チュニス 首都チュニスには深夜到着。公共バスなしの時間帯は、タクシーにぼられそう。男性軍が慎重に車を選んでやっとホテルに。古いホテルだが、便利なところにある。メインストリートのハビブ・ブルギ通りのアフリカホテルのすぐ近く。この大通りには大聖堂と時計塔の目印もあり、ホテルやレストラン・カフェなどがずらりと続き、フランスの植民地時代が65年ほど続いたので、今もその雰囲気がおおいに残っている。メールである旅行社と連絡をとっていたのだが、オフィスは閉まっている。この国の約束はあてにならないのだとガッカリした。
カルタゴの遺跡 カルタゴの遺跡を見物する前に、貴重なものを保管しているバルトー博物館へと電車で向かう。まさにここはモザイク博物館、フェニキア、ローマ、ビザンチンの時代ごとに、チュニジア国内から出土したものが色彩も鮮やかに保存されている。これだけ大型のものをどうして遺跡から運び、ここに飾るのだろうかと思う。マリン駅よりTGM電車でハンニバルに下車し、さぁ歩きだ。カルタゴだ。高校の世界史で習ったとき以来、憧れていた英雄、戦略家のハンニバル。古代の栄華を極めた幻にも似たカルタゴ。そこに自分が足を踏み入れるとは怖れ多いこと。ここを訪れた人の話では、「もう何も残っていないヨ」と忠告も受けた。しかし、事実はどうかな。当日券を求め、博物館、カルタゴ人の住居跡、ローマ時代のアントニウス共同浴場、ポエニ人の墓地(トフェの聖地)、円形闘技場、ローマ劇場と見て廻ったが、ある部分は友人のいった通り、微かな残骸で想像をたくましくする。修復もなされず、あまりにも長い間忘れられていたからだろうか。ローマ軍が勝利して、二度と作物が実らないよう塩をまいて徹底的に破壊したらしい。それほどまでに、ローマ人たちはカルタゴの復興が恐かったのだろうか。歴史上秘密にされていたので、よけいロマンを与えてくれる。
ドウッガ チュニスの北バスターミナルより、ローマ遺跡の中でも保存状態がよいというドウッガを目指す。バスはあるものの本数が少なく、一番てっとり早く安い乗り物はルアージュ(7〜8人乗りの乗合タクシー)である。行き先をフロントガラスに書いてあるそうだが、アラビア語が読めない。大声で云ってるのを聞いても難しい。人数が揃えばいつでも出発する。四人は多数なので強い。たまたま会った日本人留学生に言葉を助けてもらって一緒に乗り込む。ドウッガは小高い丘にあり、ヌミディア・ローマ・ビザンチンの複合遺跡。アフリカを代表するローマ遺跡として1997年に世界遺産に指定されてから、余裕をもって修復作業が行なわれている。劇場、廟、神殿、門、大浴場のほか、向こうの山から引かれた貯水場は見事で、遺跡にあるべきものは備わっている。チュニジアンブルーの青空のもと、オリーブ畑や麦畑に囲まれている。さぞかし繁栄を極めただろうと思いながら、歩いて巡るこの楽しさ。暖かく汗ばむ陽気だったが、帰りのバスはすし詰め状態で、立ったままの2時間半は辛かった。
スース、ケロアン スースに向けて早朝の列車で出発。私たちは運よく坐れたが、立っている乗客も多い。こんなに早くどこへ出かけるのだろう。途中でザグーアンの水道橋をちらりと見た。スースは堅固な城壁に囲まれたメディナ(旧市街)が主たる観光。シーズンオフの今は、喜ぶべきか人がまばらで地元の人ばかり。要塞の古い型の建造物がアラビア朝を偲ばせるごとく建っている。グランドモスクはここの目玉。異教徒は内部に入れない。イスラム教は偶像崇拝なしだから、たぶん中には何もないだろう。博物館は月曜休館が多い。メディナの中スークは沢山の店の集まり、少し見物したがさしたるものなし。フランスパンのあの長いバケットは、どこにでもパン焼屋さんがあり、片手でよく皆持ち歩いている。
その日のうちにケロアンへ移動する。ここはもっと大きなスークがある。京都の錦市場よりもっと狭く小さな店ばかり。排水が悪く足場がヌルヌル。ここにもグランドモスクがあり、宗教の力のすごさを見る。印象深いのは、モハメット同志の霊廟の鮮やかなアラベスク模様だった。
スベイトラ ケロアンより100キロ、スベイトラを目指す。カルタゴの後のビザンチン時代にあたる一番新しいローマ遺跡で、ガイドブックにはこの地での朝焼けは素晴らしいとある。だが、ここに泊まらなければ拝めそうにない。ルアージュを降りてもバッグを預けるところがない。コインロッカーはまだここには存在しないヨ、と苦笑い。近くのホテルで快く預かってもらう。天気はよく20℃。大通りを北上すれば、突然メインゲートの凱旋門が荒野の中にスクッと現われる。その門を越えると、まず要塞、教会、劇場、大浴場、神殿群。とりわけ大浴場にはモザイクがそのまま残っていたり、その巨大さと多さにも驚く。日本の温泉のように湧いて出たわけではないのだから、スチームかボイラーで焚いていただろうに、設備がたいへんだったのではないだろうか。とくに支配階級の人々は、大勢の美女を侍らし酒とサウナに明け暮れていたのだろう。
ここに来る途中もオリーブの木々が整然と植えられ、遠き昔より皆に愛され大産業として栄えていたらしく、遺跡の中に圧縮台がある。ヨーロッパを旅していると、レストランでも民宿でも、サラダや付け合わせに塩の多少はあれいつも付いてくる。オリーブ油はイタリアで皮膚の乾燥予防に役立つし、痒いところや顔に塗ってもよいと勧められ、ドレッシングだけでなく多方面に利用できることを知った。
快晴だったのに、急に嵐のように風が吹き出し大粒の雨となる。ちょうど私たちは見物が終わっていてホテルに帰る。雨が去るのを待つ間、従業員の方がストーブに招いてゆっくり待たしてくれる。貧しい旅でも、こういう時は奮発してこの親切にお返しが必要だ。昼食をオーダーし、少し高い雨宿りとバッグ預け代だったが、満足して気持ちよくルアージュでガフサに移動する。
ガフサ・メトラウイ ルアージュからの外の景色は白々しい。遠くに山は見えても、近くはナツメヤシと少しの緑、灰色の味気ない四角の家がポツンポツン。羊やヤギの放牧をみても、喰む草がどこにあるのだろうか。どこの道にもビニールの包が柵や石に引っ掛かっている。あんなものを食べては身体に悪いのにとか、もっと清掃する気持ちはないのだろうかと不思議である。カフサは山岳地帯を走る観光列車(レザー・ルージュ)に乗るだけのベースとして来ただけ。次の朝メトラウイに行き、列車のチケット売り場には早すぎたらしい。国鉄は人気がないらしい。本数が少ないので駅員さんも手持ち無沙汰、何もない待合室で震えていた。冷たい風が吹く。今回の旅では、衣類をザックに入れる際に迷いに迷う。薄いものを重ね着して、脱いだり着たりで気温に合わせるしかない。毛糸の帽子とヒサシのあるものを何度も取りかえたりして、頭まで忙しい。駅員さんがストーブの部屋に入れてくれて、アラブコーヒーのブラックをご馳走になる。チケットオフィスが開くまで、駅員さん三〜四人と私たち四人は、フランス語・日本語・アラビア語の飛び交う楽しいひとときを過ごす。リン鉱石で発展したこの町はほかに何もないらしい。黒いものが貨車に積まれて運ばれていく。たぶんこれがリン鉱石なのだろう。
列車の発車時になると、ツアーのお客さんのバスが何台もきて小豆色のレトロ調観光列車はいっぱいになる。赤いビロード張りの椅子、丸天井、内装はフランス式で豪華さ。露天掘りの鉱山がところどころにあり、山に向かって静かに走る。小さくしたグランドキャニオンを行くごとく、大集団のインディアンが馬に乗って突然出て来そう。荒削りの絶壁が迫り来る。深い渓谷がありスリル満点。ビューポイントでは下車して写真を撮らせてくれる。チュニジアでは、家を建築中(そこに住んでもよい)なら固定資産税を払わなくてもよいから、ずっと未完成にして住んでいるらしい。そういわれればなるほど、できあがっていない家ばかりだった。
トズール トズールへ走る。地図の南北が確かでないようなので、ホテルを探すのに苦労した。明日からタメルザ地方の渓谷に行きたいので、旅行社でツアーを組んでもらう必要がある。もしかして、少し立派なホテルを紹介してもらえるかと微かな望みをもっていたが、結局近くの旅行社にて契約する。この町は砂漠の町。日干しレンガの家が多く、馬車も観光客を乗せて走っている。ダル・シュライト博物館に行ってみる。まるでお化け屋敷まがいのもの、そこでいただいた久方ぶりの普通のコーヒーの味がおいしかった。
シェピカ・タメルザ・ミデス 次の日、予約した時間きっちりに、四駆の車に乗った故アラファト議長スタイルのスカーフ巻きの若者がやってくる。私たちはフランス語を話せないのでガッカリしていた。砂漠の中のオアシス、シェピカは1969年の大洪水で没してしまい、別の場所で村びとは暮している。その旧村の廃虚と大きくはない滝がある。ツアー客がゾロゾロとおしゃべりしながら歩き、ガイドの説明に止まってしまうので、細い谷間の道の登り下りはなんとも焦れったい。少しは人のことを気づかって端に避けてくれればよいのに。
アルジェリアの国境が近いためか検問も多い。ポリスはどの都市でも身長制限があるのか、背が高くどっしりした方ばかり。たぶん警察はエリート職なのであろう。この国でも、裏金で酒もおいしいものもたんとお召し上がりになっているのではないだろうか。一度情報公開をしてみたらどうか(ソンナモノはナイ)。
タメルザ渓谷の滝もそんなに大きなものではないが、このような荒涼とした砂漠の中にあって滝を眺められるとは珍しい光景に違いないし、ここも何億年もの昔には海底だったという。山肌が証明している。観光客向けの土産物屋さんがたくさん並んでいて、その中にアンモナイトが売られていた。ナツメヤシの実もきれいに飾った箱に入れて売っている。
ミデスの村も洪水にやられ、モスクだけが残ったとドライバーさんの説明。思うに、庶民は日干しレンガの家、モスクはコンクリートだから水に強いのじゃないの? でも、そこがアラーの神様なのかしら。ミデスは想像したことがない雄大な景色。地層が縞模様になっていて、どこにもない景観だ。映画のロケ地として撮影に使われるというが、一度眼にしたら忘れられないくらい強烈。切り立った渓谷を覗けば、寒イボを感ずるほど深く興味は尽きない。約束どおりルアージュステーションまで送ってくれる。
マトマタ 南部のマトマタを目指す。時折ラクダの放牧に出くわす。子連れも多く、どんな動物の親子であれ微笑ましい。ラクダは意外とユーモラスな可愛い顔をしている。荒れ地でほんの少し草木があるだけの土地。持ち主はいるらしいのだが、これで育つのかしらと思う。ヨーロッパの都市でも田舎の小さな町でも、その途中の景色は遠目にみても美しいなぁとうっとり眺められるものだが、この地はそんなことがなきに等しい。遠くに山脈があるものの、果てしなく寒々しい荒涼とした土地が延々と続く。マトマタへの途中、広大な塩湖(シュット・エル・ジエリド)がある。ケビリまでの一本道が塩湖の真中を通っている。今までの白い大地が茶色の湿った地面に変化する。塩を採掘し、精製している工場がある。材料が即製品になるのだから、政府直営の企業だろう。
ベルベル人たちの変わった住居を見るためにマトマタにやって来た。遅くに着き疲れていたので、ホテルの選り好みをしなかった。相棒さん風邪気味らしい。今回の旅では使い古しの捨ててもよいマフラーを持って来たがとてもこれが役立った(絹はダメでウールがよい)。寝る時にも急な寒さにも、首を温めれば下着一枚多く着たことになる。年寄りに聞いていたことは本当だ。夜と昼の温度差が大きい時、疲労が重なれば風邪を呼んでしまう。
ここは、今でもまだ昔ながらの住居に住んでいる。地面に大きな穴を掘り、側面の横穴が家畜と人々の居住空間となる。朝の散歩がてらに穴居住宅を見せてもらう。内部は広くカーペットを敷き、ベッドや大型冷蔵庫もあり近代的だった。イスラム教徒ではないのか、スカーフをかぶっていない女の人がおおぜい集まって食事の準備をしていた。小羊を解体し、血の付いたままの皮を干している。猫もたくさん飼われていた。雨が少なく乾燥している土地だから、こんな住宅があるのだろう。それとも敵から隠れるのか、貧しさ故か。地中は年中同じ温度だから、省エネになるかな。
ジェルバ島 風邪を一掃するつもりなのか、暖かいと聞くジェルバ島へ行くらしい。ルアージュごと島に渡る。磯の香りが強い。海鵜がたくさん羽を干している。突然海の中に滑空し、魚を捕らえるためか空へ飛び立つためか、おもしろい飛び方をする。この島の中心であるフームスーク町のスークの中に宿を決める。天気がよいので洗濯日。ロープを張り巡らし、洗濯物が風にそよぐ。自由勝手にスークの中を散歩。魚市場や香料の店をひやかしたり、質問したり迷ったり、店の人やお客さん同士で話したり、楽しい店でいっぱい。島はリゾート地。世界中の人々が集まる観光地。この地の女性(若い人は別だが)は、中年になれば大きなビア樽になる。白い布に赤い線の入ったものをぐるーりと巻いた民族服に、カンカン帽子スタイルはなんとなくユーモラスだ。いつでもおいしい香りのするパン屋さん、たまには甘いケーキも欲しくなる。女同士はこんな時は気持ちがよく合う。ツーリストゾーンまでタクシーで行く。海岸は遠浅らしい。ピンクのフラミンゴの大集団の美しさ。カジノや大型ホテルがずらりと並ぶ。悪戯になるかな? ホテルのレセプションで一泊いくら? 部屋を見せてくださいとお願いして覗くのが悪趣味だ。豪華なホテルはもっと年がいってもいつでも泊まれる。今は庶民臭い安宿が似合っていると思う。
次の朝のチェックアウトに、約束以外のお金を請求される。前日と違う人がレセプションにいて、引き継ぎができていないのだ。そんなこと聞く耳持たぬ。断固として譲らない日本人に、先方もギブアップ。
タタウィンでクサール・ハッダタ、シエニニ村、ドウイレット村 何度か乗り換えなければならないと覚悟してルアージュに乗り込むが、直接行くらしい。少しだけ(中級か?)立派なホテルで、交通手段を確保すべき。クサール(倉庫)行きの目的がある。個人タクシーをホテル側の上司の前で、何処へ行き、何を観るか、いくら、時間等を書いて、お互いにサインして明日の予約を完了する。ひさしぶりに、持ってきたインスタント米をいただき、スープをつくる。時季の果物は、イヨカンまがいの大きなミカンでおいしい。この町特産のガゼル(芋をカラッと揚げ蜜にからめたもの)を探す。言葉は通じなくても一枚の写真でOK。探しものを得た時はいつも嬉しい。ルアージュで大通りを走っていると、よく小型トラックに羊やヤギたちがギュウギュウに詰め込まれて行き交う。たぶん肉になるのだろう。自分も肉はいただいているのに、耳と目を覆う。捨てられた犬達が、食べ物を求めてあてどもなく痩せこけた姿で走っている。可哀想で泣きたいほどの悲しみに出合う時、ゴメンナサイと手を合わせる。レストランにいた猫に少しものを与えては、相棒さんに厳しい目で睨まれ、縮こまる勝手な自分を反省している。イスラム圏では、例のごとく毎朝あのアザーンの声で起され、目覚まし時計は不要。アザーンもボーイソプラノ(テノール)、テノール、バスあり、ハスキーありで、静かに聞くとおもしろいものだと思う。
ボロ車でドライバーがやって来た。クサール・ハッダタへ行く。奇妙な建築物が連なっている。灼熱の暑さに穀類や食料を守るための倉庫だ。天井近くに枝が突き出ているのが特徴。ロープをかけて滑車として利用しているらしい。
シエニニという村は、お椀を伏せたような形の山一面に建物が密集している。四人はソロソロそこへ登る。こういう時には、ガイド役をしようという慈悲者がいるが、相手にしたことはない。モスクありクサールだらけ。頂上から裏手には驚くばかりの広大な大地が広がる。サハラ砂漠へと続いているのだろうか。遥か遠くへ来たものだとつくづく思った。この辺りは相当に乾燥がひどいと思う。厳しい自然環境にも人々は住めるのだ。放牧されている羊たちの食べ物は何だろうか。
ドウイレット村は現在廃虚。白いモスクが遠くからは印象的。この村の入口に一軒だけ人の住んでいる気配がある。上から見ていると、手を振ってくれる。こういう時は興味津々でノックする。何だか今日は大勢の客人がいて、一人の若者が「自分はこの地の出身だ。パリの大学を卒業し、NGOの仕事の関係からこの地に戻って来た」こと、「この建物をホテルにする」ことなどを希望に満ちた瞳で話してくれる。夢を持つ若者の清々しい姿に声援を送りたい。ホテルの内部は清潔そう。どんなに暑くとも、穴ぐらの中は一定の温度だろう。シャワーもあったし泊まってみたいと思う。
スファクス タタウィンよりメドニンからガベスまでルアージュで、そこからは列車でスファクスに着く。列車を降りる時は戦争だ。乗る人たちが先に上がってくるものだから大変だ。常識程度のことも守れないのだろうか。親も教師も教えないのだろうかと外国人は怒る。日本はチュニジアにずいぶん援助金を渡しているのだろうか。日の丸の旗を大通りやイベントで見ることができる。この町のメディナを囲む城壁がほとんど昔のままで残っている。スークは迷うべくしてあるようなもの。野猫が多いが、肥えているので飼い主がいるのだろう。夕食でおいしいものに巡り会う。オジャというチュニジア料理。トマト味のシーフードで、我が家でも作ってみたいものだ。味と風味を確かめながらじっくりといただいた。
エル・ジェム アラビア語は、男同士が話していると激しいイントネーション。中国・韓国も同じく、なんだか喧嘩しているのではないかと不安になる。その点、フランス語は詩遍を聞いているように穏やかな気持ちになる。日本語はどう聞こえるのか誰かに聞きたい。この町に近づけば、どこからでも目立つ大きな建物は円形闘技場。ローマのコロセウムの、その巨大さと建築技術の素晴らしさに何度か通ったこともあるが、本家に勝るとも劣らずではないだろうか。古代都市シスドラスの繁栄時に建設されたらしい。この町唯一の観光物。屋上まで上れば、このコロセウムの大きさが実によく見える。チュニジアンブルーの空を背景に、ここでどんな残酷な戦が日常茶飯事に行なわれていたかを想像し、身震いする思いがする。保存状態はよく、毎年夏には何かのフェスティバルが開催されるらしい。博物館にも精巧なモザイクが多く展示されているが運搬方法を知りたいといつも思う。今晩は陶器の町ナブールに泊まる。寒い宿だった。
ナブール、ケリビア、ケルクアン チュニジアの北部に来たとたん、雨あり嵐ありで天気が不安定だ。イスラムの女性はスカーフで髪を覆っているファションだが、寒い冬にはウールのスカーフを使用している。この国では美容院は不要なのだろうか。髪のことを気にしなくてよいから楽だ。ルアージュを乗り継いでケルクアンに着く。空模様が気になるので、タクシーの往復でフェニキア遺跡に行く。ここはしっかりとした都市設計に従って建設された土台が残っている。他の遺跡で見てきたような巨大なものはないが、個人の住居が主で職人の町であったらしい。各家庭にも浴室の跡があった。天気が非常に悪いために、海岸に面している遺跡のすぐ近くまで大波が怒濤のごとく押し寄せる。その様子に我を忘れて立ち尽くす。横殴りの雹も降ってくる散々な日だった。先に進む気が失せてチュニスに戻る。
チュニス やっとチュニスに帰ってきた。フランス門の近く、古いがしっかり清掃がいきとどき大きなバスタブもあるくつろげる部屋を得る。お疲れ休みで各自自由。
メディナのスークを巡るがさしたるものなし。中央市場には日常の食料品が山と積まれている。いま旬の果物は柑橘類。ミカンに手を伸ばしたら「触るな」。売り手が自分側から取り、古いものから売りたいらしい。選択なしならNOで買わない。肉売り場は、首を切られ皮をはがれた動物がぶら下がっている。足が止まってしまったり、見ないようにして走り抜けたり、こればかりは自分の弱点である。グランドモスクは警備員が守っている。迷路のなかダン・ベン・アブダラ博物館は、オスマン帝国時代の宮殿の様子を当時そのままに再現している。暇なのか、係員は毛糸編みをしたり隣の部屋で話に夢中。ある人が屋上まで案内してくれ、市内を一望させてくれる。親切だなと思っていると、チップくださいということらしい。給料はもらっているはず、私たちは入場料を払っている。
ブラレジア、タバルカ 早朝の列車で発つ。家族連れが多い。列車のなかでも、イスラムの司祭(?)・権威者(?)は、ヨレヨレのコーランの本を大きな声で読んでいる。デーンと二人がけのところに荷物を置き、混んでいるのに一人で座る厚かましさ。若い夫婦は可愛い赤ちゃんを抱き、愛情あふれる目で幼子をときおり見つめる母親の美しさ。イスラムの女性はスカーフをしているが故に、髪へ目がいかないので無駄を省いたスッキリ美人に見える。大きな黒眼がちの彫の深い顔だち。化粧っ気なしのハッとする美型が多い。でも、中年になればどうしてあのような体型になるのか。チュニジアの北部は雨が多いので緑にあふれている。放牧も多く、南部のあの砂漠より羊やヤギはずっと幸せ。動物たちはよく肥えている。
ブラ・レジア駅からタクシーでいく、ベルベル系民族のヌミディア王国の都市遺跡。ここも、神殿、浴場、劇場、市場、教会などは他と同じだが、夏の暑さが厳しいので地下を住居にしてしのいだらしい。その跡が残っているものの、雨が降れば水浸しになり中には入れない。中心の高い小山に監視員がいる。説明しようと近寄るが、受け付けなかったので去っていった。端には澄みきった水の流れがある。人が住むところには、必ず泉や川がある。春には野の花でいっぱいになりそうな枯れ草があり、白や黄色の花が咲き始めていた。
タバルカは、アインドラハムの次の町でアルジェリア寄りの港町。中心に犬と一緒のブルギバ像がある。この町に着く前の町アイン・ドフハムは山間の別荘地帯で、樹木の中ほどの幹の皮がすっかり剥がされている。可哀想にと思っていたら、コルクを収穫しているのだった。ここは国境近くなので、やはりポリスの数が多くなる。ビザンチン時代の教会跡やメサウドの砦があり、上に登れば地中海のリゾート地を望むことができる。夏の盛りはさぞかしと思われる。ここは、サーフィンやダイビングのために多くの観光客が訪れるらしい。昼食にここの魚をいただいたがおいしかった。でも、レストランの席がトイレ近くだったので艶消し。散歩していると、道路の真中で多くの群集がイスラム風の祈りを行なっている。パキスタンのぺシャワールでも、こういう行動を見たことがある。モスクの周りにも空地はあるのに、道路を占拠するのは一種のプロパガンダなのか。選挙演説風の疑いもある。
シティ・ブ・サイド 今日はチュニジアで一番美しいという町へ行くことにする。男性軍とは別行動。TGM電車で30分。白い壁とブルーの戸や窓で統一されている。心浮き立つ思いを胸に、世界で一番古い(?)カフェの階段を上り、ミントティをゆっくり楽しむ。世界中の観光客が来るカフェで人々を見物。海を眺めると、この旅の想い出を振り返る余裕が出てくる。坂の町で、両サイドは土産物屋ばかり。売り屋さんのアプローチ攻勢に圧倒されそう。坂道はいろいろな方向につながり、突然地中海へ真っ逆さまというような道もある。カップルが最後の決断を迫って、イエスかノーの問題らしく深刻に話し込んでいる。こんな危険なところだったら、思わずイエスと答えそうと想像して笑ってしまう。いっぽう自殺の名所かも。頂上の岸壁からは、地中海を走るであろう沢山のヨットがシーズンを待っている。多くのティールームがあり気のきいたレストランもある。偶然入ったスェーデン人の家庭的なケーキの店で、ひさしぶりのおいしいケーキと紅茶で疲れを癒す。土産はいつも買わないが、5日が賞味期限というヤギのチーズが気に入り持ち帰る。
数多くの栄枯盛衰の遺跡巡り。砂漠の民の逞しさと大自然の織りなす不思議な光景。今はとても疲れた気持ちだが、きっと心の奥底に秘めた想い出となり、少しずつ消化して大切な心の宝物となるだろう。この旅を与えてくれる家族よ、相棒さんよ、ありがとう。 |