初(はっ)ちゃんの世界紀行――吉田初枝
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ジプトへの旅  〔2010.3.17〜4.1〕
 エジプトは未だ旅していない。何となく抜けていて何時かはと思っていた。その歴史は途方もなく4500年も前より、あの驚異のピラミッドを造営し、高度の文明の発展をみる。恐れ多い国へ足を踏み入れることになった。相棒さん二人と深夜関空に集り眠たいのを我慢しながら乗り込む。カタール航空はドーハ(砂漠の中の灰色の低いビルの首都)にトランジットしてエジプトのルクソールに入国する。(乗っている時間は15時間)空港でビザを受領したいのに、何の説明もなく掲示してくれれば手間取らなかったと思うのに、時間がかかる。換金とビザが終りさあ、市の中心と思うが、市内行きのバスはないのでタクシーだ。この国のタクシーはメーターもなく、最初の値段設定が難しい。一番嫌な交渉の始まり。多分一般の人より高いと思うけど、観光に来たので、諦めも楽しみの一つとする。ガイドブックにはこの国はどんなことも、バクシシー(喜捨)を要求する、道を聞いても、何かの説明を求めても、それはお金を欲しがるらしいとか。旅行者達は気をつけなさいとの忠告だった。

 ルクソール
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カルナック神殿(左=スフィンクス参道と第1塔門、右=中庭・塔門・列柱室)
 ネットで予約したホテルはルクソール神殿のすぐ前、ナイル川も近く交通の便のよいところにある8階建ての堂々としたホテル。広々として気分がよい、冷蔵庫、熱いシャワー、ACあり、朝食のバイキング付、1泊1人1100円の格安。多分このホテルは当りだと思う。私達はすぐにカルナック神殿を目指す。ホテル前はバス通り、地元のマイクロバス、アラビア語できないが“カルナック”と大声で言えば“乗れ”との合図、地元の婦人が1ポンド(16円)と。3人分のバス代を前へ前へと手渡し、ドライバーさんに。
 カルナック神殿は多くの神殿の集まりの中で、アムン大神殿はエジプト最大らしい。その巨大さには驚かされる。入口から小さなスフィンクスが並び特に大列柱室に立ち並ぶ列柱の大きさ、多さは、口をあんぐり開けて見つめていると、首が痛くなる。どこまで続く神殿や礼拝堂の内部、外部の壁に謂れのありそうなモチーフの壁画が彫られている。警備の人がすぐやって来て説明しようとするので、それをかわすのも一苦労。月給をもらっているはずなのに別のポケットマネーにしようとする。日本人の観光客は甘い人が多いので、彼等のカモになり、お金をせびられるらしい。聖なる池付近にはまだ遺跡を整理していない、ぐちゃくちゃのまま。繰り返す歴史の中で増築、改装、自然災害は人間世界の権力の歴史と同じこと。 私達はホテル向いて、ナイル川岸を歩いて帰り、ルクソール神殿と向かう。地中海より発展したナイル川下流のデルタ地域から、エジプト文明が展開した。ナイル川が重要なもの、文明の発祥地には川のデルタの肥沃な大地が要素となる。人が生きる為には水がかくべからざるもの、深い古代の歴史の始まりのナイル川、岸辺の風は心地よいさわやかさ、ルクソール神殿はカルナック神殿とかつては一つの神殿として続いていたと知る。アムン神殿の付属神殿であった。正面のオリベスクが1本しかない。パリのコンコルド広場に確かにそれはあった。エジプトから色んな国へと国宝級のものが流出している。英国博物館には相当多量のものが展示されていた。私は国として恥ずべき行為だとある人に嘆いたら、その人はエジプトにあれば、政変に遭いなくなっている、他の文明国にあればこそ、空調設備のあるところで大切に保管されているので存在しているのだと言われれば、確かにそうだと納得する。
 ルクソール神殿の大列柱廊もすごい並び、ラムセス二世の坐像、立像が何体もある。大きな頭部もある。多勢の警備の人達が何をしているのやら、ブラブラとここにも居て、隙あらば1$とバクシーシーをねだる、お金に汚い人達、用心すべきと腹をくくり、その手にのらないようにする。宿の近くのスークを歩いてみる。同じような土産物の店ばかり、客引きが激しいこと。明日の西岸の観光を計画して眠る。


 ルクソールの西岸
egypt1003_3ルクソール神殿
egypt1003_4ハトシェプト葬祭殿
 泊った宿の朝食は非常に豪華なバイキング。私達はお昼のサンドイッチまで作って、2食付きにする主婦の知恵を発し、節約と便利さで。西岸のツアーはあるらしいが自分達で行きたい。昨日昼の暑さは嘘みたい、早朝のナイル川沿いは肌寒い。ナイル谷に気球が色とりどりと昇っている、数えると8個も。気球ツアーがあり、上からルクソールの街を見物するらしい。私達は東西を往復する庶民のフェリーに乗る。あっという間の西の船着場、地元の通勤客ばかりで女性はほとんど見ない。男性は長いドテラのような民族服(モロッコではジャバラと言っていたが)労働には向かない服だが、メタボ体型には楽かも知れない。エジプトの男性は背丈と骨格がガッシリして、髪の濃い美男が多い。
 岸辺にはタクシーが近づいて来て、避けるのも一苦労、地図上から見どころへ歩くも3キロ位だ。3人は麦畑の中を気分よく歩き、しっかりとその風を感じながら進む。向こうにナイルの谷が見える。途中ロバの荷車さんが、何となく自然な態度で3人を乗せてくれる。ヤッターこれに乗りたかった。子供の頃の郷愁があり小学校の帰り、知り合いの叔父さんにいつも乗せてもらっていた記憶がある。旅の想い出の中の風景と一致した懐かしさ、下車する時、こんな時は心づけを自分から渡したくなる。メムノンの巨像前で西岸の見どころは始まる。かつてカルナック神殿より広かったという操祭殿跡に巨像はセットで坐っている。やせた野犬が何匹かウロウロしているのが悲しい。
 王家の墓に入るのに、この国の物価に比べて高いチケット代、京都の寺の拝観料も何時も高いと思うのに(宗教法人は税を払っていないので)腹が立つが、ここはそれよりも高い。沢山の観光客の姿に圧倒されそう、夫々の墓の前の行列を見て、すぐ入れる墓にしようとする。ツタンカーメンの行列が一番長い。でも中に入っても壁画だけで、王墓の副葬品はカイロ博物館に展示されているそうです。王妃の谷でも美しい壁画は、ネフェルタリ王妃の墓、その当時の様子やあの世の理想の姿を克明に色彩豊かに描かれている。大きな谷には穴が開いていたり、もっと発掘の余地あり、約800墓位は発掘されたが、その多くは盗掘されている。本当に大勢のガードマンか警察か分からないような人達が多い。墓に入る時でも持ち物のレントゲン検査あり、イスラム国家では治安が不安定だから、高い入場料は警備人への月給に消えてしまい、国民の福祉にはまわって来ないでしょう。
 私達は今回の旅では余りにも沢山を観ないことにしようと約束していました。主なるものだけにしょう、老齢化した頭にはパニックになりやすので。タクシーでハトシェプト女王の葬祭殿に向う。小さなトロッコで建物の前まで、日差しが強い、この強烈さにぐったりしてきた。崖を背景に三段のテラスのモダンな造り、現代にも通用するのではないかな。内部の壁画もとても美しい。列柱のユニークな様は訪れる価値あるものでした。船着場までをタクシーで地元の舟でナイルの風の香りを味わいながら、のんびりと宿に帰る。近くのスークに行く、土産物と食品のスークに分かれている、勿論食べ物の方が好み、ターメイヤ(豆をつぶして団子にして揚げる)が一番の好物になりそう。今は旬かな?果物はネーブル系のミカンがとっても美味しいものです。宿にテイクアウトして疲れ防止のビタミンに毎日いただこうかな。


 ナイル川中流域の遺跡 ハトホル神殿
 ツアーはデンデラのハトホル神殿とアビドスがセットになっているが、私達はそんなに沢山見たくない。ホテルの人に聞くとデンデラの方が良いとのこと。それならば自分達で行くことにする。駅で列車に乗ろうとするチケットを買う窓口は長距離前売りだけ、迷うことだらけ。列車の中で買えということらしい。列車は埃だらけ、窓も一度も拭いたこともない位汚い、涼しい風が入って来るが周りの埃も一緒に入って来る。丈の短い日本とは異なる品種の麦畑が続く、この国の主食のナンによく似たパンになる。私達はエナ駅で降りるとスカーフで頭を包んだ女性軍がすごい数、群集がどこかへ散っていくまで待って、いざタクシーと交渉、何人かとトライする。(目的地の往復とハトホル神殿での待ち時間込みでいくらかを試みる)よく目を見て人柄を見定めてやっと決定する。
 ローマ支配となる前のプトレマイオス王朝時代のエジプトのヴィーナスにあたる女神の宗教的建造物である。又しても入室持ち物検査のレントゲン、何時にここを出るのかも云わせる。入ってみないと分からないじゃんと言いたいが。ハトホル神殿は保存状態がほとんど完全な形で残っている。建物は堂々して、コプト教会跡もあり、列柱室の柱の上がハトフル神の顔になっている。本殿には壁一面天井までびっしりとレリーフが描かれている。ここで一番見たかったのは南壁に、クレオパトラと息子のカエサリオンがはっきりと刻まれている。クレオパトラの肖像は残っているものは少なく珍しい。私達は写真を撮っていると、すぐガードマンが寄ってくる、彼等が言い出す前に、バクシーシーと言って、その場を笑ってごまかすことにする。神殿内部の壁画より古代の人々が何を言い伝えたかったかが、画の解説でできれば分かるでしょうと思うが帰国したらそのような書物を捜してみようと思った。
 時間的に効率よく人出も少なかったので気持ちよく観光できました。駅に戻れば列車は3時間待ち、それならバスターミナルまで行って、ルクソールまでバスで帰る。ホテルでのんびりとして、今晩は日本食でもいただこうかな。時折時間的にあのアザーンの声がマイクから流れる。イスラム教の祈りの声、ああここはイスラム圏だと気付く。相棒さんは屋上のプールで泳いでいる。この宿からの夜景のルクソール神殿は華やかな美しさです。


egypt1003_5クレオパトラ(左)と息子カエサリオン(中の小さい像)
 アスワン
 三日間ルクソールで早く起き早く眠る習慣はしっかり、夜は外を歩かないしテレビも意味不明だし、することがないので、自然に早く眠るようになれば、早く起きる。朝食は何時も一番早いお客様です。この宿は本当によい思いをさせてもらいました。去るのが残念です。今日はアスワンに列車で向う。列車の一等車で3時間30分(680円)公共のものは安い。三列でゆったり、リクラインがしっかり利いて前にテーブルもある。ナイル川沿い鉄道は走りヤシの樹木、バナナ、サトウキビ、麦、観光産業がメインかも知れないが、ナイルの大河はこの豊かな恵みを惜しみなく与え、一方では農業国でもある。ロバが荷車を引いているのをよく眼にする。人間があの小さなロバの上に乗っているのを見れば細い足で一生懸命な姿はあわれです。ロバの足に蹄鉄はないと思う。
 アスワンはもっと南へ移動したから、日光が強烈です。宿は駅の近くを捜すがある程度の満足度で決定した。便利だけのもの、要求のバス・トイレ・冷蔵庫・ACありで1人200円朝食も付いている。すぐに相談。アブ・シンベル神殿に行くには、ツアーでなければダメということ。それならということ宿で明日へのツアーに申し込む。早朝3時に集合ということだ。
 アスワンには巨大なスークが続くらしいので、三人でまず見物にくり出すが、やはりルクソールと同じような土産の店ばかりで、“ワンドラー”“安いヨ、安いヨ”と日本語が飛び交う、それだけ日本人が観光客として沢山来たのでしょう。アスワンの人々は若干皮膚の黒さが増して、顔が丸く小さく、眼も黒目勝ちで可愛い顔立ち人が多いと感じます。小さなレストランで好みではない食事を終え、今晩も早く休み明日のモーニングコールを2時に頼む。
 心配していた2時起きも、三人居れば誰かが目覚めてゴソゴソすれば皆起きて来ます。簡単な朝食をホテルが準備。外は真っ暗の中3時間位で、あの世界遺産、アブ・シンベル大神殿の入口に到着。チケットを買って又身体中持ち物の検査。早朝でも世界中よりの観光客はゾクゾクと集る、すごい数で1日に何十万人でしょうか。色んな国の団体さんが夫々に小グループに分かれて説明している。日本人グループの近くで耳を欹てる。3200年も以前の世界最大の岩窟神殿、その巨大さには圧倒されそう。ラムセス二世はファラオの夢をこの岩山に表したものでしょうか。それだけ、巨大な権力と繁栄が、彼の野望を可能にしたのでしょう。前面に彼ばかりの坐像が20mの高さあり4体も並んでいる。ナセル湖の辺にあったこの神殿がアスワン・ハイダム建設時に水没の危険にあったものを、1036余りの石片に切り解体し元の位置より60m上部に移設した、その工事に68年も費やした。全て耳にすることは途方もない夢のような現実でした。
 神殿内部にも、ラムセスの像は神として奉じられ、余程彼は自己顕示欲が強かったのでしょう、壁画も自分の姿のレリーフに残した多くの部屋がある。この神殿の隣には王妃ネフェルトイリの小神殿もすばらしい、内部も計算づくの設計がされている。夜には大音響とライトのショーがあるそうだが、人が作るショーには興味はないしこの地に泊まらねばならぬ。
 アスワン・ハイダムを見に行くが左右その巨大さはすごい。黒部ダムのように高いところから激流が見られるのだと思っていたが、多分地下にあるのでしょう、何も見えない。ガッカリする。
 帰路をイシス神殿に行く。フィラエ島に行かねばならぬので、グループの或る人がボートを交渉して、往復と見物中待ってもらうこと。古代エジプトの聖なる島の最も重要な建物はイシス神殿。グレコ・ローマン文化の影響も色濃く残っている、外柱廊は華麗な姿で現存する。コブトの十字架が残っていたり内部も各時代の背景が壁のレリーフが繊細に描かれている。ここも水没の運命にあったのを隣の島に移転した。
 アブ・シンベル神殿の帰路車の中から切りかけのオベリスクを眺めただけだったが、もうこれで充分という感じでツアーの人々は皆疲れてしまい、宿の近くでお別れしました。私達は近くのピザ屋さんでエジプトピザをテイクアウトして、今夜の夕食としました。私達が2日泊まった宿は別段悪くないがナイル川沿いの少しデラックスホテルに移って、骨休めしようということになり、明日のホテルを予約し2日先のカイロ行きの航空券を決めて求めました。
 私達は昨日予約したホテルに引越しをする。各国からツアーのお客さんが利用するホテル、全て設備が云うことなし。一幹ずつのキャビンタイプ、ナイル川沿いの緑豊かなところにある。庭の木にロープを張って各自洗濯、身体も気持もゆったりする。やはり星4つのホテルはよいナ。でも毎日これでは慣れが怖いけど、今日はフルーカ(帆かけ舟)を借り切って近くの島に行こうと計画していた。ナイル川沿いには大型フェリーが何隻も停泊している。豪華ナイルクルーズの船舶なのでしょう。カイロやルクソールから2、3日かけてやって来て、ここからは川幅が狭くなるのでバス往復になるそうだ。それにしてもすごい数である。
 スークに行ってあの美味しいネーブル系のミカンを求める。バナナは美味しくないしイチゴはどの果物屋さんでも色が変色している。主食のナンは出来たての熱々はよいが、さめるとダメです。スナックのコシャリは試してみたが好みではない。この国の食事は全て期待はずれでした。
 ホテルの人に聞くとフルーカは風がないと止まり時間ばかりかかって、エンジンの付いた舟の方が時間的には効率がよいヨという話を聞くと、それではそうしようと思う。公定料金はあるがないようなもの、ホテルで紹介してもらって、エンジン付きの舟を雇う。船長さんは自分はヌビア島出身のヌビア人と胸を張って言う、彼なりの誇りを持っているようです。まずはエレファンティ島に上陸して博物館を見学し、発掘の途中であるクヌム神殿を。ナイル川沿いに2ケ所あるナイロメーター(ナイル川の水位を測定する)のところまで降りていき確めて、キッチーナ島は熱帯植物の植物園らしいが通過してもらう。そして岩窟墳墓群もアガ・ハーン廟も入室できないと聞けばそこもパスしてヌビア村に上陸する。船長さんは村の友人を呼び、トラックタクシーで村を回ってくれる。この村もロバさんが大活躍している、古い村には土造りのヌビア語を話し、独自の文化を残しているらしい。でもその家が色彩的にユニークな色目、ある1軒の民家の内部を見せて戴き、お茶をごちそうして下さって、その村を去る。ゆっくり観光ナイル川の舟の上で、さわやかな風を身体一杯に受けた。あの風の香りが忘れられない想い出となりそうです。たまにはデラックスのホテルは身体のリフレッシュ。スークもこの日がアスワンの最後の日になるので、夜に出かけるが、欲しいものが何もない。


egypt1003_6イシス神殿
egypt1003_7ホテルのテラスより(中央の赤い建物は考古学博物館)
 カイロ
 ホテルでタクシーを頼むと、とんでもなく高いことを言う。立派なホテルも相場を知らないと思っているナ。通りのタクシーを交渉して普通の価格で空港に行く。アスワン空港は砂漠の中、1時間30分カイロに到着。市内をバスで行くを選んだが、車のラッシュで動きがとれず、退社時間でもないのに、もしタクシーでも同じことだったと思うし、帰国時も余裕を持たねばと思う。最終地点で降りてやっとホテルに。カイロのホテルは市内の中心タフリール広場の目の前、メトロのサダト駅、考古学博物館の近く。テラスからはカイロタワーも見える便利な宿。昔ながら危険なエレベーターもあって、こんな愉快なことはない。

egypt1003_8カフラー王ピラミットとスフィンクス
 ギザのピラミット
 バスNOが読めない。ギザのピラミット行きのバスは357番、若い男性が自分もその近くに行くので御一緒しましょうと。多分番号は違うと思うがその人を信じて乗り込む、でも私達は一つオーバーして降り引き返す。ピラミットはもっと遠くの砂漠の中にあると思っていたのに、人の住む住宅街を終ればすぐ近くに在る。国土の90%以上が砂漠だというエジプトならでのことと理解する。巨大な三大ピラミットは少しだけ高所になっている。砂漠の中にデーンとその巨体が聳える姿は子供の頃から絵本で見たものが現実化した姿だ。夢ではない本物だ。4500年前、イエスキリストの生まれる2千数百年も前より、この地に腰をすえて、歴史の変遷を見て来たのだ。墓であったことは確かでも、古代世界の7不思議に入っていて本当のことは今も謎らしい。
 最も大きいのはクフ王のもの、真中は小振りだが均整のとれた美しいのはカフラ王、三つの中一番小さいのはメンカウラー王のもの、下から見上げれば巨大な石積みが人の力でよくぞこれ程のものが古代にできたものだ。朝早くまだ観光客は少ないのでゆっくりできたが、見物している間に段々暑くなって来る。ラクダ屋さん馬屋さんが乗らないかと誘いに来る。ガイドブックに一旦乗れば最初の約束金をどんどん高くし、OKしなければ降ろしてくれないらしい。ラクダの背はとても高く、しゃがんでもらわないと降りられない。ラクダも人もこれからの季節、暑くなるので大変だな。時折ラクダが変な声で何かを訴えている鳴き声を聞くと、身が縮まる。
 クフ王の墓の脇にある女王の墓の入口よりピラミットの内部に入ってみる。傾斜の激しいハシゴだったり、段々だったり大変な作業。やっと最終地点まで着けば、具体的に死後の世界を美しい色彩で表したモチーフが描かれている。中は蒸しブロ、やっと外に出てスーとする。
 カフラ王の墓を守る人面獣身神のスフィンクスは、鼻が少し欠けている。どこを見つめているのか、可愛い顔をしている。太陽は容赦なくギラギラと照りつけ、休息所もなく警備の小父さん達も観光客も暑さにやられそうです。
 私達は昼からはハーン・ハーリというエジプト観光客が必ず訪れるという土産物屋街を興味半分で覗いてみましょう。ここは一番大きなスークだらけの街。売り手のパワーに負けそうです。残念ながら欲しいものが何もない。
 宿の7階の部屋からタフリール広場がよく見える。信号は珍しくあるものの、横断する人々は車の間をスイスイと泳ぐように渡っていく、多分子供の頃よりこうして育ったのでしょうけど、勇気のいること、地元の人の横にくっついて渡ることが一番よい方法でしょう。人々は笑いながら助けてくれました。
 朝食を終えて9時開門のエジプト考古学博物館の前で待つ、開門と同時に私達は2階の3号室に入室し、スタンカーメンの黄金のマスクに会いに行く。以前日本で見た時より小振りの感じです。美形の若き男子と王墓の財産の副葬品は所狭しと展示してある。少しの時間3人だけで独占して楽しんだ。多分メインのこの部屋は観光客で一杯になるでしょう。3時間ほどをガイドブックと首びきで1階、2階とメインのものだけを見て回り、昼頃になればすごい人の数。私達はホテルが近いので休憩に帰り、地下鉄に乗ってオールドカイロ見物に行く。
 オールドカイロ(メトロ駅はマール・ギルギス)。地上は車が混んでいて、いつもラッシュ時なのにメトロは速くて便利で安い(どこまで乗っても16円)。カイロ発祥の地は歴史を感ずる重厚な建築物ばかり、アラブ人により築かれ、イスラム化された。以前はコブト教のキリスト教が根づいていた聖ジョージ修道院、コプト博物館、荘厳なイスラム建築のモスクが林立している。ここにはイスラム教の古き姿がある。道路の片隅でエイシというパン屋さん、(ナンの小形をふくらませたもの)頭に出来たてを乗せて運んで来て次々と売っている。試してみると熱々ならば美味しいです。
 シナゴークを歩けばここにもロバと馬が行きかう昔の古い町の姿があるが、埃だらけの町です。清潔そうな店を見つけて昼食のターメイヤセットをいただく、ターメイヤだけは好みに合います。エジプトでは口にあうものがほとんどない、毎日何をいただこうかと悩み、持って来た即席米とミソ汁が頼みの綱でした。
 野良猫が多い、古代の遺跡の中でも猫のモチーフは沢山ある、神聖化されているのかも知れない。日本の猫と比べると首が少し長い気がするが、やせて毛並の艶が悪く、人の手が加えられていない。ブラシをかけてあげたい気持です。小さなロバのあの細い足を見ると荷を引くためだけに生まれ来て、死んでいくようで悲しくなる。


egypt1003_9白砂漠
egypt1003_10白砂漠のマッシュルーム
egypt1003_11黒砂漠
 砂漠ツアー バフレイヤ・オアシス
 私達は帰国までまだ日が残っているので、シナイ半島か西方砂漠に行くツアーに入ることを計画した。1泊の方を選びバフレイヤ・オアシスの砂漠ツアーを旅行会社で申し込んだ。ガイドブックに書いてあるより随分安いナと思っていた、やはりそんな甘くはない。バウィーディという村までは庶民のバスで行くべしで、そのバスターミナルまでを旅行会社の1人が誘導してくれる。大型のバスはピラミットの横の砂漠ロードの一本道を4時間位走る。土地の改良は進んでいるが、緑化対策は中々進歩が遅い。郊外にベッドタウンもできつつある。砂漠を人の住める宅地にするには途方もない努力が必要。茫々とした砂漠が遠くまで広がる道を、唯走り去る。砂漠は味気ない寂しさの続きを感ずる。
 バフレイヤ・オアシスの中心地バウィーディ村に着く。この村は砂漠ツアーのお陰で人気沸騰中。清潔さはなく、埃っぽい田舎村。お昼を戴いてからジープにテントや食料を積んだドライバーさんやって来て、砂漠に入る村と政府の二重taxを払わされる。私達は1泊だけを選んだ。2泊して近くの噴基群と温泉の人々と別れ、私達3人とアメリカの方1人の4人セットともう1組の日本人夫婦の2カップルのジープが同じ行動をする。黒い丘が沢山ある地帯を通過して、先ずクリスタル砂漠に行く。大きな岩山が透き通ったクリスタルの石が続いている。拾っている人達も居る。砂漠はかっては海底だったので、アンモナイトもあるでしょう。海の底を彷彿させるアカバ地域と続く。今晩は白砂漠に泊まると彼は言う。丁度白砂漠に夕日が沈む頃、白砂漠の色んな形が、想像すれば鳥、ライオン、コブラ、マッシュルームに見える。彼は無口な人か何の説明もなく、次々と決まったことをこなしていくだけの人。なだらか一角に2台の車をL字型に留めて、内側の車に大きなタペストリーを張ってそこに汚いカーペットを敷く。これが今晩の宿。テントには屋根があると思っていたら雨は20年も降らないので、夜空の星と月を眺めて眠るのも乙なこと。
 彼はベドウィン族34才とか、私は彼を40代と見ていた。老けて見える、エジプトの平均寿命は50歳とか、無理もないナ。空気に水分が不足しているからか皮膚がカサついて来ている。京都の湿った空気が恋しいナと勝手なことを思ったりして。彼はプロパンガスを用意したり、焚き火を炊いたりして料理にかかる。大きな水タンクより深いバットの中にジャガイモ、人参、玉ねぎ、トマトを入れて水に浸し、次々と手のひらの上で切っていく。乱切りした野菜を厚いナベでトマトペーストを入れて煮ていく。具沢山のトマト味スープ出来上がり。お米を油でよく炒めてその中に熱湯を入れてゴハンをたく。(ベトウィン風の米の炊き方)チキンの手羽先に味付けしてアルミホイルに1つずつ包んで焚き火の燃え殻の中に入れて蒸し焼きにする。しばらく待てば今晩のディナーの出来上がり。チキンが苦手な私は、さもありなんと魚の缶詰を持って来ていたのでそれで済ます。寝包を貸してくれたので、流れ星に願いをかけ、明るい月明かりの中、何の音もない静寂の砂漠でぐっすりと休みました。夜遅く砂漠キツネが残り物にあやかろうと出てきたらしいですが、その姿は見えなかった。さすがにベトウィンの郷里は砂漠、砂の上に薄いマットで気持ちよさそうに眠っていました。
 朝食も簡単なものだが用意してもらい、帰路は黒砂漠をゆっくり見物、ブラック山に相棒さんは登っていました。砂漠に入る時も出る時もチェックが厳重にある。一緒したアメリカの方に、自分の国を聞かれたらカナダと言うように指示し、練習もさせる念の入れよう。この砂漠は不思議なことにリビア砂漠と名前がなっている。国境が間近にある。彼は夕べの残り物を整理して、国境の管理する人々に現物支給している。小さな賄賂かな?エジプトには本当に警備の人員が多い。今まで訪れたどの町にも過剰と言われる程に多い、イスラム圏の世情でしょうか。宗教は心の安らぎを与えるものであって欲しい。疑いばかり多くて国防費が嵩むのみ。
 バウィーディ村に帰り、私達は一般のバスでカイロに帰りました。帰りがけに砂漠に入るtaxを支払った時のレシートをドライバーさんが私たちに渡し忘れていて、それがないとバスの中での検査があるそうで、それを頂くまでが大変でしたが、何とかなりました。


egypt1003_12ファイユーム
 ファイユーム
 今まで泊っていたホテルに帰りほっとしました。次の日はナイル川の灌漑により、古代より続く農村地帯に行こうと計画する。やはりギザのピラミットを又通過して、アフレイヤオアシス行きで通った同じ道から途中で変わった。王朝時代から続くカイロの食料の宝庫である。バスの前面に坐っていたので、140kmほどもスピードを出している。ファイユームの中心に着いても、言葉が通じない、ここは観光客が来ない処なのか困ったこと。やっと若者が助けてくれてタクシーをチャターしてカルーン湖へ、私達の行きたい先を分かっているのかどうか、アラビア語で話しかけてくるが分からない。農村地帯はいずこも同じくのんびりしている。沢山の牛達が放牧され太陽に照らされピカピカに輝く。健康そのものの牛達、羊の大群、麦が色づき収穫も間近、サトウキビも育っている。ここでもロバが子供達のお手伝い、荷物や牧草を運んでいる。庶民の生活の道を通ってカルーン湖へ、砂漠の中に突然現れた塩湖で磯臭い。漁港らしく立派なホテルや、いかにも高そうなレストランがある。この町には赤レンガを焼いている工場をよくみる。
 ラフーン遺跡に行ってもらうが崩れかけたもので、何も見るべきものはないらしい。上部は泥レンガで造られてピラミットの形をして、田畑の中から、ひょっこり姿を現した。もっとしっかりしたものがあると信じてここまで来たのに、ガッカリしてしまう。ドライバーさんは最初に決めた値段を別れ際にはもっと出せと言う。追いかけて来たりするが、地元の人が何とか宥めてくれた。私達はカイロに引き返す。
 ホテルの情報でイスラム教の一派で神秘主義に起源のあるスーフィ・ダンスが一週間三回ある。今晩あの騒々しいハーン・ハリーンの市場近くのスルタン・ゴーリーの屋内ステージであるらしい。一晩位はディナーショーに行こうかという話しはあったが、私達の服装では入れてくれないのではないか。靴もスニーカーだけ。私達はスーフィ・ダンスがお似合いということになり、それに決まり晩の8時開演だが、よい席を得るには2時間前に行くべし。私達はタクシーを飛ばして駆けつける。
 このダンスは修業のひとつらしいがダンスというより、サーカスの部分もある。多くの演奏家が笛、タイコ、歌、見事な舞が長い大きなスカートの男性達により一糸乱れず、回転を繰り返す。色彩を色々と変えて、次から次へと回転の舞、見物している私達の方が目が回りそうでした。夜遅くは街中を歩きまわらないことにしているのですが、このダンスが終了してから帰路はカイロの中心街を通る。夜遅くても買い物客で、ごった返している。不夜城の如く眠らないのでしょうか。
スーフィ・ダンスは余韻が強く、次の日の朝は頭がぼんやりしている。早朝より地元のスーパーに行ったり、自然の材料だけで作った石鹸を求めて、ショッピングに行く。 エジプトの深い重い歴史、王様の権威を示す遺跡を私達は古代の人々が遺した栄華の跡を少しだけ訪ねた旅でした。京都の桜はもう散ってしまったであろうと諦めていたのに、丁度満開の頃でした。

 一時の逢瀬の如きときめいて 肩にひとひら乱舞の桜


egypt1003_13スーフィ・ダンス
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ュニジアの旅  〔2005.1.21〜2.7〕
 北アフリカに位置するチュニジアはマグレグ(日の没するところ)と呼ばれる諸国の中の一国。山岳会の友人二人と、何時の日にかと約束していたチャンスがやってきた。今回は女性一人が加わって四人で旅することになる。ネット上でも、チュニジアの治安は安定していると外務省のお達しがでている。
 チュニス
 首都チュニスには深夜到着。公共バスなしの時間帯は、タクシーにぼられそう。男性軍が慎重に車を選んでやっとホテルに。古いホテルだが、便利なところにある。メインストリートのハビブ・ブルギ通りのアフリカホテルのすぐ近く。この大通りには大聖堂と時計塔の目印もあり、ホテルやレストラン・カフェなどがずらりと続き、フランスの植民地時代が65年ほど続いたので、今もその雰囲気がおおいに残っている。メールである旅行社と連絡をとっていたのだが、オフィスは閉まっている。この国の約束はあてにならないのだとガッカリした。

 カルタゴの遺跡
 カルタゴの遺跡を見物する前に、貴重なものを保管しているバルトー博物館へと電車で向かう。まさにここはモザイク博物館、フェニキア、ローマ、ビザンチンの時代ごとに、チュニジア国内から出土したものが色彩も鮮やかに保存されている。これだけ大型のものをどうして遺跡から運び、ここに飾るのだろうかと思う。マリン駅よりTGM電車でハンニバルに下車し、さぁ歩きだ。カルタゴだ。高校の世界史で習ったとき以来、憧れていた英雄、戦略家のハンニバル。古代の栄華を極めた幻にも似たカルタゴ。そこに自分が足を踏み入れるとは怖れ多いこと。ここを訪れた人の話では、「もう何も残っていないヨ」と忠告も受けた。しかし、事実はどうかな。当日券を求め、博物館、カルタゴ人の住居跡、ローマ時代のアントニウス共同浴場、ポエニ人の墓地(トフェの聖地)、円形闘技場、ローマ劇場と見て廻ったが、ある部分は友人のいった通り、微かな残骸で想像をたくましくする。修復もなされず、あまりにも長い間忘れられていたからだろうか。ローマ軍が勝利して、二度と作物が実らないよう塩をまいて徹底的に破壊したらしい。それほどまでに、ローマ人たちはカルタゴの復興が恐かったのだろうか。歴史上秘密にされていたので、よけいロマンを与えてくれる。

 ドウッガ
 チュニスの北バスターミナルより、ローマ遺跡の中でも保存状態がよいというドウッガを目指す。バスはあるものの本数が少なく、一番てっとり早く安い乗り物はルアージュ(7〜8人乗りの乗合タクシー)である。行き先をフロントガラスに書いてあるそうだが、アラビア語が読めない。大声で云ってるのを聞いても難しい。人数が揃えばいつでも出発する。四人は多数なので強い。たまたま会った日本人留学生に言葉を助けてもらって一緒に乗り込む。ドウッガは小高い丘にあり、ヌミディア・ローマ・ビザンチンの複合遺跡。アフリカを代表するローマ遺跡として1997年に世界遺産に指定されてから、余裕をもって修復作業が行なわれている。劇場、廟、神殿、門、大浴場のほか、向こうの山から引かれた貯水場は見事で、遺跡にあるべきものは備わっている。チュニジアンブルーの青空のもと、オリーブ畑や麦畑に囲まれている。さぞかし繁栄を極めただろうと思いながら、歩いて巡るこの楽しさ。暖かく汗ばむ陽気だったが、帰りのバスはすし詰め状態で、立ったままの2時間半は辛かった。

 スース、ケロアン
 スースに向けて早朝の列車で出発。私たちは運よく坐れたが、立っている乗客も多い。こんなに早くどこへ出かけるのだろう。途中でザグーアンの水道橋をちらりと見た。スースは堅固な城壁に囲まれたメディナ(旧市街)が主たる観光。シーズンオフの今は、喜ぶべきか人がまばらで地元の人ばかり。要塞の古い型の建造物がアラビア朝を偲ばせるごとく建っている。グランドモスクはここの目玉。異教徒は内部に入れない。イスラム教は偶像崇拝なしだから、たぶん中には何もないだろう。博物館は月曜休館が多い。メディナの中スークは沢山の店の集まり、少し見物したがさしたるものなし。フランスパンのあの長いバケットは、どこにでもパン焼屋さんがあり、片手でよく皆持ち歩いている。
 その日のうちにケロアンへ移動する。ここはもっと大きなスークがある。京都の錦市場よりもっと狭く小さな店ばかり。排水が悪く足場がヌルヌル。ここにもグランドモスクがあり、宗教の力のすごさを見る。印象深いのは、モハメット同志の霊廟の鮮やかなアラベスク模様だった。

 スベイトラ
 ケロアンより100キロ、スベイトラを目指す。カルタゴの後のビザンチン時代にあたる一番新しいローマ遺跡で、ガイドブックにはこの地での朝焼けは素晴らしいとある。だが、ここに泊まらなければ拝めそうにない。ルアージュを降りてもバッグを預けるところがない。コインロッカーはまだここには存在しないヨ、と苦笑い。近くのホテルで快く預かってもらう。天気はよく20℃。大通りを北上すれば、突然メインゲートの凱旋門が荒野の中にスクッと現われる。その門を越えると、まず要塞、教会、劇場、大浴場、神殿群。とりわけ大浴場にはモザイクがそのまま残っていたり、その巨大さと多さにも驚く。日本の温泉のように湧いて出たわけではないのだから、スチームかボイラーで焚いていただろうに、設備がたいへんだったのではないだろうか。とくに支配階級の人々は、大勢の美女を侍らし酒とサウナに明け暮れていたのだろう。
 ここに来る途中もオリーブの木々が整然と植えられ、遠き昔より皆に愛され大産業として栄えていたらしく、遺跡の中に圧縮台がある。ヨーロッパを旅していると、レストランでも民宿でも、サラダや付け合わせに塩の多少はあれいつも付いてくる。オリーブ油はイタリアで皮膚の乾燥予防に役立つし、痒いところや顔に塗ってもよいと勧められ、ドレッシングだけでなく多方面に利用できることを知った。
 快晴だったのに、急に嵐のように風が吹き出し大粒の雨となる。ちょうど私たちは見物が終わっていてホテルに帰る。雨が去るのを待つ間、従業員の方がストーブに招いてゆっくり待たしてくれる。貧しい旅でも、こういう時は奮発してこの親切にお返しが必要だ。昼食をオーダーし、少し高い雨宿りとバッグ預け代だったが、満足して気持ちよくルアージュでガフサに移動する。

 ガフサ・メトラウイ
 ルアージュからの外の景色は白々しい。遠くに山は見えても、近くはナツメヤシと少しの緑、灰色の味気ない四角の家がポツンポツン。羊やヤギの放牧をみても、喰む草がどこにあるのだろうか。どこの道にもビニールの包が柵や石に引っ掛かっている。あんなものを食べては身体に悪いのにとか、もっと清掃する気持ちはないのだろうかと不思議である。カフサは山岳地帯を走る観光列車(レザー・ルージュ)に乗るだけのベースとして来ただけ。次の朝メトラウイに行き、列車のチケット売り場には早すぎたらしい。国鉄は人気がないらしい。本数が少ないので駅員さんも手持ち無沙汰、何もない待合室で震えていた。冷たい風が吹く。今回の旅では、衣類をザックに入れる際に迷いに迷う。薄いものを重ね着して、脱いだり着たりで気温に合わせるしかない。毛糸の帽子とヒサシのあるものを何度も取りかえたりして、頭まで忙しい。駅員さんがストーブの部屋に入れてくれて、アラブコーヒーのブラックをご馳走になる。チケットオフィスが開くまで、駅員さん三〜四人と私たち四人は、フランス語・日本語・アラビア語の飛び交う楽しいひとときを過ごす。リン鉱石で発展したこの町はほかに何もないらしい。黒いものが貨車に積まれて運ばれていく。たぶんこれがリン鉱石なのだろう。
 列車の発車時になると、ツアーのお客さんのバスが何台もきて小豆色のレトロ調観光列車はいっぱいになる。赤いビロード張りの椅子、丸天井、内装はフランス式で豪華さ。露天掘りの鉱山がところどころにあり、山に向かって静かに走る。小さくしたグランドキャニオンを行くごとく、大集団のインディアンが馬に乗って突然出て来そう。荒削りの絶壁が迫り来る。深い渓谷がありスリル満点。ビューポイントでは下車して写真を撮らせてくれる。チュニジアでは、家を建築中(そこに住んでもよい)なら固定資産税を払わなくてもよいから、ずっと未完成にして住んでいるらしい。そういわれればなるほど、できあがっていない家ばかりだった。

 トズール
 トズールへ走る。地図の南北が確かでないようなので、ホテルを探すのに苦労した。明日からタメルザ地方の渓谷に行きたいので、旅行社でツアーを組んでもらう必要がある。もしかして、少し立派なホテルを紹介してもらえるかと微かな望みをもっていたが、結局近くの旅行社にて契約する。この町は砂漠の町。日干しレンガの家が多く、馬車も観光客を乗せて走っている。ダル・シュライト博物館に行ってみる。まるでお化け屋敷まがいのもの、そこでいただいた久方ぶりの普通のコーヒーの味がおいしかった。

 シェピカ・タメルザ・ミデス
 次の日、予約した時間きっちりに、四駆の車に乗った故アラファト議長スタイルのスカーフ巻きの若者がやってくる。私たちはフランス語を話せないのでガッカリしていた。砂漠の中のオアシス、シェピカは1969年の大洪水で没してしまい、別の場所で村びとは暮している。その旧村の廃虚と大きくはない滝がある。ツアー客がゾロゾロとおしゃべりしながら歩き、ガイドの説明に止まってしまうので、細い谷間の道の登り下りはなんとも焦れったい。少しは人のことを気づかって端に避けてくれればよいのに。
 アルジェリアの国境が近いためか検問も多い。ポリスはどの都市でも身長制限があるのか、背が高くどっしりした方ばかり。たぶん警察はエリート職なのであろう。この国でも、裏金で酒もおいしいものもたんとお召し上がりになっているのではないだろうか。一度情報公開をしてみたらどうか(ソンナモノはナイ)。
 タメルザ渓谷の滝もそんなに大きなものではないが、このような荒涼とした砂漠の中にあって滝を眺められるとは珍しい光景に違いないし、ここも何億年もの昔には海底だったという。山肌が証明している。観光客向けの土産物屋さんがたくさん並んでいて、その中にアンモナイトが売られていた。ナツメヤシの実もきれいに飾った箱に入れて売っている。
 ミデスの村も洪水にやられ、モスクだけが残ったとドライバーさんの説明。思うに、庶民は日干しレンガの家、モスクはコンクリートだから水に強いのじゃないの? でも、そこがアラーの神様なのかしら。ミデスは想像したことがない雄大な景色。地層が縞模様になっていて、どこにもない景観だ。映画のロケ地として撮影に使われるというが、一度眼にしたら忘れられないくらい強烈。切り立った渓谷を覗けば、寒イボを感ずるほど深く興味は尽きない。約束どおりルアージュステーションまで送ってくれる。

 マトマタ
 南部のマトマタを目指す。時折ラクダの放牧に出くわす。子連れも多く、どんな動物の親子であれ微笑ましい。ラクダは意外とユーモラスな可愛い顔をしている。荒れ地でほんの少し草木があるだけの土地。持ち主はいるらしいのだが、これで育つのかしらと思う。ヨーロッパの都市でも田舎の小さな町でも、その途中の景色は遠目にみても美しいなぁとうっとり眺められるものだが、この地はそんなことがなきに等しい。遠くに山脈があるものの、果てしなく寒々しい荒涼とした土地が延々と続く。マトマタへの途中、広大な塩湖(シュット・エル・ジエリド)がある。ケビリまでの一本道が塩湖の真中を通っている。今までの白い大地が茶色の湿った地面に変化する。塩を採掘し、精製している工場がある。材料が即製品になるのだから、政府直営の企業だろう。
 ベルベル人たちの変わった住居を見るためにマトマタにやって来た。遅くに着き疲れていたので、ホテルの選り好みをしなかった。相棒さん風邪気味らしい。今回の旅では使い古しの捨ててもよいマフラーを持って来たがとてもこれが役立った(絹はダメでウールがよい)。寝る時にも急な寒さにも、首を温めれば下着一枚多く着たことになる。年寄りに聞いていたことは本当だ。夜と昼の温度差が大きい時、疲労が重なれば風邪を呼んでしまう。
 ここは、今でもまだ昔ながらの住居に住んでいる。地面に大きな穴を掘り、側面の横穴が家畜と人々の居住空間となる。朝の散歩がてらに穴居住宅を見せてもらう。内部は広くカーペットを敷き、ベッドや大型冷蔵庫もあり近代的だった。イスラム教徒ではないのか、スカーフをかぶっていない女の人がおおぜい集まって食事の準備をしていた。小羊を解体し、血の付いたままの皮を干している。猫もたくさん飼われていた。雨が少なく乾燥している土地だから、こんな住宅があるのだろう。それとも敵から隠れるのか、貧しさ故か。地中は年中同じ温度だから、省エネになるかな。

 ジェルバ島
 風邪を一掃するつもりなのか、暖かいと聞くジェルバ島へ行くらしい。ルアージュごと島に渡る。磯の香りが強い。海鵜がたくさん羽を干している。突然海の中に滑空し、魚を捕らえるためか空へ飛び立つためか、おもしろい飛び方をする。この島の中心であるフームスーク町のスークの中に宿を決める。天気がよいので洗濯日。ロープを張り巡らし、洗濯物が風にそよぐ。自由勝手にスークの中を散歩。魚市場や香料の店をひやかしたり、質問したり迷ったり、店の人やお客さん同士で話したり、楽しい店でいっぱい。島はリゾート地。世界中の人々が集まる観光地。この地の女性(若い人は別だが)は、中年になれば大きなビア樽になる。白い布に赤い線の入ったものをぐるーりと巻いた民族服に、カンカン帽子スタイルはなんとなくユーモラスだ。いつでもおいしい香りのするパン屋さん、たまには甘いケーキも欲しくなる。女同士はこんな時は気持ちがよく合う。ツーリストゾーンまでタクシーで行く。海岸は遠浅らしい。ピンクのフラミンゴの大集団の美しさ。カジノや大型ホテルがずらりと並ぶ。悪戯になるかな? ホテルのレセプションで一泊いくら? 部屋を見せてくださいとお願いして覗くのが悪趣味だ。豪華なホテルはもっと年がいってもいつでも泊まれる。今は庶民臭い安宿が似合っていると思う。
 次の朝のチェックアウトに、約束以外のお金を請求される。前日と違う人がレセプションにいて、引き継ぎができていないのだ。そんなこと聞く耳持たぬ。断固として譲らない日本人に、先方もギブアップ。

 タタウィンでクサール・ハッダタ、シエニニ村、ドウイレット村
 何度か乗り換えなければならないと覚悟してルアージュに乗り込むが、直接行くらしい。少しだけ(中級か?)立派なホテルで、交通手段を確保すべき。クサール(倉庫)行きの目的がある。個人タクシーをホテル側の上司の前で、何処へ行き、何を観るか、いくら、時間等を書いて、お互いにサインして明日の予約を完了する。ひさしぶりに、持ってきたインスタント米をいただき、スープをつくる。時季の果物は、イヨカンまがいの大きなミカンでおいしい。この町特産のガゼル(芋をカラッと揚げ蜜にからめたもの)を探す。言葉は通じなくても一枚の写真でOK。探しものを得た時はいつも嬉しい。ルアージュで大通りを走っていると、よく小型トラックに羊やヤギたちがギュウギュウに詰め込まれて行き交う。たぶん肉になるのだろう。自分も肉はいただいているのに、耳と目を覆う。捨てられた犬達が、食べ物を求めてあてどもなく痩せこけた姿で走っている。可哀想で泣きたいほどの悲しみに出合う時、ゴメンナサイと手を合わせる。レストランにいた猫に少しものを与えては、相棒さんに厳しい目で睨まれ、縮こまる勝手な自分を反省している。イスラム圏では、例のごとく毎朝あのアザーンの声で起され、目覚まし時計は不要。アザーンもボーイソプラノ(テノール)、テノール、バスあり、ハスキーありで、静かに聞くとおもしろいものだと思う。
 ボロ車でドライバーがやって来た。クサール・ハッダタへ行く。奇妙な建築物が連なっている。灼熱の暑さに穀類や食料を守るための倉庫だ。天井近くに枝が突き出ているのが特徴。ロープをかけて滑車として利用しているらしい。
 シエニニという村は、お椀を伏せたような形の山一面に建物が密集している。四人はソロソロそこへ登る。こういう時には、ガイド役をしようという慈悲者がいるが、相手にしたことはない。モスクありクサールだらけ。頂上から裏手には驚くばかりの広大な大地が広がる。サハラ砂漠へと続いているのだろうか。遥か遠くへ来たものだとつくづく思った。この辺りは相当に乾燥がひどいと思う。厳しい自然環境にも人々は住めるのだ。放牧されている羊たちの食べ物は何だろうか。
 ドウイレット村は現在廃虚。白いモスクが遠くからは印象的。この村の入口に一軒だけ人の住んでいる気配がある。上から見ていると、手を振ってくれる。こういう時は興味津々でノックする。何だか今日は大勢の客人がいて、一人の若者が「自分はこの地の出身だ。パリの大学を卒業し、NGOの仕事の関係からこの地に戻って来た」こと、「この建物をホテルにする」ことなどを希望に満ちた瞳で話してくれる。夢を持つ若者の清々しい姿に声援を送りたい。ホテルの内部は清潔そう。どんなに暑くとも、穴ぐらの中は一定の温度だろう。シャワーもあったし泊まってみたいと思う。

 スファクス
 タタウィンよりメドニンからガベスまでルアージュで、そこからは列車でスファクスに着く。列車を降りる時は戦争だ。乗る人たちが先に上がってくるものだから大変だ。常識程度のことも守れないのだろうか。親も教師も教えないのだろうかと外国人は怒る。日本はチュニジアにずいぶん援助金を渡しているのだろうか。日の丸の旗を大通りやイベントで見ることができる。この町のメディナを囲む城壁がほとんど昔のままで残っている。スークは迷うべくしてあるようなもの。野猫が多いが、肥えているので飼い主がいるのだろう。夕食でおいしいものに巡り会う。オジャというチュニジア料理。トマト味のシーフードで、我が家でも作ってみたいものだ。味と風味を確かめながらじっくりといただいた。

 エル・ジェム
 アラビア語は、男同士が話していると激しいイントネーション。中国・韓国も同じく、なんだか喧嘩しているのではないかと不安になる。その点、フランス語は詩遍を聞いているように穏やかな気持ちになる。日本語はどう聞こえるのか誰かに聞きたい。この町に近づけば、どこからでも目立つ大きな建物は円形闘技場。ローマのコロセウムの、その巨大さと建築技術の素晴らしさに何度か通ったこともあるが、本家に勝るとも劣らずではないだろうか。古代都市シスドラスの繁栄時に建設されたらしい。この町唯一の観光物。屋上まで上れば、このコロセウムの大きさが実によく見える。チュニジアンブルーの空を背景に、ここでどんな残酷な戦が日常茶飯事に行なわれていたかを想像し、身震いする思いがする。保存状態はよく、毎年夏には何かのフェスティバルが開催されるらしい。博物館にも精巧なモザイクが多く展示されているが運搬方法を知りたいといつも思う。今晩は陶器の町ナブールに泊まる。寒い宿だった。

 ナブール、ケリビア、ケルクアン
 チュニジアの北部に来たとたん、雨あり嵐ありで天気が不安定だ。イスラムの女性はスカーフで髪を覆っているファションだが、寒い冬にはウールのスカーフを使用している。この国では美容院は不要なのだろうか。髪のことを気にしなくてよいから楽だ。ルアージュを乗り継いでケルクアンに着く。空模様が気になるので、タクシーの往復でフェニキア遺跡に行く。ここはしっかりとした都市設計に従って建設された土台が残っている。他の遺跡で見てきたような巨大なものはないが、個人の住居が主で職人の町であったらしい。各家庭にも浴室の跡があった。天気が非常に悪いために、海岸に面している遺跡のすぐ近くまで大波が怒濤のごとく押し寄せる。その様子に我を忘れて立ち尽くす。横殴りの雹も降ってくる散々な日だった。先に進む気が失せてチュニスに戻る。

 チュニス
 やっとチュニスに帰ってきた。フランス門の近く、古いがしっかり清掃がいきとどき大きなバスタブもあるくつろげる部屋を得る。お疲れ休みで各自自由。
 メディナのスークを巡るがさしたるものなし。中央市場には日常の食料品が山と積まれている。いま旬の果物は柑橘類。ミカンに手を伸ばしたら「触るな」。売り手が自分側から取り、古いものから売りたいらしい。選択なしならNOで買わない。肉売り場は、首を切られ皮をはがれた動物がぶら下がっている。足が止まってしまったり、見ないようにして走り抜けたり、こればかりは自分の弱点である。グランドモスクは警備員が守っている。迷路のなかダン・ベン・アブダラ博物館は、オスマン帝国時代の宮殿の様子を当時そのままに再現している。暇なのか、係員は毛糸編みをしたり隣の部屋で話に夢中。ある人が屋上まで案内してくれ、市内を一望させてくれる。親切だなと思っていると、チップくださいということらしい。給料はもらっているはず、私たちは入場料を払っている。

 ブラレジア、タバルカ
 早朝の列車で発つ。家族連れが多い。列車のなかでも、イスラムの司祭(?)・権威者(?)は、ヨレヨレのコーランの本を大きな声で読んでいる。デーンと二人がけのところに荷物を置き、混んでいるのに一人で座る厚かましさ。若い夫婦は可愛い赤ちゃんを抱き、愛情あふれる目で幼子をときおり見つめる母親の美しさ。イスラムの女性はスカーフをしているが故に、髪へ目がいかないので無駄を省いたスッキリ美人に見える。大きな黒眼がちの彫の深い顔だち。化粧っ気なしのハッとする美型が多い。でも、中年になればどうしてあのような体型になるのか。チュニジアの北部は雨が多いので緑にあふれている。放牧も多く、南部のあの砂漠より羊やヤギはずっと幸せ。動物たちはよく肥えている。
 ブラ・レジア駅からタクシーでいく、ベルベル系民族のヌミディア王国の都市遺跡。ここも、神殿、浴場、劇場、市場、教会などは他と同じだが、夏の暑さが厳しいので地下を住居にしてしのいだらしい。その跡が残っているものの、雨が降れば水浸しになり中には入れない。中心の高い小山に監視員がいる。説明しようと近寄るが、受け付けなかったので去っていった。端には澄みきった水の流れがある。人が住むところには、必ず泉や川がある。春には野の花でいっぱいになりそうな枯れ草があり、白や黄色の花が咲き始めていた。
 タバルカは、アインドラハムの次の町でアルジェリア寄りの港町。中心に犬と一緒のブルギバ像がある。この町に着く前の町アイン・ドフハムは山間の別荘地帯で、樹木の中ほどの幹の皮がすっかり剥がされている。可哀想にと思っていたら、コルクを収穫しているのだった。ここは国境近くなので、やはりポリスの数が多くなる。ビザンチン時代の教会跡やメサウドの砦があり、上に登れば地中海のリゾート地を望むことができる。夏の盛りはさぞかしと思われる。ここは、サーフィンやダイビングのために多くの観光客が訪れるらしい。昼食にここの魚をいただいたがおいしかった。でも、レストランの席がトイレ近くだったので艶消し。散歩していると、道路の真中で多くの群集がイスラム風の祈りを行なっている。パキスタンのぺシャワールでも、こういう行動を見たことがある。モスクの周りにも空地はあるのに、道路を占拠するのは一種のプロパガンダなのか。選挙演説風の疑いもある。

 シティ・ブ・サイド
 今日はチュニジアで一番美しいという町へ行くことにする。男性軍とは別行動。TGM電車で30分。白い壁とブルーの戸や窓で統一されている。心浮き立つ思いを胸に、世界で一番古い(?)カフェの階段を上り、ミントティをゆっくり楽しむ。世界中の観光客が来るカフェで人々を見物。海を眺めると、この旅の想い出を振り返る余裕が出てくる。坂の町で、両サイドは土産物屋ばかり。売り屋さんのアプローチ攻勢に圧倒されそう。坂道はいろいろな方向につながり、突然地中海へ真っ逆さまというような道もある。カップルが最後の決断を迫って、イエスかノーの問題らしく深刻に話し込んでいる。こんな危険なところだったら、思わずイエスと答えそうと想像して笑ってしまう。いっぽう自殺の名所かも。頂上の岸壁からは、地中海を走るであろう沢山のヨットがシーズンを待っている。多くのティールームがあり気のきいたレストランもある。偶然入ったスェーデン人の家庭的なケーキの店で、ひさしぶりのおいしいケーキと紅茶で疲れを癒す。土産はいつも買わないが、5日が賞味期限というヤギのチーズが気に入り持ち帰る。
 数多くの栄枯盛衰の遺跡巡り。砂漠の民の逞しさと大自然の織りなす不思議な光景。今はとても疲れた気持ちだが、きっと心の奥底に秘めた想い出となり、少しずつ消化して大切な心の宝物となるだろう。この旅を与えてくれる家族よ、相棒さんよ、ありがとう。

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