漂泊の山旅(国内)
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2009年秋<西中国山地の山旅>

9月8日〜10月21日(44日間)
ホンダCL50cc使用 走行距離約3700km(西尾単独)
 中国山地を甘くみるつもりはないが、おだやかで人にやさしい一面をもっているのではないかと考えて、年齢を重ねてからでも充分登れる、と判断していた。まとまった山域の山旅の最後に目標としたが、実際は変化に富んだ魅力的な存在であった。
 この山地を世間では壮年、あるいは老年期の山容と考えられ、丸味をおびた藪山ばかりと思われているが、実際は小形ながら岩山が非常に多いことは注目される。これは古代から鉱山開発と、砂鉄の収集がおこなわれ、薪炭の必要から山林の利用度が高かったためで原生林はほとんどなく一定の時代差で伐採周期があったためと思われる。従って伐採後の山地崩壊が続き、表土も洗われ岩が露出したものと思われる。
 この露出した岩塊を神の座、つまり岩磐と考えて祭祀する山が多数存在する。
この地方に多数ある「冠山」はこの岩場のことであったし、山頂部の片側に存在する露岩のために山頂が傾いた独特の形状をもつ冠山が多数みられる。
 備北から芸北、出雲、石見の地方には「神楽」が多数残され、小さな村単位でも保存活動が活発である。中には「神楽村」を作り毎日神楽を上演している施設もあり注目される。大部分は各地のホテルや、温泉旅館などで「社中」が出張公演しているが、我国の芸能の源流とみられることから、もっと注目されてよい。
 神楽と言えば三河奥の霜月祭や、九州高千穂のものが知られているが、中国地方のものは進化し、より芸能化して充実し、数も多いので若者の出演者が多数を占めている。
 神楽こそ我国の祭りや芸能の源であるだけに、この傾向は好ましいと思う。
 中国山地を東と西に分けて考えてきたが、これは正解であった。西中国山地として、島根、山口、広島、三県の堺は明らかに共通性が高く、東の岡山、鳥取、兵庫西部一帯とは違った風土性がある。魅力的な山もここに集中していた。会員の萩原君は九州の住人なのに、週末になると出張してきて山行を共にした。別表には相当数の登頂記録が残っている。彼に逢うのも長い山旅の楽しみのうちであった。
 また島根県の道の駅でテントを張っていると警察が度々やってきたのは、住民の通報があったためで刑事三課というのは「窃盗」物取りなどとみると島根県の実情がよく分かる。
 つまり旅行者がキャンプ場以外でテントを張る風景を見なれていないためで、きっと山中の「ワサビ盗」がウロウロしているとしか思えなかったのではなかろうか。島根県民の民度が低い、とは言わないが、素朴な人情深い県民性が保たれているのだろうと思う。がしかし、防犯意識ばかりが発達すると、善良な旅人も敬遠するから防犯で成功しても、もっと大きな損失に気付かねばならない。
 西中国山地と言えば旅の俳人、山頭火や牧水の歌碑が沢山残っている所でもある。
 彼らの旅は一流旅館や料亭を泊まり歩いたのではない。それこそ「草枕」を地で行くものだったはずだ。そうした素朴な旅の中から芸術が生まれて行くのであった。
 警察の防犯意識の行きすぎは、こうした草枕的な旅から生まれる上質の芸術行為も撲殺してしまうおそれがあるばかりか、旅人の感情をも大きく傷つけてしまうおそれがある。そして更には、そのような仕打ちを受けた風土そのものを否定的に観てしまうおそれもあるだろう。それは将来にわたって実におそろしい結果を予言しているかにみえる。予防行為によって犯罪が減少しているのも軽量しておくべきだ。『一将功成万骨枯る』状況が生じないよう希望しておく。
 道の駅の情報室、休息室を早い時間に閉鎖するのも全国的な傾向だが感心しない。これも9.11の世界的テロ事件以後のこと、警察の防犯意識が過度に反応したためだ。テロなど関係のない山奥の道の駅にテロ対策とは明らかに行きすぎである。これもわが国民の均一性のたまものか、「道の駅」が国交省と地元が連携してドライバーの安全運転と健康の増進を図る目的で作られたのに、これでは逆噴射的行為であって道の駅は今や農生産物の売場にすぎなくなった。道の駅の目的は今や当初の40%程度の機能しか残っていないと思う。
 出張して来た刑事の二人には悪いが「1ヶ月ばかり、テント泊しているから、通報くらいで、いちいち出張していては空振りばかり、当方も夜中起こされて迷惑だ」と言っておく。
 西中国山地は無料のキャンプ場も多く、特に大竹市三倉山では長期間お世話になった。有難いことだ。三倉山は中国地方有数のRCのゲレンデで立派な人工壁もあるが、現在使用されていない。政治的に難問があるらしく不幸なことである。こんな例は各地にあり、日本人は主張することばかりで政治的な調整能力を失ってしまったのではないかと案じられてならない。
 山口市民の人気の山は東西の方便山(実際はもっとむつかしい字を使うが)土、日曜日ともなれば蟻の行列となる。隣に一等三角点の「ダツヤ」があるのに誰も見向きもされない。例の百名山ガイドで有名な岩崎氏の「新日本百名山」の表示が山頂にあって、新たなブーム作りに精出しているようで、地方でも地元の山が少々でも有名になれば、と協力しているようだ。が小生たちには全く無関係のことだ。
 長期の山旅に出ていると様々な事がおきるが、それらをさばいて行くのも楽しみのひとつで、この味を知った者はやめられなくなるのである。今では旅の危険など心配していた時代がなつかしく思えるようになった。
 台風に出合って逃げ道を考えたり、長雨でテントも寝袋も水濡れ激しく対策も不発で茫然自失のときでも、どこかで余裕を感じている自分がある。むろん、それを支える体力があってのことだが、絶体絶命、万策尽きたかとおもわれたときにも、誰かが現れて助けてくれる事が多く、浜田では見知らぬ人の家にも泊っている。70才をすでに越えて久しいがもう少しやれそうな気がしている。むろん家族や、友人、知人に迷惑をかけないことが前提ではあるが。

<登山した山一覧表>
羽衣石山  古峠山  福居山  栃山  鯛ノ巣山
船山  岡田山  黒川明神山 西天神嶽  カンノ木山
鷹ノ巣山  金明山  原山  鉾取山  大箒山
●三倉山  佐伯冠山  ●平家ヶ岳  ●長野山  ●馬糞ヶ岳
●石ヶ岳  ●青野山  ●十種ヶ峰  ●安蔵寺山  燕岳
●大神ケ岳  ●立岩山  白滝山  大師山  羅漢山
経小屋山  傘山  冠山  寂地山  野貝原山
高照寺山  太平山(牟礼山)  右田ヶ岳  佐波山
白石山  日暮ヶ岳  ●東鳳翩山(東方便山)  ダツヤ
鯨ヶ岳  桂木山  拘留孫山  霜降山  平原山
萩権現山  田床山  _岳  飯ヶ岳  ●島ノ星山
●三瓶山  韮草山  比礼振山  大麻山 漁山
大佐山  大遺山  寒曳山  冠山(コウブリ)  田原冠山
伴蔵山  出雲弥山  高尾山  玉峰山  三国山
猫山  出雲大山  葦嶽山  御神山  その他
※ ●印は萩原辰作君同行
  他は西尾単独行
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 寂地渓の滝
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 三倉山
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 大神ヶ岳の立岩
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 佐伯冠山の岩場(まさに冠そのもの)
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 断魚渓から見上げる冠山
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 三瓶山の群峰
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2009年春<九州の山旅>

<行程>
大阪南港―大分―杵築―由布院―九重―別府―臼杵―佐伯―宇目―竹田―高森―高千穂―鞍岡―椎葉―西米良―東郷―日向―西都―宮崎―都城―日南―串間―肝属―大根占―鹿屋―鹿児島―蒲生―藺牟田―祁答院―樋脇―川内―串木野―伊集院―加世田―枕崎―川辺―知覧―鹿児島―宮之城―大口―出水―水俣―大口―人吉―水上―国富―綾―須木―多良木―五木村―五家荘(泉村)―子別峠―清和―矢部―熊本―宇土―天草(上島・下島)―島原―諫早―長崎―彼杵―西海―嬉野―武雄―唐津―伊万里―松浦―平戸―佐世保―杵島―佐賀―久留米―高良―浮羽―甘木―小石原―田川―英彦山―山国―日田―上(中)津江―八女―菊地―阿蘇―八代―菊地―阿蘇―小国―玖珠―由布院―別府―大阪南港
<走行距離>
5,240km
<登頂山概略>
高崎山 小鹿山 大平山 遠見塚 経塚山 伽藍山(硫黄山) 雨乞山 城ヶ岳 野稲山 崩平山 黒岳(久住) 霊山 本宮山 障子岳 九六位山 鎭南山 姫岳 尺間岳 椿山 栂牟礼山(古城山) 騎牟礼山 越敷岳 筒ヶ岳 黒峰 小川岳 飯干山 高塚山 石堂山 鳥帽子岳 遠見山 青井岳(辻ノ岡) 牛ノ峠 柳岳 金御岳 薬師岳 白山 八山岳 高峠 白鹿岳 山ノ神 虎ヶ尾岡 舟見山 片城山 権現ヶ尾 牟礼ヶ岡 金峰山 長尾山 磯間岳 花尾山 鳥帽子岳 鹿倉山 矢越山 笠山 黒原山 三方山 高塚山(人吉) 広見山 北岳 保口山 白鳥山 ◎仰鳥帽子岳 ◎国見山(五木)◎白髪山(五木)矢山岳 雁俣山 京丈山 飯田山 三角岳 老岳 角山 愛宕山(島原) 船石山 八郎岳 長浦岳 ◎鏡山 屏風岳 佐志岳 安満岳 白岳 虚空蔵山 国見山(松浦) 黒髪山 八幡岳 杵島山 犬山岳(鳥泊山) 高良山 耳納山 発心山 鷹取山 馬見山 屏山 ◎英彦山(三山) 鷹ノ巣山 尾ノ岳 猿駈山 渡神山 ●龍ヶ岳 ●倉岳 花牟礼山 その他
当会員萩原辰作君と◎印の山に同行する。●の山には八代ドッペル登高会代表の吉川満氏と登る。他は全て単独。
※大阪からフェリーを使い別府へ上陸。

 ホンダCL50ccバイクにテント・コンロ等を積みこみ、53日間のうち2回のみ民宿に泊り、他に当会員で九州在住の萩原君宅でごろ泊する。彼は現在唐津の病院勤務で寮住まいなので部屋の鍵を持たせてくれて自由に使うよう配慮してくれたが、雨宿りなどで結局3泊したのみで、目標の山のある地方へ移動した。彼の好意には本当に感謝している。付近に未登の山がもっとあれば利用させてもらったはずで残念だった。
 又、八代市の吉川氏には携帯電話で九州の山の情報を度々もらったり、心配をかけたりした。何しろ前例のないやり方で山旅をする同年配の老登山者が単独で自分の縄張りである九州の山をウロウロするというのだから心配なのは当然だろう。度々「家へ来て休養するように」と言ってくれたが、二度訪ねて都合3泊した。帰る直前には必ず来るようにとの強い言葉に甘えて、ずい分ご馳走になってしまった。感謝にたえない。
 バイクによる低コスト重視の山旅は、11年目となるが、毎度今年で終りにするつもりで厳しさに耐えつつ気がつけば11年も経っていた。もう限界近くになっているので次のスタイルを考えようとはするが、限界まで通すべきとの考えも出てくる。先のことは考えずに行きたい所へ行ってみるのもよいだろう。例によって行き先ではめずらしがられて親切にしてもらったり、特典を得たりした。有難いことである。登った山のリストをみれば、ほとんど知られていない低山もふくめて、九州の全域にわたるが、各地でその地方独特の特色ある人と自然にふれ得た。
 九州は北海道や東北と違って列島の開発過程が最初だった関係で人口も多く道路も狭く痛んでいるが、都市部の喧騒を外れると、反比例するかのように田舎では人情も深いものがある。今の時代に意外とも思えるが、九州から外に出たことがないという人が多いのである。登山者は人間の手にふれない純自然を求める傾向が強いが、人と自然との関係は捨てたものではない。九州では水田のほとんどが山地の棚田で見事な石垣が積まれ、その積み方にも技術の時代差や流通経路が読み取れる。満々と水が満たされた棚田をみていると東アジアの民族の共通性からくる強烈な感動が湧きおこってくる。
 九州の山は低山の部類であるが、ほとんどが火山の影響を受けており、低くても部分的に岩場をもっている。薮の中にスカートをはいたように岩の帯が走っている。この部分にクサリ場があったりするが、他はだいたい道もあり1〜2時間で登れる。これらの山を1日3山程度登るとなるとアプローチの選定作業などに長い経験の差が出てくるのでけっこうなアルバイトとなる。
 山頂だけが目的となるともっと可能だが、九州のような山では人と自然との関係で山を観ないと意味がない。高さと岩と雪だけが山の価値を決めることはないからだ。それに気付いてくれる登山者が増加してほしいものだ。九州の登山者群のなかで気付いたことがある。彼等は山頂が目的ではなく、春のシーズンは花の季節でもあって、毎年同じ場所へ登って行って花を観賞してくる。登山界でよく言われるセオリーは完全に無視した装備も時間も技術もおかまいなく道のない薮山に入って行く。薮中で迷っても「昨年とは違う道だ」とか話しながらも地図など全く見ない。
 日数を経るごとに都市での生活リズムが、山旅のものに変化して行く。夜が明けるのが少しづつ早くなるにつれて完全に朝形スタイルになり、5時にはテントをたたみ、朝食をすませ、6時にはすでに走っている。そんな頃、新聞配達とよく出逢う。彼等は時々「余っているから読んで下さい。」と広告の入ったままの朝刊をくれる。それと同時に地方の情報も生のものが聴けるのだ。コスト要求は厳しくタイトであるが、考え方によっては実に優雅な山旅生活ではなかろうか。
 こうして今回の山旅では約100山を登り得た。まだ意図した山は100山以上残っているが、九州の山は概登ですでに400山は超えている。それでも登り残した山は多いのだ。曲者ぞろいの高千穂周辺の岩山の他、中央部の背梁山脈の一部が残った。も一度長期の山旅が可能ならば、それらの山を片付けてみたいと念じている
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 よく走ってくれるわが愛馬の勇姿

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 えびの市には沢山の田の神(たのかんさあ)の石像が残されている
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 鹿児島蒲生町の日本一の大クス
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 やまなみハイウェイから阿蘇根子岳(左)と高岳(右)
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 越敷岳の怪異な姿
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2008年夏<東北・北関東の山旅>

 東北山行の帰路、長雨にたたられて難渋していたころ、東海道のある旧宿場町で雨宿り中の旅人二人に出逢う。そのうちの一人は20代で小生同様の50ccバイクに乗り、日本一周中という。彼は45kmなのに速度違反でつかまったので、バイクを改造したとウソの申告をして、ナンバーを上のクラスにあげたという。そんなことが可能なのか疑問とするが、これで彼は50kg以上出して車の走行する波に乗って走れる。と自慢するのだが、そんなに早く日本一周を完走した後どうするのだろう。と人事ながら案ずる。彼の目的は日本一周後に変化するだろう。日本百名山完登後の登山者同様、百名山を二回三回と巡るのか、全く別の価値観で日本という国のことを観ることができるのか、それが問題である。“日本一周など簡単なことだ”と言い放つのがもう一人の旅人で77歳の老人だ。自転車に50kgの荷を積み仕事を放れ妻に死別して30年近く放浪の旅に出ているという。丸坊主の頭は異様な風体に見えるが話をするうちに単なる浮浪者ではなく中々のインテリだった。若い頃は様々な職業を経験し全国の都市に住んだという。海外も、米英仏伊中に東南アジアと多彩であり何で好んで貧乏旅をしているのか不思議とするが、日本の田舎は素朴で良く世界に誇れると言い、旅に果てるのが夢だという。
 先の日本一周の若者と話が合わないのは当然だろう。この老人の話は傾聴に値する。若者は勢いにまかせて、我道を行く体で小降りとなった道路へ出て行ったが、彼もやがて老人の話の真価を知るときがくるに違いない。
老人は一度行った所でも次に行けば全く新しい発見があり、旅は段々深化して行く、という。
「もうこれで全て知った」と思っていた所でも、その土地の最も重大なものを見逃しているものだ。とも言う。彼は阿武隈が良かったと言う。さすが旅の達人である。岩城から福島へ阿武隈山中を襷がけするように斜め横断する国道399号は阿武隈の道を象徴的に物語っている。
 高くもなく低くもない山並。丹波高原のように山並の間の小盆地に小規模な集落が点在する他は人の気配のない山中をひた走ることになる。国道なのに行き止まりの感が何度もある道。道標もほとんどなく、広い道を行けば公共の施設であったり、ポツンと存在する1軒の農家であったりした。
 そんな孤独な道をテントや生活道具を50kgも積んだ自転車を走らせる老人の姿は一般には理解を超えているが、彼はこの国の自然と人間の姿を多くの政治家よりはるかに正確に観察していることだろう。小生はこの老人から多くの示唆を受けたように思う。
今回の東北の山旅は、白神山地の大物を秋田の岳人と共に登り、反転して佐渡に渡り、更に新潟から西会津の山から焼石岳の衛星峰と遠野の幾つかの山の他は、比較的軽い山が多かった。1日に数山に登れる日もあれば2日かかりの山もあるなかで今回の山旅で最大の特徴は北上の周辺の遺跡だった。丹内(タンナイ)神社というめずらしい名の神社が北上から遠野に至る道筋にある。これが実はアラハバキ神を神体とする世をはばかる仮の姿であった。
 小生は京都に住み、その昔東北遠征を試みる王権の里で近くに桓武天皇陵もある。蝦夷(エミシ)を制圧した将軍として名をあげた田村麻呂が墓であるという将軍塚もある土地で物を考える限り、野蛮な民族の同化策と考えられてきた行為が、実は侵略戦争であったことに気付かされる。先住民の抵抗は当然のことであるが、彼等の信仰も圧殺され、中央の神によって乗取られた。ほとんどの神が殺されるか改宗をせまられるなかで、わずかに原初の趣を残しているものがある。丹内神社は胎内かも知れないが、社殿は驚くほど精緻な彫刻がほどこされていて感動する。それにも増して本殿の裏側に、これこそ神の本体である亀甲状の大岩がありアラハバキ神としている。この神社の形式は異様であると感じるのは、社殿の類は後の作で本来は大岩のアラハバキ神のみがあったのを大和化するなかで神社の形式に改変されたものとみられる。しかも、この社を支持したのは藤原二代であるということだ。これによっても、原初は反体制の側にあった社であることが明確となる。
 北上とその周辺には、人首丸や、大嶽丸などという蝦夷の族長の終焉の地や墓が残されている。
田村麻呂を困らせたうえで降伏したアテルイの名も各地に残るが、なかでも反体制側の宗教施設と思われるものに、黒石寺や、平泉寺と岩屋などがある。いずれも体制側の寺社の形式をとってはいるが、どこかが全く違っていると感じてしまうものがある。そのことが蝦夷といわれた人々の鬱積した感情の現われなのであろう。“炎立つ”はNHKの大河ドラマとなったが著者の高橋克彦氏はくりかえし、エミシを追及しているが、この時代こそもっと研究されなければならないと思う。
 東北の祭りも沢山見た。中でも圧巻は相馬野馬追いで四日間も相馬・鹿島・原・小高の町を巡り走った。地元の人の温情で良い思いをさせてもらったことを感謝したい。
 阿武隈の山は十数座、思う存分に登って北関東から東京の友人宅へ寄り、秩父から雁坂峠トンネルを抜け甲府から、富士五湖の一部をかすめて駿河に至り、東海道を帰宅となった。豪雨が続いたが何とか逃げ切り帰宅できたことは針の穴を通すような微妙な判断と賭けのようなところもあった。一日中雨の中を走って、さすがのゴアテックスの雨具も水を通し、ついにはパンツまで濡れて夏なのにガタガタ震える始末に銭湯に飛び込む。
今回の山旅でのもうひとつの収穫は遠野で見つけた「縄文語の謎」阿部順吉著であった。縄文語とはいかなる区分か、縄文人と蝦夷・アイヌとの関係が明確でないことから、にわかに信じられるものではないが、大和言葉以外に流通する言葉がある以上示唆に富む1冊である。東北人の「なまり」といわれるものは、ひょっとすると別のものなのかも知れない。じっくり読んで調べてみたいジャンルのひとつである。
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 丹内神社奥宮のアラハバキ御神体(北上から遠野への途中)

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 南部地方の民家(人が住む家屋は少ない)
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 小湯(こよう)山から大洞山(一等三角点)を望む
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 山形市の裏の山腹にある、小生お気に入りのテント場(日没間近のひととき)
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 米沢市の南、会津への交通路だった綱木の村(もはや機能を失い消えゆくのみ)
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 二ツ箭山の男岳から鎖場のある女岳をみる
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 相馬「野馬追い」(総大将は相馬家の一族がつとめる)
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<登頂山名一覧>
太夫峰  向日神岳  吾妻峰  尾太岳  歌見載山  山毛欅ヶ平山 女神山  経塚山  東境山  大地山  大日山  風越山  高陽山 鏡山  鳥屋峠山  会津布引山  笠ヶ森山  岩瀬妙見山  権太倉山 日山  花塚山  野手上山  鉄山  旗巻山  深山  泉ヶ岳 衣川国見山  駒頭山  松倉山  南本内岳  猫山  飛龍山  金成山 笠根山  耳切山  片羽山  愛染山  甑岳  水晶山  雨呼山 鵜沢山  面白山  富神山  盃山  東黒森山  小湯山  大洞山 寒成山  馬頭山  小舟生羽山  岩岳  次郎太郎山  夫婦岩  古霊山 虎捕山  移ヶ岳  鎌倉岳  五十人山  浪江手倉山  戸神山  日隠山 大滝根山  二ッ箭山  屹免屋山  蓬田岳  男体山  大子  妙見山(竹貫) 竹貫鎌倉山  栄藏室  高鈴山  松倉山  吾国山  その他
   2008.7.30〜8.31(60日間)
   総走行キロ数 6,700km
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東中国山地の山旅――2008年4月27日〜5月10日

 中国地方には山が無い、と関東の人は言う。若い人の好む山は確かに少ないが、小生のような年齢となると面白い山が多くあって、あれも、これもと地図をながめて興奮しているのである。
 他の山域の山をあらかた登った人が最後に行く山地との評は多数の支持を得ているようで、小生ですら、最後に廻している有様だ。それでも中国地方の山は広島・岡山・鳥取を中心に主たる山は終わっており、沢にも行っている。島根と山口は、数年前一周しながら外周の山へ幾つか登ってみた。地元の遠足などに利用されている低山はそれなりに面白く、会津や遠野の近くの山に似た趣が感ぜられる。今回は、岡山東部の広島に近い所から大山へかけての主ヵ所を片付けてみたが、中々深い山もある。旧出雲街道と古い宿場町など思いがけなかった所も知って充分満足して鳥取を経て帰京した。
 走行距離は約1600キロだったが、都市部の走行は今後はさけたいと思う。特に山陽地方は最悪であった。
 例によってバイクによるアプローチをとったがそんな人はどこにも居なかった。
 山を遊びとして帝釈峡や鯉ヶ窪湿原などにも行ってみたいが、前者は中々立派なものだった。後者は江戸時代に作られた水利用ダムの上流が湿地化しているものだが面積が広く西日本一の規模だと地元では言っている。はたしてどうか。
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higashi_tyuugoku1 鯉ヶ窪の湿原

higashi_tyuugoku2 荒戸山の神社

higashi_tyuugoku3 備中最奥の宿場町=新庄村の陣屋

higashi_tyuugoku4 備中から伯耆へ(大山と烏ヶ山)

higashi_tyuugoku5 若桜町の不動院岩屋堂(重文)

higashi_tyuugoku6 帝釈峡の石橋
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四国・伊予地方および九州一周の山旅

 当初は四国伊予の登り残した山に限定して20日程度の予定としたが、天候の安定と気分が乗ってきたこともあり、しかも八幡浜から三崎への長大な半島へ来ると「ここはどうしても九州へ渡らねばならぬ」と決めてフェリーで佐賀関へ。九州の資料を持参しなかったので海岸沿いの登り易い山々を拾いながら時計廻りで一周する。忠実に海岸を辿ると距離が出るがローカルな味があって面白いし価値もある。
 四国では島の山(妹背山)や半島の山(由良ヶ岳)が辺境の味がこたえられなく、また、九州でも半島の山が素晴らしかった。平戸南端の志々伎岳、薩摩半島の野間岳、亀ヶ丘、今岳など忘れられない山である。長崎は小さい自冶体にすぎないが、山の連なる半島と島で構成する。これを忠実に辿るとなると大変な所で海岸線距離は我国でも最大級のものだ。
 初めから登る山を限定しない方法は、かくれた名峰に出合う旅でもある。思いがけず立派な山に出合ったり、登路が見付かったりして収穫は大きいし楽しませてもらった。
 本四橋では唯一、歩行者・自転車・軽車輪の通れる「しまなみ街道」は料金全部でも500円余りで極めて安価で、これを利用しないのは馬鹿といっても過言ではない。しかも他の橋と違って橋脚の一番外側の出張った所を通るので高度感と風景の一帯となる臨場感がたまらない。ここを通るのは車は駄目で自転車が一番だ。一番大きな来島海峡では風が吹くと遊園地のジェットコースターの比ではなく恐ろしい気分にさせてくれる。
 橋の四国側に観光バスでやってきて、自転車を組み立てていたフランスの30人程の集団は、「こんな素晴らしい所は少ない」と嬉しそうに仕度をしていた。外国人はさすがに目ざといのである。「四国に3本も橋はいらない」と経済効果のことばかり気にして、現場を知らず白眼視する日本人をよそに外国では有名な観光地なのである。そのうち中国人がどっとやってくることだろう。そうして、一番後ろから日本人が、その価値に気付くことになる。
 最後に道路のことにふれておく必要がある。「道路は必要ない」との論議が盛んであるが、新しく造るのではなく既存の国道を改良しなければならない。地方の国道は皆オーバーユース(過使用)でガタガタだ。特に10号線と三桁の国道は穴だらけで通れたものではない。なるべく農道や旧街道を走ったが、国道よりはるかに良好だった。やむを得ないときは夜か早朝に走ることにしている。それでも日本の国道は夜昼の別なく車が走っていて、これを道路行政にたずさわる人々は必ず見ておくべきであると思った。道路は新しく造るのではなく、今あるものを改良すべきことが急務であると思う。
 今回の山旅で日本列島の外側を一廻りし終えたが、リアス式の海岸線をもつこの国の自然と人情は今も美しく頼りになるものだった。「この国(日本)は駄目だ」とあきらめたり溜息をついているのは、現場を知らない都会に住む評論家達だけであり、現場はもっとたくましく、美しく、健全であった。外国も多く見てきたが、やはりこの国は将来性で抜き出ているのではないか、と思い直している。
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iyo1 水ヶ浦の見事な段畑

iyo2 滑床渓谷

iyo3 由良半島先端(龍の下顎部分)

iyo4 土佐・伊予境の屋根付きの木橋

iyo5 四国カルスト台地(大野ヶ原と丸石山)
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kyusyu1 猪群山のストーンサークル

kyusyu2 平戸島先端の志々伎山

kyusyu3 野間岳

kyusyu4 坊津の今岳

kyusyu5 平戸島の棚田
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<登頂山名一覧>
・四国=近見山・北三方ヶ森・伊之子山・世田山・笹松山・塩ヶ森・桂ヶ森・大野ヶ原・丸石山・雨包山・
    高研山・九十九曲峠・霧立山・長山・城川御在所山・戸祗御前山・篠山・妹背山・由良ヶ岳・
    泉ヶ森・高森山・堂所山・鞍掛山・笹峠山・雨乞山・雨霧山・コクゾ森・見晴山、その他
・九州=樅木山・彦岳・元越山・高畑山・清見岳・下山岳・今岳・亀ヶ丘・野間岳・弁財天山・牛深権現山・
    大島百合岳・志々伎岳・犬ヶ岳・求菩提山・鹿嵐山・猪群山・姫島矢筈岳、その他

期間=2007.4.27〜6.3
行程=京都―丹波篠山―新見―尾道―しまなみ街道―今冶―松山―久万―梼原―城川―松野―宿毛―宇和島―
   八幡浜―三崎―佐賀関―時計廻り九州一周の山旅へ、帰路は別府からフェリーで神戸
   使用交通手段 ホンダCL50CCバイク テント・コンロ持参
   一般宿泊施設は利用せず
   総走行キロ数 4,200km
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東北・北関東の山旅――2007年9月10日〜10月16日

 京都→山梨(坂野氏宅) 越後経由東北へ
 新潟→秋田→青森→岩手→宮城→山形→福島→栃木→茨木→群馬→長野→富山→岐阜→石川→福井→滋賀→京都
 夏の沢遡行合宿に森吉山の沢があったので例年通り7月〜8月の夏の長期山旅が一ヶ月ずれこみ9月中旬の出発となった。夏合宿のひどい暑さと虫害によって相当ひどく痛めつけられたため10日ばかり休養の後、九州福岡から軽自動車で京都へやってきた萩原君の車で出発する。例年の原付バイクの山旅と勝手が違い思ったようには行かなかったのは、両者の目標とする山が違ったことと生活習慣の違いによるものだった。それでも約30山に登ることができた。
 京都を発ち、まず山梨県在住の当会会員坂野氏宅を訪れ二日間すごした。名古屋から東京へ転じ、更に定年後の自由で山梨県北社市にて農業を営む坂野氏夫婦にお世話になった。あつかましくも帰りにも立ち寄り一泊してしまった。
 長期の山旅はやはり単独がよいが、別々の行動でも時々特定の場所で会うのが最もよいと思う。
 山旅も工夫次第で実に面白いバリエーションが組める。だが、小生の山旅も、そういつまでも続けられるものではない。あと2〜3年で困難となることは目に見えている。
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07nishio_1 マザーツリーのブナ(白神山地・津軽峠から10分)

07nishio_2 奥八九郎温泉々

07nishio_3 薬師岳から早池峰山

07nishio_4 高倉森へのルートから見える岩木山

07nishio_5 秋田駒ヶ岳(貝吹山より)

07nishio_6 八方山の石仏
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四国・伊予地方および九州一周の山旅

 当初は四国伊予の登り残した山に限定して20日程度の予定としたが、天候の安定と気分が乗ってきたこともあり、しかも八幡浜から三崎への長大な半島へ来ると「ここはどうしても九州へ渡らねばならぬ」と決めてフェリーで佐賀関へ。九州の資料を持参しなかったので海岸沿いの登り易い山々を拾いながら時計廻りで一周する。忠実に海岸を辿ると距離が出るがローカルな味があって面白いし価値もある。
 四国では島の山(妹背山)や半島の山(由良ヶ岳)が辺境の味がこたえられなく、また、九州でも半島の山が素晴らしかった。平戸南端の志々伎岳、薩摩半島の野間岳、亀ヶ丘、今岳など忘れられない山である。長崎は小さい自冶体にすぎないが、山の連なる半島と島で構成する。これを忠実に辿るとなると大変な所で海岸線距離は我国でも最大級のものだ。
 初めから登る山を限定しない方法は、かくれた名峰に出合う旅でもある。思いがけず立派な山に出合ったり、登路が見付かったりして収穫は大きいし楽しませてもらった。
 本四橋では唯一、歩行者・自転車・軽車輪の通れる「しまなみ街道」は料金全部でも500円余りで極めて安価で、これを利用しないのは馬鹿といっても過言ではない。しかも他の橋と違って橋脚の一番外側の出張った所を通るので高度感と風景の一帯となる臨場感がたまらない。ここを通るのは車は駄目で自転車が一番だ。一番大きな来島海峡では風が吹くと遊園地のジェットコースターの比ではなく恐ろしい気分にさせてくれる。
 橋の四国側に観光バスでやってきて、自転車を組み立てていたフランスの30人程の集団は、「こんな素晴らしい所は少ない」と嬉しそうに仕度をしていた。外国人はさすがに目ざといのである。「四国に3本も橋はいらない」と経済効果のことばかり気にして、現場を知らず白眼視する日本人をよそに外国では有名な観光地なのである。そのうち中国人がどっとやってくることだろう。そうして、一番後ろから日本人が、その価値に気付くことになる。
 最後に道路のことにふれておく必要がある。「道路は必要ない」との論議が盛んであるが、新しく造るのではなく既存の国道を改良しなければならない。地方の国道は皆オーバーユース(過使用)でガタガタだ。特に10号線と三桁の国道は穴だらけで通れたものではない。なるべく農道や旧街道を走ったが、国道よりはるかに良好だった。やむを得ないときは夜か早朝に走ることにしている。それでも日本の国道は夜昼の別なく車が走っていて、これを道路行政にたずさわる人々は必ず見ておくべきであると思った。道路は新しく造るのではなく、今あるものを改良すべきことが急務であると思う。
 今回の山旅で日本列島の外側を一廻りし終えたが、リアス式の海岸線をもつこの国の自然と人情は今も美しく頼りになるものだった。「この国(日本)は駄目だ」とあきらめたり溜息をついているのは、現場を知らない都会に住む評論家達だけであり、現場はもっとたくましく、美しく、健全であった。外国も多く見てきたが、やはりこの国は将来性で抜き出ているのではないか、と思い直している。
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iyo1 水ヶ浦の見事な段畑

iyo2 滑床渓谷

iyo3 由良半島先端(龍の下顎部分)

iyo4 土佐・伊予境の屋根付きの木橋

iyo5 四国カルスト台地(大野ヶ原と丸石山)
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kyusyu1 猪群山のストーンサークル

kyusyu2 平戸島先端の志々伎山

kyusyu3 野間岳

kyusyu4 坊津の今岳

kyusyu5 平戸島の棚田
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<登頂山名一覧>
・四国=近見山・北三方ヶ森・伊之子山・世田山・笹松山・塩ヶ森・桂ヶ森・大野ヶ原・丸石山・雨包山・
    高研山・九十九曲峠・霧立山・長山・城川御在所山・戸祗御前山・篠山・妹背山・由良ヶ岳・
    泉ヶ森・高森山・堂所山・鞍掛山・笹峠山・雨乞山・雨霧山・コクゾ森・見晴山、その他
・九州=樅木山・彦岳・元越山・高畑山・清見岳・下山岳・今岳・亀ヶ丘・野間岳・弁財天山・牛深権現山・
    大島百合岳・志々伎岳・犬ヶ岳・求菩提山・鹿嵐山・猪群山・姫島矢筈岳、その他

期間=2007.4.27〜6.3
行程=京都―丹波篠山―新見―尾道―しまなみ街道―今冶―松山―久万―梼原―城川―松野―宿毛―宇和島―
   八幡浜―三崎―佐賀関―時計廻り九州一周の山旅へ、帰路は別府からフェリーで神戸
   使用交通手段 ホンダCL50CCバイク テント・コンロ持参
   一般宿泊施設は利用せず
   総走行キロ数 4,200km
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2006年東北地方の山旅

 夏期の長期にわたる山旅は、小生の定年後9年間になるが、辺境からはじめて次第に列島の中央に近づきつつあり野性味が乏しくなってきた。つまり面白みが減少しているわけだ。
 逆に交通量の多さに悩まされている。昼夜変わらず、特定の道路では夜の方が大型トラックが増加する傾向もあって嫌味が増している。
 北海道の、また九州の離島のあののどかさに味をしめて次々と対象を広げてきたものの、どうやら末期の姿が見えてきた。それでも今回走り回った地域は大都市周辺を除けばましな方で存分に走り克つ登ってきた。なかでも山形、岩手、会津では思い通りの山旅ができたと思っている。
 日本中を旅して思うことは列島の両端は縄文の色濃い地域であり、仏教よりアニミズムの世界が生きていることを感じる。仏教はいかにも後発組で、中央の権力を借りて辺境へ浸透を図っている姿にみえる。それらが具体的に見えるのが山名、地名であり実に興味深いものだ。
 小さな山にも山頂に祠があり何がしかの信仰が実在したのであり、現代の住民が、その信仰形態を忘却していたとしても民族のなかに形として残っているものだ。羽山、森山、靄山、保呂羽山、鳥兔山などが地図に記載されているものより実際の数の方が多いのも新しい発見であった。それらの低山に出来るかぎり登ってきたが祭礼は終って、もっぱら学校の遠足の対象とされているものもある。
 信仰は先祖供養(崇拝)霊信仰等であるが、それらはむろん仏教以前からのものだ。
 ガイドブック片手の登山ではそんな山に登ることはできない。地形図をなめるようにながめて不思議なことを探す行為の末にはじめてできることで、これこそオリジナルの登山である。
 小生を「低山趣味」と称する人が居るが、それは間違いで未知の山をねらっているだけで山の高低は関係がない。高山に未知の要素が少なくなっただけのことである。現在ねらっている山は、千メートルそこそこの藪山で、むろん道などない。
 山形県、新潟県、岩手県のあたりにはそんな山はまだ幾らか残っているが誰も行かない。単独では手強いので仲間がほしいが誰も付き合ってくれないのでそのままになっている。
 百名山など追っていないで、そんな山へ登ればウデも上がるし少しは世に知られた登山家になれるが誰も乗ってこない。
 今回の山旅も、そんな困難な山を素通りせざるを得なかったので底引き網のように手当たり次第に登ってきたのに残念ながら網に大穴があいてしまった。弁慶山、立谷火打岳などと共に、焼石、栗駒周辺の仁星峰などがそれらの山であるが誰か「だまされた」と思って付き合ってくれる人を望んでいる。登頂の山名は別紙に出しているので写真のみとなるが、残念ながら山旅の半ばでデジカメを落下破損して後半部分は無い。
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06touhoku_1 焼石連峰「手形山・鷲ヶ森」


06touhoku_2 夏油温泉
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 『遠野物語』ダンノハナから山口村とデンデラノ(後ろの森=姥捨てが行なわれたといわれる)
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06touhoku_4 遠野の田園地帯から六角牛山
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06touhoku_5 界木峠から早池峰山


06touhoku_6 新山から白見山
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 新山は999mだが、1m土盛りして1000mにしてある
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 川井村・平津戸の旧道を入ると、桃源郷のような村がある。映画のシーンを見るようだった
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 川井村・区界峠の東に兜明神がある(鳥居の奥の山は兜明神岳)
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 江刺の古い町並みはよく保存されている(道路で行なわれていた獅子踊りの熱演)
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06touhoku_11 徳仙丈岳


06touhoku_12 富士山型の長い裾野を広げる室根山
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期間=2006.7.28〜9.19
地方=新潟・山形・岩手・宮城・福島(会津)
   ホンダCL50バイク使用  5660K走行
   全行程テント使用  全費用約15万円
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対馬の山旅 <バイクを使う山旅への招待>

はじめに
 対馬と言えば国境の島で韓国に最も近く、昔から人的交流、文化などあらゆる部門で重要な位置をしめてきた。
 南北85キロ外周の道路を走ると百キロを超す大きな島である。北対馬と南対馬で二つの島から成りたつと考える人が多いが元は一つの島である。大船越、小船越という切開きを陸地のせまい所で運河を作ったからだ。最近では万関橋という立派な橋をかけて、その下を相当大きな船が通るようになり、やがては対馬の中央にあたるこの地にフェーリーが接岸するようになるらしい。この地から空港も近い。
 島は90%が山地で海岸はリアス式の複雑な入江が沢山あり、なかでも浅茅湾の美しさは見事である。対馬の山地に住むツシマヤマネコは最近では山奥ではなく人里に近い所へ出て食糧を得ており餌付けをしている人も居る。小生も二度出合っていて島民が見る機会は昔より増加しているのは、種の増加でなく逆の結果である。
 対馬は現在も大陸との関係が深く、道路標識にもハングル文字があるように、観光客のうちの約半分は韓国からくるという。
 対馬の山は南島に集中しており、有力な山が沢山あるのに対し、北島は山島に違いないが有名な山は御岳くらいで他は低い山ばかりである。
 対馬の山に登る場合は実際の標高に300〜500米をプラスするのが実態と合っている。それだけ高度感と野性味が深いからだ。
 交通は一本しかない国道を走るバス以外は利用できる路線がなくレンタカーが中心となる。小生はレンタバイクを利用しテント・ザックなどをつみこみ自由に山野をかけめぐったが、これがコストや対馬の良さを百%引き出すのに成功したと思っている。
 以下はその概要である。
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 平成十一年三月、対馬の厳原港にてレンタバイクを借りすぐ内山へ出発する。
 内山は矢立山・竜良山など有力な山が周囲をかこむ内院で高原の村である。昔は炭焼きの寒村だったが現在では高原の村として評価が高まっている。
 フェリーが昼ごろ着いたから急がないと日が落ちるので多少とばす。

<舞石ノ壇 ・五三六米>
 まず最初に舞石ノ壇に登るが板置峠付近から登る道がある。頂上は名の通り露岩が点々と転がっているようで面白い山だ。道は山頂を経て小鳥毛山に向ってついている。ただし舞石ノ壇の北面を通る林道は山陰で凍る場所がある。登降で45分。
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<大鳥毛山 ・五五五米>
 続いて大鳥毛山の入口があり北へ15分で山頂だ。平凡なので林道から立派に見える小鳥毛山にも登ってみた。こちらの方が良かったと思う。山は標高だけではないのである。

<矢立山 ・六四八米>
 林道をさらに西へ三分の所に矢立山入口の標示があるが西進で発見できず引返して見つけた。建てる位置にもよるのだろう。急いで藪っぽい道を尾根に出ると草地となり道は矢立山の腹を巻いて北進する。最初これに迷いこんで40分ばかり大事な時間を費し、おまけにメガネを失ったが帰りに幸運にも発見し新しいガムまで拾って、これは神様がくれた駄賃だと思う他なかった。この道はよく踏まれているので、ほとんどの登山者は迷い込んでいるのだろう。  先の草地まで戻り西の斜面をみるとかすかな踏み跡がありこれを追うがかなりわるく明瞭でない。人の通ったかすかな臭いを追って藪こぎとなる。
 やっと頂上かと思うとさらに長く長く続き、ようやく三角点があり北方のみ藪が切られて有明山の方面が見える。何の変哲もない頂だ。
 あわてて登ってきて地図もコンパスもないことに気付くが西に傾く陽が明るく照らすのが南側とみてルートを計算し無事入口に戻った。どうも精神が混乱していたらしい。
 今日はテント泊の予定なので時間はあと一時間は使えるので峠から増木庭山へ登って豆酘に向かった。ガソリンを入れテント場を物色していたら釣舟が帰ってきた。船主と話し込んでいると釣った魚が余っているから食え、と土間で魚三昧となり後は民宿の素泊りとなった。
 民宿で竜良山の登路を聞くが、昔は登拝したが今は誰も登らないらしく内山で聞くように言われる。豆酘とは珍しい名であるが、村のはずれに古い時代の神社がある。対馬は日本文化のルーツでもあるだろう。翌日は内山に行って聞いてみると登山道があると言い道を確かめて行ってみるとはたせるかな登山口の看板が裏向きに倒されていて登山者をこばんでいるかのようであった。

<竜良山 ・五五九米>
 入口にバイクや荷物を置いたままサブザックで登り出す。すぐ天道法師祠があり(石積のケルン状)から道は二分する。右をとり右左へと振って少しづつ急になると右の方へトラバースする。これは変だと思いつつ他に道もないので行ってみると立良と木槲との鞍部へ登りついた。ここにも石を積んだ門状の跡が残っている。登山口から一時間である。
 天候はぐづつきガスで照葉樹はいよいよ暗いなかをまず右へ木槲山へ向う。この道はよく踏まれていて35分でテレビ塔のある山頂である。一般には車で木槲山まで来て竜良山へ往復するらしいが小生の経験では内山からが登山らしくて良い。
 竜良山は対馬一〜二を争う名山で原始の色が極めて濃厚である。ツシマ山猫に二度も出合ったのもこの山である。うすぐらい山道を竜良山に向う。一直線の道だ。次第に露岩が出てきて、まるで神社の参道みたいになると尾根もやせて来る。岩場が出て右から巻き登ると小広い岩頭に出る。天気が良ければ素晴らしい展望があるのだろう。岩の奥の台地にはおそらく祠があったのだろう。さらに奥へ進むと草地のなかに二等三角点がガスに覆われて鎮座していた。道標もテープもない自然な山頂であった。このような素朴な田舎娘のような山こそ求める山なのだ。
 山頂から萱場山方面へは完全に廃道で歩けないので引きかえす。
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<白嶽 ・五一九米>
 竜良山が午前中に終ったので厳原へ引きかえし国道を北上する。空港の近く「鶏知」でガソリンを入れ対馬唯一の酒蔵を訪ね、その名も「白嶽」を京都へ送る手続きをする。
 鶏知は対馬では古い町で厳原以前の都であったらしい。鶏知で若干の酒と食糧を仕入れ洲藻へ向う。白嶽は酒の名になるほどの名山で今は洲藻から登るが、昔は太祝詞神社のある加志からが本道であった。その証拠に今は洲藻白嶽と言うが、昔は加志白嶽である。
 洲藻までバイクならわずかで川を渡る橋から早くも白い巨大な花崗岩を乗せた奇怪な山容の白嶽が見えてくる。
 アプローチは長いがバイクなら気分よく接近できて車とは違う感覚である。
 登山道は公園化の工事中でブルドーザーがあちこち引っかきまわしている。これで美しい自然が保護できるのかうたがわしい。
 やがて急登すると大岩があり二ヶ所岩屋があった。更に急登すると三角点峰方面の道を分岐する。白嶽へは鳥居をくぐり今まで以上の急登につぐ急登で小祠と鳥居がある小平地に着く。平地はこれで終りで、ここから上は岩登りとなる。
 ロープが幾本も垂れ下がっている所を登っていると上から夫婦一組が下りて来た。風が強くて登れないと言う。成程強い風が岩に当り大きな音響を出している。岩と岩の間を登りせまい鞍部を乗越して反対側へ廻りこむと風当たりは少しおだやかとなり左の岩峰へ登れる。反対側の岩は無理である。展望は良好ながら曇天だ。
 白嶽は凡容な山ではない。鋭鋒と言うべき名山だ。風に吹き飛ばされそうな頂を逃げ下る。  先の分岐から三角点峰へ往復した。その道は日露戦争時代の軍道で、加志から上見坂(厳原)へと通じている。
 この日は洲藻・鶏知を経由して上見坂の公園にてテント泊となる。
 上見坂は対馬一の展望所で観光名所である日露時代の砲台や兵舎の跡がある。少々寒いが夜明けの気分の良さは格別である。
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<有明山 ・五五八米>
 朝スープとフランスパンで出発する。今日は近くの有明山である。この山は厳原の背後の山で古歌にも出てる。しかしのっぺりした山で昨日の白嶽とは対照的な山だ。林道を走り途中の山にも寄り道をして柳ノ壇でバイクを捨てる。そこから山頂まで一時間とかからない。展望は雄大ながら山の風格はけっこうあるが何かが不足しているような感じがした。
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<城山と鉾ヶ岳>
 昨日の洲藻へ引き返して更に加志まで行き太祝詞神社へ訪ねてみる。三月なのに田畑にレンゲが咲き乱れる彼方に白嶽が立ちはだかっていた。神社の前庭の草を刈りとっていた老婆に聞いてみると素朴な社なのに全国から学者が訪ねてくるらしく誇りにしていた。しかし、今は別の社と合祀されているのがいかにも現代らしい。
 洲藻方面へ引き返して城戸口から城山へ登ってみる。これがなかなか良い岩峰で車止めから約一時間で砲台が二基ある所につき少し引き返すように登ると山頂だ。展望は申し分ない。兵舎の跡もレンガ作りで、よくこんな場所に作ったものと感心する。山頂にして水が湧き出す井戸があるのも不思議だ。この城山も元は古代の山城で大陸との戦いのために造られ「金田城」と呼ばれ国の特別史跡である。
 ついでに近くにある鉾ヶ岳に登っておくことにする。車止めから峠状に出て左の軍道を行くと道が荒れてバイクでも行けない。そこから歩いて反対側へ廻りこむ地点より引き返すように尾根に取りつくとかすかな踏後があり20分で三角点に達した。道標もテープもない頂からは南方にあの特徴ある白嶽が雄大な姿を現している。ほれぼれする風景だ。
 正面には岩だらけのワニの背のような城山が寝そべっていて岩間に無数の花を咲かせていた。
 その後も下対馬の西側の山や村を訪ね更に北対馬へも数日間を費やして烏帽子岩・御岳・平岳・香木山などに登ったが割愛する。
 バイクでも対馬を南北へ走りきるのは相当苦労する。雨の中を50キロも走ればたまらない。駐在所の巡査にコーヒー出してもらったり、意外な所に素晴らしい料理を出す民宿を発見したりで面白い旅であった。どの教科書にも書いていない独自の登山法ながら、経費をへらすにはバイクを持込む以外にない。その方法も現在考え中である。小生の対馬の山旅は他の人に比較すればゆっくりしたペースだと思うが、まだ急ぎすぎる。対馬全島で一ヶ月は必要で山だけでなく古社を訪ねるだけでも価値の高い旅になるはずだ。
 中途半かもしれないが南対馬の主要山岳は紹介できたと思っている。(平成十一年三月歩く)

◎交通
 九州郵船 092-281-0831
 対馬交通バス 09205-2-1810
 吉永レンタカー 09205-4-4111
 畑島商店 09205-2-0308
 (バイク・ボート可) 09205-7-0678
 来徳商会 09205-2-0182
 (バイク可)
◎情報
 対馬観光協会 09205-2-1566
 厳原観光商工課 09205-2-1211
◎宿泊・その他
 厳原民宿協会 09205-2-4748
 民宿たちばな(豆酘)
 民宿きらく(女護島) 09205-4-3106
 美津島町民宿協会 09205-2-4748
 だるまや旅館(上県町)09208-4-2020
 河内酒店(白嶽・やまねこ) 09205-4-2010
 対馬動物保護センター 09208-4-5527
◎費用 約七万円
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左 木槲山(右)と竜良山、右 白嶽(州藻より)
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左 鉾岳より怪峰白嶽、右 加志から白嶽(裏側)
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素朴な造作の宮社(州藻付近)
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2005年夏の東北地方北部の山(夏)                 2005.7.9.〜9.11(64日間)
・データ
 使用車輌=HONDA.BENLY CL50 走行距離=4740km
 宿泊=テント使用 総費用=\126,400 単独のほか、若干の参加者あり
・概 略
 例年の夏の北海道行きは、若いころからの通算で約400山に登って一段落した。続いて東北地方へ中心を移して、同じ形態で山旅を続けることとする。北海道と違って、東北の山は規模が小さく野性味もうすくなってくる。何より熊の恐怖から開放されたことが大きいためか、大量の山に登り続けることができた。東北の山も主要な所は登り終えているので、対象たる山は里山が多くなる。
 百名山〜三百名山や、アルピニズム主義者達には関係のない山ばかり登って何が面白いのか、と思われる向きもあるかも知れないが、これがこたえられないのだ。なかでも、靄山(他に母谷、茂谷、雲谷などの異字あり)などは、仏教以前の民間信仰の素朴な形態を残しているのではないかと考えられて面白い。保呂羽山・羽山なども興味深いものがあり夢中になって登ってしまう。東北の山は、民俗学の視点がないと理解できない要素が多い。力仕事で登りたい向きには不向きで、他へ行った方がよい。
 一日数山の里山を登っても、一つとして同じタイプがないのも良い。今年は台風が二回来たが、いずれもコースを外れて行動できた。おかげで休養日を作るのに困るほどだった。気温が高く、虫が大量に発生し、蚊除の線香と器具を使うが、それでも刺された。虻・蟻・蛾など、あらゆる虫が空を舞い地を這っていた。
 山旅の途中には、夏祭りの個性的なものに沢山出合って充分楽しむことができたことは大変幸せだった。青森の「ねぶた」に内陸の「ねぷた」など、各地方の趣向を凝らした山車の多彩ぶりにおどろきながらも楽しんだ。秋田の祭りには上方の雰囲気がある。西馬音内(ニシモナイ)や、毛馬音内(ケマナイ)などは「ハッ」とする凄さがある。
 温泉も山奥の野趣豊かな本物の秘湯へ入った。なかでも、秋田の奥九八郎温泉は虻の大群が飛び交うなかを入ったが、誰も居ない自然のままの姿であった。山菜とりの地元民が居て、写真をとってもらうのが精一杯だったが満足だった。
 温泉といえば、同じ秋田の川原毛の湯も面白かった。川原毛地獄から流れる三途川が、滝となって落ちる所が湯釜となっている。二筋に分かれて落ちる滝の中段にタタミ一枚程度の釜が深く穿たれていて、登って行けるしよい湯釜である。しかし、この湯釜で中年夫婦が入って何か変な動作をしていたのには本当におどろいた。こんな神聖な場所で神仏を信じない人間が居るなんて……。若い者ならともかく、この川は何といっても「三途川」なんだし、あの世との境の地獄というのに困った人達である。それとも彼等は「あの世」への境界で道行を楽しんでいたのかも知れない。
 長期の山旅をしていると、様々な事件や出来事に出逢うし面白い非日常的なことに出合う。「予定」を超えたところに、本来の旅の醍醐味があるのかも知れない。いつまで続けられるか知らないが、こんな面白いことを他人はなぜしないのか、長期の旅を心ざして出かけて行きながら、途中でなぜ、そそくさと帰ってくるのか気が知れない。郷心がついてしまうらしいが、本当の良さはその時点から始まるのにおしいことをするものだ。
 今年登った区域は、青森県・秋田県の全域と、岩手県の北半分である。「自然のなかで日本人がどのように暮らしてきたか」が、山を介してよく分かる地域である。低山ほど人間との関係が深く染まっていて実に興味深い。
 2006年は、春に四国・中国・北九州の山旅をして、夏以後は東北(岩手県南部・宮城県・山形県)の山旅を企画中である。真夏の東北地方は、北海道と違って暑すぎるから本当は秋がよい。その他では、10日〜2週間のミニ山旅を、中部・北陸地方でやってみたいと思う。
 今年の登頂山は、別のデータで発表するので、この項では写真(山頂や三角点ではなくめずらしいものにした)をのせるにとどめたい。
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左 津軽の民家、右 五所川原の立ネプタ
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左 高尾山・不動滝(秋田・雄和町)、右 秋田・奥八九郎温泉
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左 岩手・早坂高原(三巣子山)、右 旧南部の民家(数が少ない)
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左 岩手・平庭高原のシラカバ林、右 岩手・葛根田渓谷の自然温泉
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左 遥拝所からみる 湯殿山、右 秋田湯沢市奥の三途川筋に残るワラ人形(3mのなまげ状)
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左 丁岳、右 笹子峠より雄加無山と女加無山
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左 遠野・早池峯神社旧里宮(?)、右 朝日スーパー林道の峠より祝瓶山
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「西尾寿一の部屋」へ戻る
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「私の空間」へ戻る
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