである。
 小生など長年沢登りを楽しんできた者にとって滝やゴルジュの発達した谷は有難い存在であり、そうした谷の名に○○洞の名が多くふくまれていた事実をよく知っている。洞の字をもつ谷はほとんど例外なく険谷であった。
 鈴鹿北部の「滝洞谷」は石灰岩の谷で浸食作用が激しく進み、洞穴をともなう滝が連続していて正に名称の通りの谷であった。
 「洞」の語意は、美濃北部の谷々にも限らず、近畿全般をみても、どうやら同じ性格をもっているように感ぜられる。
 京都の北部、広河原から京大演習林にぬけるコースの谷にも「フカンド」又は「フカンドウ」の谷があって、これに深洞の漢字をあてている。
 おそらくフカンド、又はフカンドウの語意を伝えたものと思うが滝は少ないものの深い谷である。
 フカンドウの地名は他にも沢山あって、山名(山体)の名になっているものもある。これなどは、谷名から進化したものと認められる。

<谷・洞穴・原・堀>
 伊豆の土肥町に「大洞峠」がある。伊豆には、○○原の地名が多いことから、確証はないが、付近の地形からみて、原からの転訛とも考えられる。
 九州では原のことを「バル」と発音することから、バルからボラが生まれる可能性はあるとみなければならない。  松尾説の木(こ)知(ち)原(ぼら)はその過程とみることもできる。特に伊豆にはその状況をうかがわせる地名と地形の類似点が散見されるのは注目される。
 先に述べた伊賀の大洞山など、その他の無数の大洞山についても「堂」(ドウ)の漢字化された地名と共に「バル」からの転訛説が濃厚とする見方も生じてくる。
 しかしながら、洞は胴と共に「ドウ」と「ホラ」が共に、ある物体の中身が空洞であることを意味していて、これが修験者、行者、求道者達が、洞窟内にこもり修行する、あるいは胎内くぐりの側にもみられるように、修験者における生命再生の重要な儀式が知られるようになった結果とみることも可能である。
 空洞(胴)の認識は「人体語」としても機能する。人間が胎内から生まれ、再生においても、それに似た形式をとることは既知のことである。
 また仏教における「空」も洞と通じているようにも思えるが総じて宗教(仏教系)には洞と共通した部位が多いのである。
 従って「大洞山」が、かつて修験の山であったことが類推される。

<大和の洞地名>
 大和(奈良)にも洞地名が二十八ケ所もあることが「日本地名伝承論」(注5)に出ている。
 奈良の中部から北部にかけて集中しており、歴史的にみて地名の原郷である土地柄だけに注目される。
 吉野地方に「垣内(かいと)」が無数にあって、新たな開拓地として認められるが、洞は「洞川」のように深い谷筋という特徴をもっている。 洞川は、元「洞」であったものが、近代化された地名となったか、洞窟のある川という意味になったかのどちらかである。特にこの場合は、後者のようである。
 洞地名は美濃北部に集中しているのは事実ではあるが、独占ということではない。各地にも普遍的に分布していることが分かる。
 以上のように考えてくると洞はさまざまな発生要因があり、地域流通性と年代差がからみあい、そこに進化という厄介な問題が入りこんでくるのである。洞穴状の険谷から、しだいに普通の谷にもその名が冠せられるといった例が美濃北部にみられることは進化と流通伝播の様子を示していると思われる。
 しかし多くの発生源から出発した洞としても、最も古い形態はやはり、大和言葉として古代から確立していた「洞」の語意であるところの洞穴を意味すると考えられ、これに似た谷の状況から出発していると考えた方が無理が少ないように思う。
 水利の悪い山村は、特に中世以後に開拓され、新たに水利工事を必要としたため、水路を掘ったことによるのではなかろうか。
 水利の悪い村が後年に開拓され、しかも谷筋に存在しないのは理由があり、水稲よりも畑作から出発していることが伺える。洞が集落名となったのは中世末から近世初頭という状況はその事実を証明しているのではなかろうか。  それではなぜ美濃、飛騨に洞地名が集中しているのだろうか。筆者の推測では金属文化に根ざしたものが感じられてならないのである。六〜七世紀において鈴鹿山脈の東側一帯に展開された鉄文化は壬申の乱において圧倒的な武力で天武帝を支援し勝利をもたらしている。
 この鉄をはじめとする金属を支配した大勢力が美濃にあって、吉野、大和と密接に継がっているとしたら、この時代大和で使われた言語で共通のものがあったとしても不思議ではない。美濃において多数の鉱山の採掘に「洞」の言語を使ったかは定かでないが、もし、この語を使ったとして、その後において鉱天の畑作への転換などが進んだとしたら、美濃において、集中的に「洞」が村落名となった説明はつくのである。
 筆者は壬申乱の折に数万の大軍を動かした勢力がその後において職業的転換、つまり焼物、炭焼きなどに転じた可能性は非常に高いとみているのである。職業転換をしなくとも、もともと金属や焼物などの技術は先端技術であり、外来からの渡来であったかも知れない。それらをふくめて考えているのである。
 谷名は洞を正しく伝えているものばかりであり、筆者はこの洞穴に擬似した谷名から出発し、山の名称にもなり、さらに付近の村落名ともなり得たとの印象を強くもつ。
 この考え方に立てば平地の村落名は、おそらく水利の悪い地方にあって水路を掘ったことによる「堀」が「洞」になった可能性が高いとみる方が自然のように思われる。
 先の「山洞」などは、池田山から流下する谷と谷の中間あたりに存在するから当然水路の必要性が高く近世以後の開拓地共通の土地環境をもっていると考えられる。新しく開拓された土地ほど何らかの悪条件が内臓しているものであり、特に水利における問題は決定的な意味をもつている。近世以後の開拓地に「洞」があるのはこの点からも充分説明がつくのである。
 「洞」は誤って谷名になったのではなく、古人は正しく洞の意味を今日に伝えてくれているのである。岩盤の厳しい谷を「廊下」とか「ゴルジュ」と沢登りの世界では表現するが北海道では「箱」と表現する。これに対して「洞」はいかにも古い時代の表現で、さすがに大和古語の基礎のひとつにもなっている。廊下や箱は大雑把な表現であるのに対し「洞」は洞窟のようになった険悪な谷の様子がよく分かる温かみのある表現として感じることができる。
 美濃は大和と密接に継がった文化の先進地であった。それは天武帝を助けた美濃・尾張・飛騨の鉄文化を形成した勢力の存在でも分かる。彼らが鉱山を開発した過程においても、堀・洞という言葉を作業上の表現として、特に敏感であったことは当然のことと考えられよう。                (1989.10)

 文献
  注01 コンサイス日本地名辞典 徳久球雄遍 S.54 三省堂
  注1  地名の語源 S.53 鏡味完二 他一 角川書店
  注2  地名探究 S.60 松尾俊郎 新人物往来社
  注3  地名の由来 S.54 吉田茂樹 新人物往来社
  注4  岩波古語辞典 S.49 岩波書店
  注5  日本地名伝承論 池田末則

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東山と西山――信州地名考
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kinasa_1一夜山から戸隠連峰
kinasa_2鬼女伝説の碑と祠が建つ山頂
 白馬岳や、唐松岳・五竜岳・鹿島槍ヶ岳など名だたる高山を連ねる山脈の名を「後立山連峰」と呼び習わすのは、越中側の勢力、知名度が安曇野のそれを上まわっていたことを意味する。
 越中で立山信仰の勢力は、山岳信仰と文献となって全国に伝わったし、都人の知るところとなって不動のものとなるが、安曇野において、それに匹敵するものがなかった意味が指摘できよう。
 安曇野において、後立山連峰のことを「西山」と呼ばれ、東に連なる山脈を「東山」と呼ぶことが知られているが、これは、安曇野が単なる田舎の辺境でないことを示している。
 後に「西山」は前衛の山を指し里山のことである。奥に連なる巨岳は「岳(ダケ)」と呼ばれて区別されていた。
 都(京都)が、北山・東山・西山などと呼ばれる山地に囲まれていることは周知のことであり、これに習って、地方の小京都や、それに類する中心地において、同様の山地の取り扱いが生じている例は各地方にみられる。従って安曇野が、それらと同様京文化と濃厚につながっていることが理解されるのである。
 小野という小盆地に都市を作ることは古代から続いた習慣であり、その問題については別に論じてみたいが、その盆地において四辺の山地(盆地から流れる河川があるので通例は三方山地の場合が多い)を、北山・東山・西山と呼ぶのは、単純素朴ではあるが、地方的表現ではなく風水思想と深い関係をもつ表現なのである。その中心地が単なる新開の人口密集する土地なら、けっしてそのような表現はなされない。全く別個の地名が使われるはずである。
 今でも、全国各地において、北山・東山・西山などの山名がみられるが、それは、そのように呼んだ中心的土地が必ず、その方位に存在したのである。
 北山なら南側に、その地方の中心地、たぶん地方行政官が居をかまえていたはずである。土佐の高知市などはその典型である。東山も西山もその例で理解できるが、三山が完全にそろっている京都のような場合には、その土地が容易ならぬ内容を持つことを意味しているのである。
 地名と歴史を通観すれば、明瞭になることであるが、地名こそは、その土地の歴史を記録している最も重要なもののひとつであった。
 さて、安曇野である。安曇野における西山と東山は、北山を欠いているから、フォッサマグナの溝の内に存在する土地であることは理解されるが、西山が前述の後立山連峰と接続する山として認識されるのに対し、東山はどの山地をさすのだろうか。
 この疑問に対しては国土地理院の地形図上において、鬼無里(きなさ)の西に南北に連なる2000m近くの山脈があり、その中央に「東山」があって、さらに南下すれば、もう一つの「東山」の名を指摘できる。
 以上のことから、この山脈が安曇野における「東山」であることが一応のところ知ることができる。文献の大部分は、この例によって安曇野を中心とする西山と東山を認知し、それが定着したと思われる。山岳界の文献及び、安曇野における民俗学においても、この説は定説となった感が深い。
 これで一件落着で、本文も筆を措くこととなるのだが、実は問題の大部分は未解決なのだ。
 地形図上の「東山」の存在は、本当に東山であったのだろうか、その問題を、これから解いてみたい。
 「岳人」246号誌上において葛飾史談会の山根忠氏によって、「安曇野の東」が発表されている。それによれば、安曇野における「東山」の概念が、前述のそれと若干異なっているのである。それを少し引用させてもらう。
 「槍で別れた梓と高瀬、めぐりあうのは押野崎―という安曇野節があるが、この押野は穂高町と明科町にはさまれた松本盆地の扇状地で、ここで高瀬川・穂高川・万(よう)水(すい)川・梓川・会田川(保福寺川)が落ちあっている。そのひろい河原に大穴山の裾が突き出しているが、その鼻が押野崎なのである。(中略)この乱流地帯の洲をつないで架けられた犀川橋と安曇橋の西北、および東北の橋場が押野である。(中略)梓川は奈良井の合流点から、すでに犀川と呼ばれているが、押野で総合された川は一本となり犀川と名をかえる。(中略)この押野崎を末端として、北へつづく大穴山は、次第に高さと幅を増して、東には犀川のメアンダリング、西にはいわゆる安曇野を山裾として、大峯鷹狩山・霊松寺山・権現山と1200米ほどの隆起をいくつもつくる。(中略)つまり木崎湖・中綱湖・青木湖を北限としてあとは犀川に合流せず、糸魚川にそそぐ。
 この権現山以南の山は、後立山を西山と呼ぶのに対して東山といっている。」と述べている。
 つまり、フォッサマグナの南北の分水界あたりを北限として南を東山と呼んでいるのである。
 それでは地形図上の、白馬村東の東山と、鬼無里西の東山は、前の記述に当たらなくなってくるのだが、これは地理学上「筑摩(ちくま)山地」と呼ばれる山地となっている。
 山根氏の記述も「その奥は筑摩山地で、信州新町から鬼無里村を経て頚城丘陵となり、さらに魚沼丘陵へのびている」とある。
 安曇野における東山は、実は、もっと里に近い「里山」といってよい低山であったことが分かり、さらに、白馬村の東の筑摩山地の東山は、白馬村においてこそ、東山であったのであり、安曇野では、むしろ「北山」といってもよい地位にあったのである。
 安曇野、大町、白馬村などから東方の山脈を筑摩山地などと行政的地名が冠される以前において、東山であった可能性が高いのだが、ここは一応拡大解釈をとるとして、問題なのは、二つある東山のうち、主峰と目される高い方の東山・1849mの北方に「中西山」「奥中西山」があることである(地形図の「白馬岳」と「戸隠」を見開いていただきたい)。これは、本来は「中西山」ではなく「西山」であったのではないか。
 中の西山であり、奥の西山である。そうすると、東山はひょっとすると、前西山か、西山と呼ばれていた可能性すら出てくる。
 安曇野の側に習えば、この山地一帯を単に「西山」と呼ばれていたのかも知れない。それなら、この山地を西山と呼ぶ土地は地形図の東端をみれば、鬼無里があるのである。鬼無里こそは、白馬や小谷の村々よりはるかに中央に知られた土地であり古文献にも多く登場する。
 中世から一定の時期においては、鬼無里が都に通じ、地名発生は数量的にも圧倒していたのではないかと考える。
 都から流された「鬼女紅葉」の話は謡曲「紅葉狩」にも登場するが、鬼無里には「貴女紅葉」である。東京、西京、内裏屋敷、加茂、二条、三条、四条、五条などの地名を残していることから、強い都とのつながりを思わせる。
 裾花川筋の狭間になぜ都とつながるものがあったのか、それは謎としながらも、おそらく、信仰、つまり戸隠であり、飯縄であり、荒倉、虫倉であったのだろう。事実、鬼無里には、戸隠参詣のため西山(この場合鬼無里からみて)を越える信仰道が沢山あった。
 「秘境の谷」ふるさと草子刊行会、にはそのような古道が幾つか紹介されている。それによれば、山間の狭間にすぎない鬼無里によくこれだけの道が整備されていたとおどろくばかりである。
 鬼無里という穴倉のような土地は、実はブラックホールのような吸引力を発揮していたと考えるより他はない。
 東からは善光寺道があり、一夜山山麓から戸隠に向う「歌枕」にもなった道が通じている。これらは、松本平、安曇野、小谷、糸魚川方面から山越で来る信仰の道であった。
 南から虫倉山山麓を通り、大洞峠を越えるものがある。
 西から山越で鬼無里を通り、戸隠や善光寺に参詣する道については多岐にわたる。
 西山(鬼無里からみて)を越える道は、南から1)嶺方峠 2)柳沢峠 3)柄山峠 4)越後道などがある。
 1)の嶺方峠については、現在の道路ではなく、本来は「夫婦岩越」というもので、地形図上にも「夫婦岩」の表示がなされている地点を越えるものである。この道は終始尾根をたどるもので、展望もよく、道筋には、名の通りの「夫婦岩」と大日如来・馬頭観音があって、牛馬も荷を背負って通ったという。歴史・重要度いずれも、鬼無里にとっても、安曇野にとっても最大級のものであった。
 2)と3)は共に谷筋をたどるもので白馬村との交流が盛んであった。
 2)の柳沢峠は、3)の柄山峠がすたれていくにつれて、活発に利用された峠であった。
 柄山峠は地形図にも残る山名を冠しているが、最も早く拓かれた道で「秘境の谷」は次のように述べている。
 「越後の糸魚川から、小谷、白馬、大町、安曇野を経て、松本に至る古い道を千国(ちぐに)街道といいます。戦国時代、越後の上杉が甲斐の武田へ塩を送った、いわゆる「敵に塩を送る」といった美談で知られるのもこの道です。この街道の小谷村千国には、松本藩の番所が置かれましたが、鬼無里への柄山峠越えの道は、ここから分かれて白馬村へ入り、青思−野平−柄山峠−落合−西京という順路をたどりました。
 白馬側からの三筋の道のうち、この柄山峠越えの道は最も早くから拓けた道で、かつまたいちばん通行量の多い道であったと思われます。というのは、この峠を越えて鬼無里や善光寺、そして戸隠方面へやってくる人々は、小谷や四か庄の隣接地ばかりでなく、もっと広く姫川沿いの越後、さらには越中方面にまで及んで往来があったからです。
 善光寺や戸隠はむろんのこと、土倉の文殊さまへの参詣路として、または善光寺平への田植え「田人(とうど)」の通り道としての役割を果たしたのも、この道だったのです。」
 以上の峠は信仰を軸とした生活全般にわたる道で、鬼無里の位置や地位について考えさせられる。
 4)の古道は裾花川沿いに遡行して行く北方の道で、現在ではほとんど道型をとどめないほどであるが、一部分、奥裾花園に至る林道が通っていると考えてよいと思う。この道程は、鬼無里の落合から八方沢の奥に至り、やはり土倉、小佐出から小佐出沢をつめ合流して北上し、現在の奥裾花自然園に至り、さらに堂津山の東の鞍部を越え越後へ向うものである。自然園付近から奥中西山あたりを西へ越え、雨飾方面、又は奉納温泉方面へぬける道もあったらしい。
 裾花川と筑摩山脈は、平行して南北に走っているが、その山脈の頂稜付近は厳しい岩稜と樹木も育たない急崖となっているものの、裾花川との中間には、ゆるいスロープがある。それが山脈と平行して南北に帯状に連なっているので、古道はその部分をたくみにぬって通っていた。
 この道は現在では完全に蜜藪に覆われているが、塩や、信仰や、兵士が通る道でもあった。裾花川の「木曽殿アブキ」は史実かどうかは別にして、この地に相当の軍事的要素が実在していたことを今に伝えている。堂津岳はおそらく「道通」ではなかったかと考えている。
 地形図をみれば、この道の通っていたと思われる中級のスロープが、鮮やかに帯状に走っていることが認められよう。
 この道の実態は「秘境の谷」において、古文書から推定されている。つまり、鬼無里から、堂津岳の東を通り富士見峠を越えて越後早川谷に下るもので、鉄道が通るまでの幹線道路であったらしい。古文書では「水内郡鬼無里村より頚城郡へ越後街道切広書」として「道が山抜け等のため通行できず、米穀、塩等の物価が高騰して難渋しているため、鬼無里村、大平村が協議して自費して拡幅工事をしたいという認可申請書で、大平村の同意書も添付されている」という。
 落合や小佐出の西に、八方山とか物見山とかの山があるが、これも鬼無里側の名であるし、越後街道からわずかの登行で到達できたと思われる。物見山などは、木曽義仲伝承との関連で面白い存在である。
 以上のように鬼無里側においても現在では信じられないほどの開発が行われていた実態を知ると、どちらが表で裏であるかの議論は意味をなさないと思う。むしろ時代によって中央に知られる度合いに波があったものと考えたほうが良い。
 したがって筑摩山脈を「西山」と呼んだ時代が、鬼無里にあったこと、その後、小谷を中心とする千国街道沿いの文化圏からも、「東山」と呼ぶ習慣があったことなどが、どうやら競合して、現在の地形図上の版図となっているのではないかと推察する。
 参謀本部の地図製作部や、その後の国土地理院の人々は、この地方の地名、特に境界線上の地名採集と、その地名の採用については相当困惑したものと推察するのである。その結果が、両方の顔を立てるような配分で地名が現在に伝えられ、さらに、その図面をみた、主として登山者に複雑な影響をあたえてしまっているのではないかと思われる。伝えられるような、安曇野での「東山」は鷹狩山を中心とする権現山以南とすることが、先に示されているが、筑摩山脈においても、その地理的理由から、東山は、双方の文化圏から別々の扱いを受けていたことを知るのである。
 定説は時として正しくない場合もあるのである。
 東山に登り四辺を見渡したとき、この山は鬼無里の山であるという印象が強かった。
 奥裾花自然園付近の見事な原生林の落着いた雰囲気にひたっていると、越後街道は必ず、この付近に中継基地をもうけていたはずであり、その時代とほとんど変化のない自然に接することのできる幸せをかみしめることができる。

 安曇野、特に北部の「小谷」地方などでは通常「西山」というのは、白馬や五竜といった大岳に対するよりも、もっと里に近い低山を指すことが判明した。
 白馬岳から長い尾根が東流し沢山の裾野を分派させ、小隆起を作っている。小谷の人々には、それらの里山を利用し親しんできた。そうした低山を西山と呼び東山と共に小谷の人々の暮らしに密接にかかわってきた。
 そこで、西山の背後に横たわる巨峰群の大山脈であるところの後立山連峰のことをどのように呼んでいたかであるが、これは実にさっぱりしたもので単に「岳(だけ)」というのである。
 安曇野、小谷郷の人々にとって、岳と西山は全く別のものだったのである。里山との差は現在ではほとんどなくなったのだが。
                                                               (1993.10)
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山名を統一する
 一つの山に複数以上の山名が存在する場合がある。これを不便とし統一すべきだとする意見があり一般的に支持される場合が多い。
 山名を利便性のみで判断するなら現在問題になっている「国民皆背番号制」と同じで便利ではあるが他に複雑な問題が生じてくる。
 個人情報とか国家管理強化とか、それらの行きつく所が徴兵制度や軍国主義になるとかの議論は別にして、一介の山名、地名など統一して何の問題が生じるのか不審に思う人もあるかと思うが、これが厄介な問題を秘めているのである。
 日本山岳会の百周年事業の一環として「新・日本山岳志」が出版されることになった。日本山岳会創立当時「越後の旦那」と言われた、高頭式氏の財力によって、主要な日本の山岳(約1,300座)を網羅した大作(日本山嶽誌)が世に出された。これによって、山岳会がどれほど恩恵を受けたか計り知れないが、百年を経てこの精神を引き継ぎながらも新しい視点を加えて新版を出す由の担当者の弁であった。
 小生も鈴鹿の四座を執筆するが、ここで山名の統一という問題に直面することになった。「新・日本山岳誌」では、山名表記と共に「読み方」にも統一を求めているから各執筆者達は過去の文献を集めて頭を悩ませていることとみえて、鈴鹿の山について問い合わせがくる。  小生の「鈴鹿の山と谷」全六巻では全巻を通じて地元称の優先を打出している。官公庁の台帳にあるものが必ずしも妥当とは言えないので、その差について説明を求められるが小生の立場は不変である。
 地名調査で、高頭式氏はまず正確と判断する文献を集め、更に書面で地方自治体に資料提供を求め、地元有力者などの協力を得て記載すべき山岳を決めているが、もとよりこの方式では不備が生じる。地域山岳愛好者や精通者が少なかった当時としてはやむを得ないことではあるが、山岳関係者よりも、他の分野から情報の提供を受けたものが誌面に相当多く出ているのを知ることができる。
 誌面にバラツキが生じたため、補遺として追加山岳が加えられているのは必然であった。  「日本山嶽誌」の凡例のなかのこの間の方針が述べられている。
 「山嶽及ビ群村名称呼傍訓法」と称する所には明確に資料収集に対する態度が述べられている。
 それによると、1正確と思われる書籍、2所属町村役場に紹介したもの、3実地踏査によるもの、などは片仮名(カタカナ)傍音傍訓を用い、其の疑わしきものは平仮名(ヒラカナ)を用い、なをよるべきもののない場合は決して自己の憶測を加えないこと(以上要約する)。更に正確とする書籍は「A日本地誌提要・B市町村一覧・C郡区町村一覧・D日本地学辞書」などであり、このうち、山岳名はAとDからとり、郡町村名はBから、大字名はAとCによるものと述べている。
 更に高頭氏は実地調査というより、地元の山として荻城山(オギノジョウヤマ)と角田山(カクダヤマ)をあげ、これをハギシロ、ハツタとする場合人を誤れると地元称の優先度を認めている。
 実際の「日本山嶽志」ではあらゆる分野の文献を集めているから精読すれば、ルビが平仮名のものや無いものが多数にのぼり、当時の山名選定の困難度がひしひしと伝わってくる。  「日本山嶽志」において、多少気になる点として若干のもののあることを指摘しておきたい。
 1.正確で信用できる文献としての判断は、はたして正当なのか。
 2.そのなかに市町村等の官公庁の出典を信用する傾向が強すぎないか。
 3.実地踏査と官公庁出の資料の違いでは、どちらを優先させたのか。
 4.山岳名の出典とされるAとDの文献のうち元の出典が何か、場合によれば、すべてが官公のものの場合もあり得る。
 以上多少我国の最初の文献に対して酷にすぎるかも知れないが信頼できる定本とされる文献にも多少の問題点があることを認識しておくことが必要と考えて、あえて提示したまでである。
 小生の現場主義と多少の違いのあることをまず指摘しておきたいのである。
 先に「日本山嶽志」のことにふれた。その内容は今日でも充分利用価値が高いが新しく「新・日本山岳志」が刊行されるに至ったことは先に述べたが具体的な問題として一例をあげて問題認識を一般に提示しておきたいのである。
 先の「日本山嶽志」の鈴鹿の部で一番先に登場する山が、やはり「霊仙山」であった。ところで、この山に対する仮名が平仮名であることは注目に価する。
 凡例にもあったように信用できる地名は片仮名を用い、疑わしきは平仮名を付すと述べているから霊仙山に「れいせん」の平仮名が付されているには疑わしい名であることを示している。しかし別称として「霊(レイ) 山」であるので当時から二例の呼称があったことになる。更に言うならば、地元で「りょうせん」の呼称があったと知りながら文献に従った可能性が高い。出典はA日本地誌提要・B大日本地名辞書・C帝国地名大辞典の三書による。この三書は引用文献の筆頭にあげられている信頼度の高い文献であり、それに従うのはそれなりの理由があったと思われる。
 霊の漢字を漢音では「レイ」であるが、呉音では「リョウ」であるから、実は我国では漢呉ともに流通しているので、レイもリョウも共存しているのである。山を漢ではサン、呉ではセンと称するから霊仙山も、レイセンサン、リョウセンセンと音呼するとしろ、実際には両者は入り乱れて混合している。特に後者の場合は発音し難いので漢音に逃げて行くことで更に漢呉混合が進むことになる。
 さて我国では漢字の呼称に際して漢呉が共存していることを認める限りにおいて、霊仙の場合も、これをレイセンと呼んだり、リョウセンと呼んだりしても間違いではないので厄介なことになる。公文書の場合には漢音をとる場合が多いとみられるが、それでも完璧とはならない。しかしどちらか一方が正しいとして強制する権利が国にあるわけではないので両者は今後も生きる。
 そこで霊仙山の場合18点の文献を調べたが呉呼のリョウセンが圧倒的であった。文献のうち最も古い近江与地誌略では「なかれうぜん」とあるが、これも漢呉共存である。
 また他に類似の山名として、比良、福島、大分、伊賀、信濃、丹波、秋田、伊予などにある他に、もっと地方的な低山に無数の霊山は存在する。霊山は特定の特別な山というより、ごく普遍的な土着の山だったのである。そうした山々にも同じように漢呉の二例がつきまとっていることは、この問題が山名の正疑というより、漢字の取扱い方法と読み方の簡便さに求めても良いと思われるのだ。
 特に「リョウゼンザン」などと呼ぶ場合には、行きすぎの感がいなめないが「リョウセンザン」とするのは自然な日本式読みとして受け入れてもよいと思われる。
 ところで、小生の「鈴鹿の山と谷」では「リョウセン」となるが、これも地元及び登山者の一般的な呼称によっている。先に述べた通り、地元優先をとる限り官公の文献が違っていても特に移動させる必要は無いものと思っている。
 ところで、官公の文献を怪しむ理由については様々な形態がある。その一例として地形図の一部には仮称として、山名などを「里称」とわざわざ記した時代のあったのを知っている人も居るはずだが、これはどいう態度なのか、おそらく正式な役所での採名が不調であったために地元民の名を仕入れたものの官の裏付けのないものとして不安となり、仮名としたのではないか。現在この仮名は官も採用する所となり、地形図にも堂々と記載されるようになっている。官は絶対ではないことの証明であり、根本は地元に頼らねばならないことを示している。
 小生の名前も父親が役所へ届けた字は辞書に出ていない変態形なので公文書でも三例の字体が使われている。一般には略字を使っているが、正式を要求される場合は奇妙な字体を書くことになる。役所はよくこんな字を受け入れたものだと思うが、更に運転の免許証を受ける段になって先方で不思議な字体のものが作られた。以後変な字体を踏襲することになったが官公と言えども元を正せば、根拠とする、又はした源流があったはずでその中には怪しげなものもふくまれていたのである。
 地形図を発行している国土地理院(現在は国土交通省であるが)の発行する「標準地名集」がある。これは地名協議会というものがあってその趣旨は「国土地理院の陸図と水路部の海図に表示される地名を統一することを目的とし昭和35年6月国土地理院と海上保安庁水路部との間に設置された“地名等の統一に関する連絡協議会”(中略)その後NHK総合放送文化研究所、文部省初等中等教育局、日本地図センター及び日本水路協会からそれぞれ地名の専門家の参加を得て…」とあるように、そこで協議された地名の結果を収録したものと言える。
 「標準地名集」こそは我国の地名について混乱を認めたが故に設置された官公の組織であると言っても過言ではない。これを各自治体に配布することで、地名の統一の作業が進められることと思われる。
 また標準化の基本方針としては次のように述べている。(要約)
 1. 両者(地理院と水路部)の資料の一致した場合はそのまま認め、一致しない場合は資料の新しい方を採用する。
  また疑義のある場合は現地市町村に照合する。いずれか一方で資料を欠く場合は、資料のある方を採用する。
 2. 法令に関する地名は協議による。
 3. 公海、広い海域の海洋名は1HB(国際水路局)の定めたものとする。
 4. 異なる市町村で異なる地名を用いられている場合は市町村の確認調査表により原則として多数を採用する。
  複数名称が一般的に用いられている場合は[ ]を付して併記する。
 5. 地名の文字は現地のものを使用するが、問題ない場合は当用漢字とする。
  地名の発音は現地資料を尊重するが、振仮名については原則現代仮名づかいとする助字は一字とする。
 協議会で審議された地図は、100万、50万、20万図の他部分的には5千分の1の海図を使用するなど精度にバラツキがあって、我々が求めるようなものではないが、それでも一定の役割を果たしていくのだろう。
 今後、これを根拠として地名の固定化が進み、その他の由来をもつ地名は淘汰されて行きそうだが小生はそこに若干の危険性を感じるのである。
 その理由を以下にあげる。
 1. 協議会が資料とした地形図の地名がはたして正当か否か。
 2. 資料を欠く場合現地調査をしないのか。
 3. 地名の多数決は問題解決とは言えない。
 4. 地名の文字はあくまで現地使用のものを使うべきで当用漢字は不当。
 5. 助字の現代仮名づかいは疑問である。
 最近の地形図は地名が多く書込まれる傾向がある。特に山岳地帯の空白を埋める意味で正しい方向ではあるが、不安定な地名が採用されてしまっている例が多いことは協議会が形式で終わっていることを示している。特に京都北山の幾つかの山名には疑問が残るがすでに公的地名になってしまった。
 鈴鹿に関して言えば、霊仙山(りょうぜんざん)の読みはどこから採用したのか不明である。一般的に濁らないが、この標準地名集は他の地名でも濁る場合が多いのは何故か不思議である。
 牧田(まきだ)川も石榑(いしぐれ)峠も濁っている。御池(おいけが)岳は助字が現代仮名使いであるし、御在所山(ございしゃやま)はおそらくミスプリントと思われる。
 この本が濁ることが好きとみえて三重(さんじゅ)岳、与謝(よざ)峠、鷲峰山(ざん)という具合である。
 ごく近くの地名を取上げたが、この本を定本とする人が多く居ることを思うと何を信じてよいか途方に暮れるのである。
 漢字の読み方について、漢と呉とがあることと、両者は共存共栄している事実を述べてほしかったし、むやみに現代仮名使いに移行することは控えるべきであったと思う。特に助字の「○○ヶ岳」などの場合によく出現している「○○が岳」は改悪以外何者でもないと思う。
 やはり小生は地名は何と言っても現地主義を通すべきだと更に意志をかためているのである。
 なお、「日本山名総覧」(1999年 白山書房)も出典は同書であるようだ。
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小口(こぐち)という地名
 南紀の旅をしていて小口への道を聞くのに小口(おぐち)と発音してしまった。「小口(こぐち)ですか、それならばこの道を…」と教えてもらった矢先に再度山越えで反対側の川の名に「小川(こかわ)」があり、(おがわ)と発音して笑われた経緯がある。いずれも「小」をそのまま形で表現しているので地名の複雑さ困難さが身にしみる。さらに小口川の分流・和田川にも小口があり、ここは小口の分家の趣が感ぜられる。
 普通なら「おぐち」「おがわ」であるはずなのに不思議な思いにとりつかれ、そこには何か特別な謎がかくされているに違い無いと思われた。
 時がたち忘れかけていたころ田部重治著の「薬師岳と有峰」の一文を読んでいて目にとまったのは田部が水須(スイズ)から笠ヶ岳を経て有峰に入る途次の記述である。「水須についたのは正午であった。(中略)有峰へはここから八里の無人境を通らねばならない。(中略)日暮れ時分にクマゴという渓流のほとりの小屋のある所に付いたので泊まることにした。この渓流は熊野川の源流をなしている。(中略)翌朝間もなく東笠ヶ岳の頂上に達した。地蔵堂があって初めて這松が眼につき西南には秀麗な西笠ヶ岳が間近に立っている。道は下り、下りきるとシケノベという平らな湿地があって小口川の源流のほとりに倒壊した小屋がある」という一文である。
 ここに出てくる笠ヶ岳は日本アルプスのものではなく有峰の西に東西二峰に分かれている方で、シケノベは現在の祐延(すけのべ)湖(ダム)のことである。クマゴは熊野川のことであり、田部は有峰に人が住んだころの生活道を通って行ったのである。その道は現在の小口川林道ではなく、小口川と熊野川途の中間尾根につけられていたが、小生が笠ヶ岳に登ったときには部分的に辛うじて判別できる程度のものだった。
 有峰周辺の激しい変化もさることながら、気になるのは南紀から遠くはなれた越中の地に熊野川があり、小口川があることで、しかも「こぐち」と同じ意である。更に富山の山岳史家である湯口康雄氏は、「岳人」604号にて「幕末の黒部山岳警備隊の新事実」と題する一文をよせられたなかで、加賀藩の古文書を示して解説を試みられている。そこには小口の地名が出ている。曰く「小口は要所のことだ。くだいて言えば、浪人等の密入国を阻止すべく戒厳態勢をしく、よって出張を命ずる…」とある。小口を「おぐち」と読まず「こぐち」とする理由はどうやらこのあたりにあるようだ。
 念のために辞典(国語)を数点開いてみると、「こぐち」はいずれも「虎口」のことであり城塞など軍事上の要地のことらしい。
 すると小口は虎口と言うべきものが何らかの理由によって漢字表記の上で変えられたのかも知れない。戦国時代から平和な時代を経て物騒な名称が平安な表現に変化した例は山ほどあるが、漢字表記の面のみが変化した例も沢山あるからこの場合も不思議としないですむ。
 しかしながら本来の虎口は城塞であっても一線の戦術上の地形を表現しているから、残されている地名にそれに当たる特徴があるかどうかである。
 越中の小口は明らかに水須付近の地形と信州への通路として戦略上の要所に違いなく、それは正に「虎口」と言ってよいが南紀の方はどうかである。「日本城郭大系」を引いてみると現在の熊野川町の小口川流域には二つの山城があって、一は小口川が熊野川に出合う台地であり、二は滝本の奥で峻険な山地である。小生は前者に虎口の要素を認めるのだがはたしてここが戦略上の要所であったか歴史上の証拠は得ていない。
 しかしながら虎口は我国の歴史に照らして無数に残された城塞には必ずあった戦術上の地名であった。その地名の由来が自然地形を模倣したとは考えずらく、おそらくはその地域に山域や関所のたぐいが存在し、自然地形を利用し城の構成に組み込む形で発生した地名ではなかろうかと考えられる。
 小口が虎口だとして説明できるとしてもなお残る謎がある。それは何故熊野と小口がワンセットで南紀と越中という遠くはなれた土地に現れるかである。もっと調べれば他の地域にも存在する可能性はあるが、少なくともこれを熊野修験の伝播という歴史上の事実のみに頼ってよいものか、さらにもう一考察の必要があるようである。
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小口川の三兄弟
 バイクで山旅をするようになって遠い土地へ出向くのは苦ではなく逆に好ましいものになった。
 南紀は関西にあって直線距離は近いが山ばかりで道路に曲線や登降が多く時間がかかる。そのためか距離感は四国や中部山岳地帯よりも遠く感じてしまう。京都から松本や富山なら気楽な感じが新宮や熊野となると二の足を踏んでしまう。
 こんな山地こそ細く曲がりくねった道路を自在に走れるバイクの山旅が適しているとみて、このところ一回を10日ぐらいに区切った南紀の山旅を続けている。その第1回目を99年の秋として朝まだ暗いうちから大和・伊賀・伊勢(伊勢神宮)を経て南紀入りとなった。途中数々の残された山々を登りながらテント泊5回程度を重ね午後に熊野川町の温泉に入り小口(こぐち)川を遡って小口に着く。小口は旧熊野街道の宿場で山中の小盆地に50戸程の集落がある。  ここから道は三方に分かれるがいずれも厳しく細い山道ばかりである。夕方近く今夜の泊場を探して小口川沿いの細い道を遡ると道の傍らに老人が一人で魚捕りの仕掛けをしていた。この奧にテントを張る場所は無いかとたずねると分校があると教えてくれる。
 道が小口川を離れ急坂を登ると神社があり学校(廃校)が小さいが美しいたたずまいで建っていた。早速たずねると二人の男が話をしている。小さな分校の校舎と講堂兼体育館の横に職員室があり更に横には民家が1軒石垣に埋もれるかのように存在する。70歳と50歳程度とみたが年長は民家に夫婦で住み、若い方は職員棟を町から借りているとのこと快く承知してくれた。
 そのうち先に道を聞いた老人が帰って来て、どうやら3人兄弟の中兄だと分かる。日暮前に「毛ガニ」捕りの仕掛けに行くというので小生も見せて欲しいと頼む。小口川の深淵に鉄製のカゴにハヤを10匹程入れて沈める場所を7ヶ所程移動して行く。弟は若いだけに飛ぶように河原を走り中兄も手馴れた場所とみえて厳しい崖を猿のように移動する。小生のみヒィヒィ言いながら追うがなかなか追いつかない。中兄が小魚をとっていたのはカニのエサにするためで自分で食べるのではない。毛ガニはモズクガニのことで焼くのが一番と言う。
 今日は仕掛けだけで3〜4日経て引き上げるらしいがこれも世話になっている人に贈り自分達はあまり食べずもっぱら楽しみでやっていると言う。
 すっかり暗くなりテントを張り終えるころ末弟から飯ができたから食べに来いと呼ぶ。二三度辞退したが、話しもしたいからと言うので職員舎の一室に入る。中兄は別の一室で調理場もあるが、会計は別とみえて長兄の家で食事をするらしい。一汁一菜の質素な食事であったが学校の水槽に生かしてあるカニを焼いてくれた。
 そのうち食事を終えた中兄が話しに加わる。酒に酔った風態で声も大きい。こうなれば聞きたいことが山ほどある。学校の利用の仕方や村の近況、なぜ家族と分かれ三兄弟で暮らしているのか等々。学校は町の方針で他に転用しないで、休校扱いなのは廃校だと復活の可能性を自ら否定するからというが、心理的な問題なのだろう。
 三兄弟は小口川の「静閑瀞」と呼ばれる美渓に隣接した平(たいら)という三戸しかない寒村で生まれた。父親は暗いうちから山越道をカンテラさげて本宮へ炭や蜂蜜やキノコなどを売り、その日のうちに日用品を買って帰ったという。猫額の畑も作り、子供は川魚捕りが仕事だったが親が亡くなったので不便な生家を出て休校を借用しわずかでも里に近くに住むようになったという。
 中兄は独身者で酒の中毒らしく酔って川へ行くので危険とみて兄弟相談し名古屋の建設現場で働いていた甘党の弟を呼びもどし昔のように3人で川魚捕りをしているという。ちなみに弟は他所に妻子がおりわずかながら仕送りをし、長兄は年金暮らしながら中兄と食事を共にするという。
 高齢となりゆくなかで現実の境遇を自然のものと受けとめ誰のせいでもない素朴な姿に厳しい山村に生まれ育った人の強さをみた思いがする。翌朝大倉畑山に登った後、いつまでも得意な川魚捕りを続けてほしいと祈りながらセピア色をした美しい映画でもみたような気分でこの地を去った。
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冠山の語源
 冠山という名称の山は我国に多い。特に西日本に集中しているが、その名称からくる魅力もあって登山の対象とされることが多い。
 冠山という山名は、当然その山の形が冠に似ているところから発生すると考えられているが、実際に見る山の形は千差万別である。このような事実を知りながらも、なお冠山を王の頭上にある冠をイメージしている場合が多い。
 冠という定義からくる華麗なイメージから脱却できずにいることで、正当な山名由来の追求がなされずに済まされてきたとも云える。
 中国で冠という字が完成した時代の実際の冠の形状はどんなものだったのか、また我国の古墳時代の冠も充分認識しておかなくてはならない。
 古墳の発掘によって出土する冠は、黄金製で光りかがやいている。おそらくこの時代の王や、王に近い人物の公式行事には頭上にのせられて、その地位を示していたのであろう。
 この時代の冠は洋の東西を問わずほとんど同じ型式をもっていたように思われる。
 冠とは二つとない高貴の代物でなくてはならず、高価であるほど良いとされ、それを所有する者は当然それに似合った地位と権力を保障されるということでもあった。
 そのような冠のありかたは、西欧で伝統的に続けられてきたが、中国をはじめとする東洋においては大きく変化する。つまり、王の頭上にある王冠は形式化して行くのである。必ずしも黄金製でなくとも地位の順位を示すことができれば充分であるという認識に基いている。   今日各地にある「冠山」の姿をみて、人々は落胆することが多い。それは近世以後再び冠のイメージが西欧化するからである。ヨーロッパ王室の戴冠式を見て王冠のもつ強い印象から冠とは、そのようなものであると考えてしまうことによる。
 そのようなイメージをもつ人々が実際に「冠山」の姿をみて、似てもにつかない姿に、日本の冠とはその程度のものなのかと失望することになる。
 それなら我国の数多い「冠山」は由来も根拠もなしに名付けられたものなのだろうか、冠にふさわしい形態の山が少ない我国では少しでも、あるいはわずかでも似た要素をもつ山に対して片端から冠山の名が命名されて行ったのだろうか。
 例えば崖や岩場をもつ山。山頂が突出部をもつ山などが、その資格とされたのだろうか。
 実は、そうした冠山の解釈は山の形態を視覚的にとらえているのである。ここに山名由来における視覚重視の姿勢が強くにじみでているのであるが、一面において、他の条件を見失ってしまっているのである。
 歴史、風俗、宗教、言語、民俗などの視点は必要ではないのだろうか、不必要とまでいかなくとも「冠山」の強烈なイメージのもつ支配力に対して抵抗できずに流されてしまっているとも考えられる。
 ここに冠山の山名由来について調査の必要を感じ可能なかぎり進めていきたいと思う。

<山名辞典の冠山>
 『日本山名辞典』(三省堂)では「冠山」(山)を四例あげて、いずれも西日本である。なかに石川県白山連峰の冬瓜山を入れているのはめずらしい。
 この冬瓜山は別称といっても、元は「冠山」であるから、この資料を提出した人の見識に敬服したい。ただ、このなかに奥美濃の冠山がふくまれていないのは解せないのである。なぜあれほどの山を外したのか、北アルプスにおいて槍ヶ岳を外したようなものである。
 それはともかく冠着(かむりぎ)山が出ていて、これも冠山の一種と認めておきたいが、その理由については後で明らかになる。
 以上の冠山は、冬瓜山をのぞいて、まず王冠のような山ではない。樹林に覆われた山姿であってやや独立した目立つ姿をしている。樹林に覆われているが、目立つ存在であるということは、その名が伝えられてきた周辺村落において、何らかの特別のかかわりを持ってきたということである。
 ある人は、頂上まで樹林に覆われてはいてもどこかに崖か岩場がかくされていて、その過激な形状が冠を連想するからだといって、岩場、崖の存在を調査し、それを認めたうえで、冠山の条件として急崖や、岩場の存在をあげている。しかし全くそうした条件に当たらない冠山も沢山あるから、その説は受け入れることが困難である。
 ただ冬瓜山のみは違っている。この山の頂上は王冠状に岩場が発達し、登ってみると明らかに実感できる。
 奥美濃の冠山は、立派な岩場を発達させているが、これは西欧的な、あるいは古墳時代の王冠とは程遠いものである。どちらかと云えば鳥帽子に近いが、これも実は日本の中世における冠と完全に一致するのである。
 芸北山地の冠山は、中国地方の代表的な冠山であるが、この山にも頂上近くに「狗留孫仏岩」という巨岩があるが、外見上目立つものではない。
 典型的な冠山の例をみて、その他の冠山の姿をみると、さらに貧相にみえる。もちろん貧相というのは西欧的な派手な形式の王冠を意識したうえでの話である。その他の冠山は、より地方的な冠山であり、岩場もなく、頂上まで樹木が茂っており一般的にみて、冠山の条件を満たしていない。
 しかし、それらの冠山は周辺山地において独立性が高く付近のいかなる山よりも目立っている。
 例えば、辞典に出ていないが、鈴鹿山地の鎌ヶ岳は、別称「冠山」(岳)で、この山の姿の怪奇性は際立っている。
 鎌ヶ岳もまた冠というより鳥帽子、特に「立鳥帽子」に近い。どうやら日本の冠の認識は、西欧の王冠、あるいは古墳時代の出土した王冠とも全く異なった形式をもっているようである。われわれは、そのような違いをまず認識しておかなくてはならないのである。
 以上は辞典に取りあげられた冠山について、その姿形を論じてみた。もちろん辞典に現れない冠山は沢山ある。先の鎌ヶ岳の例や、五万図地形図上にも20例程度あるし、もっと小さな地方的な冠山はその倍以上は存在するものと思われる。
 しかし、それらをいちいち調査する時間はないので、辞典上の山と、五万図に現われた程度の冠山で話を進めてみたい。
 そこに現われた冠山の特徴はおよそ次のとおりである。(資料1)

 A. 頂上に王冠を乗せた形状をしている。
  〔例〕冬瓜(かもうり)山(冠山)
 B. 山腹や頂上付近に岩場があり突峰である。
  〔例〕美濃冠山、鎌ヶ岳(冠ヶ岳)
 C. 山体は樹木に覆われ、一部に岩塔がある。
  〔例〕芸北冠山、その他多数
 D. 突峰であるが岩場無し
  〔例〕芸北、石見、九州の冠山
 E. 独立峰で目立ち、せまい頂は草地である。
  〔例〕芸北、石見、九州の各冠山
 F. 目立つ峰であるが、先の条件は満たされない

 小生が観察し得た冠山の諸形態は以上のようなものである。
 Aより順次数が多くなり、EとFに至って最大のものとなる。この事実を基礎として冠山について考えてみたいと思う。

<吉田茂樹氏の冠山>
 吉田茂樹氏は、その著書『地名の由来』のなかで=ケナシ(毛無)山をカムリ(冠)山=と解する一文を発表されている。
 これは相当大胆な発言であり各方面で問題を提供することとなった。
 このなかで「ケナシ」については別に拙稿で論じているからふれないこととして、「冠(カムリ)」について考えてみることにする。
 吉田氏は木のない山を「カブロ(禿)山」と考え冠山はその転であるという。木の無い山を東日本で「毛無山」とし、西日本では同じく木の無い山を冠山と呼んだという説を出しておられる。
 その主要部は次のとおりである。
  日本古語で木のない山を「カブロ(禿)山」という。別名「カムロ」と呼んで、『新撰字鏡』にみえるから、古代末期あたりから、木のないハゲ山を「カブロ山・カムロ山」と呼んでいたことになる。ところが、その「カブロ山」なる山名が、なかなか西日本からみつからない。ところがよく注意してみると、「冠山」というのがあって、「カムリ・カンムリ」と呼んでおり大体において、山頂になると木が乏しくなる山である。そこで、これを分布図に示してみると、OK線以西の地域に集中しており、「ケナシ山」と「カムリ山」は、なかなか同居しないのである。中国山地の場合でも、出雲・吉備国境あたりに「毛無山」があるが、石見・安芸国あたりになると、「毛無」が姿を消して、「冠」ばかりとなる。東北地方でも、中央部に「毛無」が急に乏しくなると、「神室(カムロ)」という山名がでてくる。これなどは特殊な分布であって、基本的には、OK線以西が古くから木のないハゲ山を「カブロ山」と呼んでいたことになり、「冠山」は「カブロ・カムロ」の転訛した同義の山名となし得るのである。中には冠をかぶった形の山というのがあるかも知れないが、一般には冠状の突出した山を「鳥帽子(エボシ)山」と呼んでおり、この「エボシ」は全国に広く分布する山岳名で、最も数の多い地名である。「冠」が西日本ばかりで、「鳥帽子」が全国分布というのは、もともと異なる形容であることを意味しよう。大分県大分郡庄内町には、「冠山」があって、別名「鳥帽子岳」という。これは、冠も鳥帽子も同義というのではなく、古くは木の乏しい形容から「カムロ山」の意で命名されたものが、崖山のごとくけわしいので、後の言葉で「エボシ」と別の形容語を用いたものと思われる。――『地名の由来』吉田茂樹著より

 吉田説によると、冠山の形状は冠とか岩場とか、突峰であるとかの条件を必要とせず単なる禿山であるとされるのである。いよいよややこしいことになった。
 しかも東北地方にとりのこされたような禿(カブロ)山として「神室山」「鏑山」(大と小がある)をあげて、これは例外的なカブロの分布地帯とされる。また付近には「加無山」もあって、複雑を極めるが、この部分は拙稿「毛無山の検証」にて論じているので割愛する。
 吉田説の論点は次のとおりである(資料2)
 イ. 冠山は「カムロ・カブロ」の転で、禿山のことである。
 ロ. 冠山は、東日本の毛無山と同じもので西日本の毛無山である。山形県のものは例外
 ハ. 鳥帽子山と冠山とは異なる形で出発点が異なる
 ニ. 冠山に岩場・崖山の条件を要しない。
 以上のようなものとなるが、結論から云えば、ニ.以外は現地の山と合致していないように思われる。イ.ロ.ハ.はいずれも、それを実際に証明されていないし、それらの山々が禿山でないものが多いことは、どのような説明がされたのだろうか。
 (資料1)でのABCの山々については、当然のこと山体が岩場に覆われているから樹木が乏しい姿をしているが、それがすなわち東日本の「毛無山」と同義と考えるのは問題である。第一に山の形状が違っている。
 毛無山については高原状で草地の山であるのに対し、冠山は、いずれも突峰で、山の体積が小さいからである。(資料1)のEをもって仮に毛無山とする例があったとしても、むしろ例外的なものである。
 (資料2)のハにおいては同意できず、しばしば同じものがあるからで、冠と鳥帽子の解釈はむしろ地域的あるいは時代的な相違と考えられるのである。
 『冠が西日本ばかりで、鳥帽子が全国分布であることは、もともと異なる形容であることを意味する』(『地名の由来』)というのは冠と鳥帽子の発達史をみれば理解できることで、鳥帽子が時代的に新しいのである。
 また冠山と鳥帽子山は実際の山を観察すれば判明するはずで両者は同類である。
 冠山の名称が西日本に多いのは、歴史的に西日本に文化浸透が進んだからで、時代が下がるにつれて全国的に鳥帽子が多使用されることになる。
 用語あるいは頭上の「かぶりもの」の発達史的に判断される必要がありそうである。

<桑原良敏氏の場合>
 広島県で県下の山々の調査をして詳細な記録研究書を発表されている人に、桑原良敏氏がある。その著書『西中国山地』」は素晴らしく、この方面の最高の文献である。もうこれ以上の傑作は出てこないのではないかと思うくらいのもので座右の書にふさわしい一書である。
 この本に「冠山」が三例でていて、その一例は「カブリ山」となっている。このなかで桑原氏は次のように「カブリ山」について論じておられる。
 「この山は冠という字を使用しているが、山頂に懸崖のある冠山とは異なった語源から出ていると考えざるを得ない。カブリによく似た古語にカブロ(禿)がある。木の生えていない山をカブロ山という。この山はもともと懸崖などなく、現在と同じように木のないササ原か草付きの禿山だったのだろう。
 カブロ→カブリ→カフリと転訛したものと考えられる。
 冠山の呼び方の特種な例をこの山の北東、島根県の石見町瑞穂町の町界にある冠山、八五九米峯に見ることができる。この山は「石見外記」(1820〜文政3年)に<カフリ山>または、<カウムリ山>と記され「島根県誌」(大正12年)には<コーブリ山>とルビがふってある。現在も<コウブリ山>と呼ばれている。
 吉田茂樹著『地名の由来』を見ると、東日本に多い毛無山という山名が、四国、九州、西中国にないことより、西南日本に多い冠山が、山頂に木の生えていない東日本の毛無山の代置山名であることの可能性を指摘している。西南日本の冠山と呼ばれる山は、(1)懸崖のある山の意と、(2)木の無い山(毛無山)の意と二通りの意味があり、後者の意と考えられる事例が見つかったといえる。」(『西中国山地』)
 桑原氏もまた吉田説を受け入れておられるようである。こうして「毛無山」及び「冠山」の問題は混乱と無秩序の状況が進行して行くのである。

<冠と鳥帽子について>
 小生は「冠山」については今までと全く違ったアプローチが必要になったと思う。それは言語及び民族学的なアプローチである。
 冠山の解釈に、懸崖とか禿(カムロ)木のない山であるとかの条件は全く必要としないのである。それらの条件は、今まで観てきたとおり普遍性がないのである。普遍性を欠いたまま机上の解釈をすすめるのは地名学としては問題が残る。
 それでは冠山はいかなる山であったのか、その謎解きに出発しなければならなくなった。
 まず、桑原氏のあげておられる転化の順路(カブロ→カブリ→カフリ)は実は同じ「かぶりもの」で統一できる。また別の冠山(コーブリ山)も漢字化すると「冠」となる。しかも、この「コーブリ」は古い時代の「冠」である。この古い言葉が現在に残っていることは素晴らしいことで感動に価する。この言葉ひとつで冠山の謎が解けたようなものである。コーブリは、頭(コウベ)と、被ることが一緒になっていて、頭にかぶる(冠)意である。それは必ずしも古墳時代の出土品にみられる黄金製の王冠を意味しない。「カブリ」も同じで頭の上から被るものから、冠、鳥帽子に至るまで頭にあるものを示している。
 要点は先にあげた例のうち「毛無山」を除く、すべての表現は人間の頭上にある「かぶりもの」の変化が転化であって「かぶる」ことを中心に考察を進めて行く必要がある。
 従って「冠山」が岩場や、木のない禿山であるとかは全く別の問題なのである。
 『岩波古語辞典』には冠の古語、古称について次のように云っている。(資料3)
 1.(かうぶり)=頭、カブフリの音便形。後にカウムリ。上の人から下されたものを頭上に受ける。上から
   の恩恵、命令、賞罰などを受ける。
   元服して初めて冠を着けること
 2.(かうむり)=上の人からだされたものを受ける。
   仕向けられたものを抵抗できずに受ける
   ※この言葉は面白い。御免蒙るという言葉はつまるところ、御上の仕向けられた用件等、あまりうれしく
   ないことなどを拒否したい意志を示しているようである。
 3.(かぶり)=頭(あたま)
 4.(かぶり)=被・冠りカウブリの転。→かがふり頭の上におおう。また面など顔につける上からの命令、
   恩賞などを受ける。
 5.(かぶら)=鏑鏃(やじり)木か角で作り、中を空洞にし飛ぶとき音響がする。全戦の合図などに作う。
   鏑矢(かぶらや)の略。先の先端につけ戦闘開始のとき必ずこれを使う。
   ※現在でも神社で受ける破魔矢はこれを似せて作られている。

図1  図1 鏑矢の種類 『国史大辞典』(吉川弘文館)より



 6.(かぶろ)=禿頭に頭髪のない姿。剃髪した頭 禿頭禿山。
   子供の髪の形。オカッパ頭上級の遊女に仕える見習中の小女
 7.(かむり)=冠 カブリの転かぶりもの。かんむり。
 8.(かむろき)=神漏伎 かむろみの対。
   タカミムスノカミなど男の皇祖神など、男神の尊称
 9.(かむろみ)=神漏美 かむろきの対。女性の皇祖神

 以上を概観したところ、(かうぶり、かうむり、かぶり、かぶろ、かむり)といった例は、ほとんど共通した意味がふくまれていることが分かる。古人の頭上にはいろいろなかぶりものが乗っていたのである。それが布のような頭から被るものもあれば、御上から恩賞としての地位をあたえられる印となったものなど、しかも冠の種類によって階級が定められていたことである。

 次に関連の深い「鳥帽子」を引いてみる。
 10.(えぼし・えぼうし)=鳥帽子元服した男子の冠り物。正装の冠に対し略装用。古くは紗・絹で作り、
   後世は主として紙で作り、黒漆を塗る。
 他に、風折鳥帽子、立鳥帽子、細鳥帽子、引立鳥帽子、揉鳥帽子、折鳥帽子 などがある。
 鳥帽子親というのは元服の際、鳥帽子を授ける役をつとめる人物のこととされるから、鳥帽子は冠のような政治的な意味をもたず、従って、それを受ける人物の社会的地位としては成人した一人前の男として認められるにすぎない。

 次に、鳥帽子と冠について、『国史大辞典』の見解をみておくことにする。(資料4)

 1. 鳥帽子髻(もとどり)をあげて髪をととのえた成人男子の不可欠のかぶりもので、参内や儀礼の際に位
   階相応の冠を用いる以外は、貴賤の別なく、広く日常の料とされ、鳥帽子をかぶらぬまま露頂を他人に
   見せることを恥辱とした。
 2. 冠参朝用の冠りもの「かむり」ともいう。衣服令の男装の朝服にみえる頭巾という頭(こうぶり)が和
   様化して形成した。
 朝服が平安時代に束帯となり、頭巾が冠となったのである。
 これによると、鳥帽子は中世において一般化し貴賤を問わず男子の頭上にのっていたのであり、なかには賭に負けた博打が身ぐるみ剥がされ、「ふぐり」丸出しにもかかわらず、鳥帽子は頭上にある絵画が残されている。これなどは中世の男子のありかたを示していて興味深い。 当時の男子が鳥帽子を脱ぐということは死んで葬られるときである。

 鳥帽子は成人男子としての資格と権利を示しているのに対して、冠はそのような社会のなかで更なる階級を示しているもので、特に身分の高い人物が参内の折に着用したものと考えられる。
 鳥帽子と冠の異なった使用形態がこれによっても明らかになるのである。従って、鳥帽子が「全国的、一般的なのに対して、冠は中央、特に畿内から西日本に集中することは必然であった。(図1〜5)

 武士や地方豪族の子弟の元服儀礼は全国的に行われ習俗化され、中央権力の関与しないものであるが、冠は中央政庁から発せられる恩賞であって、その対象は西日本に集中したのである。そのことが地名、特に山名に残されたと理解されるのである。
 このようにみてくると鳥帽子と冠は単なる形状の問題ではないことが分かる。政治及び一般風俗に深く関係する問題なのである。
 あらゆる階級の印として冠が下贈されるのだが、その階級に応じて形を変え、質を変えて配布される冠を受けた地方では、感動の行きつくところ山名にまで至ってもおかしくない。しかも、その山は、それ以前から、その地方の政治、風俗と密接に関係した山であったはずである。 冠山の姿形が一定でないことにおどろく必要はないのである。冠には多くの形式、形状のものがあって、それが実際の冠山の姿を複雑なものにしていると考えることもできるが、鳥帽子もまたその例にもれないのである。
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図2図3
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 図2 冠の細部と頭       図3 鳥帽子の形と種類 『国史大辞典』(吉川弘文館)より
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図4図5
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            図4                       図5
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図6
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図6『自然と文化』(「かぶる」より)
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<鳥帽子の発達史>
 鳥帽子は冠に対してどのような歴史的な経過を経てきたかかについて次の論文を参照しておきたい。「天武朝の略装であった圭冠は、中古の鳥帽子として発達して行った。鳥帽子も冠の一つと云うべきであるが、中古には“えんぼうし”“えぼうし”と音でよまれて“かうぶり”と区別された。中古には“長鳥帽子”とよばれるものもあるくらいで、長くたったものだったので“かうぶり”の語感に合わなかったのだろう。(中略)
 “かうぶり”と“えぼし”は中国文化の影響のもとに成立したものであるが、日本的な形で発達してきたもので語形の変化、語義文化は“かうぶり”に著しいが、物の文化に伴う新語の成立という点では、“えぼし”の方が目立っている。=『自然と文化』(「かぶる」ことの言語文化史、前田富稘著)=
 これによっても、鳥帽子は冠より出発し、分化が進うちに形状も変化して行った様子が読み取れる。つまり、鳥帽子は頂部全体がドーム状に高く、あるいは折れ曲るのに対し、冠は頭部の後ろの部分が、より鋭く突出した形となっている。装飾性ははるかに冠の方が高い。(図2〜5参照)

<額鳥帽子とはちまき>
 額鳥帽子というのは、額に三角の布を頭に巻きつけるもので、今日では死者の額につけられているが昔は子供が黒い額鳥帽子をつけて遊んだという。おそらく魔界よけとみられるが、これも一種の「通過儀礼」といわれている。
 「はちまき」は折口信夫の説によると「はちまきと鳥帽子とは実は同じもので、戦争に出る人の物忌みの標だったのである。物忌みをして敵のもつ力を拒ぐのである。=はちまきの話=
 はちまきのこのような効用は現在に生きているが、これも被りものの一種であるが、さらに霊性、境界性が加わってくる。このような性格を危険とみて、戦後の法律で「はちまき」を忌むものが出てきたとみてよいのだろう。
 額鳥帽子も、はちまきも、ともに古くから伝えられてきた「被りもの」のもつ性格をより深く現すものとなっていることに注目しておきたい。

<カブリ地名>
 東北山形県の神室山、禿山、加無山(雄・雌)など、カムリ、カブロ、カブなどの山名についてはすでに述べたが、北関東、宇都宮地方で長く地名研究をつづけられている都丸十九一氏の『地名研究入門』という本には興味深い事例が報告されている。
 「カブリ(甲里)は、北群馬郡小野上村の村役場のある大字。永らく注目していたところ、利根川流域の地形名のなかにカブリがあり、それは、岩が道などに張出していて覆いかぶさるようになっていることだった。ほかにもカブリ岩などがある。その後右の甲里の地に行ってみると、正にその地形で岩山が国道にかぶさって、下には「岩下」などの屋号の家があったのである。」
 この付近の地形図をみると吾妻川に沿って、北側には俊剣な地形があり、甲里の西には、これも山裾に岸壁を張りめぐらせた、ミカブ山がある。これはおそらく美甲、又は、美加無山ということになり、美は美称であり、実体は、カブという所にあることは一目で明らかである。 西日本のみでなく、北関東にもカブまたは、カブリ地名が多数あることは注目に価するだけでなく、広く「被る」という表現は習俗として一般化されていたことが分かる。
 東北山形県の諸事例は、これも「被りもの」から発している可能性が、いよいよ高くなったというべきである。

<かぶるということ>
 かうぶり、かうむり、かぶり、かぶろ、かむり、鳥帽子、額鳥帽子、はちまき、頭巾、兜、笠、といった事柄はおそらく始めに「かぶる」という総体の意があって、それぞれが分化して行ったものと解釈される。(図6参照)
 そこで頭に被るということの意味を分析する必要にせまられる。被りものの性格は次のように分類される。(資料5)
 1)防寒・防風
 2)装飾性
 3)象徴性
 4)習俗・儀礼
 このうち1)は、被りものの原初の形態で実用一点張りである。2)は被りものの都市形で、宗教、信仰の場合にも認められる。
 3)はこれまで述べてきた鳥帽子、冠の使用目的と一致している。これによって通過儀礼や、階級が定められた。
4)は、祭礼の際に現われるが、広くみれば3)と同一と考えてもよい。従って、ここで取上げるべきは、3)の場合ということになる。 さらに冠の場合は語源のもとに「被る」と言う行為がふくまれ、伝えられており、ひとり後年の冠のみを対象にしていないと思われるから地名として「冠」を取上げる場合は「被る」こと全般に注意を払う必要があるということである。
 つまり、頭全体を被る頭巾から、兜に至るまでをカバーしておく必要があるのである。
 資料3で取上げた事例はその事を証明しているのだが、いかに多くの被りものが冠の名のもとに生きてきたかが分かる。「かぶる」という言葉は現在我々が考える「冠」の意をはるかに超えていたのである。
 人間は頭部の状況には奇妙なほど神経質になるものだ。現在でも髪型にこだわり、気に入った床屋にしか行かない人が居る。禿げてくると「かつら」を被って、以前から確保していた状況を続けようと努力をおしまない。
 女性も「かつら」で変身を試みて日常を脱する工夫をする。それは「かぶる」という行為によって日常の境界が打ち破られ別の世界に入ることが可能であることを意味しているのではないか。

<儀礼的なかぶりもの>
 被りものの性格のひとつに儀礼的なものがある。穢れから身を守るのに被りものとして頭から頭巾を被ることや、白てぬぐいを自在にあやつって、頭や手足のよごれを払うことなどが行われる。「白てぬぐい」は被りものとしては最も進化したものと云えるのである。 笠や蓑笠、傘なども、実用の他に境界と穢れを防ぐ役割を負っているとみることもできる。
 小松和彦氏は=異界創出装置としての「かぶりもの」(『自然と文化』)で次のように述べている。
 「かぶりものをかぶっている者は異界のなかにいるのである。たとえば覆面をかぶっていることによって、かぶっている者は、覆面の外の世界から分離され、そことは異質な時空のなかにいることになるわけである。
 そう云えば、頭巾を被った武士が秘密の外出をすることは常のことであったし、鞍馬天狗も月光仮面も、その他あらゆる日常ならない場面で頭巾や被りものが活躍したのであった。

<被帽から無帽>
 冠や鳥帽子といった「かぶりもの」は衣装の一部と考えられるから時代と共に変化はさけられないものであった。
 冠や鳥帽子がわずらわしいものとなり、活動を妨げるものと思えてくると無帽時代へと突入する。かぶりものを捨て、髪型で身分や階級を示すことが近世江戸時代に全盛となる。
 頭の頂部を剃髪した月代(サカヤキ)は平安時代末期からはじまるとされるが、これによって鳥帽子や冠は完全に日常から脱却し、ハレの時の儀礼的被りものと変化するのである。
 しかし頭髪を結び剃髪したりすることは冠帽の意味を捨てたことではなく、その儀礼的根拠は残されているのである。例えば心理的な変動によって髪型を変えたり、あるいは改心のために丸刈りにしたりする。これも日常の境界を超えるという行為のひとつである。
 禿、禿山というものは、その意味からすれば、単に木が無い山というよりも普遍的でない状況の山であるという意味がこめられているのである。
 また無帽は「かぶる」行為と反対の対極の位置にあるかにみえて、実はその一部分のバリエーションとみることもできるのである。  その意味からすれば、無帽も冠帽も外観上の違いを除けば大きな差はないのである。
 坊主山に良く樹木が茂っていたり、禿山に木があったりする場合もおどろくに足らない。山名が確定した時代の山の姿が木の無い状態だったのか否かを知る努力もされてよいが、それのみが決定力をもっているわけではないのである。
 毛無山、冠山に至ってはなおさらのことである。日本アルプスの巨峰群は皆禿山であるのに、なぜ木の無い姿を表現する山名がつけられなかったのだろうか、3000mの巨峰の一つくらいは「冠岳」の名があっても良かったはずである。
 それがないのは、ただ木が無いとか、岩場があるとかの状況のみで山名が成立するのでないことを証明している。
 毛無山、冠山、禿山、鳥帽子山、などの山名が樹木の有無によって決定されるわけではけっしてないのである。むしろ用語の時代的変化と文化の地域性と密接に継がっているとみるべきだった。

<結 語>
 冠山という名称の「冠」の問題に随分手間どってしまった。それも冠のもつ字儀が実に奥深いもので、とても一筋縄では括れない代物であったことにもよっている。しかしここらあたりで、一応の結論を述べておかなくてはならない。
 鳥帽子が全国的なのに対し、冠が西日本に集中していることの意味はすでに述べた。また、冠が毛無の代置名称でない事実も明らかにしたはずである。
 鏑、加無なども禿とは直接関係の無い名称であり、禿と冠も何ら関係なく語呂合わせのように扱ってはならないものであった。
 冠山に懸崖が必要なのではなく、そのような山には結果的に岩場があったにすぎないのである。
 烏帽子山や、冠山が姿形からきていることは事実であり、そのような形の山には岩場が基礎をかためている必要が構造上あったとみるべきである。しかしながら冠山の持つ意味はそれのみではない。鳥帽子もふくめてもっと大きな原初的な「被りもの」に端を発していたのである。
 そのことは懸崖のない冠山が相当あることでも判名する。人間の頭に関係する数多くの山岳名は広く「被りもの」からくるバリエーションにすぎないのでありそれらが共通する名称をもつ場合が多いことでも分かる。
 坊主山、頭巾山、禿山、冠山、烏帽子山などの現実をみて、実際に流通している名称と一致することもあるが複数名をイメージすることも多いものである。
 古代、中世における冠帽時代は、もっと大らかだったのである。冠も鳥帽子も山名となるについては、どちらでも良かったのである。ただ冠が政治的性格をもつのであり、局地的階級的なのに対し、鳥帽子は一般的だったから数が多く、また全国的に広まったにすぎないのである。 かうぶる、かぶり、かむり、などの口語形態が漢字表記される段階で「冠」となり、またそれを理解する側が原初の意味を逸脱して理解してしまった際に、以上のような混乱がおきるのである。
 ここに山名といえども言語文化、民族、宗教、歴史などにおける諸問題と深くかかわっていることに想いをいたすべき理由がある。
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