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春日山
 春日山496mは大和北部の三笠山・若草山・香山(高山)・花山・東大寺・興福寺などが鎮座する区域の全てを覆うような形で広がっている。
 春日山こそは高度は低くとも我国の歴史上無視できない重要な鍵をにぎっている存在だ。
 その本峰は花山であろうと推定されるが、更に奥地の芳山をふくめている場合もある。従って春日山は特定の峰の名でなく、春日信仰の中心地である三笠山の山頂を基点として周辺の山地全てに網がかけられていると考えるべきものと思われる。
 地形図に春日山と御蓋(ミカサ)山が併祀されているのは不都合で春日山の名はもっと広範囲の大地名として扱われるべきものである。
 「大和志料」には「三笠山、一、ニ御蓋、御笠ニ作ル、春日山ノ西ノ西峰ニシテ其ノ形蓋ニ似タリ、故ニ名ズク」とあるように明らかに春日山(花山)の西に連なる台地状の突起の一部が三笠山である。頂上に本宮神社と七本杉があり、春日社(信仰)の神事が行なわれる山でここが春日山の中心である。
 三笠山は古来桂名として知られ皇族の名に採用され、明治時代には軍艦の名にも使われた。またこの周辺に鶯塚・鶯滝などが散見するのも「春日」にちなむ地名で、その意味では春日の名は一帯に広く影響を及ぼす総括的名称であることが分かる。
 春日の地は元々古代豪族の和邇氏が今の天理から北部一帯を根拠地としたことから始まり、後に「春日」氏を名乗った。春日山はその残滓である。
 春日山の奥山(花山の南の一峰)の香山(高山)の高山龍王社のち鳴雷(ナルイカズチ)神社(明治9年成立)となる地を信仰することから始まっている。龍王社の信仰とは春日氏の氏神的性格ではなく、請雨の祈念のためのものと考えられる。
 これを後になって中臣氏(後藤原氏)が受継いだものと思われる。その経緯は不明であるが中臣氏の歴史上の行動様式をみると一定の推理が可能となる。春日氏は名も土地も何らかの形で全てを(合法・非合法)中臣氏の政治力に協力したか、呑みこまれて行ったか、そのどちらかであったろう。
 この時代歴史的な古代家族の名がいっせいに消えて行くことになるが、それは藤原氏の勢力拡大と比例しているのは注目される。
 藤原氏は天皇家の血統に深く浸透し外戚となることで反対勢力を決定的に駆逐できたのではあるまいか。その政治的手腕は並みのものではない。
 粗野な人物の豪腕ならけっして春日氏の名を残さなかったはずである。自分の名に改名を重ねていずれ破滅の道を辿るのであるが、中臣氏は違っていた。自等も名を改め、けっして本性を現さず外部協力者の名を前面に押し立てて反対勢力の攻撃をかわず戦術でこれは功を奏したと言ってよい。
 そうして春日社と興福寺という二枚看板は国家的段階にまで上昇させることに成功するのである。藤原一門の勢力はこれによって自動的に磐石なものになった。春日山の名は借り物であることが重要で、当時も現在もこんな芸当のできる政治家は皆無であろう。
 万葉集にも春日の名が多く現れてくる。「春かすみ春日」とあるのは「春日」の枕詞であり、これに鶯(ウグイス)が加わる。霞棚引く春日の森こそは中臣氏の望む世界の聖霊地だったのである。
 霞と鶯の組み合わせはいかにも日本的なイメージが強いが、この国の自然景観の基本的な感覚美に共鳴している。最近ではこれが梅に変化しているようだ。
 万葉集の「うぐいすの春になるらし、春日山……」は正にその情景を適確につかみ切っている。
 鶯も春日の冠辞であったことが分かるが、古代地名の成立は現代とは全く異なる経過を辿るのであった。
 枕詞、冠辞が地名を作るうえで参考となり万葉集の歌が次の二首によっても確められる。
 「冬過ぎて暖(ハル)は来るらし朝日さす春日の山に霞たなびく」
 「春日なる羽買(ハカイ)の山ゆ佐保の内へ鳴き行くなるはたれよぶこどり」
 春日山の情景をよく伝えているようである。
 古代春日山信仰の始まりは現在の花山の南に連なる一峰、香山(高山・神山)であるらしい。この位置にはやはり地獄谷や石仏群の多さは只物でない雰囲気と感じさせる。この付近は汲めども尽きない歴史の重層地帯で奥が深い。
 香山の神もまた水の神であった。延喜式内社の「鳴雷神社」の鎮座地とされることで証明されるが、降雨の祈願がされたものらしい。
 神名は「高オ神(タカオカミ)・闇オ加美(クラオカミ)」で、この神は後の請雨(雨乞)一般の神の元であって、古い形式を残すものである。
 東山内(ヒガシサンナイ)(大和高原)には現在も、この神名を名のる神々が幾つか残されるのは春日からの勧請に他ならない。
 大和の盆地とその東に連なる高地一帯が「うるわしの国」と呼ばれる割に水不足であったことが裏付けされる事実である。
 それは水稲一辺倒の農耕(弥生式)による過大な水の要求であったことは疑う余地がない。
 田植えどきに大量の水を要求し、稲刈りが終ると止雨を願うなど自然節理を無視する農業形態を押通してきたのがわが国の農業の一般的な姿であった。
 春日とは「春の草」を意味する枕詞であることはすでに述べたが、春(わか)日(くさ)→(若草山)となるわけで、この辺り一帯の山の特徴である火山帯の植生が、大樹を育成するに適していないことがあげられる。若草山も元は柴木を採集する山だったのであろう。
 春日社は藤原氏の氏神の他に三神が祭祀されている。多氏系の鹿島や藤原氏の考える国家像を形成する上で欠かせない神々を祭神に加えている。興福寺も同氏の氏寺で両社寺の繁栄を図るために作られたものが「春日宮曼荼羅」である。春日山一帯を鳥瞰図的に描きその中心に春日社を置いたもので、この絵が京へ送られたとき、当時の貴族達は沐浴の後、束帯着服の正装で拝したものが記録されている。
 藤原氏の地位もさることながら一枚の絵を配布しそれを拝ませることで更に支配力を高める戦術は相当のものがある。又、庶民に対しても、若宮社を作り民衆を春日に引きよせる手配も行なっている。一氏族が将来に対してこれほど周到な計画を企てること自体異様なものを感じる。
 それだけではない。もっと強烈な仕掛けが春日社にはあった。
 それは春日の森の「神木が枯れる」事態を利用した実に巧妙な仕組みであった。
 この時代の朝廷に対する要求は「神がかり」なものが効果をあげた。つまり脅しである。
 比叡山延暦寺が日吉社の神輿を押し立てて都に至り要求を通そうとしたのに対し、南都側はこれに対し春日神木を持ち出して対抗した。それは榊に鏡を付したもので要求が通らねば都に接近して行く行為で今日のデモ行進と変わらない戦術だった。春日から木津・宇治へと次第に都に近づいてくる春日社の神意をたずさえた「神木」に朝廷は恐怖をつのらせ受入れるより他なかったのである。
 次に現れたものが春日原生林の松枯れ現象である。神木が枯れるのは世に良くない事がおきる前兆であるとし、春日社の神託が下がるとするもので、都の貴族その他の者は、金を集めて春日社の神を慰撫するために枯れ山を元にもどし社殿を新しくしたり気を使った。そんなことが事あるごとにおきるので、いよいよ春日社のおそろしさと権威が高まる一方となる。藤原氏は豪腕によって支配力を強化したのではなく知力の勝利というべきであろう。
 春日社は四神の他に先の春日氏の奉じた社があり、時代が下がるにつれ、合祀された神柱は多数にのぼるが藤原氏の祖神は天児屋命一神であるのに対し、その上位には常に鹿島・香取の神等があった。自家の氏神より国家の意志を優先させる判断のうちには常に政権の中心に居る者としては当然のことかも知れないが、それが結果的に一族一門にとって有利に佐用することくらいは充分承知していたはずである。
 神護景雲二年(768)春日社が造営されたとき、同時に自家の祖神の他に国家的権力とつながる神々を並べ四神の神々を祭祀したとき、衆目はあっとおどろいたに違いない。そこには藤原氏が何を目ざしているかがはっきり目前に現れたからである。特に対抗する民族のうちには絶望する者もあったはずで、これによって藤原氏の天下は始まる。
 藤原氏はここに有力な神の全てを春日社に集め、さらに元々他者が氏神とした神まで祀ることまでしている。つまりそれらの神を藤原氏の祖神として祭祀することによって宗教から政治・軍事に至るまで全ての分野で独占的支配力を手中にしたのであった。そして「古事記」の完成によって藤原氏の描いた野望の全てが書物に記録され将来的に磐石のものとなった。
 古事記には藤原氏の望む世界像が見事に表現されているのである。
 ではなぜ遠く関東から鹿島・香取の神まで呼び寄せたのであろうか、その謎は案外簡単に解ける。
 当時の社会状況は東方(北方)の経営が主目標であり国家の版図の拡大が必要であった。
 その基点となる土地に盟友の太・多氏の系流が鹿島神社を祭祀していたのである。藤原氏はこれを見逃すはずはなく、伝承の「鹿島神が鹿の背に乗って名張を経由して春日の森に来た」が現実のものとなるのであった。
 香取の神は神名からして、物部系の神のようだがすでに中央政治から駆逐されていた。が、これも軍神であった。
 中央にあって藤原氏は政権の中枢にありあらゆる手段を使って蝦夷平定を目論んだはずである。
 鹿島・香取の神は正にその先兵となって北をめざしていたから藤原氏の役割もおのずと推定可能である。鹿島・香取の神と藤原氏との関係には、不自然なものを感じる。ひょっとすると追放された物部氏の神を受継いだ可能性すらある。
 時の政権の中心に居る者の有利な状況は、今日でも全く同じものがある。
 中臣氏・藤原一門は朝廷を動かす様々な手段を持っていた。
 先に述べた神木の枯れる状況は幾度となく現われ、それが事実かどうかは不明の点は確認されないまま政治的要求が通され、春日の森に若木が植え直されるなどをみると春日山の原生林は、ほとんど人為の手が入ったものであり、更に禁足地でありながら、杣・柴木の採収の衆が入ったりしている。これなど神の怒りを買って然るべきはずのものが何もおきていない不思議は不問とされている。
 そこにも管理者が賄賂をとって見て見ぬふりをした可能性が高いのだが、善意の目から見れば庶民の窮状を感じ見逃していたとも言えよう。
 いずれにしても原生林・原始林の名は春日山には適切な表現ではない。強いて言えば自然林とでも表現すべきかも知れない。
 春日社は約二千三百石が保障されたというが、興福寺と合わせて広大な領地があったはずで、石清水八幡宮の領地との境界争いがたえず死人まで出ることがあり、鎌倉時代には、京都の六波羅探題が出張って来たこともあったらしい。
 小川の両岸・尾根の二重山稜のどの部分に境界を引くか、両者の解釈によると都合よく決められた区画は、時に紛争の源となってナショナリズムに火が付いて大混乱の源となる。権力によって、収められた紛争は時を経て凶作などの状況によって再びはけ口を求めて動き出す。その紛争の数は人間の数だけあったのであろう。
 春日山を巡る周辺の笠置山・神野山・鷲峰山などの山頂から春日山の自然林の深い樹林の暗緑色の塊は明確に指摘できる。それはいかにも並通の植林(杉や桧の)あの暗緑の畑のような行儀よく並んだものではない。巨木に成長し得た木とそうでなく途中で倒れて朽木となってしまいぽかりと空間を作っている乱雑な自然林の姿。その姿は自然だけの作意ではない。おそらく人間と自然との共同作業が無計画に実行され続けた結果の証明を意味する姿であった。
その姿が遠くの峰からも明確に指摘できるということなのである。
 なお春日山の名は「日本山名辞典」(三省堂)によれば八列ある。実際はもっと多数あるが、その多くは低山が多くしかも春日神の勧請によるものであることを示している。
 愛宕・秋葉・その他のように春日神も藤原氏の勢力図の拡大と共に全国へ伝播して行ったのであった。公的・私的の社はおそらく数千社に及ぶものと推定されよう。
中でも特に注目に価するものに越後上杉氏の城のあった春日山城170mである。かつては八ヶ峰(鉢ヶ峰)と称したものが、春日信仰の祭祀後改名されたもので典型的な伝播地名のありかたを示している。
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砺波山(倶利伽羅峠)
 砺波山は旧名で平安時代以降は倶利伽羅峠(山)で通っている。由来は、峠に倶利伽羅不動明王が祭祀されたことによる。
 越前と越中を分ける明確な地形的・国土的特徴の境界で、現代もそれが続いている。
 白山から北へ続く山脈は次第に高度を下げて医王山に至る。更にその北、小矢部に至って北陸路の要衝となる倶利伽羅峠(山)となるが現在はその北方に天田峠が通り国道八号線のバイパス、鉄道のトンネルなど、ほぼ同じルートを通っており、倶利伽羅峠の方は細い旧道と若干の民家と倶利伽羅不動寺が残るのみの至って静かなたたずまいである。
歴史的な峠がほぼ昔の姿をとどめて残っていることは有難いことで他ではめったに見られないことだ。スローハイクなどに利用価値の高い峠であり、昔流に言えば峠の周辺もふくめて砺波山と評してもよいと思う。
 峠の由来ともなった倶利伽羅不動寺の倶利伽羅は龍の意の梵語で(kulika)源はインドで岩の上に立つ剣に龍が巻きつき剣を呑みこもうとする図で背景には火炎が立ち昇って勇ましい。これを好んで背中に彫る人が居て、これを倶利伽羅紋々という。竜王の迫力ある姿にあやかりたい意志の現われなのだろうが逆に自身の弱さを暴露しているかにみえていたましい。
 倶利伽羅竜王の祭祀される山はけっこう多いのだが名前のある所では、大峰山脈南部の1252mがあり、兵庫県の栗柄峠がある。
 寿永2年(1183)の倶利伽羅峠の戦は木曽義仲が平氏軍に大勝した所で、牛の角に松明をつけ突進させたと伝えられ、平氏軍は完敗し、それ以後立ち直れず都を去るに至る。 その後も度々戦の表舞台となったが、それにはこの峠の地形・地政的な位置がなせる所であって、人為はこれに左右されたものと考えて差しつかえないと思われる。
 さて倶梨伽羅不動寺は真言の寺院であるが峠の名が倶利伽羅とされる以前のことが気になる。つまり平安時代より先のことだが、「万葉集」に大友家持の長歌や短歌が幾つか残されているのが参考となる。
 天平19年(747)に越中守だった家持が上京する際に大伴池主が詠んだ長歌は「万葉集」だが長く転載できないので要点を抜くと次のようなものがある。
 刀奈美夜麻(砺波山)多牟気能可味(手向の神)美知能可味(道の神)などがある。
 また巻十八には「焼大刀を砺波の関に明日よりは守部遺り添へ君を留めむ」とある。大伴池主は自身は越中にて遥拝し砺波山の関の神(手向の神)に奉幣するは守部を遺り、家持の無事と再会を祈願している。
 当時の峠に関所があり、峠の神(手向の神)があったことがこの歌によって証明される。
 当時まだ峠の名も、神社のようなものも確認できないものの、奉幣すべき社があり関があるのはすでに小規模にせよ、何がしかの祭祀があったことを示している。
 その後、この峠の歴史は複雑を極める。
 古代社会では様々なものが峠を経て他国からやってくると考えて境としての峠を厳重に管理した。特に不審な人物や疫病の進入には神経を尖らせた。その意味で峠には見張りを置くこともあり、何らかの神を関与させることで難を逃れる工夫をしてきたと考える。
 砺波山は当時から第一級の峠であり、当然のこと関所と峠神(手向の神)があってもおかしくない。
 その後、倶利伽羅不動が真言(高野山)の寺(長楽寺)として峠に位置し峠名にも発展するが、この倶利伽羅不動そのものがすでに境界を守る役柄を期待されていると思う。
 峠神としての手向の神は「峠」の由来譚ともなっているが東北地方には現在でも「手向」の地名が残っている。羽黒山には典型的なものが確認されるが、実は手向神は我国のほとんどの峠にあったごくありふれた神だったはずが、時代と共に別の神名に変化し、また別の神と合祀されてしまったようだ。
 倶利伽羅不動尊も祭神をスサノオとしたり、神仏習合時代あり、明治時代の分離令ありで複雑である。
 現在の天田峠と旧北陸道の間には農道のような細い道が沢山ある。地形は予想したものより急峻で源平合戦、その他の戦でも相当厳しいものがあったものと思われる。
 そのせまい一帯に不動寺がかなりの規模で残っている。歴史のなかで消えたり再建されたりしながら残されてきたエネルギーは何であったのか考えさせられる。
 旧道の倶利伽羅門前から北に入ると天田峠へ行く道があり不動寺本堂が多くの幟を立てている。近代的な建物の脇を右手に入ると五社権現がある台地があり、この地を国見山という。西へ石段を下ると手向神社がある。この社は万葉時代のものとは違うが、おそらく旧街道の位置からみれば土地はそのままではないかと思われた。旧道の反対側には不動ヶ池がある。付近はうっそうとした森林である。
 不動堂の初出は養老の初めころ、とする資料が残るのみで確実な証拠はないが、峠の重要度から相当早い段階に遡る可能性が高い。
 先に兵庫の栗柄峠についてふれたが篠山市の北方から京都府三和町に抜ける山間部にあり小盆地を形成するが柏原町の分水嶺と同じく「谷中分水嶺」というめずらしいものである。ローカルな地方道ながらバイクで楽しめる所である。付近に鼓峠・三春峠などよい峠がある。
 また峠の神について若干の考察をしておくことにする。
 峠神とは、峠は一種の自然地形の関所となるので外部との窓口として機能する。人の出入りと物流をチェックできることから疫病も峠から進入するものと考えた。そこで峠に対疫病の神を祭祀して対抗したもので盆地の村では必ず置かれたものとされる。
 記録に残るものは少ないが時代は相当遡るとみてよい。
 峠神の種類は、さいの神・サエノカミ・塞の神・幸の神・その他にも妻・障・歳などの漢字が使われた。道祖神・ヒダル神・むらさき柴折神などといった神と合祀されていて一見して判断でき難いものがある。手向神(社)は最も古い時代のものとされ現在は数少ないが若干のものが姿形を変えて残っている。
 本居宣長は「手向神」が峠に祀られているから「峠」の源としたが、柳田国男説の地形のタワ・タワミからとするものが信じられている。しかしながら、ほとんどの峠には手向神が祀られており通行する人は必ず手向けたのだから本居宣長の説も完全な異説とは言い難いと思う。峠には恐ろしい悪神が沢山たむろしており旅人は通過儀礼としてそうした諸神に対して手向ける行為を必修としたのであった。
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能郷白山
 白山信仰の伝播によって各地に「白山」を名乗る山が数知れず広がるなかで最初から能郷という地域名を冠する能郷白山は、それだけでも強烈な自己主張をしているかに見受ける。
 能郷白山1617mは俗に「奥美濃」と呼ばれる美濃奥山の最高峰である。
 その「奥美濃」の名付親は名著として名高い「樹林の山旅」の著者故森本次男氏である。
 この本によって、奥美濃の山域は京阪神及び東海地方の山岳人に親しまれるようになり、現在も熱烈なファンは絶えない。
 しかし、この山域に登山として目をつけたのは京都の三高出身者達であった。小生は最奥の民家に残されていた、煤けた古いノートの一角にその名を発見したときの驚きを今も忘れることはない。彼等はアルピニズムのなかに探検(未知を追求すること)的要素を見出し発展させて行った道筋がこの一件によっても辿ることができる。
 森本氏の山旅は日本的な自然と一体となって生活する山村の美徳が失われつつあることに対して深い愛惜の念をもって綴られているが、この両者の山へのアプローチの違いは今日でも奥美濃に向う登山者のなかに生きている。
 又、この山域を地理の領域では「両白山地」と呼ぶが、これは北陸の白山と背梁山脈によって繋がる一連の山脈を言っており、地理の分野でもこの山の存在を高く評価していることが分かる。
 地域の名としての能郷は現在登山口になっている里宮の白山神社(御旅所)にある「能舞台」において毎年4月13日の春祭りで奉納されることから来ている。
 「新撰美濃志」には「謡曲の能はむかしより…」と語っているが、現在は能の古態を残すものとして国の無形重文に指定されている。
 小生など若気の至りで夜遅くやってきては能舞台にあがりこんで仮眠し、翌日登山に出かけること幾度もあったが、神も里人も大目に見てくれていたのであろう。
 能は京より全国に広まったが時代と共に歌舞伎に変わり行き神社での奉納の儀礼は失われて行った。そして、ついには辺境のみが古式を伝えることになったとみえる。
 記録によると奥美濃でも揖斐川筋の各村にも奉納儀礼があったものの次第に「子供歌舞伎」に変わって行ったという。
 全国的にみても東北や九州の深山の寒村に思いがけなく能や神楽・歌舞伎や人形浄瑠璃の舞台が残っていたりする。山旅の折にふれて廃村寸前の寒村に小規模ながらこうしたものを見るのは実にさみしいものである。
 「文化は辺境に宿る」と言うが中央から一方通行で発射されては霧のように消えゆくものなのだろうか。
 山頂には養老元年(717)泰澄が開基したとされる白山権現の奥社があるが、この年代は白山に泰澄が登拝した年代とされていて不審である。実際は白山から勧請されたもので他の地方的な白山も同様と思われる。
 白山信仰の登拝時代と歩調を合わせたものとみえるが、昔の高僧は空海が代表格ながら辺境を空飛ぶが如く実に忙しい日々を送ったものらしい。
 山村民俗の会の「あしなか」80輯に後藤芳雄氏が「能郷白山の古名」があり天保5年の「美濃国大絵図」には「三山」の名があるという。その絵図には「三山と丸い峰を三つ並べて描き出した…」とある。果たして、この三山が何に当るかが問題である。
 姥ヶ岳や越前の山から見ると小さな起伏を三山と見立てる可能性は残るが、ここは順当にみて美濃側、根尾村能郷から見ると左に磯倉、右に前山が秀逸であり堂々たる山塊を形成している。
 前山は現在も能郷白山の登山道が通じているが磯倉の方は厳しい藪である。仮説を述べるのであれば「三山」の時代には「三山馳」が行われた可能性が極めて濃厚である。
 「三山」は直接的に山名を語る表現ではないものの能郷白山の信仰盛んな一時代を映しているのではなかろうか。
 余談になるが前山はともかく磯倉は見て登って秀逸な名山である。
 奥美濃に限らず飛騨の山々は登山道に恵まれない山が多い。よって残雪期に盛んに登られているが夏道が前山経由の他に最近では温見峠から直接登る道が開かれ一般登山者も多くなったもののやはり本命は残雪期登山にあり、それも4月である。能郷で奉能が行われる頃は登山も適期であるが、5月でも抜き出た高峰であるこの山の残雪は豊富である。
 道があるものの登山適期は4〜5月初めの残雪期が一番だ。続いて春と秋で盛夏は最下位となる。沢からの登攀は周辺の各沢は小規模の滝はあるものの大味で荒れていて対象とするにはやや苦しいものがある。
 この付近の山地は度重なる集中豪雨によって荒廃している。ブナ、ミズナラの巨木を伐採してしまったことによるが伐採によって得た利益より大きな資産を失ったと思う。
 小生は能郷白山に数回登ったが、失敗だったが単独行のときのものが印象深く記憶に残っている。
 4月下旬、温見谷の仮小屋で仮眠して峠道から右の支尾根を辿るも悪天候にて敗退したものである。その後の登山はいずれも残雪期のものでノーマルルートであった。しかし、楽しく気軽に登れたものはどうしても記憶に残らないものとみえる。

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牛首山(峠)
 「牛首」を名乗る地名は全国に広く分布していてめずらしくもないかに見えて、これがどうして一筋縄でくくれないのである。 牛が労働力として利用されたのは主として日本海側の雪国であるが、牛地名は太平洋側や沖縄などのような雪に無縁の地方にも広く分布しているから雪と牛とが直接繋がらない。
 「日本山名辞典」(三省堂)でみると「牛ヶ首峠」が石川県小松市と広島県冠山山系の二例がある。「牛首」が奥秩父に一例、「牛首岳」が沖縄に一例ある。岳を付すのは沖縄だけで沖縄には高山が無いことを地名分布の上からも実感できる。

「牛首峠」が秩父鹿野町、富山県利賀村、長野県辰野三州街道、島根県匹見町の四例あるが、実際にはこの十倍はあるはずだ。 「牛首山」が会津伊南町、群馬水上町武尊山、新潟飯豊大日岳尾根上、富山県宇奈月町牛首尾根、同唐松山と大黒山の間、八ヶ岳の赤岳真教寺尾根上、長野県大町市天上沢右岸、岐阜県高山市と朝日村境、などと八例ある。
 これも実際には数倍あるものと考えている。
 次に「牛頸山」が九州の大野城市にあって、使用漢字の違いだけでなく内容にも複雑な事情があるようだが、これは後でまとめて記述する。
実は牛首という地名は牛首山(岳)と峠がワンセットになっている場合が多い。それは地形の特徴の一部分を地名にしているからで、その状態のテキストとして二例をあげる。
 A 主尾根の一部が吊尾根状にくびれた先に一段低い小隆起があり、これを牛の頭とみる地形で、その間を越える道があればその峠を牛首峠とし、頭となるピークを牛首山とする場合。
 B 主尾根から横に派生する支尾根の先にAのような地形があり、その先が広く山麓の田畑となって山村の生活圏となる地形。牛首山となるピークの先が広くなる部分を「牛ヶ額(ヒタイ)」と呼ぶ特徴がある。
 牛と馬の違いは尾根の広さにあり「馬ノ背」は二つのコブの鞍部を指すので全く別のものである。
北アルプスの牛首地形は標高も高く、地形図からも実物からもこの特徴を教材のように明らかにしてくれる。やはり牛首地形の集中するのは、北陸から越後、会津、信州といった高山の豪雪地帯に顕著に現れている。その理由は豪雪によって削られつつある山稜の現況を示しているわけで老年期の浸食エネルギーの終った山地で少ないのは当然のことなのだろう。
 小生が牛首地形として最も注目しているのが白山山系の西側の手取川流域である。特に白峰から奥は牛首川と名乗る(現地形図は手取川)が、その両岸の山から釣瓶落しに落ちこんでくる支尾根のほとんどが牛首地形をもっていることだ。昭和40年ころ、この付近を盛んに登っていたころ地元の山稼人(炭焼・猟師・山菜取り・出作農夫)などからローカル地名や山話の幾つかを仕入れたことがある。
 それによるとこの付近の山はほとんど牛首地形で大別して二例の地形的な特徴がある、というものだ。
 その一は、牛首川に落ち込む急峻な支尾根が川岸近くで一旦頭を持ち上げてから河原へゆるやかに続くもので、この形状を牛が地面の草を食べるのに首を長く延ばした形になるからという。成程、その話を聴いてから現物を観察すると充分うなずけた。
その二は牛首川左岸の赤兎山から護摩堂峠に至る県境尾根から北へ派生する尾根のいずれもが典型的な焼畑地帯で出作の畑が尾根の一帯に点在し、尾根の途中には幾つものくびれと平坦地がみられる。その出作畑を繋いで尾根や谷を横断する道が開かれている。その道は白山信仰の第四の禅定道(後で述べる)に利用されているのだが、その形態は全ての場合牛首形状である。それは地元でも確認したが「牛首峠」や「牛首山」は無数に存在したから、あえて牛首と言わすに単に峠で済ませる場合が多いのである。
 ひとつの例をあげると谷峠の北方に五十谷と大道谷がある。が新しい地形図の大道谷の字のある部分を「牛首」と聴いたがもとより地形図に名はなく、現在地元でも知る人は居ない。地形図をよく見るとこれとよく似た地形が他にも沢山あるので、この付近は牛首の密集地帯と呼んでも差しつかえないと考えている。
 北陸でも、この地方はよほど牛を多用したものとみられる。逆に馬の地名は極端に少ないのも当然なのだが地形の厳しさと雪の量が牛の比重を定めたのかも知れない。

白山豊原禅定道について
 先に禅定道についてふれたが、白山信仰には、越前、加賀、美濃の三大禅定道の他にも一本の禅定道が存在した。それは越前の丸岡町豊原寺から白山に至るもので白山禅定道のなかでも最長最困難な道程を行くものだ。
 その行程には10泊を要したが現在はとても辿れるものではないが、地方の活性化のためにも、ぜひ復活させてほしい道である。
 その行程は豊原寺を出て吉谷白山神社泊、二泊目勝山岩屋観音、三泊目大日峠下、四泊目小豆峠下、五泊目五十谷、六泊目松倉谷北方尾根(村があったと思われる)七泊目ホイチ谷付近、八泊目市ノ瀬、九泊目室堂となっている。このうち、三泊目の大日峠あたりから牛首峠状の峠を無数に越えて行き、特に五泊から八泊目にかけては牛首の峠と出作りの仮村を結んで通過したものと考えられる。少なくとも、出作りの夏季の仮の村落群を頼りにしない限り禅定そのものが不可能であったと考えられる。
 現在こうした道や出作小屋を主体とする焼畑農業は消滅したので道を辿るのは困難となっている。豊原寺はその昔一向衆の拠点となった所で信長以下に続く中央勢力によって徹底的に弾圧されて消滅したので、その後の復活は無く闇に葬られたままとなっている。

牛首地名とアイヌ語について
 以上あげてきた「牛首」地形はいずれも山岳地帯のものだが、逆に海岸から河川を溯る形で「牛首」地名が残されている可能性の高い例として九州の「牛頸山」を取り上げてみたい。
 福岡県太宰府の奥に400m少々の低い位置にこの山があるが、この山を水源とする川も牛頸川と称しているからかなり歴史の古いものなのだろう。
この山の名称をアイヌ地名を研究している地元の根中治氏は「九州の先住民はアイヌ」(葦書房)においてアイヌ民族の視点を紹介している。それによると『アイヌ語の「ウシ」(usi-us)という語は場所を示す語で、「在った(居った)」所の意である。(中略)うつ伏せになることが「ウブシ」で、船がひっくりかえることも同じように言う。(中略)船のひっくりかえった内部が「ウブシ・オル(upsi-or)ウブソル(upsor)でそこから「くぐもった内部」「入り込んだ内部の意になり、更に「腟内」「ふところ」の意が出た。入江、湾を意味する「ウシ」も恐らくそこから』と前提を設定して更に次のように続く。
 『従って「牛頸」の「牛」の意味は語根として「入江」を意味するものであり「頸」は日本語のクビ(neck)の意味で修飾語(形容詞)として用いられ(中略)「ウシ」というアイヌ語起源のことばが、日本語の中に入り込まれ、使用されるようになったのであろう。「牛頸」の地名の意義は「山に囲まれた小さい入江」の意であると思われる。』とあって今まで山岳地帯特有の地形語であったと確信していたものが別の視点のあることを認識せざるを得ない事態となった。
 根中氏はアイヌ語の視点として、海から河を遡上する鮭の存在をあげ、アイヌ族の習性は海から川を経て山に至るものである点を重視された。確かに我々山岳を中心に地名研究をしてきた者にとって全く予期せぬ新鮮な視点である。しかしながら、九州の牛頸山の除く他の牛首地名は明らかに動物の牛に由来するものであること、その後においても確信にゆるぎはない。
 根中氏の本の中で九州の「牛」地名の関西のうちの幾つかは牧場などの牛に由来するものの他に物資輸送に従事する牛が残したものがふくまれている。
 地名について日本語、アイヌ語に深く傾倒する余り、それのみにこだわる必要はないのではないか、現実のフィールドワークを重視する必要があるように思われてならない。

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シビレ山
 神戸市北区と播州三木市の境にあるシビレ山、466mは有馬の西方、キスラシ山から始まる北神戸の長大な山脈の西端に位置する特異な山である。
 この山脈中の主要な山に金剛童子山、稚子ヶ墓山(ちごがはか)、帝釈山、丹生山(たんじょう)などがあって、シビレ山は登られてはいるが記録に登場することは無かった。前述の堂々たる山名の陰にあって、マイナーな印象をもたれるこの山名は堂々と語ることがはばかれると思われたのかも知れない。
 が、しかし山の地名を追っている者にとってこれほど面白い存在はない。それに引き替え前述の名だたる山名の由来は一目瞭然であり興味が持てないのである。
 小生がシビレ山とすぐ南にあるシブレ山を同じ日に登る計画を発表したときも、そんなマイナーな山など、と評判がよくなかった。
 マニアックな山を選定する傾向は否定し難いが、それが興味を引くのだから仕方がない。
 シビレ山とシブレ山は同類とみられ勝ちだが異っていた。名の発生する土地は後者が南側の木津(きづ)であるが、前者は三木の淡河(おうご)の可能性が高いのである。始め衝原(つくはら)では、と考えたが死角になって山が見えない。そこで西側の淡河川筋から見るシビレ山を考えたが、はたせるかな堂々の山姿を望むことができた。
 有馬から西進する長大な山脈はシビレ山に至って打切られ急峻な角度で落込んでいる。まるで山刀で切割ったほどの角度であった。
 シビレ山を朝夕に拝する土地こそは淡河川に沿った勝雄、戸田といった集落に違いなかった。
 又、シビレ山の山頂には岩座(いわくら)がある。この祭祀の中心はやはり淡河川(たぶん川の字は二重使用)の流域に違いない。淡河、勝雄からの道も存在することから先の予想は信頼できそうだ。不動滝の存在も何やら暗示的である。
 そこで焦点をこの方面に絞って現地で聴いてみたが不調である。もう過去の事象を老人達が伝えていた時代ではなかったのだ。文献に頼るしかないが頼みの神戸史学会の落合重信氏も亡くなられて久しい。
 柳田國男に「狐の剃刀」という短編があり、摂州で彼岸花を「シビト花」と言い、シガラ、シビレ、シブライなどの方言がある。汁液が唇に付くと刺激するから痺れの意に解する、とある。シビト花は摂州だけでなく江州でも京都でも使うからめずらしくないが昔から墓場(土葬など)の土手などに多く咲いていた。最近でも田のあぜ道に健在だから生命力は相当なものだ。
 他に「蒲公英(たんぽぽ)」の小編にも「シービビ」がタンポポの茎で笛を作り鳴らす音を表現していて、これが広まって後年青麦の茎でも鳴らす意が出ている。これも摂州有郡だから同じ地域である。
 むろん上述の二編は決定力を欠いているが補強材料としては有力である。
 広辞苑ではシビは沢山出ている。@尸び、A紫微、B紫薇、C鴟尾、D鮪(しび、まぐろ)などの他にシビレは「痺」があるだけである。@は凡語でインドの釈迦伝説であり、Bは中国の天文学。Cは寺院などの屋根上にある沓形、Dはマグロなどの成魚であるが強いて言えばCとDである。
 痺は先述したヒガン花の毒素などの関係から無視できないが付近に鉱山などがあると川水が汚染されるいわゆる鉱毒の可能性も否定し難いもののそのような事例を聞いていない。
 それにしても「シビレ」とは通常でない特異な事態がこの里にあったことを意味しているのだが、それが何であったかが問題の核心である。
 シビレ山の頂に岩を積上げたような古代祭祀跡がみられる。これを磐座(いわくら)とすると話を古代へと遡らねばならない。
 シビレのうち「シ」を水と解すると残るビレ又はヒレは何であるか、ということになる。
 ヒレは昔には「比礼」と書いた。「和名抄」の「鰭、波太俗云比礼」というのがそれで、「日本語に探る古代信仰」土橋寛著(中公新書)には、ヒレは領巾、鰭を意味する。領巾は衰えた生命力を振り起すためにも、また蛇や蜂を追い払うためにも用いられる呪物(以下略)とあり更に「ヒレはヒラヒラとヒルがヘル形状を呈する物の名であると共に、そのような形状に感じ取られる霊力の活動を意味する語でもあった。前者の方はヒラヒラという現代語に継承されているが、ヒレの持つ霊力の観念も、江戸時代まで生きていた。「色浅黒く骨太に、どこやらヒレある骨柄」(浄瑠璃“源義経将棊経一”)はその一例である。」とされる。ここでは霊力の活動、性格、そして重要な「権威」がヒレであった。少し昔小生もどこかで「ヒレが付く」と言う表現を聴いたように思い出す。
 続いて権威が脱落した状態として「傾城(けいせい)も誠になればヒレが落ち」(柳多留三〇)は気位の高い遊女も、本気に客に惚れたりすると、その気位を失なって唯の女になってしまう、という意味の句で……」と続くが、この引用した一文でも「ヒレ」が霊力、つまり権威の周辺に存在する理屈では理解不能の存在であることが分かる。
 ところで「ヒレ」がおそろしく権威のある霊力というものの存在であることが分ったが、それなら「シビレ」の語は一般的には「水の霊力」ということになる。
 水田に供する水を水分山(みくまり)に求めるのはこの国ではごく通常のことだから、山の神と田の神を交通するのは「水の神」ということになって極めて整合性が高まってくる。
 淡河の農民がシビレ山の水を頼もしく思って領巾を立て祭祀したとするなら一件落着となるが、はたして、そんな気楽なものではないだろう。遠い遠い昔の話はあくまで仮説にとどまる、としなくてはならない。
 さて、シビレ山の東の高点に四等三角点がもうけられ、地元で「朝日山」のプレートがあるが、この名はどこから来たのか不明である。
 もしかすると勝手に誰かが命名したのかも知れない。この山域を歩いてみての感想は、さすが神戸の岳人でよく歩かれて道もしっかりしているようだった。
 シビレ山のことは、これで終わりにするには謎が多すぎる。その謎解きは継続すべきものと考えている。

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<山名を探る>ナダレ尾山
 山の数が多い地方となれば山国の信州などを第一にあげる人が多い。平野の多い関西などは少ない印象をもつ人が多いのだが、実際は逆で地形図で確めてみれば明らかとなる。
 その原因の最たるものは山の大きさである。信州などはさすがに山国で個々の山が大きく立派であり、従って山の面積、体積共に広い場所を専有している。つまり山岳の個あたりの面積が広いが故に総体的に峰を形成する部分が少なくなるからである。
 反対に近畿地方などは低い山が波のように続く地形。例えば丹波高原のような所で、しかも歴史的な古さをもっているような地方には、たとえ山が小さくとも人との関係をもつ意味でほとんどの峰に山名が付されている。
 巨大山岳を有する山国では、ほとんど問題にされないような低山にも社寺があったり、古歌に詠まれた名所旧跡があったりしてそんな場所にはたとえ峰の地形でなくとも山名が付され歴史や古資料に登場して来た。
 ここで言う山の数とは、山名の付されている山のことである。
 登った山の数によって登山者としての価値が決まるわけではないが、少ないより多い方が山での活動が盛んであると認められ易いことは事実である。
 又、別の角度からは、登山の質のことを問題とする意思もあるが、それは別の機会とするとして、本稿では山の数にもう少しこだわってみたい。
 山の数を問題にしている人は実は考えられているよりはるかに多いのである。公言しないだけのことで内心は熱烈である。
 そこで言えることは、例えば関西中心で活動している人は全国の巨大山岳を追う人よりはるかに効率のよい登山をしている。近畿の5万図をどれか1枚広げてみれば、そこには数十山を認められるが、信州となればその3分の1も無いだろう。こうして地方区と全国区との差が生じてくるが、この差を埋める方法をまた考え出す人が現れるから世の中広いのである。
 例えば1等三角点の山をポイント制として価値を高く扱うとか、標高別にするとか様々な工夫が考え出される。こうした試みは、むろん遊びである。遊びではあっても、それを充分承知したうえで仲間として楽しい競走に打ち興じるのも、登山文化の一部分にせよ資するのであれば別段目くじら立てるほどのこととは思われない。
 そんなわけで近畿の低山は可愛い山が多いとは言え面白いのである。独行でも、あるいは午後からでも電車に乗って出かけて充分自然のなかで遊んでこられるからうれしい。
六甲の裏山ともなれば神戸の市内とは言え京都からだと午後からとはいかないが便利な電車が使えるので時間の心配はいらない。
 六甲の裏に六甲山と並行して東西に走る丹生山塊は神戸市民によく歩かれて道も良いが、保護されている部分と徹底的に開発される部分とがあっておどろかされる。京都などおっとりした町と違って、その開発ぶりはシンガポールやホンコンを思わせるものがある。
 そんな一角にナダレ尾山(三角点)527mの山が昔から気になっていた。西方の金剛童子山や稚児ヶ墓山などにくらべ感心をもたれることもなく山岳書にも登場することもなく放置されたも等しいのだが実際に登ってみるとかなりの人が登っている形跡があった。さすが登山の盛んな神戸市民である。
阪急電車から例によって神戸電鉄(北神急行線でもよいのだが)谷上駅下車。神戸市北区の近代的な街中を歩いて山田町上谷上の古い集落に入る。
 六甲の山脈を南にみて上峠に向かう。棚畑の人に聞くと「茂って歩きづらい」と聴くが、小さな池の脇から踏み跡を使うと案外すんなりと峠に達した。問題は三角点(4等)で、これは発見できずに東へ縦走する。
 尾根通しによい道があり「丹生山縦走路」の表示があるが、一部巾の広い林道がある。林業の立場からの利用をかなえている山なのだと思う。「天下辻」は三田へ抜ける峠で立派な道が交錯している。ナダレ尾山は北上する道を行き左へ枝分かれする踏み跡を辿るとわずかで平坦な山頂に出る。4等三角点の付近に若干の標識があるが雑木林の静かな落ちついた山頂だった。
 さて山名にこだわるとすると、やはり山崩れを除外するわけにいかないのである。山頂は広く平坦なのに崩れとは不審に思われる向きもあると思うが東側の急峻な地形は明らかに山抜けの跡と判断される。
 その流れは大池という現在は市街地となっている地形によって示されている。大池は名の通り昔池があった所で現在は地名のみ残っているが、ナダレ尾山の4等三角点名にもその名がある通り、ナダレ尾山から大量の土砂が流されて行ったに違いない。
 天下辻は、その大池の脇を通って三田へ向かう大切な道であったことが分かる。
 金剛童子山から東の丹生山脈は総じて平坦な山頂部分をもつが、谷筋はいずれも急峻であって、二次林の炭焼が活動した時代から度々、小規な崩れがおきていた可能性が高い。
私達はナダレ尾山から更に西へ、天ヶ峰(三角点)488mから、キスラシ山448mへと西進したが、踏み跡は次第に細くなって行くのがよく分かった。天ヶ峰は二次林の自然林がよく残った良い感じの山だった。キスラシ山の石取り場のうるさい大音響さえ気にしないのならば、この山脈の西部と同じ雰囲気を味わうことができる。
キスラシ山は、この名もナダレ尾山同様気になる名であったが、こちらは京都北山のローカルな山名にも同じものがあり、山の木が滑り落ちることに由来すると聞いた。それが自然なのか伐採後の現象なのか判断が分かれるがおそらく後者であろう。
 キスラシ山まで歩く人はさすがに少ないとみえて赤いテープを追って行くことになるが、それも足元の急崖と大音響が接近すると、ついに引き返すことになる。突然藪の下が抜けおちているから危険となるからだ。
 後で判明したが立入禁止のゲートが入口(出口)にあって事情を知らない私達は強引に石取り場へ降りてしまった。これを知った現場の人が車に乗せゲートまで送ってくれたが、何の注意がましい言葉もなかったのには我々が相当の年配者であったことによるのであろう。
こんな場所へ下るのは若くないのだから、冒険心もほどほどにしないといけないと思う。
 キスラシ山は大規模な石取り場であるのでやがて消滅することになる。その地域は大概多聞寺から有料道路の通る線の東側一帯となる。神戸電鉄の通る狭間が一気に広大な土地に生まれかわることになる。
 神戸市は、海と山を利用して全国的にもまれな不動産業を公的に行っている自治体とみた。

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吉野山
 吉野山は、先に「吉野」の地名があってはじめて成立する山名である。その吉野の発生地はどこか、これが重要なテーマであり、その解明によって同時に山名は明らかになる。本誌94号にて、地名研究家の網本逸雄氏が文献を渉猟して詳細な研究成果を発表され た。
 それは万葉集の古歌をもとに導き出されたもので、「現在の宮滝付近の野とするのが有力である」と通説(?)を踏襲するものだった。
 五世紀初頭の頃に応神天皇が吉野宮に行幸して以来文献的には宮滝が最有視されて今日に至っている。
 だが、宮滝付近の野とはどこか、地図を開いて検討するも適当な「野」は見当たらない。宮滝の上流域は当時「国樔(くず)」(国栖)と称する原住民が住んで居て行幸する天皇に酒・魚(鮎)など献上し歌を歌って口を叩いて笑った。とある。宮滝が神聖な場所である理由は吉野川の水門に相当するからで水神に対する絶対的な帰依と異民族の懐柔が重要 課題であった。
 現在も宮滝上流の新子(あたらし)に「国栖(くず)」の地名が残るが一帯のどこにも「野」に相当する場所を発見できないのである。
 野は先に本誌上に取上げたように平版な原とも盆地とも違って、山の裾野の部分である。山が侵食され削られた部分が谷筋に落下し拡大なスロープを形成する。その部分が南面すれば人間の生活圏として絶好の条件を提供するので、そのような恵まれた土地には必ず多くの人が住みついている。
 人の健康的な生活を保障するそんな土地は同時に食糧の生産にも最適であるから文化が芽生えて当然のことである。先にあげた原住民の国栖なども当然吉野川全域に魚の猟で生計をたてていたはずで大和政権によって奥地へ追い遣られたのではないかと推測される。
 大和盆地の古代民族の根拠地はいずれも周辺山地の「野」に当る部分である。このうち蘇我氏・巨勢氏・葛木氏が最も吉野川に近かった。
 人の生活を保障する自然の条件は先にあげたものの他に狩(陸と水共に)の利便性があげられる。それに外敵から守られることがあげられよう。それには次の条件が必要だ。まず眺望が得られ、自身は完全に身を隠す場所があること、万一侵略者があっても迷路のような地形に大軍の移動が困難で戦力減少を可能とする。これを箇条書きすると
  A 某団の規模に似合い発展可能な土地(広さ)
  B 住民の健康的生活が保障される(日照)
  C 農作物等食糧生産の拡大が見込める(肥えた土地)
  D 山川の狩猟と産物が入手しやすい、又その場所へ至便であること(産地への交通)
  E 外敵の侵入が困難な地形的特徴(山岳地帯)
  F 自然的災害が少ない土地(気候・風水害等)
 ざっと以上のようになるが、その条件を満たす土地を探すならば、現在の上市から下市へ至る間の吉野川右岸一帯となる。北は龍在峠の山脈であり南面する広大なスロープがゆるやかに吉野川岸に至り、目前には狩場としての吉野連山が控えている。この土地に開拓者がやってきたら間違いなくこの地に住居をかまえることになる。このような好条件は吉野川下流域でも得られるが(紀ノ川筋の右岸一帯)防衛的には丸腰に近く吉野にまさる土地はめったに発見できないのである。
 この土地に「吉野」の名を冠するのは自然の成行きであったのではないかと思う。
 人間にとって利用価値の高い土地、好ましい土地、それが野であり、更に当時の首都に近く政治的利益が得られることは何者にもかえ難いものがあったに違いない。
吉野は「ヨシノ」として全国に散在するごく普遍的な名称となる。沢名で例えば南会津の丸山岳の東から山頂に至る沢はいずれも困難で日数を要するものばかりのなかで、一本だけ長いが比較的通過しやすい沢があり、山菜取り、岩魚釣りなどが入っている。その沢が「ヨシノ沢」で、住民にとって好ましい沢であったことが実際にも証明されている。その他にも多数例を引くことができるが、登山的に楽で悪場が少ないことは事実であるが、それは二次的なもので、その第一は周辺住民が様々な角度から利用することに耐える だけの容量をもっているか、どうかである。
 従って、無視されるような小規模なものは除外されるべきだ。
 上市の北方に「野尻」がある。これが吉野の東の端で、その上方に増原があり開拓で増加した土地ではないかとみている。増原の東に陽原があり、更に東方の山上に「志賀」がある。この名は厳しい土地に共通しており、すでに地名からして吉野を外れている。
 上市の東に河原屋があり妹山がある。「忌山」で神奈備形の小山ながら原生林が保存されるが、この山は「疱瘡(ほうそう)」の神が祀られ三輪山と関係が深い。対岸の「背山」と共に吉野川の聖水で疱瘡(俗にイモという)をもたらす悪神を流す意で河原に「妹瀬」があり禊ぎを行なったといわれている。いわゆる塞の神で妹山・背山のラインで吉野川の聖水を頼り護る意がこめられている。
 紀州葛城町にも同様の妹山・背山があり、和歌浦にも小さい妹背山があるが、吉野と同様の役割を演じたものと判断される。
 古い時代の吉野は明らかに高取山・龍在峠の南山麓であり、現大淀町の吉野寺や吉野町山口の吉野山口神社などの存在によって確かめられる。
 吉野宮が宮滝に出来て国栖 (くず)の民を取り込み、吉野川の聖水を完全に支配する構図ができあがると対岸の山岳地(主に狩場であった)を吉野山とする等は全く自然の成行 きであった。
 文献的には七世紀には蔵王堂のある山頂まで、聖武天皇の時代には金峯神社あたりまで、更に平安時代には大峰山頂付近まで拡大して行くのである。
 この時代以後「蔵王権現」は全国の山へ進出して行くことになる。全国の蔵王の名を冠する山、あるいは吉野山は、蔵王権現勧請によるもので、その実数におどろくばかりだ。吉野と大峰修験との関係も「役行者」による吉野への信頼に基くものと思われ、宗教、文化、芸術等の一大センターとなり巷の絶大な求心力をもつに至り、時々の政治をも動か す力価さえもった。
 後醍醐天皇など幾多の政治権力が吉野を頼ったことは歴史に示されている。
 吉野の現在は人々の目が観光地としての吉野山と信仰の大峰山に向っているなかで忘れられ開発が進んでいる。吉野の桜に目を奪われる前に古代吉野の役割の大きさに改めて目を移してみたいものだ。

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比良山
 ずい分昔の話になるが関東のある大学ワンダーフォーゲル部から、春の比良連峰を一日で縦走可能か、との質問があった。「どこからどこまでのつもりか」との問いに全山、つまり武奈ヶ岳から蓬莱山までとのことであった。このとき「比良」は他郷ではずいぶん小粒に見られているらしいことを知ったが、たぶん小生達も他の山域のことを最初は軽く見積もっている可能性がある。
 情報不足ではあるが書店にはガイド本があって調べるつもりなら不自由はない。それでも情報提供を求めるのは、ガイド本を超える確かな情報を得たいがためである。  比良は関西にあって知らない人は居ないしよく登られている。そして「比良」の山名はアイヌ語の「ヒラ」(崖地)から来たものである。との説が流通している。そしてこの説に対して誰も異論を述べる人も居ない状況が続き、この説は定説化してしまった感がある。
 しかし、実際の地名研究の場ではこの説はとっていない。関西にアイヌ人が居た居ないとの問題より先にもっと有力な説があるからだ。しかし、その説自体も疑問があるのだが――。
 日本神話の有名な「黄泉比良坂」がそれでイザナキ命が死者の国である黄泉の国からイザナミ命に追われながら比良坂を越えて逃れたという話である。
 比良坂とは死者の国と現世との境にある関所のような所で、ここを通過することで双方の世界の者は手が出せない区境のことだ。
 神話世界では垂直に天上・地上・地下が設定されていて黄泉の国とは地下を意味する。すると比良坂とは地下世界から地上へ抜け出る坂道となる。「ヒラ」が水平で平らな板状の状態を指すだけでなく、場合によっては垂直のヒラが可能で特に日本神話は垂直の三段構成であるから一定の角度を有する面である。
 出雲や沖縄には海岸沿いに深い洞窟があり、若者は死者を葬ったとされ、これこそ黄泉の穴に違いなく、この習俗が神話に反映された可能性が高い。
 出雲風土記の宇賀郷の黄泉の坂や黄泉の穴というのは正しくこれにあたる。
 広く日本語のなかで「ヒラ」を追ってみると、意味する所は一定の中で共通している。それは大概角度をもった平面ということになる。崖地も一定の面を考えたようだ。  古代から続く日本語も源流を辿れば他の言語の影響下にあったのであり借用もあり得た。それが「ヒラ」にもあてはまる。先にあげたアイヌ語の「ピラ」ほ古朝鮮語も同じピラであり、更に沖縄でも(hwira)で類似していて極東の一角に共通する用語例の何かがからんでいるような気がする。
 実は日本人とは何か、何語をもって日本語とするのか、といった問題は未解決の部分が多い。古代の日本人とされる縄文人ですら一種族ではなく南や西や北からの移住者の混合であろうから固有の言語の混雑状況からどうして日本語が抜け出したのか興味深い。アイヌ語や朝鮮語で解く人は何でもそれで解こうとするので無理が生じる。縄文人といっても話す言語が何語であったのか明らかでないから古代日本語との関係にも疑問が多い。結局「ヒラ」は極東の各種言語に共通する部分があり、どの言語であっても大きく外れないので、どれがむしろ厄介なのだ。それでは実際の「比良」はどんな地形なのか知っておく必要がある。丹波高原の東端は花折断層によって区切られるが更に特徴的な大隆起をみせて琵琶湖に没する部分、つまり丹波高原とは異なった花崗岩によって成る南北役20キロにわたるY字形の山脈の総称で、これが比良連峰である。
 この山脈の表は東面となる。伊吹山と比良山とは琵琶湖における二個のランドマークタワーと言ってもよい。山名起源における視座は当然のこと湖岸から大津・和邇・堅田・真野などから山がどう見えたか、が手がかりとなってくる。大津・堅田・真野のあたりから北望すると湖岸へ急峻に落込む山崖がまるで学校の旧木造校舎のようにバットレスに支えられて北へ北へと打ち続いて行く。これは六甲の南西、鈴鹿の東面とそっくり同じ図柄である。古代人はこの特徴ある山脈に「ヒラ」を感じたのであった。だが、日本の有力な山脈のほとんどが先出の非対称、つまり一方がゆるやかに隆起し、片方が急崖となる地形をもっている。しかるになぜ比良にのみ「ヒラ」の名があ たえられたのか、それも疑問としなくてはならない。
 地名のおこりは文化の伝播状況と密接な関係がある。土俗的なものは細部に直接的な表現を用い、中央的なものは地域全体を包括する広域性が強く出る。これに対して、旅や交通に関するものは時に情緒的であり、時々感傷的ですらある。詩に登場する自然の多くは詩の作者の人間的な一面が投影されている。「比良」もおそらくそうした人々の内在観が表明されたものと思われる。別の項で比良にも姥捨伝承があったことを比良の第一人者であった故角倉太郎氏の調査で明らかにされたことを述べている。古代社会において比良にも今日の開発されつくされた姿からは想像され難い神秘性があったのだ。
 比良の南部に「アラキ峠」がある。荒木峠との表記もみられるが原意はアラキで漢字ではない。これは類推がゆるされるなら「モガリ」と合議であり葬送葬儀と言えよう。
古代の比良には現在想像すら困難な神秘が存在したのであった。京都の地名学者で有名な吉田金彦氏はヒラは人体語ではないか、とされ「古代人は山を見て、家や人体を連想し、それに家や人体と同じことばを当てることが多かった」(古代地名を歩く)と述べて更に「湖上から眺め湖西に暮らした古代人は比良山をいつもヒラ(側西、脇腹)から見ていたので、そのように命名したのであろう。比良は縦長く続く場合の、両脇の斜面という意味」結論されて明解である。
 だが その「ヒラ」なる言葉が、いったい何語であるか、の謎は解けていない。古代日本語と言うのなら、それは縄文人かアイヌ人か、そして神話時代に大陸から渡って来た大陸や朝鮮系なのか、沖縄や中国江南の言葉なのか、一向に明らかでないのである。更に問題なのは、それらの言語が類似している点である。先に記述したように、アイヌにしろ「比良坂」にしろ、人体・家屋などにしても、それらの言葉が、どうして類似しているのかが解明されなければ勝負がつかないし、いずれの立場にも敗者の烙印を押すことは出来ないのである。そこに地名調査の困難さと面白さが共存しているのである。

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「西尾寿一の部屋」へ戻る
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「私の空間」へ戻る
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