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初(はっ)ちゃんの世界紀行――吉田初枝
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もう一度、ウズベキスタンの旅 〔2016.09.06〜09.19〕
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 今年四月母を看取り、介護より開放された。いざ自由となると、もうこれが最後であるかも知れないと、ウズベキスタンを思い浮かべました。九州の友達夫婦と山の友の賛同を得て、計画をする。九州よりはソウルで待ち合わせをすれば、都合が良い。大韓航空のチケットは直ぐ予約できたのに、個人で得るビザは三週間もかかり、やきもきさせられる。出発前に、やっと届き一安心。ソウルよりウズベキスタンの首都タシケントには、7時間かかる。暗い空港では以前と同じ、自分達の荷物が、なかなか出てこない。最初の宿を予約して居たので、迎えの車を見つけ、換金所は見つけられずに、文無しで宿へと急ぐ。
 安宿の150年前は、キャラバンサライ〈隊商宿〉だったそうで、当時の服装や日常品、装飾品等は、古い家具の中のケースに保存している。今晩は寝るだけ、これで充分、宿の息子さんが、明日換金してあげようと言うので、信頼してお任せする。

  タシケント→リシタン村
 朝食はささやかでしたが、それなりにお腹一杯になりました。この宿の敷地をグルーと四角形に建物は有り、中心は芝生の庭になり、未だ青い柿やブドウが生っている。昔のキャラバン隊は、此処にラクダやロバ、馬を繋いで休ませたことでしょう。
 息子さんがナイロン袋を重そうに、私達の眼の前に、ドサリと置く。一人200ドルの換金をお願いした4人分の札束だ。ウズベキスタンのお金の単位は0が多く、1000スムが銀行換金では30円、ブラックマーケットでの換金は60円、倍額となる。銀行を信用できないと言うことは、政府を信じられない事です。夫々が均等に何束かの札束を、リックに入れる。何だか大金持ちになった気分。でも使う時の煩わしさを考えると、今から思いやられる。

 リシタン村の知り合いに、連絡して居たので、その人が差し向けた車が、迎えに来る。さぞかし早朝に出発したのでしょう、リシタンよりは5時間は掛かるそうです。街中より郊外に向かう。以前訪れた時より、大きな建物が増えていて、近代化は進んでいるようです。でも古い建築物は、ロシヤ的な企画的な感じがする。郊外は段々と畑が多くなり、時折道を遮断して横断する、羊の群れを追う遊牧民の姿も見られます。アングレンからカムチック峠を越すものと思っていたが、道路が拡幅されて立派な舗装された道になり、峠はトンネルになって見違えるほどに、とても楽に走ります。矢張りカザフスタンとの国境が近いので、検問が2回ある。検査は手書きなので時間が掛かる。帰路も同じでしょうか。軍隊や警察の人達が、硬い表情で立っているのを見ると、不気味なことです。
 私達が目指すリシタン村は、キリギスの国境近くの、フェルナガ盆地の陶器の村で有名で、 陶器に適した赤土が有り、天然の釉薬を使い、水色と緑色の細かい模様を描いた陶器は、日常品として使うのではなく、飾っておいた良いと思う。日本のお母さんとして、慕ってくれるホシヤハン(ホシちゃん)は1000年以上に渡って、陶器を作り続ける家系に生まれた娘です。3日間程お世話になる、ホシちゃんの叔父さんの家に着くと、彼女は結婚して、昨年生まれた一歳の娘を連れて、待っていてくれた。何という素晴らしい出会いなのでしょう。感涙にむせぶ彼女と私でした。彼女が母として、幸せな姿を見て一安心しました。
 私達に2つの部屋を準備してくれていました。この村には日本語を教えているノリコ学級がある。そこを見学に行く。沢山の子供達が起立して、笑顔で迎えてくれる。鹿児島からのリタイヤーの元教師が、ボランテイアで子供達に、日本語を教えています。日本の昔からの礼儀作法も、取り入れているようです。私達には気楽に日本語で、話して呉れればよいと言うが、急には何も出来なかった。ウズベキスタンの民族楽器を、見せてもらいました。楽しい一時でしたが、早々に退出して、夫々が自由にのんびりと過ごしました。夕刻には皆さんと御一緒に、美味しい夕食を戴きました。
昨夜、リシタン村からの星空は手に届くように近く、美しく光り輝きが地上に姿を見せる、夜空を見つめる余裕ができたのでしょうか。朝食はボランティアの方々と一緒に、旅談義で話は弾みます。旅の醍醐味は、こうして田舎町で、其処の住民との生活の中に在るのが、一番という結論でした。其の為には、清貧な旅を自由に計画して実行する、自分が健康でなければ、出来ないと言う事でした。
 9月5日に首都のタシケントから、フェルナガ地方のコーカンドまでの鉄道が開通したらしい。帰りを列車にしても良いなと思いましたが、1日に1本だけで、タシケント着が深夜らしい。車中の外の景色も見えないし、始発のコーカンドの駅まで45キロもある。私達には無理なようです。ボランティアの方々は、その列車でタシケントにお帰りになるらしく、ホシちゃんの叔父さんは頼まれたチケットを、駅で買っていました。駅の中に入らせてもらい、新しく出来た列車を見学させてもらう。流線型のスマートな作りでした。
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上左=コーカンド宮殿前     上右=リシタン村・ホシちゃんの嫁ぎ先でのホームパーティー
下左=マルギラン・繭から糸をつむぐ     下右=マルギラン・矢絣模様の布地を織る

 私達はフェルナガの観光に案内してもらう。コーカンド(コカン)の宮殿に行く。中央アジアでは、ブハラに次ぐ宗教的都市の中心であったが、帝政ロシヤに滅ぼされ、全ての建物は破壊されたが、唯一僅かに残ったのが、最後の支配者フダイヤル・ハーンの宮殿だった。今は歴史資料館と博物館として、観光を支えている。出入り口の階段で、小学生がお花を手に、何方かの誕生日のお祝いに行くところらしい。日本人は珍しいのでしょうか、向こうから写真を撮らして下さいと、私達は快く応じました。
 昼食はよく流行っているレストランに行く、夫々が頼んだものを戴くけど、美味しいことはありませんでした。地元の人々のモスク、ジャミー・モスクは内部の柱が素晴らしい。アザーンを読み上げる、ミナレットは低い塔でした。金曜日の礼拝時には、此のモスクには一杯の人々で、埋まるのでしょう。
 日本人の墓地がある。終戦後にソ連に強制連行された人々は、大勢が亡くなられたのです。死亡者の名前が記入されている。帰路友人達は、地元のバザールに立ち寄ったけど、私はモスクで冷たい水を飲み過ぎて、少し調子が悪く、部屋に帰りシャワーして、洗濯をすればほっとする。昼間の暑さは尋常ではなく、この暑さをものともせずに、働いている人には頭が下がる。
 今晩はウズベクの娘の嫁ぎ先で、夕食会があるそうです。私だけ一足先に行、家族に会い、懐かしい娘の母親と久し振りの再会、娘の部屋に案内されて、結婚式の写真を見せてもらう。娘の主人は此処には就職口は無く、若い男性はモスクワに出稼ぎに行くらしい。嫁ぎ先の住宅も四角形の大きなお屋敷で、真ん中が畑になり、夏野菜や果物が、沢山植わっています。ウズベキスタンでは兄弟の中で、一番末が親の家を継ぎ、両親と一緒に暮らすらしい。屋敷がこれだけ広いと、兄弟の家族も同居という事になりそうで、彼女の負担になるのではないかと心配です。友人やボランテイアの人達6人、ワインやビール持参でやって来る。ホシちゃん手作りのサラダ、ジャガイモと南瓜の煮物、ケーキ等、多くの果物は美味しいものでした。皆、陽気に歌って踊って子供たちまで、自然にウズベク独特な身振りで、クネクネと踊る何とも云われぬ艶めかしさを、子供の時から備るDNAを、持って生まれたのだと思う。
 リシタン村では子供達はみんな“お早うございます、こんにちは”と、通りすがりに挨拶をする。朝の散歩に近くの村のバザールに行って見ると、自分の畑での収穫した野菜や果物 を持ち込んで売っています。今旬の西瓜、メロン、ブドウが美味しそうです。朝食のデザートには、何時も西瓜とメロンガ付いてくる。日本の西瓜よりは、皮の白い部分が分厚いが、甘さは同じぐらい。1個が90円でした。
 次の日はシルクの産地マルギランに、連れて行ってもらう。コーカンドはロシヤ的なのに対して、此処はウズベク的な歴史を感じる町です。東西の交差点である、シルクロードの交易の場として、シルクの売り買いは、さぞ盛んであったでしょう。桑や綿畑が両サイド続きます。時折綿の収穫をしている労働者が沢山いる。植物の花から、あの柔らかい綿が採れることは不思議です。街路樹も桑の木が続きます。昔ながらのシルクの工場に案内される。繭から生糸を紡ぎ、それを染めて、民族服の布を、古い織機で織っている。昔母達が好んで着ていた、矢絣模様の布が織られているのを見ると、この地があの矢絣の発祥の地であると思います。絹の糸で絨毯も織られていました。大きなシルクの工場の真ん中には、ぶどう棚の下でお茶を飲みながら、談笑する職人さんたちは、のんびりと仕事をしている感じです。出口にはこの工場で織られた製品を、展示即売しているが、値札が無いのです。買いたい人の様子を見て、その都度値段を決めるのでしょう。係の人に値札を付けなくては、日本人は買わないですよと、アドバイスした心算ですが、相手はどう判断したのでしょうか。

  リシタン村→タシケント
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左=チョルスバザール     右=熱々出来たてのナン工場

リシタン村を去る前の夜、ホシちゃんが子供と一緒に訪ねて来て呉れる。“会うは別れの始め”とか、その日の来るのは寂しいが、彼女ならウズベキスタンの母として女性としても、これから先を逞しく生きて行けると信じて、希望を託すしかない。彼女の母親も早朝にも拘らず、別れを惜しんで来てくれた。お互いに涙の別れでした。
 朝早い方がラッシュを避けられると判断したのでしょう、6時出発で、タシケントに向かいます。今回の車は新車なので気持ちが良い。この国の車にはほとんどクーラーなしで天然クーラー。綿畑が地平線まで続きます、所々道の端では、西瓜ヤメロンが沢山売られています。ホルスタインの乳牛より肉牛の方が多い放牧があります。5年前よりは驚く程、道路事情が良くなっている。政府は強大な投資を道路整備に費やしている。検問は2回ほどで、出る時のリストが有るので、時間は短縮された。 
 タシケントの宿は、チエックインには早すぎるのに、入室させてくれる。明日はサマルカンドに、列車で行こうとする。チケットも取ってくれると言うので、多分コミションは掛かっていると思うが、予約に行く手間を考えると、安いものです。
 宿の近くの巨大なチョルス・バザールに、散歩も兼ねてブラブラと行って見る。緑色の丸屋根の斬新な建築物。流石首都のバザールだけあって人出も凄い。プラスチックの袋を両手に持ち、買い出しの人々の多さに吃驚してしまう、リシタン村とはえらい違いです。迷った時の場所だけを決めて、各自自由に歩き回る。食料、衣料、電気製品から生活必需品の全てが揃っている。私はこの国の主食のナンを、焼いている所で、焼き立ての熱いナンを買う。一口で忘れられない美味しさです。何を見ても興味のあるものは有りませんので、待合場所でナンを食べながら、人々を見ていますと、女性は肥満の人が多い、そしてこの暑いのに、ロングドレス、派手な模様と色物で、キラキラと輝くものを、付けているドレスが多い。洗濯するのは如何するのでしょう。頭からの被り物をしている人は少ない。足元までのドレスは、肌を隠しているのでしょうけど、慣れれば暑くはないのでしょうか。
     タシケント→サマルカンド
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左=サマルカンドの宿の庭    中央=サマルカンド レギスタン広場     右=シャーヒズインダ廟群
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左=シャーヒズインダ廟のひと休みの人々    中央=廟のタイルの美しさ     右=ビビハム・モスク
 次の日、早朝の列車なので、宿はサンドイッチを持たせてくれるが、見ただけで美味しく なさそう。駅までの送りは、ちゃっかりと料金を取る。駅では厳格なチェックが有り、駅員   か警察か分からない人達が2度、3度と検査をする。公共の乗り物は、決して写真を撮ってはならない。列車の外見はスマートに見えたけど、内装は古くお粗末でした。番号順で座ります。窓からの景色は、昔の農法で馬や牛を使って畑を耕しています。此処でもこの国一番の輸出産業の綿畑が続き、トウモロコシ、ヒマワリ等。小さな村も有りますが、カラフルでは無く白々しい建物ばかり、砂丘が続くところは砂塵が舞って、空もどんよりと曇っています。3時間30分でサマルカンド駅に着く。宿は伝統的な御屋敷スタイル、4人には広すぎる大きな部屋を貰う。此処も四角形に建築され、中心は豪華な池と庭園が在る。部屋の窓から見下ろせば、庭全体が見渡されて気持ち良い宿です。
 サー観光に出かけましょう。サマルカンドはシルクロードの中心の都市であったが、モンゴル軍の攻撃で、この都市はすっかり破壊されてしまう。でもアムール・テイモール王の時代には、その努力により腹興した歴史がある。宿で中心に出る近道を教えてもらい、近くのモスクを目指す。日差しが強く、道がデコボコで、下水道が崩れているので危ない。やっとノズラテイ・ヒルズ・モスクに着く。大統領の死を悼んで大勢が集まり、敬虔な祈りの集会がある。テロを警戒して警備が厳しい。私達はアラシャブの丘を目指す。此処もモンゴルの襲撃に逢う、一つの町が消滅する、未だ発掘には至ってないらしい。そこに行く途中、シャヒンダー廟に入る裏口が在ったのに、今は入れないようになっている。仕方ないのでウルグベク天文台跡に向かう。近くの警察に聞くと、もう直ぐだと言いながら、パトカーに乗りなさいと促す。1度だけサイレンを鳴らして笑わす。パトカーに乗せてもらうのは、初めての経験、驚きと嬉しい気持ちでした。天文学者であるテイモールの孫ウルベク王は、特に教育に力を入れて、その時代には多くのメセドレ(神学校)を建築した。王が遺した丸い天文台の基礎と、六分儀の遺構が残っている。此処は高台にあり市内がよく見える。シーズン中でしょうか、結婚したカップルが何組も記念撮影をしています。民族服は何処へ行ったのでしょう、白いウエデングドレスでした。
 タクシーでレギスタン広場に行く、此処がサマルカンドのシンボル的存在。見事に調和して堂々とした三つのメセドレが、歴代の王様やソ連時代から、今に至る迄の時代の流れを物語る証拠でもある。入場しようとすると、警備の警察が近寄って来て、チケットは7$だけど、5$で売ってあげようと言う。不正な事をする輩が居るのだな。内部告発は此処にはないのでしょうか。嫌な感じを受けたので、見るだけにする。中央アジア最大のビビハニム・モスクは天を衝くように、大きな丸く美しいブルー色の屋根を持っている、此れこそサマルカンドブルー、晴天の空の色の蒼さに溶け込んでいる。その正前にも美しいビビハニム廟も在る。本当にこの丸屋根の色は、忘れられない程、印象深い美しさです。
観光は此れ位にして、庶民の生活を見に、近くのショブ・バザールに行く。サマルカンドのナンはお土産にする位有名らしいが、分厚くて少々手強い。ナンこそ冷えると、何処のでも美味しくはない。西瓜やブドウを買って帰り、今晩は冷やして戴きましょう。
 この宿の朝食は豪華版でした。デザートは何時も西瓜だと、決まっているようです。今日はテイモール家の墓、シャーヒズインダ廟群に行く。車道から直ぐに大きな門から始まり、テイモール家に関係する11の墓の連なりは、夫々がモザイクのタイルで、美しさを競っています。暑さに加え登りは厳しい。ゆっくりと見物しながら、両サイドの見物席から、ウズベクの美人の品定め、若い時の美しさは、歳が往けばこうなるサンプルを、見ながら批評し合いました。彼方からも韓国ですか?日本ですか?と、問われます。慌てて日本人ですと強く言い返します。博物館に行こうとなり、タクシーを飛ばす。友人達は埃除けのマスクを買っています。アレルギーがある人は大変です。昔のユダヤ人の大金持ちの所有していた御屋敷が、博物館になっている。さびれて荒れ果てた御屋敷には見学者もなく、内装は豪華な壁があるが、動物の剥製も気持ちが悪い。係員にやる気がなく、早く終えて出て行ってほしいと言う態度。近くに巨大スーパーがあると言われて、見に行くが何もめぼしい物は無く、バザールの方が楽しい。タクシーで宿に帰ろうとするが、ウズベクの何かの行事があるらしい。何処の道路を遮断するのかを、政府は通知をしていないらしい。タクシーや親切な人が色々と、聞いてくれたのですが、結局は宿まで歩いて帰らねばならないらしい。困った事ですが、多くの人達に聞きながら、やっと無事に宿に帰り着きました。冷やしておいた西瓜やメロンブドウを戴いて、ヤレヤレでした。レセプションの人に明日の朝、ブハラ行の車の手配をお願いしました。目の前で時間、値段を紙に書いて残しておきます。後で約束を破られないがためです。

  サマルカンド→ブハラ
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左=ブハラ ラビハウズ前 新婚さんの撮影     右=ブハラのタキ

 朝食を終えると、もう車のドライバーさんは、玄関で待っていてくれる。ブハラのラビハウズ迄と、確認をして乗り込む。がっしりとした体格の30代の方、さっぱり英語は話さない。ブハラに行く途中、彼の自宅に寄って行く。両親と奥さん子供のいる極、普通の家庭のようです。私達女性2人に、深紅のバラを下さったけど、どういう意味なのか分かりません。綿畑が続きます。1時間位走った所で、急に車が傾いた。前輪の左の車輪が半分はずれている。幸い直ぐ近くに修理工場があったので、其処で直してもらう。其処で未だ何か不具合があったらしく、バックしてもう一つの修理工場?、タイヤを止めている、ボルトとビスが噛み合っていないらしく、旋盤でガッチリと、合うのを作ってもらう。炎天下私達は待たされる。もしタイヤが外れたら、危険な事故に逢っていたと思うと、冷や汗ものでした。時折トラックの荷台に、詰め込まれた牛や羊を見ると、屠殺場に行くのだと、思わず眼を伏せてしまう。矢張り此処はイスラム圏、豚の姿は見たことがない。砂漠のように何もない大地を、長時間進む時もあり、何だか不安になるけど、5時間位でやっと、ブハラの中心ラビハウズに到着する。以前泊まった宿と交渉して、2部屋を得ました。
 ブハラはシルクロードでは、文化の中心とされているが、此処は商業の中心であったことでしょう。此処では繁栄と衰退の歴史を繰り返している。その雰囲気が残っているらしいので、宿でゆっくりして観光に出かけます。
 近くのラブハウズは砂漠を延々と、越してきた商人達の憩いのオアシスであった。大きな池が有り、その周りを囲んでお茶を飲んでいたのでしょう。今もその面影はある。ナデール・デイヴァンベギ・メセドレは神学校で、正面の入り口のタイルに、イスラムの教義に反する人の顏が描かれ、偶像崇拝はタブーになっているとして、物議をかもしたらしい。神学校は四角な建物で中心は広場で、周りは色んな土産物屋さんの羅列で、呼び込みが激しい。最古の神学校ウルベク・メセドレの門の装飾タイルが眼を引く。そしてタキは、たこ焼きの鉄板をひっくり返した、ユニークな屋根を持った建物群が連なり、昔は此処でシルクロードを通って来た、珍しい品物を商いしていたのでしょうが、今では同じような土産物屋さんばかり、何時売れるかわからない、生活はやっていけているのでしょうか。多くの神学校がある、教育の場は其処しかなく、子供のころからイスラムの教えで、洗脳していったのでしょう。今日は此れ位にして、男性軍は伝統的な踊りを予約したらしい。直ぐ近くなので心配はないですが、夜の外出は控えています。

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左=アブドゥール アジス・ハン・メセドレの門    中央=ブハラ・ボラハウズ・モスク     右=カラーン・ミナレット

   昨夜はドイツからのツアーのお客さんが、夜遅くまで大声でお酒を飲んで、ハイテンションで騒いでいました。他の泊り客の事を思わないのでしょうか。朝食は地下の食堂で、ここでもデザートは西瓜とメロンでした。マゴキ・アッタリ・モスクやタキを通って、ブハラのシンボルであるカラーン・ミナレットに行く。何処からでも目立って見える位大きい。地下に10m,地上に46m,レンガの積み方で装飾している。砂漠よりのキャラバン隊の目印に、信者にお祈りを呼びかけるアザーンの叫び場所、敵からの物見の塔の役割もあり、そして死刑囚を塔の上から落として、死刑執行の役割もした。イスラム国にはミナレットは必要であった。チンギス・ハーンがこの塔を見上げて、帽子を落とし、拾うのに腰を折り曲げたので、この塔は頭を下げさせたから、破壊から免れたと言う逸話がある。地図を読みながら、アルク城を目指す。王の城は其の城壁の高さからも、威厳を示しています。モンゴルの戦いで滅びるまで、歴代のハン〈王様〉は残酷な政治を行い、城門前のレギスタン広場では、王に反抗した人々の、処刑場でもあった。門よりは登りになり、城内には入れるが、見るべき所は無い。屋上よりブハラの町を見下ろすくらい。道を隔て王様専用のモスクがある。前面の柱がクルミの柱20本で出来ている、池にその柱が逆に映る面白さ。
 中央アジアでは最古のイスラム建築で、世界の建築家には、一目置かれているボラハウズ・モスクに行くが、意外と遠い道程。暑い日差しを受け乍ら、大きな公園の中を抜けていく。その時だけの森林の陰には、涼しい風が吹いて気持ちの良い事。此処もレンガの積み方が、計算された美しさに、その当時の建築家の力量には感心する。近くに古い城も在るが、荒れ果てて見る影もない。宿に帰る時には大きな西瓜を抱えて、今晩の楽しみとする。
 宿で一休みをしてから、メインの廟やモスク、メセドレと反対側の、庶民の暮らす細い道を、くねくねと通って、チョル・ミナルに行く。分かり難い所でしたが、4本の蒼いタイルのミナレットが、屋根に突き刺さるように建っている。門番小屋だったそうですが、そのお屋敷を知りたいものです。内部は沢山の土産物ばかりを売っている。この国は価値ある建築物の中は、何処も全てが、観光客目当ての土産物売りに様変わり。宿では今夜はアメリカのツアーのお客さんが、中庭で騒いでいる。今晩は何時に騒ぎは終るのでしょうか。

  ブハラ→ヒバ
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上左=未完成のカルタ・ミナル     上右=アラクリ・ハン・メセドレ

下左=モスクの内部 メッカの方角に向かって祈る     下右=ジャマ・モスク 自然光で柱を照らす

 今朝はお客さんが多いのでしょう。バイキング形式の朝食。約束していた車は、時間を守 り、ドライバーさんはやって来た。サッカー選手のメッシによく似たハムサムボーイ、車は新しい。速度の加減を心得ている、何処でネズミ捕りが在る事を、よく知っている方のようです。ガソリンよりもメタンガスの方が、安いのでしょうか、長距離の車には使われている。今回も途中で少し待たされて補給する。前もって整備をする準備はないのでしょうか。
 全くの砂漠で、ほうき草が続いたり、ピンクの可愛い花(サクソーレ)が一面に咲いていたり、特産の綿畑も広大です。偶に樹々の繁みに、小さなコーヒーショップやレストランありでした。時折の検問ありますが、止められたことは無い。以前はオフロードで、泥ほこりが凄かったのですが、政府は道路の整備には、力を注いだらしい。私達が向かうウルゲンチ地方は、アムダリヤ川の翻ろうに合せて、都市がその都度移動した。ウルゲンチ地方のある一つの都市は、外敵からの侵入を防ぐ為に、二重の城壁で守られている、この都市はヒバにあり、その城壁の内部を、インチャン・カラという。最終日にはタシケントまでの航空券を求めておかなくてはならないので、オフィスに寄ってもらう。事務的な手続きは、全て遅いのに、ドライバーさんは辛抱強く待っていてくれる。この方はヒバの住民であるそうです。ヒバからブハラまでを往復して、その運賃を稼ぎ、ブハラからの帰り便で又運賃を、二重の代金を得ることが出来る。インチャン・カラに辿り着くのには6時間位掛かった。
 東門の傍の古いがとても大きな宿にする。近頃は安宿でも、エヤコンと冷蔵庫は備わっています。長時間のドライブで疲れたので、散歩をしましょう。近くに庶民のバザールが有りますので、興味津々で歩いてみる。外国人と見ればすぐに、重そうな袋を抱えて男性が、近くに寄って来る、6でチェンジマネーをしようと言う。闇取引である、警察に見つかれば、犯罪になるのは確かなのに、公然と行われている。
 今回の旅では、旬の西瓜とメロン、ブドウは毎日のように戴きました。冷蔵庫で冷やして、生野菜の補充に成りました。東西南北に門は有り、西門にはチケット売り場、神学校や廟にはチケットを持っている人は入れるが、内部には何もないのがほとんどですので、外から見るだけで十分、チケットは買いませんでした。
 観光のメイン通りには、イスラーム・ホジャ・メセドレとヒバで一番高いミナレットがある。此のミナレットに三人は登って行きました。暗い階段を登ったことがあるが、息苦しくて嫌な思いをしたことがある。キョフナ・アルクは牢獄、未完成の大きなミナレットのカルタ・ミナルは、手掛けていた王様の死によってそのままです。もし完成されていたならば、ヒバ一番の巨大なミナレットであったでしょう。パフラバン・マフムド廟は聖人のお墓で、庭に湧水があって、何かの御利益に与ろうと、人々はやって来るらしい。その付近は涼しい風が吹てくる。ジュマ・モスクとミナレット、モスクの内部をわざとライトを点けていない。外からの光により、薄暗い木製の柱の彫刻が浮き上がって来て、その雰囲気は神秘的でもある。昼間の暑さに耐えきれず、ひとまず宿で一服する。宿の人が薦めるレストランに行って見るが、まともなものはピザ位です。ウズベキスタンで何度か、レストランで食事をしたけど、美味しいと思ったことは無く、油濃くって自分には合いません。
 アラクリ・ハン・メセドレとタシュ・ハウ?宮殿は表と裏で繋がっている。宮殿には4人の正妻と40人の側室が居たらしい。正に江戸時代の大奥の様子だったらしい。此処のメセドレは大型のキャラバン・サライで、多くの商人がロバやラクダと共に、宿泊をしたのでしょう。その一角で歌って踊りを見せる一家が居ましたが、今日は誰も居ない。係の人が自分で編んだ毛糸の物を買ってほしいらしく、手招きをする。スザニセンターに行って見る。自然の草木を染料にした生糸で、絨毯やタペストリーを、若い娘達が談笑し乍ら作っていました。多分高価なものでしょう、此処も値札はない、買う気はないので、聞きもしない。
 夜は、何時も出かけないのですが、このインチャン・カラの夜景を見に、皆で散歩します。メイン道路から北門を抜けます。日本の月より大きく感じるのは気のせいかな、月の光に見つめられて、安全を感じます。昼間のあの大勢の土産物屋さんは、何処に消えたのでしょうか。久し振りの夜の散歩は、月の砂漠のロマンを感じます。

  ヒバ→タシケント
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独立記念碑

 旅も終りになった。ヒバの宿の朝食は意外にも、数が多く食べきれない。2人で25ドルなので、こんなものでしょう。レセプションの親子は優しく親切でした。早朝の涼しい間に、もう1度の散策をする。昼と夜の温度差は激しい、洗濯物は良く乾き、全く困りませんでした。幸い四人共に元気に旅が出来て、有難い事です。私も、もう二度とウズベキスタンに来る事は無いと思います、多くの忘れられない想い出をいただきました。
 ヒバの空港はウルゲンチまで行かねばならないので、あのメッシによく似たドレイバーさんに、予約して居たので安心して待ちました。昼頃に色んな国からの団体さん30人位の若者が、ドッと押し掛けてきた。今日のチェックアウトで良かった、また今夜も喧しい事でしょう。大体、中国人が一番礼儀知らずと、言われていますが、ヨーロッパのツアーの方達も、意外と人の事は考えない人も多いことだと、思い知らされました。
 タシケントに着けば、空港から宿に行くタクシー同志の、お客さんの取り合いに遇う。ドライバーさんを選ぶのは、矢張り強面より、優しそうな人を選びます。あのチョルス・バザールの近くの宿にしました。
 次の日のお昼頃、ホシちゃんの弟さんが、このタシケントを案内しましょうと、やって来てくれる。2台のタクシーで、この都市の主なるところを回ってもらう。先ずはテイモール広場、大統領府、財務省、独立記念碑、全てが広い通りにある。そして日本人がソ連時代に強制労働で造らされたナボイ・オペラ・バレイ劇場は、安倍首相の訪問に合わせて、すっかり改装されたと言う事です。日本との関係を良好にして、何かおねだりしたのでしょうか。明日は日本に帰り着くとは分かっていても、四人とも日本料理を食べたくなり、彼に案内を頼む、出てきた料理は韓国料理でした。その日の夕刻、関空向けて帰国しました。

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