論考6(旅のかたち)
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イサベラ・バードの旅
 1878年(明治11年)といえば、明治維新が成立して十年を経たとはいえ、前年に西南戦争が終わったばかりで治安は悪かった。
 ウイリアム・ガウランドは槍ヶ岳に登り、翌年に内務省地理局の測量師二名が赤石岳に登ったが、まだ地形図作成の黎明期であった。
 その年の4月、一人の英国婦人が日本の未開地の(日光以北の東北、エゾ地)旅行にやってきた。その名をイサベラ・バードという。彼女は健康を損ねたので、「健康回復の手段として効目のあった外国旅行を勧められたので日本を訪れてみようと思った。(中略)健康になりたいと願う孤独な旅人の心を慰め、身体をいやすのに役立つものがきっとあるだろうと考えた。日本に行って、その気候には失望したが、しかし私は、日本の国土が、夢のように美しいものではなく、ただ研究調査に値するものであることを悟ったものの、日本に対する興味は私の期待を大きく上まわるものであった」と述べ、明治11年6月から9月にかけて三ヶ月間、東京から東北地方を経て北海道までの旅行記録を本国の姉に送った手紙をもとに綴った本を「日本の未踏の地」の名で出版した。
 この本は反響を呼び普及版が出て、かつてエキゾチックの名で美化された日本像の仮面をはぎとり、ありのままの日本を紹介するのに役立った。なかには明らかに誤解に類する事柄もふくまれているが、総じて正確な観察眼は評価してよいと思われる。
 「日本の未踏の地」とは西欧人が行っていない土地の意で「人跡未踏」の意ではない。そこで、日本での出版では、「日本奥地紀行」(平凡社、東洋文庫)となり、長いベストセラーを続けているが、現在でも価値の高い資料性が認められる。
 この頃の日本は、西洋の先進技術を吸収するのに大勢の外国人を採用した。彼等の特別な資質からか新しいものへの興味が強く盛んに奥地旅行や、美しい山岳に登った。
 アーネスト・サトウやガウランドなどを筆頭にアトキンソン、チェンバレン、ナウマンなどが続き、ウエストンには、その後十年も後の来日であった。
 イサベラ・バードが単身で横浜にやってきて、先に来日していた多くの英国人に会って、旅の可能性についてたずねている。
 なかには正反対の答えを聞くことになるが、西欧人の誰も行ったことのない東北から蝦夷への旅行を一人で行なうことに対して英国の高官では誰も反対しなかったことはおどろくべきことである。日本の地方の治安の良さと厳正なる秩序は、藩政時代から確立されているのを外国人は見抜いていたのだし、日本庶民の資質を信頼していたのである。
 「私は、本当の日本の姿を見るために出かけたい。英国代理領事のウイルキンソン氏が昨日訪ねてきたが、とても親切だった。彼は、私の日本奥地旅行の計画を聞いて『それは大変大きすぎる望みだが、英国婦人が一人旅をしても絶対に大丈夫だろう』と語った。『日本旅行で大きな障害になるのは、蚤の大群と乗る馬の貧弱なことだ』という点では、彼も他のすべての人と同じ意見だった。」と述べているのだが、日本人が外国旅行をした際には、現在は別としても、この時代ならば、おそらく、すべての日本人は反対するに違いない。特に外交官は必ず中止を勧告しただろう。
 それは英国と日本との国力の差であり、国民の資質の差なのかも知れない。アングロサクソンが世界に雄飛した時代のすごさか、こんな小さな一例のうちにも垣間知ることができる。
 さらに、アーネスト・サトウという人物のことである。彼は英国公使館の書記官であったが、バードは次のように評している。
 「この人の学識に関する評判は、特に歴史部門において、日本における最高権威であると日本人自身も言っておるほどである。これは英国人にとって輝かしい栄誉であり、十五年間にわたる彼の飽くなき勤勉努力の賜物である。しかし日本に来ている英国の外交官たちの学識は、サトウ氏に限られたわけではない。領事勤務の紳士方は、通訳生として種々の段階を経て、今では口語日本語を自由に操る能力にすぐれているばかりでなく、日本の歴史、神話、考古学、文学など多くの分野で傑出している。
 実に日本の若い世代の人々には、自分達の古代文学の知識のみならず、今世紀前半の風俗習慣に関する知識を絶やさぬようにしてくれたことで彼ら英国文官や、その他の少数の外国人の努力に対して恩恵を感ずるであろう。」
 この時代の日本は、時の転期で進んだ西欧技術を導入するあまり日本の良さを気付いていなかったようで、「和魂洋才」の声も実態を反映していなかったようだ。この時代に美術品が二足三文で海を渡り収集家の蔵に入ったが、形のない歴史や神話などを発掘し、若い世代に引きつがせたのも、外国人の努力によるところもあったことが分かる。バードは、教養ある日本人から、日本のことは、サトウ氏に聞いた方が正確に理解できると返答されておどろいている。
 新奇に興味をもつ国民性を鋭く観察しているのはさすがであるが、もっとすごいと感じるのは、英国人の外交的手腕とパイオニアワークである。
 これが、時として侵略的であったり、植民地主義的行動になったりするが、人間の資質としては最高のレベルにあると思われる。少なくとも、19世紀の英国人に対抗できる国はないと言い切ってもよいだろう。このような英国人に習って、西欧の他の国々が極東へ押しよせてくるのだが、その形式は、かつて中南米で展開されたスペイン人のようなスタイルではないことは明らかで、そこに明らかに時代を反映した経験が積み重なっていることを知ることができる。
 さてバードは、旅行をの共にする召使い兼通訳の伊藤という18歳の日本人をやとうことになるが、彼の人間性についても、旅の風物同様の鋭い観察眼を発揮して綴っている。それは日本人の資質として、共通して現在でも持っているものもあれば、時代と共に失われた部分もあって、注目すべきものがある。
 外国旅行の際に、ガイドを使った経験のある人なら分かるが、ガイドに金銭を渡して買物や特定のイベントを依頼した場合、ほとんどの場合、残金が帰ってこないか、レートをごまかされている。これは発展途上国の場合に多いが、当然のことのように思われている場合がある。
 バードが伊藤に信頼をもつ一面と、やや疑問に思っている部分に、金銭があることは、この時代には、むしろ常識だったのかも知れず、伊藤が、人間性において他の日本人と変わった性格であったとはいえないと思う。
 法体系が整備され、その法によって市民生活が規制される以前の時代を考えれば、一定の巾で大なり小なり、数学の計算のようにいかない部分は認めねばならなかったかも知れない。それは治安の良さとも関係してくると思われる。
 先にバードは、「日本の気候には失望した」と言っているが、これは時期が梅雨期にあたり、旅行に不向きであるばかりでなく、日本人の生活上も最も嫌な季節であった。この季節に旅行する日本人は現在でも数少ないのであるから。
 バードは旅行に先立って様々な準備をした。日本政府に旅行コースの紹介をしたのに対して、140マイルを空白にして返却してきたのは、情報不足という理由であった。当局が調査の労をおしんだが、本当に知らなかったか、または旅行の自由は認めるが、情報は出さないかのうち、おそらく政府自体が、東北、エゾ地の情報を持っていなかったのであろう。
 日本の120年前は、こんな状態たったのだ。現在の西域など未開地をおどろくに足らないのである。  サー・ハリー・パークス卿は「貴方は旅行をしながら情報を手に入れるのですね。その方が面白いじゃありませんか」と言って笑っている。
 食事と装備でも問題が山積した。
 日本食というのは、ひどいもので今日のグルメブームとは全く関係がない。「日本食」が評価されたのは、戦後30年以後のことで、日本人の舌が豊かさによって開花したのである。この当時の日本食とは、干魚に野菜と一汁で、バードは「ぞっとするような魚と野菜の料理で、小数の人だけがこれを呑みこんで消化できるもので、これも長く練習をつまねばならない」と言って、自身もこれを実行したとみえて、洋食を持参していないのである。ある時は栄養が足らず、害虫にかまれても治らず、鶏を食べてやっと元気になったと書いている。
 装備は、一頭の馬に折畳み式の旅行用ベッドと椅子、ゴム製の浴槽、2個の軽い籠に油紙に包んだものを乗せて行くのである。
 バードは、ここでも馬の貧弱さを語っている。日本の馬は乗るものでなく荷を引くか乗せるもので、人間は、その馬の口縄をとって先導するものである。物資や人の運搬は人力が主力であった。
 どうやら時代劇などで豪壮な騎馬戦を、まるで西部劇のように観せるのは間違いで、そんな体力はないのだ。しかし30キロもする甲冑をまとって走る馬など後世の作りものとみてよいだろう。
 次に興味深いのは、日本の害虫対策である。
 蚤は、サトウも評価するほど日本の名物で国中どこでも大群が居ること、それを日本人はあまり苦にしていないことが目を引く。
 対策は、寝袋の首を結んで浸入をふせぐ、寝床に除虫粉を撒きつめる、皮膚を石灰酸油で塗る、乾燥した蚤除草の粉を活用する、等々の助言を受けているが、ほとんど気休めにすぎないことを知るのである。
 戦中戦後には蚤、虱、南京虫のたぐいが沢山居て、DDTの厄介になった経験からみて、これから逃れることは容易でないことが分かる。バードは蚤、蚊の容赦のない攻撃に悩まされ日記を書くことすらできず睡眠不足が続いたが、それでも旅行を中断しなかったのは、実に驚嘆すべき行動力である。それは、新しいもの、未知なるものへの押さえ難き願望である、それは、この時代の英国人のもつ共通の精神であり、資質だったのだろう。
 日本の梅雨期の害虫は更に種類が多く彼女を苦しめた。
 夜は蚊、虱、蚤であり、昼は雀蜂が人里で猛威をふるった。
 蚤の予防法は経験から考えてだしている。「一枚の油紙を畳の上に六フィート平方敷き、その縁に一袋のペルシャ除虫粉をまく、その真中に私の椅子を置くと、無数の蚤が油紙の上にはねてきても粉のため無感覚になり、容易に蚤を殺すことができる。」というのである。
 雀蜂、馬蟻、蝿というのがある。これについては「私は休息せねばならない、雀蜂と虻に左手を刺されて、ひどい炎症を起こしている。場所によっては、雀蜂は何百と出てきて馬を狂暴にさせる。また歩いているときに人を襲う『馬蟻』という大蟻に咬まれて炎症を起こして苦しんでいる。日本人はよくそれに咬まれるが、その傷口を放置しておくと治り難い腫瘍となることが多い。この他、蝿がいる。英国の馬蝿のようにみたところ無害のように見えるが、咬まれると蚊のようにひどい。」と、よくもまあ、次から次へと害虫が出てくるものである。これは、まるで熱帯のジャングルの旅行であり、現代アフリカの難民キャンプの惨状である。が、しかし100年そこそこ前の現実の日本の姿であった。
 バードの記述に出てこないが、登山中に出合う厄介者は、蛇(毒)蛙などの他に、キノコの毒性のもの等沢山あるが、彼女の旅が、サトウやガウランドのように山岳を対象としないために、もっぱら普通の日本人の生活上出合う害虫に限られたのだが、それにしても明治のはじめの日本の原始的自然のすごさが身にしみる。
 今や、そのような害虫の生存をゆるす環境は特定の部分にすぎなくなっており、「日本百名山」の登山ルート上で、その姿を見かけることはない。それは喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか、うかつな答を出せない問題ではある。
 外国人の旅行で悩まされたものに宿屋の不潔さがある。風呂、洗顔の設備の貧弱さは、あまり指摘がないのは、半ばあきらめているからである。
 それに対して養蚕による臭気の指摘が、サトウの旅行記に出てくる。
 この時代、ほとんどの田舎で養蚕が重要な産業だったから無理もないが、慣れないと我慢ができないほどだが、すぐ慣れて苦にならなくなる。
 蚕の死骸や寝床を使って川魚を集めて捕えるのはどこの田舎でもやっていた。強力なものであって、半日で2キロ程度の小魚がとれる。
 また、これは害虫ではないが、ネズミと蛇がある。この当時の田舎屋は、天井がないので蚊帳の上にドサンと落ちる蛇が居たので肝を冷すことになる。ネズミの方は、片端から物を喰えて持去るのである。
 これは意外に被害を受けるもので、大切な持物をまるで置引きにでも出合ったようなものだ。これに出合うと大さわぎとなり、旅行者は宿の主の責任を問うが大抵の場合品物は帰ってこない。
 蛇とネズミと猫の関係は闇の世界の物語だ。
 バードは実に幾多の困難(ストレス)を克服し北上して行くが、体力をつけるために鶏肉をよく食べている。しかし、日本人から鶏を買うさいに殺すことを嫌うので、卵を生ませるためと偽っている。日本人は貧弱な体にもかかわらず、牛、馬の他鶏肉も口に入れなかっただろう。
 これでは短命なのは道理で、バードの記述通り、悲惨な生活を強いられていたのは事実だろう。特に女性の寿命の短さ、やつれる早さが何とも切ない気がしてならない。
 バードは、山岳風景の描写は少ない。大部分が田舎社会の人間模様が中心である。それは女性の眼として当然のことかも知れない。サトウやガウランドのように登山を好んだ男性旅行者とは違ったものが感ぜられて面白いが、そのうちにも、思わずハッとする描写に出会うところがある。それは、山形から新庄を経て金山に至る道中である。この部分は実にリアルであり、美しくも牧歌的ですらある。
 「新庄は人口五千を超えるみすぼらしい町で水田の続く平野の中にある。(中略)ここは大名の町である。私が見てきた大名の町はどこも衰微の空気が漂っている。お城が崩されるか、あるいは崩れ落ちるまで放置されていることも、その原因のひとつであろう。新庄は、米、絹、麻の大きな取引があるから、見た目ほど貧弱なはずはない。」とあり、さらに新庄から金山にかけての道中にうつる。
 「今朝新庄を出てから、険しい尾根を越えて、非常に美しい風変りな盆地に入った。ピラミッド形の丘陵が半円を描いており、その山頂までピラミッド形の杉の林に覆われ、北方へ向かう進行をすべて阻止しているように見えるので、ますます奇異の感を与えた。その麓に金山の町がある。ロマンチックな雰囲気の場所である。」
 この場面は現在もほとんど同じである。新庄から旧道を通ると金山の町が薬師岳のピラミッドと共に眼前に飛び込んでくる。三角形の山が幾つも連なって特異な景観を造っているのだが、その山裾をぬって秋田へと街道は続いているのである。
 バードは三角形の特異な形状の山を認めたのであるが、その水源の大岳である神室山系の連山には一言もふれずに、気に入った金山の町に二日ほど滞在して鋭気を養うのであった。
 そして、やがて細い峡間を抜けて及位という岩のせまい通路を通って、秋田へ越す峠から「院内」という鉱山町へ下って行くのである。                           (1997年10月)
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独行山旅の極意
 アジアで自由な旅行ができるのは日本人が突出しているのだが、先進の西欧人は更に、遥か彼方を行く。明治以来西欧化を進めてきたものの、やっと経済が追いついたのに社会生活レベルでは大差が解消されないままである。つまるところ自由な時間が確保できずに長時間働かねばやって行けないのである。
 西欧、特に西ヨーロッパは経済はともかく中世以来の植民地からの収益が社会資本となって蓄積されている強みがある。あくせく稼がなくても、古いが立派な建物があり、土地がある。先祖から受け継いだ資産が充分であり新たに財産を残す必要などなく当面の生活費があればやって行ける。あとは自由な時間として確保でき、長期の休暇で海外旅行も普通のことだ。もちろん行かない人も沢山居るが、行くも、行かないも、自由のうちである。日本人の旅行となると限られた日程に、あれもこれもとつめこみ、大忙しでかけ廻っている。
 登山も同じでぎりぎりの日程で無理矢理算段して動きまわる。小生も定年以前は同じことをする他なく嫌なら登山や旅などやめる以外になかった。
 この癖はよほど強力とみえて定年後も同じスタイルを踏襲する人が多いが、変えられるのだから変えた方がよい。自由になっても、その恩恵を感得できない人がいかに多いか、それは定年後の時間の使い方を見ていると明らかになる。
 小生は定年を自分で決めてライフスタイルをガラリと変えてやろうと考えていた。登山や旅(両者は同じと考えている)のスタイルは以前とは全く異なるものにした。それは時間を人間社会の側におかずに自然の側に求めた。一日のスケジュールを人間の都合によらず、自然の運行スタイルに合わせることを基本とするものだ。
 例えば朝は日の出に起き、日没に終わる。雨や雪は停滞し好天なら行動する。体調不良なら好天でも動かず、良ければ徹夜も可能、天候はサイクルがあり、それに合わせて日程を作る。機械的なスケジュールは作らない。それはどうせ使えなくなるのだから。
 人間は自らの都合で勝手なスケジュールを作りそれを自然の側に合わせようと苦労しているが、元々無理なことなのだ。無理を承知で実行せずに居られないし、自らの力量を過信する人は闇雲に中央突破を試みて敗退する。
 無理を押し通そうとするのが人間の業(さが)であるから自由にすればよいが、小生など弱者は自然の力の強大さを嫌ほど知らされてきたので逆らうことなどせず柳の木のように一応は遣りすごし、すき間をみつけて行動する。
 自然は凶暴であるが極めて優しい人間の自由な活動をゆるしてもくれる。このあたりの呼吸をおぼえたら、いよいよ楽しい山旅が可能となる。自然相手にポーカーのようにあらゆる能力というカードを振り出せる。自分のカードが何枚あるのか、そのカードは有効に使えるのか、カードを振り出す時期とチャンスの選定など熟練を要するがこれが楽しいのである。
 自然のやりとりほど楽しいものはない。人間は利害関係が生じるの全く別のものである。できる人とできない人があるだろうが長期の旅に限る。一週間以下の旅など、どうでもよいのである。効果が出るのは半月以上の旅だろう。しかも日程を細かくしないこと。これは必ずそうしないと意味がない。先にも述べたように日程など自然の前には無力であるからだ。
 大まかな日程で遊日を二〜三割くらい作る。変更をしやすくすることと手持ちのカードの枚数を増やすことが可能だからだ。多くのカードをもっている人ほど強力で幅広い活動ができる。約束ごとで細切れの日程では自然の側のサイクルに合わせることは不可能で、そんな人は長旅など不向きである。
 以上ができたら長期の山旅は可能となる。しかし、このとき家族や身内から「いつ帰る」と必ずせまってくる。これをどう捌(さば)くかがウデの見せ所である。ここで追いつめられて帰宅日を白状してしまうと自由度の幅を失い自然の側にすんなり同化できなくなってくる。ここは何とか大風を通りすごす体であれこれ工夫して、その場をしのげる技術を体得できれば一人前の旅人である。さて、諸君は、ここまでもって行けるのかな? 日ごろの行ないの総合力と積年の評価がこのとき試される。
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山旅・この古く新しいもの
 その昔、洋の東西を問わず登山は一部の物好きや文化人や芸術家・教員・銀行マンなど、エリートの独占であった。彼等は生活に追われる庶民と違い豊富な資金と時間を自由にし感性の命ずるまま心のシャングリラ(桃源郷)を求めて地方の旅に出たのであった。
 資金と時間を自由にしたとは言え交通機関は不充分で自分の足で目的地へ歩いて行くしか方法がなかった。その目的が登山であっても実際には道中としての旅と登山は一体のものであった。1〜3ヶ月の間、つまり1回の行程そのものが家を出て家へ帰る間の長期にわたるものであった。これを「山旅」と呼びその報告書とも言うべき旅行記が物語り風に書かれて読者の関心を呼んだ。小生の書架にもこの時代の旅行記が「○○の山旅」と題して並んでいる。
 山旅とは実に語感のよい響きをもっていてそれを書ける人はエリートであり一種のステイタスであったとも言える。
 田部重治、小暮理太郎のコンビは沢山の山旅を実行しているがこの時代の山と山村と人間の心の美しさは現代では失われた貴重な証として書物のなかに保存されている。
 未知が既知になるにつれ「山旅」のうち旅の部分は切り捨てられ単なるアプローチとして片付けられて行った。目的がしぼられるにつれ、一ルートの一部分の登はんが取り上げられ末期的にはピンポイント化して行く。
 また、ガイドブックの登場はコース設定という概念を生んだ。日帰りから幾日も必要とする山に応じて既成のコース作りが固定化しそうした指定されたコースをなぞる山行が現代では主流となった。旅行も同じである。
 こうして山旅は古典のなかの遥かな郷愁の内部に埋没して行った。大らかなロマンあふれる「山旅」はもはや死語となり果てたのだろうか。
 ここでもう一度「山旅」衰退の理由を考えてみよう。その第一は交通機関の発達で途中のプロセスをカットされた。第二は未知の既知化、第三は山村の消滅と近代化によるフォークロアの衰退、第四は登山対象が細分化され全体から部分へ移行した。第五は登山の大衆化と勤労者が短い休日で登山を始めた。第六は情報誌やマスコミが大衆のニーズに合わせた特定の情報を流すようになり、しかもそれが職業として成立したこと、などがあげられよう。
 いずれも時代の変化と密接につながっており、これを逆にもどすことなど不可能である。もう山旅などとい悠長なものはこの世に存在できないのだろうか。  思えば「百名山」を巡る山行も山旅と言えなくもない。三百名山、一等三角点巡りも山旅の要素がある。但し、細かいスケジュールを作成しそれをなぞるのでは山旅とは言えない気がする。長い山行のうちには思いがけない事態がおきる。それらを受け入れてなお、悠々と川の流れのように旅する行為こそ山旅にふさわしいと思う。
 ツアーなどのスケジュールはなぜ作られるのか、この疑問のなかに実は解答がかくされているように思う。つまりツアーは目的地の見所を日程に合わせ何カ所かに絞りこみ最大公約数に設定する。客はそのツアーに参加したことですべてを知ったと勘違いしても不思議でなくなるが、実はツアー設定以外のことは何も知らない。
 登山の場合も北海道なら百名山だけ登って終わりにしたり、海外でも特定の国の最高峰に登っただけで帰ってくる。富士山だけに登って帰る外国人は居ないと思うが、日本の登山者はこれと同じことを海外でやっている。
 山旅という場合はツアーとは対極にあると考えてもよい。これを表現するのは大変むつかしいが、強いて言ってしまえば多様な価値を認めることかも知れない。価値は特定の山頂にとどまらず風土として認識することにつきる。連綿と続く旅のなかに山があり河があり砂漠があり、それらを個別でなく連続のなかでとらえて自己の肌で感じ味わって行く行為とでも言える。そしてそれを可能とする自由な時間というものを手中にすることかも知れない。
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柳田国男の旅行術
 柳田国男の短編に「旅行の上手下手」がある。時代的に見て一般大衆の団体旅行がまだ行われておらず、一部に物見遊山や職業的な旅行(行商など)と宗教的な講中の旅が中心の至って単純な動機による旅が対象とされているにもかかわらず、今日でも通用する鋭い指摘が含まれている所はさすがと言うべきである。
 柳田は現実のそうした無味乾燥な旅を批判し自らの経験を披露しながら上手な旅(好ましい旅か)をすべきと説いているようである。
 柳田の良い旅の条件を要約すると次のようになる。
 1.流行を追わない。2.人の多い場所を避ける。3.金と時間のムダ使いを避ける。4.効率よくいつまでも思い出の残る旅。
 このうち1と2は納得するのに時代差はない。今日でも好ましい旅をする場合の最大条件であるからだ。
 問題は、3と4でこれを単純に受け取ると単なる貧乏人の旅になる。柳田はこの部分を次のように表現している。今の旅行は「なるべくゆっくりと金や時間のムダ使いをすることを幸福のしるしと思う傾向である。人間は働かなければならない。同じ結果の楽しみが短い時間に得られる程成功だと言えよう。我々の散歩、旅行には一日ですむいい所が沢山ある。(中略)現在の我々の旅行は短くすませるようでなければならない。そうしなければ、現在忙しい国民の多数は旅行の恩恵に浴することは出来ない。」(傍点筆者)
 これを読むと柳田がこの短い一文を書いた時代というものがひしひしと伝わってくるような気分になる。
 金と時間を無駄使いする旅とはどんなものなのだろう。おそらく一部の富裕の徒が時間と金銭を持てあまし地方の温泉巡りの果て酒肉におぼれる様を指しているともみえるし、一般人の心の奥底に秘められた熱きマグマが時をみて噴きだし歌舞音曲に一夜の夢をむさぼる態度を指しているのかも知れない。しかしこれも時代が求めるものだったと言える。
 彼等にしてみれば季節ごとにやってくる花見や盆踊りとか言ったものが不満発散の仕掛けとなっていたのだし、柳田のような旅のスタイルでは納まらないものがあったとみるべきである。
 金と時間を充分使う旅は今日では熟年層にとって最も高位にある旅のスタイルであるが、時間を金銭で買い取る式の現在の旅のスタイルから脱却することこそが自由で自主的な旅の究極の姿とみなされるようになっている。これも時代差である。  筆者が傍点を打った部分に柳田の工夫の一端がのぞいている。旅で得られるもの(これの計量は不可能であるが)が短い時間で手に入れることが可能ならば成功だと言うのは柳田自身の調査のための旅ならば当然だが、一般的な旅はむしろ今日では短いより長い方が(普通では一週間程度が良いとされる)好ましいとされる。交通機関が発達し長距離旅行を可能とし、海外旅行も普通となった現代では1日の旅は旅のうちに入らなくなっている。
 時代の変化はあるにせよ柳田はなぜ1日ですむような旅を奨励しているのだろうか。自らは職業の旅の途中から突然のように民俗の調査活動に切りかえて相当長期の旅に出ていながらである。このあたりに柳田の真意がかくれているような気がするのだ。
 この一文は昭和9年「婦人の友」に書かれたものでこの時代の国民一般の忙しさは普通ではなかった。国威高揚・国力増強で働くことこそが美徳の最上位にあって気楽な旅行などできる雰囲気ではなかった。こんな時代でも柳田は職業旅行の片手間に個人的な調査旅行を実行する必要から、旅行の意義・効用を説き、しかも1日の旅、短い時間で効率よく行える旅の必要性を説いて目に見えない強い圧力(国家権力とそれに唱道される社会)に抵抗しているかに見える。金と時間の無駄使いのような旅や一夜の酒宴が伝統的な旅の定番化するなかで、旅の中身の変更と権力者側に喜ばれる効率的な短い旅とを秤(はかり)にかけてみせるという芸当を披露してくれるのである。柳田は民俗学者一般にはない器用な人だったのかも知れない。
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「西尾寿一の部屋」へ戻る
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「私の空間」へ戻る
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