論考5(山の民俗)
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アラハパキ神に逢う
 作家の豊田有恒氏はフィールドワークにオフロードバイクを使っている。風土そのものを知るのに車で取材したのでは皮膚感覚がつかめないからで、馬を疾駆させるイメージで地方道をかけめぐり、見逃してしまうはどの小さい対象でもキャッチできるという。
 小生にはその意味は痛いほどよく分かる。車は便利で楽だが、一種の閉鎖空間で部屋の中に居ながら瞬間移動で次の現場へ移っているようなもので、途中の部分は消滅している。その途中の部分の価値をどうみるかによって両者の評価に大きな差が生じる。フィールドワーカーにとっては断然前者だ。
 バイクの場合は明らかに剥き出しの身体を自然のなかに晒して風土の全てを体感しているわけで、これは馬を走らせているのと同じで、車はさしずめ馬車であり、部屋が移動して行くのだ。
 小生は調査や取材の目的なら断然徒歩か自転車、パイクに限ると考えている。ただ前二者の場合、特定の部分に集中できるものの肉体的負担が大きいので、取材の内容にもよるが限界点がある。理想はやはり超軽量のバイクというところに落ち着くのである。
 北上市から遠野へ何度か道を変えて通るうちに、奇妙な雰囲気を皮膚感覚で感じるようになった。
 北上周辺は、胆沢(イザワ)、江刺(エサシ)水沢(ミズサワ)といった、かって有力な蝦夷が住んだ中心地で大和の大軍が遠征してきて戦った土地であり、蝦考の長・アテルイがゲリラ戦を展開し、五万の大和軍を打ち負かした所でもある。
 そんな土地柄だけに思いがけない路傍の片隅にも畿内ではお目にかかれない不思議な風物が何気なく佇んでいる。石仏や古峯(コブ)・月山・羽黒・湯殿・戸隠・秋葉などの中部地方以北の石碑の他にも金峰・愛宕などの関西勢も顔をそろえるが、それらは比較的新しいものだ。小生が注目しているのは東北がまだ日本化(大和化)していなかった時代のもので、これなしでは東北の興味は半減する。
 そんな時代の東北に誰が住んで居たのか、なぜ大和勢力が彼等を支配しようとしたのか、それが謎で未だに明快な解答は出されていない。ある人はアイヌだと言い、ある人は大陸からの移住者であるという。
 おそらく、そうした説の単一の理由では説明不可能な現実が存在したのであろう。
 大和政権が東北を支配下に置く決意を下したのは間違いなく黄金の魅力であった。和人との混血氏族であったとみられる藤原三代の時代、中央に莫大な金銀を献上して自らの立場を認めてもらう工作をしたのに、中央は結局直接支配の道を選んだのは、それ以前に蝦夷に対する田村麻呂将軍の大勝利という現実があるからだろう。
 藤原三代のうち二代が帰依、保護した神社が猿ヶ石川西岸の谷内峠下にある。遠野と北上川流域との間は五〜六百米の山々が面白い風物と共にびっしりつまった興味はつきない所である。遠野への脇道に奇妙な神社が目についた。「丹内神社」とあり、藤原氏二代が保護につとめた、とある。神社の形式を踏襲しているが何か、どこかが違う感じがするので、長い参道を辿ると立派な拝殿に続いて本殿がある。本殿の厨子(県指定文化財)には豪華な彫刻がはどこしてありおどろかされる。只物でない感じがいよいよ強まってくるなかで、奥の院があり本殿の脇の小路を辿ると亀甲状の大丸石があった。丸石の一部に割目があり胎内くぐりのようにも見える。その奥は鬱蒼たる森林に覆われて神秘的な雰囲気が漂っている。これが「アラハパキ神」の本体であった。
 注連縄が鉢巻状に一本あるきり何の装飾もない簡素な姿に、古代東北人の信仰の一形態を垣間見る思いがする。
 アラハパキ神社は津軽、出羽、出雲に散見されるが研究者の説によると古代華族・物部氏と関係が深いという。いずれにしても大和政権体制から除外された神に間違いない。表面は体制側の祭神と神社形式と受け入れたのち、こっそりと末席に本来信仰すべき、あるいは信仰してきた神の坐を確保した土着民の知恵に舌を巻く思いがする。「客神」として扱われて来た神こそ首坐の席をあたえられるべきものだが、今日でもなを、それは実現せず神の世界の差別は生きていて現代人はそれを見逃している。地図にも出てこないそんな地方的な一神々を訪ねて行くと、この国の闇に葬られた別の歴史が現実のものになってくる。2008年夏の東北の山旅の最大の収穫はアラハバキ神との出逢いであった。
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デンデラ野
 人はどこから来て、どこへ行くのだろうか……
 誰も知らないのに誰も知ろうとしない。他のどうでもよい事柄に熱心でも最も大事なことに無頓着で居られる人間の不思議な生態に「知ることの恐怖」がにじみ出ている。
 果たして、人はどこから来て、いったいどこへ行こうとしているのだろうか。
 「どこから来た」は明らかに本人の自覚なしに母の胎内に宿りこの世に生じたのだが、そこには人間の歴史的な生の連続の一部を担っている姿を感じ取ることができる。そこには個々の死があっても、生は連続して次の世代へ引き継がれていく。それなら個の死とは何なのか、生が再生産されるのなら個の死こそもっと語られねばならないはずである。
 三島由紀夫は「民俗学はその発祥からして死臭の漂う学問であった」と言った。否応なしに死と向かい合わねばならないのが民俗学とすれば、柳田国男の「遠野物語」は正しく赤裸々な人間の死を物語っている。人間は生を受けた直後からまっしぐらに死に向かって突き進んでいくのである。途中の様々な夢中になる事々も一瞬の道草にすぎないのではなかろうか。
 吉本隆明氏は『共同幻想論』を書いたとき中心にすえた原典を『古事記』と『遠野物語』の二冊にしぼって死を論じた。
 遠野物語の第八話「寒戸の老婆」こそは、底知れぬ深渕から漂ってくる不気味な、それでいて逃れることの不可能な世界へ導かれて行く思いがする。
 遠野物語には無数の死が語られている。死を語ることが「個」の生を語ることなのだ。わずか五行ばかりの短編にすぎないものなのに心の内にいつまでも寒風が吹き込んでくる思いが断ち切れない一編である。
 幼いころ行方不明になった幼女が数十年ぶりに家に戻ってきて「さあ、もう行かなくっちゃ」とつぶやき、再びいずこかへ消えてしまう。風のすごく鳴る日の出来事だった――
 話の単純さに反比例するかのように、そこに語られている恐ろしさは人間が遥か過去にもっていた恐怖の記憶を呼びさますのに充分の迫力がにじみ出ている。  特定の能力を持つ人間は異界を往来できるのだ。「塞の神」が異界との境ならば、その扉を自由に開閉し通行するのが遠野物語の登場人物なのだ。  昔の人は「いかに生きるか」ではなく「いかに死ぬか」を考え続けたのである。「武士道」は正にその典型であった。いかに死ぬかは逆説である。いかに死ぬかの心構えは、「いかに生きるか」を内在し包括するものである。三島由紀夫は遠野物語や武士道の中に日本人の精神の郷土をみたのであった。現代人は「いかに生きるか」を考えすぎて逆に酷薄で残酷な死を選んでしまうようだ。
 現代の遠野には『遠野物語』の文庫本を手にした若者が一人旅をするのによく出逢う。彼等は遠野で何を見、何を感じて帰るのだろうか。出来得れば市内の展示場だけでなく、境木峠・笛吹峠・立丸峠・樺坂峠などに足を運んでほしい。それらの峠に到る道中には、わずかに往古の遠野の面影が漂って異界との境を演出している。
 遠野から東へ辿ると土淵の山口に到る。その裏手の丘陵が「デンデラ野」であり、反対側の上方台地が「ダンノハナ」である。
 デンデラ野は蓮台野の方言だと言うがサイノカワラと同様墓地だという。ダンノハナは檀の鼻(大槌)段の鼻(九ノ戸)旦野鼻(綾織)その他、少しづつ異なった表現ながら墓地と周辺の施設で祭壇の端を意味するようだ。蓮台野はまた引導を渡す場でもあり、京都船岡山西麓が有名だ。
 関西ではサイノカワラやサンマイがあり柳田国男は京都の西院がそれだと指摘し、後者は比良西面の谷にその名を残すが、別に築山谷の名もある。築山とは塚のことで、これも墓地である。
 遠野から早池峰を越えた川井村の「松草」にもデンデラ野がある。川井村は川合で宮古へ流れる閉伊川の渓谷にそったせまい渓間である。この地から早池峰へ登る人が居たが普段は人気のない静かな谷間である。
 ここにも人が住んだ形跡が見られるが、林間の藪中に朽ち崩れゆく家屋の幾つかがみられる。
 『かぬか平の山々』日本山岳会岩手支部編に「禅在野と古くからいわれ、楢山で、姥捨て山だったといわれる。その通り、晩秋や悪天の時は陰惨を極めるような闇のイメージが強かった」とある。先入観なしでこの地をみれば別段奇異な印象もないが、東北だけでなく、食料生産の効率の低かった時代のこの国の山村では至るところにデンデラ野が実在したはずである。その事実はひたすら隠され続けた。生々しい性と死は一般生活を乱すものとして隠すべき対象とされた時代にあって、そうした事実は伝承や昔話のなかで語られて来たのである。
 デンデラ野は今日では、「姥捨」伝説と習合して労働力として使えなくなった老人を口べらしのために放逐する行為とされているが、この説は興味本位の域を出るものではない。
 遠野の伝承でも、60歳になった老人をデンデラ野へ住まわせる。むろん子供が親を放逐するのではない。老いた親は自ら進んで村の見える程遠くない
“野”へ旅立つのだ。朝霧の立ちこめる野辺を幾人かの老人達が子供や孫の住む住み慣れた実家を目指して山を下りて行く。数十年過ごした山川の情景をしっかりと脳裏に映しこみ里の田畑の耕作に励み(これをハカダチ墓立と呼ぶ)、又は里に降りて軽い労働をして駄賃を貰い、夕方帰る(これをハカアガリと呼ぶ)つまり「ハカ」と呼ばれている所は実際の先祖の墓のある所ではなく、その近くの別の土地のことで他家からも同じ境遇の老人達がやってきて生活している。そこで助け合って共同生活する構図である。
 むろん子や孫が来ることもあったろうし、法事や慶事には実家に行ったのだ。全国の姥捨て伝承の地は、大概これと同様のものだったと推定さえる。
 信濃の開田村・北信の大姥山などの他に、京都の雲ケ畑は、証拠はないが条件に満たしている。「あしなか」105輯に阿部恒夫氏が「比良山名考」を報告されているが、その中で「蓬莱山と打見山の東面にある中シャ一帯は“ババのシャレ”とも称して姥捨山の江州版だった事実を聞いている」とあって、この話は地元民が嫌がるとも述べる通り、昔から公表できない秘密だったのだが、実態は姥捨てではなく、先述のような隠居村だったのではないかと思われる。
 また、隠居者が開拓した所は東北で、「引込山」と称したようである。
 村の暮らしに応じて大きな差があって然かるべきだ。が両親が健在であっても、世代交替で親が脇役に転じることは農家では一般的だったようだ。
 後日、この件を阿部氏に訊いてみたが、「あの記事は角倉太郎氏の受け売りだ」とのことで阿部氏が直接現地調査したものではないらしい。比良に精通された角倉氏が調べたものだとすると傾聴に値すると思う。
小生の知る農村の例でも長男が嫁をもらい、次男以下が家を出ると親は両親揃っていても母屋を長男夫婦に明け渡し、世帯主の財布を譲るのである。これによって新たに世帯主となったと思える夫婦が村の会合その他の年中行事に家の代表者として参加する。
 この例は遠野の場合と変わるところがない。恵まれた土地と厳しい土地の差は歴然としているが、それでも人の情け、親子の情は「楢山節考」を引き合いに出すまでもなく簡単に崩れるものではない。
 今日のように子供が働けなくなった親を養老施設に入れ放置することや、場合によっては親殺しが平然と行われる時代より、はるかに進んだ文化的なシステムであったと言える。
 現代の親子の関係を見直す意味でもきっと有効なものとなるはずだ。
 それなら、「姥捨」は絶対に無かったのか、との厳しい質問には残念ながら存在したと申し上げるしかない。しかし実際に記録されているわけではなく推定ではあるが確実に存在したはずだ。
 それは東北一帯に続いた飢饉によって生じた必然の事態なのだ。
 その前に昭和の始めころの東北の一寒村の実像をみてみよう。
 「あしなか」67輯に川井村の平津戸で一夏過ごした秋田の野添憲治氏の「早池峰山麓」によって昭和初期の村の様子をみることにする。
 川井村は盛岡と宮古の間にある山深い村で、村の中心は閉伊川と小国川の出合う所、つまり川合にある。盛岡に近い方向に門馬と平津戸がある。門と戸と言えば奥美濃でも徳山村の例で馴染みとなっているので深読みしないが、今回の村は本村に近い戸の村である。
 みそ汁=煮てつぶした大豆を縄につけ軒下に半年間吊るす。それを原料として味噌を作るが悪臭で並みのみそ汁ではない。
 ヒエ餅=ヒエの粉に少量の米粉を入れ餅を作る。これは餅よりダンゴのようだ。
 木の実=畑はヒエが主体、山では栗・トチの実・ブナグリ(ブナの実)など。
 栗まき=栗を入れた樽に便所の糞を入れ手でかき混ぜ畑に手掴みにて撒き散らすが、これは手伝う気持ちがあっても不可能だったようだ。
 便所=柾割りの板を使う。使用後の板はまとめて水洗いして再使用する。少し前は稲藁で縄を作り天井から吊るし尻に擦りつけて使用する。野添氏は便所で紙を使って大金持ちの息子だと噂された。とある。
 平津戸の報告はむろん現代では全く異なっているが、当時の村の実態を改めて知ることによって奥州の山深い寒村の暮らしの厳しさが推定される。そんな村がひとたび飢饉に見舞われたらどんな状態となるか、を想像してみるがよい。盛岡藩の記録でも350年間に50回もの凶作が続いたという。30万人のうち7万人が餓死した凄まじさは、他に例を見ないものだ。天明年間に奥州を旅した橘南渓は、当時の惨状を記録している。それによると他藩は「穀止め」をして一粒の米も入らずあり。農夫浪人も死に失せて、早朝宿を出るより夜の宿りまで人影なし。只かの白骨の路傍にみちみちたるに…とある。更に事態は人肉食に及ぶ。「老人の肉死人の肉は味なし、婦人小児の肉は柔らかにして味よし」となりついには弱りたる人は殺して食うに至る。老人が息子に自分を殺して食せと願う事態に「姥捨」などの生易しさを通りこしてしまう。橘南渓の記録は更に凄まじくなるが、これ以上は書けないので省略するが本来逃げずに正視すべき事柄である。
 こうして見てくると「姥捨」はいかにも中途半端なものに映る。奥州でおきた事件を中央が興味本位で取上げ広めた結果に違いないのだが、おの中身を完全に否定することも不可能となる。実態はもっと凄惨であり、もっと人情深き事件だったのである。問題はそれを救済する能力を為政者が示さなかったことにある。
 我が国各地に確実に存在したのに闇に消え去る運命にある「デンデラ野」に接するとき、これを単純に姥捨伝説と結びつけて終わりにする愚を犯すことは避けねばならない。
 人間の根本の問題について改めて問いかけているのが「姥捨」であり「デンデラ野」なのであり、これは単に経済の問題にすりかえてしまっては、本質は更に遠いものになってしまうだろう。
                                       2006年9月30日
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黒部奥山見廻り役
 黒部川と言えば、北アルプスの中心部をつらぬく大峡谷である。江戸時代にこの深山中深山を分け入り見廻りを続けていた一団があった。これを「立山黒部奥山見廻り役」と称して加賀藩士が行っていたという。
 「立山・黒部奥山の歴史と伝承」という大冊を出した越中の人、広瀬誠氏によると、加賀藩は信州から盗伐や狩人などの侵入を看視する目的と国境警備の意志を明確にするために毎年黒部とその周辺の山を巡見していたというのである。これが藩命で行われているから、奥山のことにあまり関心の無かった信州松本や、飛騨高山の代官所とは格段に違う身の入れ方である。奥山に何があったのか。
 これは百万石を超す大身の外様大名の背負うべき宿命のものであった。前田氏は織田家の重臣で家康も他の大名のように粗略に扱えなかったとみえて、加賀・能登・越中の確保をゆるしてしまっている。いつ取りつぶしを命ぜられるやも知れぬ恐怖心は、あらゆる戦略を考案し実施させた。
 藩主の行動、軍備増強に対しては常に幕府の看視下にあり城の工事などは目的の報告を命ぜられた。それでも加賀藩は都合2回危機があった。
 慶長4年(1599年)二代利長が城の大規模な改修を高山右近の監督で行ったため謀反の疑いありの申入れに、実母芳春院を人質とし、弟に家康の孫娘玉姫を正室に迎えることで難を逃れた。
 30年後再び大規模な城の改修を行い二代将軍秀忠より三ヵ条の詰問状が突きつけられた。
 これに対して、三代藩主となった玉姫の夫、利常と子供の光高が江戸に出て弁明に勉めた。玉姫との婚姻関係がありながら強硬な詰問は、よほど城の補強が大規模にすぎたのであり、秘密の工事があったとみたからである。この一件により藩は工事の進行状況を江戸へ毎日飛脚を走らせ報告することになった。
 幕府の厳しい看視がありながら加賀藩の城補強工事は何を意味するのか、また辺境の山岳地帯に見廻りを出す必要があったのか、世は太平と成り行く時代、解せないことである。
 実は、これが外様大名の内なる戦いなのであった。藩主は痴呆を装い、婚姻を結び、工事を公開するという手段の裏で、それを上廻る苦心の策が練れていたのである。
 では、先出の「黒部奥山見廻り役」の目的は何かである。彼等は立山から黒部川に至り針ノ木から黒部の奥山を巡って薬師岳を詣て有峰に下り、一休ののち水須(すいず)に出たという。
 有峰の十二戸があり、出造りや曲物師、木地の小屋も散財していたが、概して越中人ではなく、飛騨の者であった。それは国境がまだ確定していない時代に加賀藩がいち早くこの地方を確保したと見られる状況である。
 国境を画定すること、藩内の巡見という役割は辺境に住む住民との交流を通じて更に高められるはずだ。彼等はそれを行い、更に別の役割があったと推測される。それは前出文献の著者、広瀬誠氏は指摘しないものである。文献に残せないもの、無かったことにしたいこと、とは何か。
 先に金沢から毎日飛脚が出たと言ったが、この時代、強い飛脚は一日40里を走ったと言う。加賀藩はこんな者をいったい何人使っていたのか興味深いが、柳田国男は、加賀藩の「隠し道」にふれて興味を示している。それはおそらく、二点間を結ぶ最短距離で直線である。
 地図を見れば「あっ」と声をあげそうになる。
 江戸・秩父・十石峠、佐久・望月・別所・大町・針ノ木・立山となる。
 先に「黒部奥山廻り」のことにふれた。針ノ木峠の頂に立てば、そこは加賀藩の地であった。そこからどのコースを使うのも自由の好みである。むろん、このコースを加賀の飛脚が走ったと言う証拠はない。それは推測に過ぎないが、もし江戸に異変があり、藩主が本国へ秘密ルートで帰るべき事態がおきたら(信長暗殺のとき家康が帰国する等の前例がある)、また秘密の情報を本国へ伝えるなどの非常事態に無策であったわけがない。工事状況の報告は通常コースで行ったとしても、闇に埋もれてしまった「隠し道」の存在は金沢城の核心部の工事にたずさわった9人を入牢させ、やがて病死したとの記録によって間接的に証明されている。
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「西尾寿一の部屋」へ戻る
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「私の空間」へ戻る
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