初(はっ)ちゃんの世界紀行――吉田初枝
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メキシコ、グアテマラ、ベリーズを少しだけの旅  〔2015.1.28〜2.9〕
  寒い時には暖かい国に、メキシコの旅に誘われ、何時もの相棒さんに声かけても、彼女達はもうこの年では、ヨーロッパだけにしたい、治安の不安ありとかで断られ、結局男性ばかり3人と私の4人で計画をする。メキシコは日本の面積の5倍、遠い国、時間的にはユカタン半島だけ、治安面ではメキシコ・シティは少し不安あるが、世界中の人々がやって来るリゾート地のユカタン半島なら、安全だろうと思う。海のリゾートには興味ないが、古代マヤ文明の遺跡は観光したいし、特にグアテマラのテイカル遺跡は訪れたい、可能ならばベリーズ国を回りキー・カーカー島も、短い間だが長距離移動を試みましょうと出発する。
 成田空港からしかメキシコのカンクンには行けず、格安チケットでは、大阪より成田発までを入れるとカンクンまでは4回の乗り換えありで、アメリカをトランジットするだけでもテロ治安の問題が有るのでしょうか、今はESTAという(電子渡航認証)をパソコンで入力して、返却してもらった番号をプリントアウトして、持参しなければならない、手間のかかる手続きが必要となる。成田から、ロス、マイアミ、次々と乗り換え、やっとカンクンには夜遅く到着して、深夜タクシーで予約していた宿に着き、群馬からの彼と久し振りにお会いする。


ame1501_1 グラン・セノーテ
 カンクン往復グラン・セノーテ
 カンクンの宿は一人、円に換算して朝食付きで1000円位、そんなに立派な宿であるはずがない。ホットシャワーが有る、経営者は日本人らしいが、今は留守である。日本人の若者が沢山泊まっているので、夜遅くまで賑わっていた。次の日はグラン・セノーテに行こうとして、近くのバスターミナルに出向く。このユカタン半島は川が少なく、土地が石灰岩質なので、雨は地中に浸み込み、たまたま空洞になった上の土地が陥没して、泉を作る。古代から余りにも美しい色彩の泉に、神秘的な聖域として、生贄を捧げ多くの神話が作られて、信仰の場として存在しています。そのミステリアスな泉がセノーテです。ユカタン半島には大小、数多くのセノーテが存在します。
 バスターミナルはADO社の独占企業のようで、チケットはドルで支払いました。換金する時間が無かったので、多分少し割高だったのでしょうが。バスにはトイレも附いて大型でゆったりしています、座席は指定です。
長距離バスは前日に買っておくべきだと言う忠告有で、明日のチェチェン・イツアー行のバスのチケットも押さえました。矢張りこの国の国土は広い、カンクンから郊外に出ると左右ジャングル地帯ばかり、開墾されて造られた広い立派な一本道が真っ直ぐに続く。セノーテ前では降ろしてくれないので、タクシーで門前まで行く。観光には力を入れているようで、入口には立派な建物も在る、直ぐに脱衣場、トイレなどが有る。長い木製の階段を下りて行くと、緑色の透明の美しい変形の泉は自然プールにも匹敵する、苔むした岩の壁に遮られた壁の中に続いている。若い男女がスノーケルや足ヒレを付けて,のんびりと泳ぎを楽しんでいる。魚もカメも気持ちよさそうに泳いでいます。この様な不思議な泉を発見すれば、マヤの人々は神聖な独特の雰囲気を感じ、信仰の対象としたのではないかなと思う。相棒さんの一人が、平泳ぎでセノーテの奥の方まで、水は冷たくなく、心地よいらしい、私も泳ぎたいな。


ame1501_2 戦死の神殿
ame1501_3 イグアナ
 カンクン→チェチェン・イツアー→メリダ
 カンクンは昼間の強烈な暑さに比べ、夜は少し肌寒い位、クーラは不要で快適に休める。早朝雨が降ったらしいが知らなかった。カンクンからチェチェン・イツアーまでは3時間位掛かった。ジャングルの中の真っ直ぐな道路を軽快に走る、運転手さんはこんな道路では、眠気を誘うのではないでしょうか。時折小さな村はあるが、変化のない移動行動。私達はこの遺跡見物が終わったら、メリダに移動をと思い、ザックをクロークルームに預けて、トイレや水、スナックを売店で求めて行動をとる。チェチェン・イツアーの遺跡は新と旧に分かれ、マヤ文明の2つの時代を見物できます。メインゲートより歩けば、両サイドには民芸品のお土産屋さんがずらりと並ぶ。真ん前にテレビでも観たあの最大のメイン大神殿(エル・カステイーヨ)、小型のピラミッドに似た姿を現す。蛇頭が中央階段の両サイドにあり、春と秋には、太陽の影の変化で、蛇が動いて空へと登っていくように見えることが有名、マヤ文明の高度な天文学や建築技術を示している。石柱が長く林立した戦死の神殿、ジャガーの神殿、球戯場等新しい遺跡を観て、再び大神殿の前に戻ったら、芝生に大きな緑のイグアナが居る、人を怖れずじっとしている。日当たりのよい所で日光浴としゃれ込んでいるのに、と言いたげです。緑色は緑の芝生には見つけられない変色しているのでしょう。旧遺跡も古代の天文台や尼僧院、高僧の墳墓などが、崩壊寸前のものもあり、少しずつ修復作業をしている、この大きな遺跡も発掘は、全体の10分の1に過ぎないらしい。それにしてもよく歩きました。炎天下の下、少し疲れましたが、まだ元気は残っています。敷地内は露天商が沢山で、その掛け声は元気を与えてくれるようです。
 私達は遺跡の外に出てメリダ行のバスを待つ。ADO社のバスは定時にやってきました。2時間かけて夕やみ迫る中、メリダに到着して、明日のパレンケ行のチケットを購入して、中心街まで心細く歩きます、こんな時には矢張り男性3人いることは、心強く勇気が出ます。ソカロ公園の前の大きな元邸宅がホテルの4人部屋に泊まりました。(朝食を含む部屋代は650ペソ、1人1300円)天井が高く共同の台所有、とても人気のあるホテルらしい。部屋のベランダからは、ソカロ公園からの軽快な音楽、華やかな光り輝く夜景の眺め、何だかホッとします。相棒さん達は夕食とビールを求めて街に繰り出しましたが、私は一人台所で持参した食材を調理して頂きました。広い廊下にハンモックを吊って、いびきをかいて寝入っている人もいる。こんなのんびりとしているところが、このホテルの良いところでしょうか。シャワーもトイレも廊下の突当りにあるけど、沢山あるのでとても気楽です。


 メリダ→パレンケ
  昨晩泊まったホテルの朝食はとても豪華なものでした。人気の宿には大勢の世界中の人々が泊まっています。噂道理の秘密は清潔さと安さ、朝食の美味しさは予想を上回る気持ち良さです。メリダの街をもっとゆっくりと滞在したい気持ちがあるが、先を急ぐ方が優先する事もあって、仕方がないです。今日はパレンケ向けての長距離移動です、多分9時間位掛かるかな。早朝ソカロ公園を歩けば、通学、通勤の人々が群れている。ホームレスは見かけない。矢張りジャングルの中の1本道を進んでいく、通り過ぎる村は小さい平屋で見るからに貧しい家屋が多い、白いワンピースに胸回りに刺繍をした民族服をきた女性群を見る。メキシコの人々も多くの民族がいるらしいが、ペルーのインディオ系とマヤ系は先住民と同じでしょうか、体型がよく似ている、肩幅厚く広く背は低くガッチリとしていて、髪も眼も黒く寸胴型で、同じような顔立ちの男女が多い。途中のカンペチェの町からは両サイド放牧の白、茶、黒の肉牛、ヤギも馬もいるが、白黒のホルスタインの乳牛は何処にいるのかな。痩せた土地に放たれているので、動物も肥ってはいないが、自由に育っているのでしょう。広大な土地故に地平線まで見える。そのうちにやっと山脈を見ることが出来たと思った時、パレンケの近くで警察が乗り込んで来て、私達4人だけのパスポートチェックがあった。
 パレンケは意外としっかりとした町のようです。永いバス移動だったので終点の近くのレストラン、ホテル、旅行会社がカラフルに揃っている便利な宿を決めて、やっと落ち着く。でも明日のパレンケの遺跡の事を聞くと、15分間隔でミニバスはあり、バスの正面にパレンケルインと書いてあるから、すぐわかると旅行者から教えてもらう。でももう一つの心配事は、明後日のグアテマラに入国する手立て、明日は日曜日なので、この国はキリスト教の国だから、旅行社が休日ではないだろうか。まだ営業中の旅行社を見つけて交渉すれば、駆け引きなくとも予定していた値段だったので即交渉成立する。すっかり気分よく、夕食はメキシコ料理の定番の”タコス”を庶民的なよく流行っている店に行き、皆で頂きました。丸い餃子の皮に色んな調理した肉、野菜の具材を入れて包み、様々な薬味をつけて頂きます。矢張り辛く肉が多く、あまり好きには為れないが、男性軍は気に入った様子でした。でも今夜は遅く、宿泊客の湯量が底をついたのでしょう、お湯ではなく水シャワーなのです、トホホ、ないよりは益しと考えましょう。


ame1501_4 碑文の神殿
ame1501_5 宮殿の塔(天体観測塔)
 パレンケ遺跡
 1月は去って、2月はやってきた。此処はメキシコ暖かいより暑い。夜中だけはクーラなしでも丁度良い温度。朝食はコンビニのサンドで済ませ、飲み水の準備をして、ミニバス(コレクテーボ)で遺跡まで送ってくれる。マヤの古代7世紀(古典期後期)の遺跡を見物しましょう。ミニバスはどんどん森の中に入って行く、正面玄関前のチケット販売所で下車、迷子になる位広大な遺跡、直ぐに碑文の神殿が横長にあり、その階段は段がとても高い、マヤの民族はそんなに足が長いわけでもないのに、どうしてでしょう。まだ疲れていないうちに頂上まで登るが、遺跡の内部はみせてはくれない。パレンケ遺跡の中は芝生が美しく刈り込みされている。太陽の神殿、頭がい骨の神殿、十字架の神殿と神殿ばかり、でも一番の中心は優美なマヤ建築の宮殿です。宮殿の特徴は15mの天体観測塔、マヤ・アーチの回廊が残り、水洗トイレやスチームもあったとか、驚きです。十字架の神殿より、階段を登りその頂上より宮殿全体が見える所で、暫く座って、高みの見物と洒落込んで観賞に浸る。このパレンケ遺跡は、地球人とは違った別の世界の人種が、此処で暮らし、適当な時期に彼等は又別の天体に、移り住んだのではないかと、空想を広げて楽しんだ。最盛期のパカル王と息子の時代に造られた建築物がほとんどで、この王達の墳墓が出口に近くの博物館の地下にあり、その石棺の大きさと石灰石の外壁に描かれたレリーフの素晴らしさは、マヤ文明がいかに優れたものであったかを物語っています。
 遺跡の中に敷物を広げて、色んな土産品を売っている露天商が此処にも多い。試みに小さな物を求めて、その値段の駆け引きを楽しむ、小学生位の子供が中々しっかりとした応対には感心しました。朝早めの観光だったので、昼過ぎには目的を果たして清潔で便利だけのホテルに。カラットとした天気は紫外線の強さは別として、日陰に入れば、風は気分よく吹いてくる、湿気が無いので干し物は全て気持ち良く乾いてくれる。今晩は何の夕食にしようかな?タコスは辛いので辞退しよう、結局は中華料理になったけど、意外にも美味しい。
 日曜日はサント・ドミンゴ教会ではミサが行われている、カトリック教徒が多いこの国では、休みはお祭りのように教会前の公園では、多くの家族が集まってステージで歌い踊り、陽気に騒ぐのが好きな国民のようです。今晩はしっかりとホットシャワーだったので、当たり前のことなのですがそこが嬉しい。明日はグアテマラに入国です。


ame1501_6 ガテマラ国のフローレス
 パレンケ→グアテマラのフローレス
 旅行会社の車が朝6時にグアテマラ行きのお客さんを、各ホテルにピックアップに来てくれて、総勢15人程がオンボロのマイクロバスで運んでくれるらしい。2時間位かけてコロサルまで、荷物を下してイミグレイションでパスポートのチェックが有る、大きな川からヤマハの発動機を付けた、細いボートに乗り換えて、メキシコ側から国境を超えて、グアテマラ国に入国したことになる。そこで別のバスを、荷物抱えたバックパッカーさんが次々と集まり、1時間程待っていると、最低のオンボロバスはやって来て、ここからが辛い道程は続きます。
ジャングルを開墾した道は、細くオフロードの凸凹はすごい、此の細さでは離合はどうなるのでしょう、幸い対向車とは遭わなかった。車の振動で骨にひびが入りそう。座席も小さく隣の人がこんな悪路でも、眠って傾いてくるので、とても辛い姿勢をせざるを得ない。窓からの両サイドは、放牧の肉牛が多い。日曜大工さんでも作れそうな粗末な庶民の家屋が続く、犬も鶏も自由に家の周りに飼われています。痩せた犬が餌を求めて、ヒョロヒョロしているのを見ると、何だか愛しく悲しく眼を伏せる。そのうちに段々と果物畑が多くなる、パパイヤ、オレンジ、パイナップル、マンゴー、トウモロコシ、ヤシ等が区画化されて、多量に育っています。バスの中は空調なし、窓全開なので、容赦なく埃、太陽光線も入って来る。時折葉っぱなくピンクの花が一杯に咲いた木々の群生が有る。あまりにも美しいので、横の人に聞くとマデカ・カカオとその花の名を教えてくれる。マデカとは母という意味とか、カカオの一種かな。フィリピンのパラワン島の桜を思い出す。この移動は厳しいバス移動でした。暑さと疲れでヘロヘロになって、終点ペテン・イツアー湖の畔、フローレスに到着する。私達はこの疲れを癒すべく、少しデラックスなホテルに決めて、2泊することにする。(朝食付1人、1800円)近くの旅行社で明日のテイカル遺跡の往復のバスの手配、明後日のベリーズ国行のバスの予約をしてヤレヤレです。
 その夜、眼の周りが痒く、頬が赤く腫れていました。UVカット無くスッピンの私は、昨日のパレンケ遺跡の歩きと今日のバスでの強烈な太陽光線は、熱帯雨林の乾季の紫外線、日本とは大きな違いがあると、今になって気が付きました。ウエットテイシュで顏を冷やし、明日はサングラスで隠そうと反省しました。


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 左=大セイバの木  右=4号神殿

 昨日からのホテルは湖の真ん前で、テラスからは玉虫色の美しい鳥が可愛い声で朝の挨拶、キラキラと朝の光を浴びて沢山のサギに似た鳥が飛んでいきます。湖の畔に、何匹も下りて来て、抜き足差し足でブロックの上を歩いている。お行儀悪くテラスに洗濯物を干している、外から見ると何処の国の人かなと、思われているのかしら。朝食は久し振りの豪華版でした。少しだけ張りこめば、これだけゆったりするのに。何時もの貧乏旅は、考えなくてはならないなーと思うのでした。それだけ年を経たと言うことでしょうか。でもまだ元気ですけど。
 この国の通貨はケツアール(Q)と変な発音、でもUSドルでも通用するので、チェンジマネーは躊躇する、余れば紙切れ同然なので。私達が泊まっているフローレスは湖畔の町で、ペテン県のサンタ・エレーナ地区のレジェ橋を渡ってこの島に入る。ホテルやレストランが集まりテイカル遺跡の観光のベースになっている。
 遺跡へのバス発着所から繰り出す、この国へ来てこの遺跡を観ずして、なんとやらではないが、ベースにしては60キロも離れているらしい。テイカル遺跡まで1時間半かかりました。ジャングルの中に突然発見された遺跡で、周囲は鬱蒼たる密林、余りにも巨大なので、細かく見物したら時間が掛かりすぎる、何とか効率よく回りたい。観光客のある親切な人が、殺虫剤を貸して下さったので、体中に振りかけて入場する。入口から直ぐに大セイバの木が面白い形をしてスクーと立っている。“遠い所ようこそいらっしゃいませ”と迎え入れてくれる。先ずは巨大な1号神殿と2号神殿が向かい合う壮大な広場”グレートプラザ”を見物するだけでも時間が掛かる。大きなピラミット型の神殿を巡り3号、4号と廻っていく。ある日本人が言うには4号神殿が一番良いと褒めていた。テイカルの遺跡と言えば、この神殿の写真がよくグラビアに載っていると言われている。ジャングルの中に巡らされた順路を、アーヤ・コーヤと4人はブツブツ言いながら、速足で進む。一番の見どころの4号神殿、ズーと森林の奥の方にある。ジャングルの雰囲気は十分あり、鳥達の不気味な声も聞こえる。木製の長い階段が幾重にも折り返しありで登り終えれば、それからは神殿の石の階段を、恐る恐る登り詰める。多分日本ではこんな危険なところは、登らせてはくれないでしょうと思うぐらい危なっかしいでした。周囲のジャングルの中から、それより高い神殿が眺められる。マヤの人々はこのジャングルの中で、生活を営んでいたことでしょう、失われた文明の遺跡を見ているのです。神殿には夫々歴史があり、王様、王家の女王、司祭を埋葬するものであった。栄枯盛衰という意味をしみじみ感じ入りながら、神殿の頂上で皆、暫くは考えに耽りました。これだけ歩いて見物すれば、もう十分だという意見になり、帰りのバスの最初の時間に、やっと間に合いフローレスに3時過ぎに帰りました。
 フローレスの湖の中のペテン・シートという島の自然動物園に行こうと、知り合いの船頭さんを呼んでもらう。料金を確認して船に乗り、風が気持ちよく吹いてくる、湖の水はそんなに冷たくなく、泳ぐことも出来そう。白い水鳥が沢山浮かんでいます、1時間位掛かって島に着けば、入場料をドルで払いたい私達に、係員の人は戸惑っている。その計算が出来ないのです。手間取るがどうにか入場できる。船頭さんにのど飴をあげると、自分は喉が悪いので大助かりと、とても喜んでくれる。こんな些細な事で喜んでもらって、此方こそ感謝したい。入口から直ぐに豆猪が沢山いる、湿地帯には見たこともない美しいサギの一種の鳥たちが歩いています。船頭さんが途中から一緒して、優しい英語で説明をしてくれる。ペテン県に棲息する野生動物を集めているのだそうです。一番沢山はクモザル、長い手足で森の中を我が物顔で歩いています。色とりどりのインコが居ます。大きなワニが所在なさそうに1匹いる、奥さんワニとは離されている、自分の子供を食べたらしい。ジャガー、ピユーマ、アナグマは自然を生かした囲いの中に住んでいる。展望台から湖を眺めると、船頭さんは“天国の眺め”と言われているとか。そんなに良いとは思わないと言ったら、船頭さんは“天国から帰ってきた人がいないのでね”、と答えました。以外に此の人ウイットに富んでいるな。大きな池には鹿の群れが居た。この島が長く伸びた端の方で、女性達が洗濯をしている、水上生活者達の家屋が22家族住んでいて、その少数民族だけは網で魚を取っても良い許可がされている。珍しい動物には会えなかったけど、小島を自然動物園にした、発想にはよく考えたね、と褒めてあげたい。
 今回の旅は時間的にはユカタン半島を、少しだけしか巡れないことは覚悟していた、ベリーズ国まで行けるか如何かを迷っていました。同じ町をバックしてカンクンに帰るより、知らない国、町を通過することの方が、すっと楽しいし、興味ある事なので、そちらを選びました。自由旅を愛する旅人は、ヨーロッパでの国越えはどの国でも簡単ですが、陸路での国境越えは厄介だという事は何時も経験するのです。昨年の12月にベリーズのビザが不要になったことを知り、ベリーズ・シティ行を決めました。私自身ベリーズという国が有ることも、今回初めて知りました。
ame1501_9 ベリーズ・シティの港
 グアテマラ国フローレス→ベリーズ国のベリーズ・シティ
 ペテン・イツアー湖の朝食付きのホテルでは、朝の爽やかな風に吹かれて、眼の前に広がる多くの島々の眺め。名残惜しい気持ちはするも、旅立たねばならない。ゆったりした時間は瞬く間に過ぎていく。旅行社の車は1時間遅れであった。我々が最後のピックアップらしく、20人乗りのマイクロバス、屋根の上に荷物を括りつけて、オンボロバスはエンジンの調子は悪い音、嫌な予感はしたが、色んな人種の旅人は黙って座っている。後部座席の私達はスットプ帯では、飛び上がる。でも意外と道は舗装してあり、順調に走ってくれました。矢張りジャングルの中の一本道、両サイド果樹園が多い、棕櫚の木やヤシ畑が続き、砂漠のような原野も続く、グアテマラとベリーズの国境には、軍隊や警察が、大きな銃を片手に威嚇して立っている。テロの脅威もあるのでしょう。国境では自分の荷を持ち、バスを降りてパスポートチェック、スタンプを貰い、ベリーズに入国。検査官が“何日滞在するのか?どこに泊まるか?“を質問された。入国してから共通経費を少しだけチェンジしました。この国の紙幣は若き頃のエリザベス女王の肖像が印刷されている。昔のイギリス植民地の時代を髣髴する。グアテマラもベリーズもUS弗を喜ぶので換金しなくても問題はない。ベリーズでの国境入口で待っていると、乗っていたバスがやって来る。ベリーズの郊外は今までよりはましな建築の家屋が立ち並ぶ。海が見えた、カリブ海だと思えば其処がベリーズ・シティだった。
 今日の宿は地図が読めず、分かり難かったが、やっと目当ての宿を探し当てた。古い建物だが、英国人の様な優雅な夫人が、穏やかに迎えてくれる。7人位が泊まれる大きな部屋で清潔なドミに、台所も使ってよいとのこと。繁華街に近いし港も直ぐそこ、便利は何よりもの宿を選ぶ時の条件の一つ。
 ベリーズ・シティを訪れて、びっくりしました。この国の人々は黒人です、横も縦も大きく威圧感を受けます。髪は黒く天然パーマ、髪飾りを沢山付けている若い娘さん、度でかいお尻をフリフリ歩く女性達のボリュームには、恐れ入った感じ。男性は太った人は見当たりません。長短距離の選手にはこの種の人々が多いのは、見るからに瞬発力、跳躍力が優れているようです。この町は明るいうちは歩けますが、薄暗くなれば出かけないようにしましょうと暗黙の了解。この町に居ても、その価値はないようで、明日はキー・カーカー島に行くことを決めた。
 港の雑貨屋さんでキー・カーカー島の事を聞くとき、私がカー・キーキーと間違って言ったものですから、受付の人が笑い転げました。変な名前を言い違ったぐらいでそんなにおかしいのかしら、こっちの方が可笑しくって笑います。明後日はカンクンに帰るので、そのチケットも同時に手に入れて万々歳です。今晩は宿の台所で、各自の料理は自分で作り乍、早く我が家に帰り、料理をしたくなる勝手な思いも湧いてくる。


ame1501_10 キー・カーカー島の波止場
 ベリーズ・シティ→キー・カーカー島
 港のチケット売り場で往復を買う、荷物は船底に預かり、30人位のボウト・タクシーは高速船、カリブ海の波を滝のように巻き上げて、激しい水しぶきを上げて進む。1時間位で島に着く。多くの若者達が下船する、私達の様な年寄りは少数のようです。早速適当な4人部屋を得て、この島をぶらぶら散歩する。リゾート・アイランドのこの島は2つの島で成り立ち、島の突端からもう一つの島には泳いで行けそうです。メイン通りには、土産物や、レストラン、ホテル、スーパー、マリーン・スポーツの会社等が集まり、急きも慌てもせず適当に、のんびりと商売をしています。人々は海のレジャーにやって来るので、ホテルは安いが物価は輸送代が入っているので、高いみたい。スーパーやコンビニは中国人のオーナーが、店を切り盛りしている。華僑は世界中のどの国にも居て商魂逞しい。
 白いビーチは島を取り巻き、明るい太陽がこの島の贈り物。船着き場のデッキがビーチから突き出ている、ビーチバレーに興ずる若き人々が、奇声をあげて楽しんでいる。砂の上に座れば、カリブ海のサンゴ礁の色が濃いブルーと薄いブルーに見える。地球は丸いじゃないかを、はっきりと確認できそうに、水平線が向こうに落ち込んで見える。レゲーに出て来そうな長髪の黒人男性が多く、女性達も大きく肥っている体型、ここでなら私もスマートかしら。偶然にもグアテマラのフローレスのホテルで会った、オレゴンの御夫婦にもこの島でお会いする。お互いにその奇遇さを喜び合いました。今年10月には日本の秋を旅しに、やって来るそうです。
この島の想い出と思って、ホテル前のレストランでデナーセットを戴くが、出てきたお魚が硬く味が無い、こんなにも美味しくない魚は食べた事ない、レストランともあろうものが、プロの意識が無いのが残念無念です。
汚い灰色の濃淡のペリカンが沢山いて、漁師さんが捕ってきた魚を裁いているので、近くでそのおこぼれを群れして待っているのは、笑いを誘う。ゴルフで使うカートで、物資やお客さんを運んでいます。夕方、到着時とは反対側に住民の家が並んでいるところから、夕日の沈む様をじっくりと見せてもらいました。輝きながら水平線の向うに静かに沈んで行きました。次の日の昼過ぎには又高速船に乗ってベリーズ・シティに帰りました。深夜のバスでカンクンに帰ろうとします。バスの時間までお互いに荷物を見守り、バスターミナルでADO社のバスを待つ。


 ベリーズ・シティ→カンクン
 ベリーズ・シティから各地への旅行者や勤め帰りのお客であふれかえっている。ゆっくりと時間を過ごすところではないが、人々の様子を眺める”マン・ウオッチング”にはおあつらえ向きの時間と場所、食べ物、飲み物何でもあって、残りのお金を使い切らねばならない、トイレにもお金が必要らしい。ADOバスは高級の部類に入るのでしょうか、全席指定で清潔にしてある。メキシコへの国境越えは、少し不安もある。コロザルで先ずはベリーズ市税とメキシコの入国税との合計US18ドルを支払う。検査室は寒そうな味気ない部屋で、一人ずつ手書きのレシートをくれる。メキシコに入国すれば、バスの運転手さんが料金を徴収に来る。予約時に9ドルを払っていたが。11時間の深夜バス、そんなに安いはずはないと思っていたのです。矢張り入国してからペソで500(日本円で4000円)を支払う。何だかややこしい事をするのだな。慎重運転なので安心して4〜5時間は眠りました。カンクンには次の日の朝7時には着き、早朝なのに宿に入室させてもらいラッキーです、早速ホットシャワーを。久しぶりのメキシコ料理を近くのレストランで頂く、メニューの名前が分からないので、食している人と同じものと言う動作で注文すると、とても美味しいものでした。今でもあの名前を知りたいと思っています。2人の相棒さんは、もう3日ほどコスメル島に滞在して、マリーン・スポーツを楽しむそうです。私は次の日の早朝、帰国しました。

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ルーの旅  〔2009.4.14〜5.1〕
 南米のペルー、遠いナ。いつかと思っていたが決心がなかなかできなかった。幸い4人の力強き個性豊かな相棒さんが揃う、今だと心は決まる。遠いからと避けていたのでは、向こうからも年甲斐もなくと敬遠されるのが落ちだ。4月、ペルーのセマナ‐サンタ(聖週間)が終わってから出発する。
 成田よりヒューストンでトランジット。やっとペルーのリマの空港に深夜到着する。リマの市街の明かりは不夜城の如く、光の中の海。どんな旅が待っているのやら、密かに思う。停電の心配はないらしい。
 今回の旅のメインはマチュピチュの世界遺産の観光と、そのバックのワイナピチュ登山であった。そこに行くには列車でマチュピチュ村まで行くしか方法がない。それならば列車を予約しようと、いろんな方法でアクセスするが出来ない。クスコの旅行社にメールを送っても列車だけの予約は受付けてくれず、当日券もあるが数枚とかで、私たちは5人なのでそれも難しい。列車を何日も待たされたのでは、無駄な日を過ごすことになる。現地のツアーに入るのを最後まで悩んだが、メインのものを決めなければ次に進めないので、クスコ行きの航空券とマチュピチュの観光(列車往復と宿)を1泊だけ予約した。
 後で分かったことだが、クスコの旅行社が列車のチケットを全部位押さえて、自分達のツアーに入らせて、多くの観光業に連鎖的にお金が落ちるようにしむけているとか。最大の税収のドル箱は政府も横目で知らん振りをしているのでしょう。少々腹立たしく思うが、これもペルーのやり方、どうにもできない。
 私たちはリマより早朝クスコに飛ぶ。眼下はアンデス山脈を次々と越えていく。緑のジュータンの濃淡の上を飛んでいるよう。クスコの町は褐色の屋根が幾何学的に並んだ美しい町。標高3400mぐらいなので高山病の心配ありで、朝からダイアモックス(高山病予防薬)を飲み始めた。今日一日は身体を順応するつもりで、ゆっくりの行動をしましょうと相棒さん達と約束をする。
 ツアーでセットされた宿は、旧市街の中心地アルマス広場のすぐ近く。スペイン式の町造り。広場を中心にレストラン、土産物屋、ホテル、旅行社等が四角にずらりと営業していて、治安の為かポリスが多い。野良犬も沢山いる。広場の中心にずっと放射状に坂道が続き丘の上まで続いている。暇があれば散歩したいと思う。カテドラルとその東側の教会に入ったつもりが、外部は教会の造りだが、内部は大学なのはびっくりした。  私たちのホテルもスペイン風に、真中が屋根付きのパティオの広場があり、明りとりになっていて、その四方を囲んで3階まで部屋がある。明日は憧れのマチュピチュに出発なので、1泊の為のサブザックに必要な物を入れ準備をしたり、近くの土産物屋をひやかして散歩する。夕刻には日本人に有名らしいレストランで、おいしいと噂のある大きなコロッケを戴く。じゃがいもがペルー原産であるが故か、本当に美味しくて大正解でした。


 マチュピチュ遺跡
peru_09_1マチュピチュ遺跡
 さあ、今日はテレビでよく見る人気一番の世界遺産にお目にかかれると思うと気持はワクワクする。私たちはポロイ駅より出発する。バックパッカー族の列車なので、坐れればよいなと思っていた。全席指定で強い日差しあり、後ろ向きありで、希望は適わない。速さは自転車ぐらいかな。ゆっくりで急傾斜にはスイッチバック方式で、段々とウルバンバ川沿いに下っていくので標高が低くなっていく。両側に農業中心の田園風景。豊かな田舎村が続いていく。ときおり雪を抱いたアンデス山脈の峰も顔を出した。約3時間30分位だったかな。
 マチュピチュ村(アグアス‐カリエンス駅)が終点。私たちは今晩のホテルを確認してから昼食をとって、水・カメラ・タオルなどを身につけてシャトルバスで30分。あのジグザグロード(ハイラム‐ビンガム‐ロード)を登って、マチュピチュの入口に到着し、これからが遺跡見物である。
 5人が迷子にならぬように、ゆっくりと。棚田というかそのスケールの大きさ、見張り小屋から丘を登ると空中都市とはよく言ったもの。標高2940mのマチュピチュ山(老いたる峰)とワイナピチュ(若い峰=2690m)の尾根にあり、麓からは見えないのでこの名前がついたのかも知れない。この遺跡全体を現実に見渡せるところで、みな写真を撮っている。本当に絵のような風景。ワイナピチュ山に白い雲がかかり、神聖なる土地という気持になる。明日はあの遺跡の裏に垂直に立つ岩峰に登れるのだろうか。たぶん登山道は螺旋状になっている。心配になってくるが、誰も口にはしない。
 急ぐと息切れするので、なるべくゆっくり歩いて遺跡の内部を見物。それぞれに名前が付いていて水汲み場、王女の宮殿、太陽の神殿、陵基、三つの窓の神殿、インティワタナ等々、インカ帝国がスペイン軍の侵略によって滅亡しても、この都市は密林に覆われたジャングルの中にあり、400年もの間スペイン軍に見つかることもなかったのは不思議です。インカ文明が謎だらけで、解明されていないことが多いらしいのは、文字がなく書き物が残っていないからだそうです。これ以上謎解きをやめて、ミステリアスのところが多いほどよいのにナと思う。
 インカ橋の方にリャマが放牧されているので、近くまで会いに行く。白・黒・茶の三色で混じった毛色もある。草食で気性はやさしい。触れても何もしないし、顔はラクダに似ている。リャマはアルパカより大きく、首がしっかりしていて首の毛がカーリーしている。耳が後ろに倒れるのがアルパカ。リャマとの区別は少しずつわかってくる。
 私たちは明日の登山の情報を教えてもらい、あのジグザグロードを下って宿に戻る。マチュピチュの都市を観光できた喜びは、自分にとり長年の憧れでしたので、感激は深いものです。明日は4時起きだが暇があるので、この村を散策する。宿の前にはウルバンバ川が濁流となってすごい勢いで流れる。少々音が気になる。線路沿いには小さな土産物の店が軒を連ねている。同じような店ばかり、生計はたっているのかしら。温泉もあるらしいがプール感覚とか。レストレンが多く、遊び心からピザを食べて、その折にピスコ‐サワーと書いてあるのを注文した。色がレモネードに似ていたので、おいしいと思いいただいたが、アルコールが入っているとか。階段を下りる時に足がフラついて、びっくりした。


 ワイナピチュ山(2690m)
peru_09_2ワイナピチュ山の頂上近く(今回の旅の五人)
 モーニングコールで4時起き。5時には朝食のバイキング。とっても豪華なものだったが、時間のないのが残念。バスのチケット売り場に買いに行くが、今朝は違うところで売っていた。5時30分のバスに乗り、またあの九十九折れのジグザグロードをマチュピチュの入口へ。早朝は霧が立ち込め、桂林のように幻想的な雰囲気。でも少しずつ晴れてきているので、雨の心配はなさそう。遺跡の中を若い人達は走っている。聖なる岩の方面にワイナピチュ山への登山口があるので、遺跡の中を横切らねばならない。登山できるのは朝と昼の部に分かれていて、1日に400人だけらしいので、皆その番号札をもらうためにこうして早く着きたい。
 私たち5人も登山口に名前を書いて、番号を貰ってヤレヤレです。7時より登山は始まる。垂直にそそり立つこの岩峰は、さて手におえるのか否か。最初は下りがずっと続く。これは帰路が大変だナと思う。ぼつぼつと登りが続き、階段があったり、地道ありで、しっかりと足場が確保されている。浮石もなく、ちょっと危険なところには鎖ありで心配はない。周囲の美しい景色の広がりとともに、日本ではお目にかかれないラン科の花が次々と顔を出す。珍しい色や、おもしろい形の花々もあり、楽しみは尽きない。若い人々が多い。もしかして私たちが最年長者グループかも。歳相応にゆっくり登り、もう二度と訪れることなかろうと、この一歩一歩を踏みしめながら登りました。1時間ちょっとの登り。頂上のちょっと手前に岩場の胎内潜りもあり、山頂は巨大な岩場、若い人に引張ってもらい岩場を換わってもらってひとときの感嘆を味わう。相棒さんありがとう。わが健康にも感謝です。またしても空中都市のマチュピチュの全貌を下に見てつくづくとその有難さを心に留め、遺跡の細かい説明より、この壮観な景色を覚えておきましょう。
 遺跡よりバスでの下りのあのグッバイボーイはいなかった。政府が止めにはいったのかな。クスコの帰路はバックパッカー列車ではなく、ビスタドームという少しだけ高級な列車であった。軽食もあると待っていたが、お粗末なもの。でも列車の中でファッションショーがあった。列車のスタッフさんが美男美女だなあと思っていた。彼等がアルパカの毛糸で編まれたセーターやカーディガン・ショール等を着て歩き、車内販売するのです。商売熱心さには驚きです。


 クスコ市内
peru_09_3アルパカを連れたインディヘナの親子
 私たちはこの旅のメインを終えたという安堵感と、このクスコの町(標高3399m)の高地に身体がすっかり慣れてきて、いつもと変わりなく快調。でも朝食の時にはコカ茶をいただくようにし、持って歩くお茶にもコカの茶葉を入れている。クスコはインカ帝国の首都であった。16世紀にスペインの侵略で目ぼしいものは全て略奪し、破壊したが、石組みの枠を集めたこの技術のすばらしさはそのまま残っている。クスコの観光はこの石組みの技術を堪能することであったかも知れない。
 スペイン統治時代、宗教はカトリック教を強いて、その影響は今日まで続き、インカ時代の土台上に教会を建て、人々は篤き心で敬っている。アルマス広場の中心のカテドラルには朝早くからミサが行われていて、大勢が祈っている。私たちは神妙に帽子をとり、邪魔しないように見物する。教会には何か荘厳な空気があり、ひとときの静寂を与えてくれる。教会は旅する者には有難い存在です。安らぐ休息の場です。100年もかけて建築された内部は繊細にして重厚。銀を300トンも使った祭壇はすごい。宗教画の「最後の晩餐」のテーブル上のご馳走がネズミであるのが少し気になった。アルマス広場にはインディヘナの人々の独特なスタイルの民族服で歩いている人々も多い。野良犬も多いのが気になる。
 石垣のみごとさは(継ぎ目にかみそり1枚も入らぬとか)インカの石材建築はすごい技術だ。精巧な石壁に囲まれたアトゥンルミヨク通りは、少し黒目勝ちの敷石と、巨石の壁。中でも12角の石が有名らしい。近くの人々がすぐ教えてくれて、「触ってはいけないヨ」と注意してくれる。石壁の続く細い道々のコーナーには、アルパカを連れインディヘナの子供や婦人が「写真を撮って」とシャッターを切れば、手を出してモデル代1ルソを要求する。家計の足しにするのでしょうが、子供は学校に行っているのだろうかと気になる。道は狭く車は一方通行で、通れば両端の少し高い歩道?(30cmくらい)にかけ上がり通り過ごす。人々の生活を沿道から少し覗けるのが楽しい。地元の人々のマーケット(メルカド)に入っていく。新鮮な野菜や果物、肉が売られていて、インディヘナの人々が多い。婦人達は年寄りも若いもなく、派手な色使いの丸く膨れ上がったスカートをはいているのが気になる。中にペチコートでも付けているのだろうか、聞いてみたいが失礼かな。ポルトガルのナザレでこのスカートと同じだったことを思い出す。私が若い頃にポニーテールとこの膨らんだスカートは流行っていた。マルマス広場から上へと登っている庶民の住居地は、インカ時代から引き続いている石畳。手作り市(観光客目当てかな)があり、小さな土産物を少し求めては金額のかけ引きを楽しんだ。ある人がケーナ(縦笛)を自分で作って売っていた。あの悲しげな音色は魅力的である。リマでケーナのCDを捜してみようかなと思う。


 クスコ郊外
 私たちは昼からの観光ツアーを頼んでいた。多くの観光客と一緒に大型バスに乗り込む。クスコでは、遺跡に入場する際の周遊券を観光客は買わねばならない。その度に入場チケットを求めるより手間は省けるが、日本円で4000円ほどと、とっても高い(クスコ市庁ヨ 遺跡保全の為に使ってヨ、役人さんの裏金にしないようにネ)。
 まず近くのサント‐ドミンゴ教会(太陽の神殿)。ここにはインカ民族の信仰の対象である太陽像が、輝いた神殿であった。インカ帝国を滅亡させたスペインがこの神殿の黄金をすべて持ち去って、ここにカトリック教会を建築したが地震で崩壊した。でも土台の石組みはそのまま残り、今は修復してかつての姿に戻りつつある。ツアーは各ホテルより申込の人々を拾っていくので、ぐるぐる回って行く。この教会は遠いと思ったが、私たちが泊まっている宿のすぐ近くだと後で気がついた。
 サクサイマン(要塞跡)。ここにはジグザクの壁のような巨石が長く続く。その丘に登れば、クスコの町が一望できる。クスコを守りたいが故に、80年もかかって、このような強固な要塞を残した。
 ケンコー(インカ帝国の祭礼場)。プカ‐プカラも要塞の役目をしていたらしい。
 タンボ‐マチャイは聖なる泉とか。この水の起源がいまだに分からないらしい。この泉には少々歩いて行ったので、寒いし息切れがすると思えば、3760mの地だった。ツアーには無駄な時間が付いてくる。暗くなったので早く宿に帰りたいと思うのに、帰路は必ずお土産物屋さんに寄る。ドライバーさんもガイドさんも、ここでお客さんが買った金額に対してリベートありなのでしょう。今日もよく歩いたなあ。私たち5人組は皆さん元気で言うことなし。近くのレストランで昨日いただいたコロッケが大変美味しかったので、また欲を出してもう一度同じものを注文。相棒さん達は席に着けば即座にセルベッサ(ビール)。大瓶のセルベッサは美味しいものらしい。
 聖なる谷巡り。今日は丸一日を聖なる谷と呼ばれているウルバンバの谷に行く。やはりツアーが一番手っ取り早いので予約する。日曜日はピサック市場が開かれているので今日を選んだ。まずはピサック市場を目指すが、その前にももう少し小ぶりの市場に寄る。6000m級のアンデス山系の山々に囲まれたインカ帝国時代から続く生活や暮らしが残っているらしい。マチュピチュの遺跡を目指す折には、日本のツアーの会社はクスコより標高が低いので、高山病を避ける意味で、ウルバンバの村に1泊するのが常道手段らしい。私たちはもう無事に終了。
 ピサックには大きな市場がある。昔はインディヘナ(旧住民)達の物々交換の場だったらしいが、今では海外からの観光客目当ての商売へと様変わりしてしまった。小さな一区切りにはあらゆる物が売られ、民芸品も様々あり、所狭しと並べられている。売り子さん達のインディヘナの民族衣装がすばらしい。来る価値はある。この村の丘にはマチュピチュの小型がある。その石段がすごい扇型になっていて、先に登っている人々が豆粒のように見える。あそこまで行かねばと自分を励ましながら一歩一歩登る。周囲には斜面をしっかり利用した段々畑が続く。丘の上まで遺跡はしっかりとあり、ミニチュアのマチュピチュだった。このハードな登りが頂上では爽やかな風を経験できる。下の眺めが箱庭のようで、インカの聖なる谷と呼ばれる所為も分かる気もする。
 バスは静かな小さな村を通り、やさしい稜線の山々に囲まれ深い谷を通ってウルバンバ村に着く。ここは年中暖かく、クスコ市民の保養地らしい。ペルーのフォルクローレの音楽の実演を聞きながら、久しぶりにバイキング料理のご馳走をいただいた。
 昼からはオリャンポ遺跡に行く。下からその階段を見てギョッとする。またしても石の階段。ハーハー息を吐きながら登り、ここもインカ帝国の要塞であったとか。頂上には巨大な石が並べてあり、表面が輝いている。何の為にこんな丘の上まで、どこからどうしてとか謎だらけとか。とにかくインカ帝国の時代に関しては石組みの技術はどの時代においても比べようもなく優れていた。
 チンチローに寄る。この小さな村はアドベ造り(石と土をこねた壁)だったらしいが、スペイン軍の占領で破壊された。今でもまだ残っている部分がある。谷間には棚田が美しく続き、インカ時代からの灌漑用水や下水道が使われている。人の生活には水が一番大切なことを証明している。できればこんな村に1泊して、もっとこの村の人々の生活を見たい気がする。私たちにアルパカの毛を、自然から草・木・実の染め方を実演してみせてくれる。帰路の車の中ではペルーのフォルクローレを実演してくれるサービスありだった。クスコの町に近づけば、その明かりが規則正しく鏤めた星のようです。この国の電力事情はしっかりしているのを証明している。


 プーノ
peru_09_4プーノへ向かう(ラ‐ラヤ峠 4335m)
 私たちはプーノに移動する。バスと列車ありだが、列車は週に3回、バスは毎日数社が運行している。最初から長距離になるのでデラックスを狙う。途中何度か下車して観光し、昼食付きというバスを選んだ。
 ペルーの南アンデス山脈の中央に位置して、標高3855m、クスコよりももっと標高はある。クスコ滞在で身体が慣れてきていると思っている。相棒さん達は毎晩元気よくセルベッサ(ビール)が飲めることは健康なる証。心強いことです。
 バスは列車の線路沿いに並行して走り、日干しレンガの小さな家や村が点在する広い農地地帯を通る。最初にアンダワイリーヤス村に立ち寄る。バロック様式の教会で、前庭に大きな三つの十字架がある。住民が小さなマーケットを開いている。次に神殿跡が存在するインカ時代の遺跡ラクチへ。私は湿地に住んでいる奇妙な鳥を見に行き、その方がおもしろかった。昼食はバイキング方式の豪華版。昼からは列車の駅もあるラ‐ラヤ峠(4335m)を越える。ちょうど向こうから貨物列車が黒い煙を吐きながらクスコに向かうのに出くわす。皆カメラを向けていたが、どんなフォトが撮れたかな。ここからは大草原の中の一本道。遠くにはアンデス山脈。そして、なだらかな近くの山々の稜線。すごい数のアルパカ・リャマ・羊等の放牧地帯が続く。山岳地とその平原の広がりはこの国の広大さを示し、いつまでも見ていたい。対向車もなくバスはグングン速度をあげて走り、プカラ博物館を見物し、交通の要所フリアカに近づくと沼地もありで、地元の人々の服装がクスコとは大分違ってきている。とくに婦人の帽子が黒いパナマ帽になってきた。そしてティティカカ湖も遙か、その巨大さを現した。私たちは便利なピノ広場近くの宿を選んで落ち着いた。今日は8時間ほどの移動でした。近くに中国料理があるのを相棒さんが見つけてくださり、私たちは久しぶりの美味しいお米料理に出会う。そして明日のウロス島のツアーを予約する。私はフォルクローレを聞きたいので、宿近く行くことができるライブの場所を確かめた。


 ティティカカ湖の島巡り
peru_09_7ウロス島とトトラ(葦船)
 外から見ると小さな宿と思ったが、部屋の造りも大きく余裕ありで、静かで至便なところ。シャワーの湯もしっかり出る。ここもスペイン風中庭が明り取りになっている。朝食付き1人1600円ぐらい。リーズナブルでOKです。

 ウロス島
 今朝はウロス島とタキーレ島巡りのツアーに入った。富士山より高い位置にあるとは考えられない。琵琶湖の12倍とか。湖にペルーとボリビアの国境もある。私はチチカカ湖と思い、おもしろい名前、日本の父母と勘違いも甚だしい。本当はティティカカ湖らしく、語の意味は(ピューマの石)らしい。 湖の桟橋近くには、いつもと同じ土産物屋さんがびっしりと並んでいる。私たちはモーターボートに乗せられて、先はウロス島へ、トトラという葦が群生している間を通り、水路がウロス島へと導いてくれる。葦を積み重ねてできた浮島なので、歩くとユラリとする。世界中の観光客が珍しいもの見たさに訪れるものだから、彼等も心得たもので、この島を模型や本物でしっかり説明してくれる。全てがトトラでできている家も舟も土地そのものも、ここに住んでいるのは古い民族のウル族で、やはりインディヘナとも顔立ちが違っている独特性を持っている。台所は屋外だし、彼等の住居の部屋の中まで見える。でも家具なしで内部は乱雑に散らかり不潔そう。トイレやシャワーはどうしているのかな? 私たちは小額を支払いトトラでできた舟に乗せてもらって別の島まで行く。乗り心地はふつうかな。彼等の正業は魚や水鳥を捕ったりトトラの畑で野菜を作りブタも飼育しているが、やはり観光客目当てに手作りの土産を女性達は声をからして売っている。

 タキーレ島
 モーターボートの速度は非常に遅い。3時間ほどかけて、ここはれっきとした島、タキーレに渡る。ここにも電気も水道もなしの昔のままの生活をしているケチャ民族。この島の織物の素晴らしさは世界的に有名らしく、ボートの中でガイドがサンプルをみせてくれるが、上品な色使いと繊細さの技術は相当のものだなと感心した。この島に上陸してからはずいぶんと登りが続いた。畑や島の人々の住宅のすぐの道や階段を登りやっと頂上に。道端には小さな土産物を売る店があり、子供や女性達が民族服を着ていて、ひやかすのは楽しい。私たちは昼食をある家庭で、地元のフルコースをいただき、終われば家族一同が民謡らしき歌と踊りを披露してくれる。ごく粗末なものだけに彼等の心がこもっていて大いに満足です。
 頂上近くに、この島の織物を売っている島営の店があって、そこでは初めて定価が入っている商品でしたが、私が買える値段のものではなく、高価すぎました。頂上からの下りはこの島をひと回りしなければ船の出航口には行けないようになっている。船を別の場所に移動して、よく考えた観光コースになっている。ティティカカ湖が空との一線に消える、果てない遠望を見ながら、一方ではインカ時代からのアドベ造りの民家を通り過ぎて、私たちは島巡りを終えてプーノ市内へ帰る。
 宿の近くの中央市場で、プーノの市内の中心街をそれぞれの思いで散策する。アルマス広場にはコロニアルスタイルのカラドラルがあり、メイン通りのリマストリートにはあの特徴ある帽子をかぶった民族服の婦人達も行き来している。私たちはプーノに別れを告げ、明日はアレキパに行くことにする。  私ともう一人の相棒さんで、夕食が終わってからフォルクローレのライブを聴きに、近くのライブハウスへと足が向く。ドリンクだけでも聞くことは可能らしく、私たちはアメリカのツアーのお客さん一杯の後ろの席で聞かせてもらう。10人程の黒服の楽団はケーナ独奏者がラテン系の民族音楽を、そして独唱もしてくれる。あの物悲しくも力強い明るい歌は心にズシーンと染み渡る。5人程のダンスも次々と曲に合わせて衣装も変え舞ってくれる。小さいながらも懸命の演奏は素晴らしいものでした。終りごろ聞いた「コンドルは飛んでいく」のあの名曲は、ケーナだけのシンプルなものは感動的。ライブの余韻は、しっかりと続くこれからの宝物。


 アレキパ
peru_09_5アレキパへの途中(チャチャニ山=6075m)
peru_09_6アレキパのアルマス広場
 プーノ市内を早朝の散歩で、民族服の女性ばかりがすごい列して並んでいる。どこが先頭かなと見に行くと、銀行前で何か書類をみな持参している。言葉が分からず聞くわけにもいかず、目的は何だろう。地元民に政府が与える給付金(?)かなとか勝手に考えている。でもこんなに大勢の民族服はカラフルで壮観だな。
 アレキパに向け出発する。デラックスバスは途中で二つぐらいの町に寄って乗客を拾う。飲み物や土産物等を、売り子さんがバスの中に入って来て大声で売り歩く。一年中温暖な気候でフルーツが美味しく、ミスティ山・チャチャニ山にもお会いしたいと、まだ見ぬ町への途中ほど嬉しい期待が一杯。プーノに行く途中と同じく、ここも高原の山岳地帯を通っていく。手前の丘のような山には樹林帯はなく、草原・川・湖あり。多くのアルパカ・リャマ・羊・牛の放牧地帯。見渡せど人工物がひとつもなく、ゆったりしたスロープが続く。その壮大さにただ驚くばかり。日本の国土の3倍もあるとか、ペルーがこんなにも巨大とは想像していなかった。大自然の続きには、フラミンゴの湖あり、鳥の楽園もある。この高地の大草原の迫力はすごい。一番の高地は4528mもある。アレキパにだんだん近づくと、チャチャニ山(6075m)・ミスティ山(5825m)・ピチュピチュ山(5665m)の、真っ白の雪の山が大草原より望めるようになると、草原の様子も次々と変化する。岩の山ありサボテン山あり、いながらにして、この景色の素晴らしさはアレキパ近くまで続いた。今晩も便利さだけで選んだ宿はカタリナ通りの中心にあり、お隣はスーパー。屋上から星が美しい。明日も早起きして、日の出を拝みましょう。
 早朝より朝食を兼ねての散策に、中心広場の名前はアルマス広場。リマでもクスコ、プーノでもみな同じ名前、どうしてなんだろう。この町は標高2335mなので、プーノよりは1500mも低く、近くで採れる白い火山岩が主な建築材料なので、白い町と呼ばれている。アルマス広場の中には芝生や噴水、ヤシの木。南米の明るさに、ぐるりとその周りを白い市庁舎。白い二つの大きな塔のある堂々としたカテドラル。2階がアーチ型の回廊になったレストランで、下が旅行社や雑貨、スーパーといろんな店ばかりだが、今まで通過してきた町よりずっと明るい町です。私たちは2階のアーチ式のレストランで朝食をとって、明日の予定を話し合う。カニョン‐デル‐コルカ渓谷へコンドルを見に行くことをどうするかである。コンドルは朝にしか飛ばないらしく、コルカ渓谷へは少し遠いので1泊すべきの結論となる。プーノで教えてもらった旅行社に行くが、日本人に対して足元を見て相場を知らないと思っての対応(他の旅行社で相場を聞いているのに)。ムカッとして最初のところで予約をする。
 私たちは、この町のスペイン風の町並みが残っているサン‐ラロス地区や、近くの土産物屋さんで物色する。同じ宿のご夫婦が近くの美味しい店を教えてくれたので皆でそこへ行く。労働者の人々の食堂であったが味は確かによかった。お昼のフルコースが90円の安さにびっくりしました。
 偶然、カタリナ通りである家の奥さんと知り合う。彼女は日本人とボリビア人との間に生まれた二世。日本人そっくりな顔立ちで、名前もユリ子さん。私の物好き心が動き始め、コルカ渓谷のコンドルのツアーが終わった明後日にはお会いしましょうと約束して別れる。皆で今日昼からは自由時間とし、明日の1泊の荷物の準備や洗濯・昼寝でも自由気ままとなる。
 私は1人でカタリナ修道院に行く。400年間も外部との交渉を一切絶ち、何千人の女性達が自分自身と神との生活をする。高い壁に囲まれた修道院の内部は、外の喧噪が嘘のように静まりかえり、庭には花壇が沢山あり、回廊には美しい絵画、刺繍や音楽を楽しんだであろう部屋、その当時の家具や台所、寝室の様子等がそのまま残っている。修道院は広く、歩いて歩いて迷子になりそうでした。自分の心を反省する時も、戴いた気持になりました。夕食は宿のテラスで持ってきた日本食を食し、相棒さんの日本民謡を聞かせてもらったことが、何よりのご馳走でした。まだ続く旅の勇気ももらった感じです。ありがとうございました。


 コルカ渓谷
peru_09_8コルカ渓谷でのチバイのカテドラル(民族服が違っている)
 コルカ渓谷にはコンドルが乱舞する姿ありで、その渓谷はグランド‐キャニオンよりも深いとか。本当だろうか。興味ありで、1泊のツアーに入り、朝のピック‐アップの車を待つ。だいたいペルーの約束時間はアバウトなので、そのつもりで待つ。私たちは、アレキパに入ってきた道を逆戻りしてから別道を国立公園に向かう。ここにはペルーの宝物のビクーニアが保護政策によりフェンス越しに沢山放牧されている。リャマ・アルパカとラクダ科に属した動物達は羊と同じようにその毛が良質のセーターとなるが、その中でもビクーニアの毛並みが最高らしい。アルパカやリャマよりも小振りでベージュ色か白が多い。アルパカとリャマも凄い数だ。ときおり小さな粗末な小屋がある。この放牧された動物の監視の役人が住んでいるらしい。このドライブ一番のビューポイントの峠は4900m余りもあるので、チャチャニ・ミスティの大きな山々が近づき、はっきりと見られる。自分がそんな高所にいることの不思議さを感じ、私たちは高山病には誰もかからず、みな元気なことはありがたい。ガイドもドライバーもコカの葉をガムのように噛んでいる。高山病に効くらしいが、私たちには必要なし。
 突然私たちのバンの上をコンドルが1羽だけ飛んでいる姿があった。迷いコンドルかな。それとも孤高を愛する者かな、やはり聞きしに勝る大きさ。風に乗った優雅な舞い。私たちは温泉にも行かず、古い村のトレックがあると聞いていたが、チバイの宿で一休み。私と相棒さん二人でチバイのメルガド(マーケット)に行く。隣にカテドラルがあり大きな広場にはタカを腕に止まらせては写真を撮ったりそれを商売にしている。メルカドには何でも日常品を売っている。そんなにお客さんもおらず売れているようには見えないが、皆のんびりとしている。ウチワサボテンの花か実か分からないが、珍しい物好きは買ってみた。宿で食べたが美味しくなかった。チバイの民族服はスカートの丈が長くなり、上着も帽子も刺繍をいっぱい。ボレロを必ず着ている。今晩は音楽とダンスがあるそうだが、プーノで聞いたフォルクローレで充分と思い、断って早く寝ました。明日は早朝5時起き、6時出発らしい。

peru_09_9コンドル(コルカ渓谷)

 イヨイヨ、コルカ渓谷へと出発する。幾つものヘアーピンカーブが続き、そして観光バスも次々と。きっと世界中の人々がコンドルを一目と集まって来るのだろう。西へと谷を下っていく、深い盆地になっていて、ここで採れる野菜は美味しいらしい。ガイドが詳しく説明してくれているがよく分からない。展望台からは、渓谷が本当に深くゾーッとする。コルカ川を挟んで断崖と山脈は続く。確かにグランド‐キャニオンよりは深い絶壁であろうが規模は小さい。静寂が訪れ、観光客は暫し待つと、突然コンドルは音もなく頭の上を掠める。実にみごとに風を我がものとして、悠然の舞い。音もなく4〜5羽が次々と何処からともなく出没しては、この深い断崖の中に消える。2〜3分後、風に乗った舞いを披露するとまた何処かへ消える。同じ鳥ばかりが舞っているかどうか分からないが。時には10羽位か15羽位舞っている。「あんた達、ここに何しに来た」と問うているようだと私には思えた。茶色はまだ若く、黒くて首に白いスカーフの模様が入ったり、羽根にも白い切り目があるのは、成長したコンドル。ガイドの説明によると、コンドルは生きた動物を襲うことはなく、死んだ肉しか食べないとか。羽根を広げると3mほどあるとか。しっかりと見つめたコンドルは、コンドルからも鳥眼で私たちも見つめたことでしょう。本当に「コンドルは飛んで行く」の歌が聞こえて来るような出会いでした。


 アレキパの家族のこと
 一昨日、偶然日本人らしき老婦人と知り合った。ちょっとだけ日本語を話し、日本人に会えた懐かしさと喜びを身体全体で表して下さる二世であった。コルシカ渓谷のツアーが終った夕刻に、お宅を訪ねますと約束していた。単独で行動することに躊躇はあったが、相棒さんを誘っても「一日前に知り合って、今日会うことはとんでもないこと」らしい。私の心の中には多分という思いは何時も第一印象で、この人は自分と気持の合う人、否の人を決めてしまう悪癖がある。暇な時間があったのでイソイソと訪れる。彼女は5人分の夕食の用意をしてご主人と息子さんと待っていてくださる。すまない気持で一杯だったが、おだやかな家族は迎えてくださり、1時間ほどの楽しい語らい、沢山の巻き寿司を持たせていただいた。やさしくしてもらった分、また誰かに何処かでお返ししましょう。

 ナスカ
 私たちは、夜行バスで9時間かけてナスカに着く。茫々たる広大な大砂漠の中、ナスカにやって来た。ナスカの地上絵を見る以外には何も期待していない。少々疲れていたので二つ星ありのホテル、朝から入室させてくれてありがたい。貧しい旅には少し贅沢。中庭にはプールあり、ゆったりした雰囲気。バスはほとんど水平で眠り、揺れが心地よく何処でも熟睡するのが得意な私は元気そのものですが、相棒さんは眠りが浅かったらしいので昼過ぎ休憩とする。ナスカの地上絵のフライトの旅行社を数社比べてみる。ナスカとパルパの地上絵は二つあるが、ナスカの地上絵だけでとなり、ある旅行社で明日のフライトを予約する。そしてホテルでタクシーを頼み、このナスカの地上絵の保存に貢献したマリア‐ライヘ女史の博物館と砂漠の中のミラドール(観測塔)へ行く。ナスカ市内には本当に何もない。日曜には市があるというメルカドに行ってみるが、簡易な小屋が続く。暑い日差しのなか、魚や肉等は腐ってしまうのではと心配になる。もっとも清潔にしなければ売れないのではないかな。匂いと暑さのメルカドはもう結構ですと、夕食の美味しそうな店を物色してホテルでゆっくりする。私は屋上にいる犬が可愛くて、何度も会いに通いました。我が家の犬猫達はどうしているかな。

 ナスカの地上絵
peru_09_10ナスカの地上絵(クモ)
peru_09_11ナスカの地上絵(ハチ鳥)
 ペルー時間には呆れる。8時30分の飛行と聞き予約したのに、実際のフライトは10時30分。旅行社は自分の会社は他よりフライトを毎時間持っているので、貴方の望む時間に飛びますヨとか。2時間も待たされ、嘘つかれた。信じた方がアホなのかな。これがペルー時間と諦める。最初から期待はしていなかった。5人乗りの小型セスナのプライベートなので私たちだけ。朝のうちが一番よく見えるらしい。操縦士がガイドもしてくれる。日本語も少し。右はコンドル、左はサルというように説明付きで、12個ほどの絵を見せてくれる。35分間を空から砂漠地帯と農耕地帯の様子も近くに寄ってくれよく見られたのは幸いでした。何となくテレビで観るのよりは迫力があった。フライトは終わりのほうで少し気分が悪かったので、しっかり見ていなかった。
 ナスカのホテルはとても気持の良いものだった。私たちはバスで7時間ほどかけてリマに再び帰って来た。宿は中心街の6人部屋のドミトリー。旧市街を歩くのにはとても便利で、宿の近くが噴水のあるマヨール広場で、大統領府もあるため衛兵の交代式もあり、カテドラルやサント‐ドミンゴ教会もある。フランシスコ教会の地下の墓地カタコンベはぞっとするような人骨の山。サン‐マルティン広場でこの旅の終りを祝し、セルベッサは一段と美味しいらしい。
 今回のペルーの旅は、計画した通りに都合よく事は運んだのでありがたいことだったが、成田に着くと厚生労働省の検査官が数人機内に乗り込んで来て、私たちが自己申告した健康に関する項目を調べにかかった。検査官は何の挨拶もなく、何をするのかの説明もなく、発音の悪い片言の英語で外国の人に質問したり、私たちを機内に1時間以上も留め置き、何の言葉もなく去って行く。トランジットで時間の少ない客には非常に辛いことだったろう。最後だけでもお手数をかけたことを侘びる言葉は、はっきり言って欲しい。外国のお客様に恥ずかしいことだ。役人なら、もっと態度を毅然として欲しいと思った。
 新型インフルエンザのことは成田空港で初めて知った。こんなことは初めてだったが、厚生労働省の役人さんなら、乗客に不快な気持にさせないように、しっかりとマイクを使い説明と挨拶を望んでいます。
 遠いと躊躇していたペルーに難なく快適に旅ができたことは、相棒さん達が皆元気であったこと、しっかりと支えてくださったことがその源です。どうもありがとうございました。
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ナダの旅  〔2006.9.8〜9.19〕
 カナダの西部は3年前に終わっていたので、東へはいつかと思っていた。幸い『山の会』の相棒さん二人と、三人で行くことになる。この広いカナダ。日本の27倍もある地を一度の旅では到底無理だと、今回も広大な国のある一部にすぎない。「紅葉には早いかな?」と期待を少し持ってカナダのケベック州へと飛ぶ。
 ケベック・シティ
canada_1ネイティブ‐インディアン
 アメリカの航空会社だったので、途中トランジットでデトロイトに入出国をし、ケベック‐シティの空港に夜到着し、旧市街のユースに直行した。宿は便利な場所にあり、朝食はセルフサービス。いろんな国の人と会う。朝食を終えて散歩をしながらの観光の始まり。街全体が城塞都市として、世界遺産に登録されているだけの気品と風格がある。近くのノートルダム大聖堂のステンドグラスが、優雅さと金色での室内の色彩の豪華さに目をみはる。今日は小雨が降って観光には悪い条件。セントローレンス川から吹き上げて来る風の強さはすごい。街は三層に分かれていて、ロウワ−タウンの巨大壁画は見栄えがあり、ロワイヤル広場から石畳の道を登ったり下ったり階段が多いので少しずつ疲れてくる。
 新旧の建物が、違和感なくほどよく調和した建築物は歴史的な事実も語り伝えている。ケベックの人々をケベコワと言い、フランス文化をしっかりと守り、彼らの合言葉「人生を楽しく」という信念を持ち生活をしているらしい。市庁舎の造りも威厳がある。一番の見どころは、フェアモント‐ル‐シャトーはこの街のどこからでも見えて、巨大な城のようなホテル。屋根部分のシルバーグリーンがとってもハイカラな色。興味本位で、この屋上階まで上がってこの街を眺める。首折れ階段を下ったり総督の散歩道をゆけば、高台の要塞シデタルへと続く。ずらーりと砲台が並んでいる。戦争の歴史を経てこその、この誇り高き街の出現となったケベコワ人達の心意気があるのだろう。
 次に、私たちは落差83mのモンモランシーの滝をめざす。案内所で訊いても、ツアーに入ることだけを教えてくれる、自分達で市バスで行きたいのに無理なのかなと心配したが、間違ったり人に訊いたりする。少しの苦労もなく目的地に着いたのでは面白くもない。恥も外聞もなく訊けばよいのだ。私たちは外人なんだから。モンモランシーの滝も、バスのドライバーさんの助けによって、やっとその滝の上部に着き、知らない人から自然生えのリンゴをいただき、滝の上の吊橋より怖々覗く経験をする。橋の両サイドに下へ降りる木製の階段。下から眺める。さすがの落差とその轟音にはすざましいものがあった。

canada4モンモラシーの滝

 オルレアン島
canada2オルレアン島のリンゴ畑
 何かの本で、数年前にこの島が載っていて、行きたいナと思っていた。滝近くのレストランで、地図上では一番近い道なので、そこの行き方を訊くが、バスはなくタクシーを呼んでもらう。セントローレンス川に架かる細く長い唯一のオルレアン橋を渡る。この島は橋が1本しかなかったので、カナダ本土の近代的な発展に後れてしまった、それが今でも開拓当時の面影を色濃く残し、その伝統の家屋が観光の一因となる皮肉な結果となっているらしい。メールで連絡をとっていた民宿(B.B.)の女主人と娘さんの出迎えを受ける。日本の派手な看板と違い、ヨーロッパでは旅行者にとっていつも困ることの一つに、何のお店か分からない場合が多い。建物の中をソーと覗くと、やっと区別がつく。この島も同様で、家屋の番号だけが頼りである。それだけ周囲の風景に配慮しているのかな。この島の魅力は、豊かな農地に果樹園やワイナリー・クラフト工房が沢山あって、田園風景に溶け込んでいる。イギリス風スタイルの家屋が、夫々の個性あるスタイルとガーデニングで道の両側にあり、今はブドウ・リンゴ・ナシ・プルーン等の果物の収穫時。沿道には小さなテント張りやログハウスのショップが点在し、自分の農園のものを売っている。
 このB.B.の家の中には、オーナーの好みの物を沢山飾っている。部屋に沢山の物を飾ると、ほこりが付いたりする。アクセントに一つ飾ればよいと思うのだが。ここの女主人は、アクセサリーを首から手から指にあるゾと想像した通りの方、化粧が濃く身体にも沢山の飾りを付けている。部屋の好みと自分への飾り方はよく似ている、好みだから仕方ないかな。三人で散歩しながら縦横に道を歩いて、牧歌的なこの島を楽しむ。春には砂糖楓からメープルシロップを搾取する様子が見られるそうだ。ガーデニングで不思議なのは、アジサイのグリーン色の花がこのカナダに来てよく眼にする。オルレアン島にも沢山咲いている。この島は濃霧が多く、船からでも我家がよく見えるようにカラフルな屋根が多いそうだ。冬は寒く冬眠の経営状態らしい、春から秋が稼ぎ時らしい。放牧の牛や馬達の飼料となる草を、大きなタルのような束にして、あちこちに転がっている。泊まったB.B.の裏庭が広くニワトリも飼っている。リンゴ・ナシが自然生えの状態だから、枝から落ちそうなくらい重そうにたわわに実っている。多分家庭用のジュース・ジャム・パイに使うのでしょう。この宿の犬はリンゴが好きで、落ちたリンゴは決して食べず、垂れ下がった枝から食いちぎって食べる利口な犬でした。朝食も豪華で手作りのものが多い。こうして家庭的に接してくれる宿に泊まって、この先すごしたい希望でもあるがどうなるかな。おとぎの国のような島に何日も滞在したい気持ちもあるが、限られた日々の旅。心残りのオルレアン島でした。宿の主人がケベック‐シティのバスデーポ(バスターミナル)まで車で送っていただいた。


 モントリオール
 ケベック‐ティから3時間ほどで着く。モントリオールに着いてから、ホテル探しに苦労した。バスデーポの近くにB.B.は沢山あるが、三人の気に入ったものを探すとなかなかない。結局は、ダウンタウンの中にまぁまぁのものを見つける。この街は第二のパリといわれるフランス語圏で、夏には世界的なジャズの祭典が催され、ケベコワの人々の陽気さが多彩なイベントになり、連日連夜がジャズの大洪水となるらしい。
 初秋の今はすごしやすい気候。大きな地下街があると聞く、冬の厳しい季節には快適に移動とショッピングができる。
 私たちは夕暮れの官庁街を歩く。重厚なバロック調の市庁舎は中心街にデーンと位置して、ネルソン像の建つ大きなジャック‐カルティエ広場には、世界中からやって来た旅人達が多くのパフォーマンスに見とれている。夫々に、凝った建物の裁判所・博物館。フランスにもイギリスにも影響を受けて、歴史的な複雑さの匂う街を散歩する。
 「ボンスクール‐マーケット」とあり、マーケットには庶民の食材ありと足を運んでも、他の目的のものになっている。泊まった宿の近くにはレストランやパブが多く、犬を連れた若者のホームレスやアル中の人々が道端に寝込んでいる姿も多く見かける。若い人がどうしてこんなになるのかな、何とか働けば食べていけるのでは。旅先でこういう人達に会うのは辛いことです。モントリオールの中心を少し離れると、三階建てで外に階段が付いていて、夫々が別の家族の住んでいる家屋が続く。外の階段は家を広く使うことと、だいたい濃い茶色系建築時の流行色でしょうか。
canada5モントリオールの市庁舎


 メープル街道のロンシャン地方へ
canada3トレンブラン村のメンシェル湖
 モントリオールは大都会。1日か2日で観光しようなんて無理な話。旧市街の主な建物をちらりと眺めたくらいだが、この北部をめざしロンシャンの紅葉を訪れることが目的としていた。
 一番の奥地のモン‐トレンブレンに向かう。ロンシャンは驚くほど広い。向かう車中から、次から次へとゴルフ場が現れる。冬はスキーのメッカらしく、適当な勾配の丘はリフトだらけ。湖も沢山あって、釣りやボート、そして一大レジャー施設の町々が連なっている。モン‐トレンブレンに着くが、いかにも造りたての施設という感じ。私たちが過ごしたいのはもう少し奥の村。生活の場と一緒になったB.B.に村営バスで行く。丁度メルシェル湖の真ん前に、頃合いの台所付きの快適な宿を得る。まるで上高地のよう、色とりどりの紅葉のなか、落葉を踏みしめながらの大森林地帯はリゾートエリア。湖の辺り別荘がゆったりと建てられ、各家の船着場に小さなボートを持ち、週末や休暇にはここでのんびりと休養してビジネスに再び戻っていく生活。サイクリングの人々は、必ずヘルメットをかぶる規則があるのでしょう。こんな暮らしもあったのかと、信じられないくらい日本のことは遠くにある。私たちはスーパーで買い物をして簡単な食事を作ったり、朝もやのなか湖面を揺らしながら昇っていく水蒸気。湖の周囲の草花を、見知らぬ鳥達を訪ねるのんびりとしたトランブレン村でした。
 ここのオーナーは、カナダ先住民のインディアンを父に、フランス人を母とする混血の人。骨格が大きく、ポニーテールの髪がよく似合っているので訊いて見たらそうでした。話しながらウィンクをする癖がある人で、よく気のつく魅力的な方でした。


 モン‐トランプランの登山
 冬は巨大なスキーエリアの地でしょうが、湖を背景とした低い山々の紅葉を山の上から見たいと意見が一致する。普通の観光客は、だいたいゴンドラで頂上まで登ってその眺めを楽しむらしい。ゴンドラのチケット代を惜しむ訳ではないが、これぐらい訳なく登れると思った。登り始めは木の階段、森林のあいだ滝を見ながら日陰を登り、鹿さんにもお目にかかった。気分よい登山だったが、途中からガレ場がありロープウェイの下の危険地帯だったけど、花々が咲いている暑い陽射しのなかあえぎながらやっと頂上へ。見物人は日本人の馬鹿さに少し皮肉まじりの拍手に迎えられる。
 紅葉した山々が連なり、トランプラン湖・ミロワ・ウイメ・ムーア湖のこの広い大森林地帯を一望する眺めは、自分の足で登ったがゆえ有難い一時でした。さすが、カナダの大自然と共存する人間の知恵が造り得た一大リゾート地である。疲れた足でモントリオールにバックする。オタワ行きは、モン‐トランプランから直通はない。モントリオールにバックする以外、オタワに行けないそうだ。


 オタワ
 この国の首都、政治の中心である。ケベック州の西の外れ。もうすぐケベック州とはお別れの地。途中で雨が降って来た、嫌だなあ。バスデーポに着いても雨は止まず。ケベック‐ティの強風で骨が折れた傘をさしてB.B.を探したが、結局はユースホステルに決める。このユースは元刑務所だったところ。女子・男子別の階で私は3階6人部屋の二段ベッドの下。部屋にも階にも二重の重い鉄格子の扉に鍵があり、さすがに厳重。囚人の気分でも味わえるかと思って泊まる。まずは、パーラメントヒルの国会議事堂がオタワのシンボル。大時計を中心に国の重要な政治機関が集まり、グリーンの芝生の広場の周りにある。カナダの独立戦争の犠牲者を偲ぶ記念碑が観光のヘソになる。雨なのでリドーの運河のクルーズはお休み。街の中心から全長200kmのリドー運河は、軍事物資を輸送手段として建設した、冬にはアイススケートリンクになるらしい。国立美術館はモダンな建物で巨大であり、ノートルダム聖堂は古いが小ぢんまりして荘厳な雰囲気を持っていた。港の近くにマーケットがあるが今日の雨で人では少ない。魚の市場は、種類の少ないのが気になる。旅にある間の雨ほど、最悪なものはない。心を重くして監獄の宿へと帰り夕食をとる。部屋では夜遅くまで若い女の子が騒々しいし、上の人が動く度にベッドがギシギシと音をたて浅い眠りの夜でした。canada6オタワのハガキ
canada8オタワの時計塔

 ナイヤガラ‐フォール
 オタワの街の、昨日見ていない側を散歩しながらバスでーポまで歩く。
 今日はキングストーンに向かう。いよいよオンタリオ州に入る。五大湖のひとつ、オンタリオ湖のほとりに発展したこの都市も水運で栄えた水の都。キングストーンと呼ばれているのは石灰岩のことらしい。カナダの国土の大きさは来てみてびっくり。次の街に行くにも長距離で、その間は牧場や麦の畑。途中の景色が楽しみなヨーロッパと違い、同じようなのっぺらぼうの変化のない風景の続きで面白くなく眠たくなるだけ。
 今晩泊まるB.B.は、セントローレンス川に浮かぶ沿岸警備船が転用されて宿となったもの。4人部屋の船室を3人で使う。ホットシャワーとトイレは別室。許せる程度の清潔さはあるが、これも好奇心がさせるのかな。一つの経験かな。ザックを置き市内の観光に出かける。B.B.の隣に海洋博物館。かつて産業を支えた、スチームエンジンの巨大さを展示している。市庁舎は白い大きな建物で目をひく。セントジョージ教会も、白きライムストーンのイギリス的な建築物、セントローレンス川の多島域をクルーズするサウザンド‐アイランドは風光明媚なところらしいが、私たちにその時間がない。
 私たちは、B.B.の朝食以外まともな食事をしていないので、今晩は日本食が恋しくなり、韓国の人がやっている日本料理店に入ってみた。即席のだしで作ったものは食べてみてすぐ分かる。深みもまろやかさもない料理だった。カナダの人々にこれが日本料理と思われているとは心外だな。自分の国を離れて、ますます日本が好きになる傾向は誰にでもあることでしょう。
 今回泊まった宿で、この船の宿が一番朝食の準備をきちんと整えて待っていてくれた。今日は長距離の移動となる。トロントでバスを乗り換えて一気にナイヤガラの滝見物に行こうということになる。
 デラックスバスはエアークッションが利いて乗り心地がよい。二人のところを、皆一人づつ座ってゆったりとしている。ナイヤガラ‐フォールに近づくとワイナリーが多い。これだけ多いのでは、カナダの家庭の食卓では必ずいただくのでしょうか、それとも輸出が盛んなのだろうか。
 バスデーポからリバーサイドにはB.B.が次々とある。しっかり者の清潔そうな宿に決定し、歩いて30分くらいかけてまずナイヤガラ‐フォールに。レインボー橋はアメリカとカナダを結ぶ国境。両国の旗が相互にあがっている。これまでの街をずっとセントローレンス川が続いて流れてきている、どこまで続くこの巨大な川というより海は、ここに発しているのだな。滝からの落差で生まれる、汚いアワの流れが川の中に太線となって流れている。ナイヤガラの滝は一つと思っていたのに、ゴート島を挟んで二つに分かれている。アメリカ滝の下には多量の岩が散在して、落差はカナダ滝より高い。カナダ滝の方が倍ほどの長さがあり、テーブルロックから両方の滝を眺めれば、白い煙のしぶきとなり対岸まで小雨のように降ってくる。滝の上部が、鮮やかな透明なグリーンなのは不思議です。この世界的に有名な観光地を訪れる多民族が通り過ぎていく。訳のわからない言葉を話しながら滝を背景に写真をとっている。そんなに期待したほどの感嘆はない。ここは一大観光地となり、カナダとアメリカの地が接する集団の最大リゾート地である、多くのタワーやホテル・カジノ・レストラン・土産物店が、軒を連ねている。滝の下までの船での見物、ヘリコプター、そして洞窟ツアー等数々のアトラクションがあり、ツアー客の集まりがある。やはり、苦労してやっと辿り着いて眺める、自然の広がりに感嘆する山好き者の旅とは一味異なる思いがあった。次の日の朝はいつものようにB.B.の近くを散歩する。カナダに来てからリスの姿を多く見る。ここにはとりわけ多く居る。黒リスが多い、茶もグレイも時折見る。天敵がいなかったためか、それとも食料のナッツ類の森林が多いからか、尾がリスの身体より大きく、その動きが尾は立てたままスムーズに走る。ナッツを手で持ったり、ほっぺをふくらませたり、仕種のあいらしさ。可愛い小さなリス達だった。
 B.B.の朝食は、食べやすい大きさの熱々のホットケーキを次々と作っていただき、カナダ名物の例のメープルシロップで食するのは絶品でした。

canada7ナイヤガラの滝全景

 トロント
 トロントに行く途中、今日は土曜日だからかガレージセールの宣伝の看板が電柱によくある。さぁ、大都会のトロントはどんな街なんだろう。この週末は映画のイベントがあるそうで、予約なしの旅人には宿に困る。もうこの短い旅も終わりだから、貧しい旅には少し不釣合いのホテルになったが、便利なところがいいかな。観光へと出かけるが、すごい人出の多さにびっくりする。天を突くように高いビルウォール街の近くにホテルはある。二つのデパートをそして地下街へ。人出を見に行くようなもので好みではないが。2日間を、市庁舎・州議事堂・美術館・トロント大学等、市内の主な建築物を見物して帰国する。
 あらためて、カナダの巨大さを思い知らされた感じのする今回の旅。日本の国土の27倍とは想像もつかない広さである。3年前より、カナダドルが強くなったのか日本円が弱くなったが、物価が高くなっていた。自分には、やはり小さな国で田舎巡りをして適当な高さの山に登り、小さな宿に泊まり、その地の人々の暮らしを見物するのが性に合っていると強く思った。
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