中米(メキシコ・グアテマラ・ベリーズ・ホンジュラス)45日の旅――西尾寿一
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左=サンデイゴ・アテイトランにて(グアテマラ)  右=アテトラン湖とサン・ペドロ火山(3020m)
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左=テイカル遺跡1号ピラミッド(グアテマラ)  右=エルタヒン遺跡中心部のピラミッド
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左=パレンク遺跡のピラミッド群  右=月のピラミッドから太陽のピラミッドと遺跡の全景(テイオテイワカン)
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 当初の予定では、メキシコからパナマまで南下しながら、マヤ文明遺跡と自然を探る旅を目論んだ。標高は高いが火山のためか飯森形の山ばかりの登山にはあまり魅力を感じなかったが、実際にも現地では登山ツアーが盛んで150〜500弗でガイド付登山がホテルを窓口として容易に行なわれている。しかし平均300弗を何度も出しては予算が足りないし、自分達で実行するには武器が氾濫している中米では危険がともなう。
 内戦が終ってからも武器類は残り、市中には武装ガードマンが昼中でも夜中でも、必要となればいつでも発砲するし、山岳地帯は住民が長い山刃を常に腰につけている。日本の幕末のようだ。バスの床には武器が抜き身で転がっていて不気味である。そんなわけで中米では、現地ガイド付きの集団登山が正しい選択といえる。日本からたいそうなツアーを組んで高い料金出して行くほどのことはなく、現地では1〜2割の料金で済むし送迎と解 散はホテル前で行なわれる。
 メキシコは日本の5倍、中米全体で8倍の面積があり、とても1ヶ月半の日数では無理だと気づき、登山を放棄しアステカ・マヤ等の文明遺跡と自然を対象とする。結局この判断は正しく遺跡のほとんどへ行ったし、グアテマラの自然と民俗にふれることができた。
 言葉はスペイン語であるがベリーズのみ英語だったのでビザ料金の50弗と合わせて、別段行かなくてもよかったと、後で思った。
 アステカとマヤは異なる形態の文明であるが、エジプトほど研究されておらず南米のインカと共に興味深いものが沢山未発見のまま眠っている。観光的には未成熟で中小遺跡では誰にも会わないことが多かった。ただし有名な所、ティオテワカン・チチェンイッツアー・ティカル・コバンなどでは日本人ツアーにも出合うし料金も格別である。その他、国立博物館は必ず訪ねるべきだ。
 自然と民俗ではグアテマラが群を抜いている。山岳地帯にはマヤ時代の住民が残って現地語の世界である。数年前、現地子供を写真にとって殺された日本人がいて今年までツアーが中止されていた通り、現地では古い信仰形態を残し写真をとられると魂が抜きとられる恐怖があるという。この考え方は現在も生きていて成人でも写真は嫌われ、正面からカメラを向けるのはむつかしい。
 美しい民族衣装に身を包む住民は素晴らしい被写体だが、現地の社会秩序を乱す行為はさけるべきで、したがって後ろ姿の写真が多くなってしまった。
 為替レートは円安が始まり財布を圧迫した。どの国に行ってもドル連動とみえて円は一人負けであった。カードを多用するが(これは失敗で支払い期日には更に円安が進んでいた)貧乏人はつらいというのが実感である。ユーロにいたっては手がつけられないほど狂気の値上がりで、これではもうEU諸国に行けそうもない。
 ホテルの問題は、メキシコは楽でユースホステルもあるが、他では困難を感じる。グアテマラでは日本人経営のホテルを転々としたが、良い情報が得られて助かった。特に山岳地帯での情報は決定的な重みをもっている。
 ホンジュラスのホテルで停電に出合っておどろいた。電子機器を作動中だと大問題で考えておくべきだが、現地では特別なことではないらしい。  予想を超えたのは気温の変化の大きさだ。高温多湿の遺跡を歩き、汗をかいてバスに乗れば、超低温に冷してくれる。これでは外国人はカゼをひいて当然である。旅の前半は誰かがカゼ気味でつらい思いをした。後半少しずつ普段の調子をとりもどしたが、まず第一番に考えておくべきものと思う。
 長距離を移動しない。休養日を作る。食事を充実させる。水の補給を忘れない。いずれも基本的なものだが、どうしても先のことが気になっておろそかになり勝ちであった。  今回の旅は相当厳しかった。山登りにたとえれば冬山級のものがあったと思える。

2007年1月31日〜3月17日
西尾寿一・萩原辰作・垂澤祥夫・河村文子
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 旧シッキム王国の旅――西尾寿一
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右=カブルー連山(ぺマヤンツェより)
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左=ペリグからカンチ・カブルー連山  右=夕映えのカンチ(ぺマヤンツェ ゴンパより)
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 観光パンフやガイド本などで、ダージリンは英国統治時代の夏の避暑地にされた、と述べるのだが、実際にはそんな生ぬるい要因ではなく政治的にドロドロしたものである。
 北に開いた馬蹄形をしたダージリンの山脈の一角に立てば、カンチェンジュンガ(以下カンチ)の巨大山脈が北西に圧倒的な重量感で迫ってくる。そのカンチを中心に、西がネパールとの国境であり東がチベットからブータン国境へ続く長い長い山脈である。そのネパールとブータンのとの狭い峡間に広がる一帯、インドがチベットに接する人体でいえば盲腸のようなのがシッキムである。
 ダージリンの一角(タイガーヒルでもよいがもっと高いところ)に立てば、シッキムの全体が見渡せる。英国がダージリンを入手したがった理由がこの景観によって示されているのだ。もしダージリンに砲台を作れば、シッキムのどの地域にも正確に弾を撃ち込むのが可能である。ダージリンの山域は戦略上の最重要地点であったことは、英国がその後においてインド経営とチベットへの勢力拡大に向かった例でも充分説明され多言を要しない。
 シッキムに住んだ民族は、古い所ではレプチャ族とブティア族であるという。民族学の調査ではモンゴリアンだと言うが、怪しいとの説がある。フレッシュフィールドの「カンチェンジュンガ一周」には実に詳しく述べられているので一読を薦めたいが、現在は両民族とも奥地の一部に居住して人前には出てこないとみえて、ネパール人とチベット人ばかりである。フレッシュフィールドの本にレプチャ族の写真が出ているが、こんな服装の人物は今やどこにも居ない。
 シッキムの原住民はレプチャ族でチベットから古い時代にヒマラヤを越えて南へ移住したのがブティア族で、新しい時代に南下したチベット人とは区別される。
 さてシッキム王国の成立過程は次のようである。約350年前にチベットで宗教紛争があり、黄帽派と紅帽派が対立した時、3人のラマ僧がシッキムに入りカンチの南麓のヨクスン(ヨクサムともいう)に同族の土着人を統治者として立て、移住民のブティア族がレプチャ族に君臨することになった。
 シッキム王国とは、レプチャ族の原住民をチベットからの移住者が支配する構図だったのであり、その後はチベットの一部として政治的影響下にあった。
 しかし国境の変動は激しかったと見えて、カリンポンがブータンに占領されたりネパール人の侵入があったりしたが、英国の登場で一変する。近代的な軍隊を背景に、先ずシッキムに戦略的に重要なダージリンとカリンポンを割譲させる。チベットへも軍隊を同行させて交渉の後シッキムを入手する。
 ダージリンが紅茶の産地として有名なのも、ネパール人を大量に入植させた結果である。ネパールにしてもシッキムにしても、人家は山頂尾根にあって川筋には無い。暑さ対策の他にも、安定した居住区として山頂尾根は勝れていたのである。茶の栽培に適したとも言える。
 英国人は植民地経営者としてひどい事を次々とやり、それを真似て我が国も似たような事をしたのだが決定的に異なる点が有る。前者は徹底的に植民地として扱ったが、なぜか後者は同化政策を採った。それに対する議論は控えるが、英国が退いてインド領としてシッキムは残った。これはインドにとって大きい勝利だったのではないかと思う。
 もしシッキムがチベットの影響下にあって、中国の侵入によりダージリンが中国領になったのなら、インドは戦略上決定権を失うことになった。それだけではない。ブータンの東側に続くマクマホンラインという仮国境線は無視され、東アッサムから東の諸州を失うことになったかも知れない。それでなくとも中国は国境線を勝手に南下させてインドを困らせている。植民地時代の功罪であるが、植民地政策は100%悪いと主張する人には悪いが、国境問題に関する限り英国の行為はインドにとって功の部類に属するのではないかと思う。無論英国がインドのために働いたわけではなく偶然の結果に過ぎない結果論である。
 後日インド人の観光ガイドに訊いたところ、中国の最新地図に中国主張の国境ラインが消されていたという。折りしも中印友好で両国首脳の相互訪問が有ったらしく現在のところ友好ムード作りが双方に進められているという。しかし当のガイド氏は、「中国は信用できないから2〜3年後には元に戻っているかも知れない」などと不信感をにじませた。東南アジアでも中国の評判は芳しくはないが、当の中国要人の方は逆に世界から尊敬されて居ると自尊心丸出しで、自制心は皆無なのは自国民に対する宣伝工作であろう。
 レプチャ族については様々な謎があり注目すべき点が多いが、ここでは触れない。
 ダージリンから北望すれば何と言ってもカンチ連山の雄姿である。主峰は二峰に別れて見える。西に続くのはカブルーの二峰、その左にジャヌーが鋭いエッジを見せるが、遥か西に視線を移すとマカルーとエベレストの頭が見える。
 カンチの東はシッキムの奥で高度を落とすが奥にチベットの7000m級の山があり、更にブータンの山とクーラカンリがある。一日中眺めていても飽きない光景である。乾季の毎日晴天に恵まれた季節に充分楽しむことができる。
 シッキムの入域にはインドのビザの他に許可証が必要である。大阪の領事館で可能ながら、情報は少ない。シッキム内部でも可能地域が分かれるが、チベットに接する区域が困難でガントクのツーリストオフィスで聞くより他はない。200ルピーで許可地域の追加が貰える。
 シッキムは東と西に分かれる。西シッキムはカンチへのルートで、最奥のユクサムはジープで5〜6時間かかるが桃源郷とも言える。この地からトレッキング3時間で、ネパール国境線を北上してくるトレッキングコースに合流する。シッキムの本来の空気が味わえる土地で必ず訪問すべきである。
 ユクサムの手前にぺマヤンツェがあり、ネパール人の侵入によって王宮を遷都したところである。立派なゴンパがあり是非見学(有料)すべきである。3階の壁画は圧巻で圧倒されるが、仏画と言うよりヒンズー教そのものだ。
 ぺマヤンツェは現在ペリグと言うが、これは峠付近の町の名である。
 東シッキムは、ガントクの北部マダンから北は許可証の追加が必要だ。カンチを東側から見る絶好の立地だ。中国との国境問題があって軍隊の車両が多いのに道は細く悪い。シンギクに入ればチベット人の経営するホテルがある。できればチェタン辺りで東部ヒマラヤを味わいたいものだ。カンチを東側から試みたバウワー率いるドイツ隊の壮絶な撤退行などは何時までも脳裏に焼き付いている。
 カンチは結局最初に試みられたルートの再調査で英国人が登頂したが、連峰のうちのカブルーとなると初登に問題あり、と疑問が投げかけられた。
 シッキムは狭い地域である。アッサムから東のインドは入域が困難であり、ブータンは費用がかさむので、この地域としては行って見る価値は高いと思う。
 我々はネパールから入国しコルカタに出たが、公営交通が不便であるもののジープのチャーターは容易で交渉次第で安くなることもある。
 ツァーでガントクだけで帰るなら行かずに、ダージリンでゆっくりした方がよほどましだと思う。

2005年12月4日〜12月20日
西尾寿一・吉田初枝ほか1名(計3名)
〔行程〕大阪―バンコク―カトマンズ―パタン―ポダナート・ナガルコット―ビラトナガル―イラム―ビルタモード―カーカルビッタ―シリグリ―カリンポン―ガントク―カビ―ポドン―マダン―シンギク―ガントク―シンタン―ゲイジン―ユクサム―ペリグ―ぺマヤンツェ―レイシップ―メリー―ダージリン―コルカタ―バンコク―大阪
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 北アフリカ、チュニジアの旅――西尾寿一
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左=マトマタの洞穴住居(ベルベル人)  右=中央の庭には樹木も生え、ロバ・羊や犬・猫も住む
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左=タタウインのシエニニ村  右=岩山に似せて造られている
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左=民家のチュニジアンブルーの美しい扉  右=タメルサ溪谷
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左=水パイプを吸う男(タバルカ)  右=ブラレジアのローマ遺跡、やや小形の円形劇場
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はじめに
 旅は快楽と苦痛の両面を合わせもっている。一般的には前者を多く受取り、後者を実際より縮小して受取っている。だから苦労を忘れ長く旅を続けられるのだし、もう二度と旅などしたくないと思っていても時間を費やすとすっかり忘れてつい浮かれて旅支度をするものだ。
 しかしながら、ごく少数ながら一度経験した苦痛を長く反芻するかのように執念深く忘れない人も幾人か居て、郷土が一番だと言い張っている。
 北アフリカのチュニジアの話しが持ちあがったのは数年も前で参考書の類はその時からのものであった。旅の優先順位も低かったし、第一、インド亜大陸に比し謎や地図の空白部や秘密に属する部分が少ないのが欠点だった。
 エンジンがかからないまま時をすごしていた。しかし旅にはチャンスというものがあり、コスト計算がある。定数が4名でこれがなかなか集まらない。退職した人でも郷土愛、家庭愛に深く傾倒する人には思案の外である。
 それが集まりそうになり、一定の着地点が、チュニジアということになった。
 北アフリカは、エジプト、リビア、チュニジア、アルジェリア、モロッコ、と並ぶが、中間のリビア、アルジェリアが政情不安で他の三国が旅行可能である。最近、リビアが態度を変えて来たが、旅のインフラが無いので個人旅行は困難である。アルジェリアは更に困難だ。
 旧フランスの植民地だった北アフリカ諸国は現在もその影響を色濃く残している。英語は通じずフランス語とアラビア語と現地語が混在し英語が世界共通語だと勘違いする向きにはショックだろう。隣国のイタリア語が通じないのは日本と韓国のようだ。シチリア島サルジーニヤ島は逆さにイタリア語オンリーでコルシカ島がフランス語オンリーで共に英語が通じない。国境の壁は極東の島国で考えるよりははるかに高い。
 ふと、北アフリカがフランスの植民地となったことにイタリア、ドイツが不快感をもつたことに同情すべき点のあったことに気付く。
 チュニジアが歴史に登場する場面はローマ以前に遡る。現地の中東、レバノンあたりからフエニキア人の一団が新天地を求めて地中海を西へ進出したことに始まる。シリア西部からレバノンに沢山あった「レバノン杉」で無数の船を建造し地中海の覇者となり、シチリアのすぐ南のカルタゴに大港湾都市を造り地中海沿岸に次々と進出して行った。
 イタリアの各都市国家をおびやかすに至りついにローマと全面戦争に至る。カルタゴの名将ハンニバルはイタリア本土に進攻するとローマは生死をかけて各都市国家との連合軍を作り反撃し、二回目のポエニ戦争でついにカルタゴを全滅させ徹底的に破壊する。ローマはこの戦いによって後のローマ時代を築くのだが、それは各都市国家と結ぶ連合体に他ならず、今日のEUと共通性が見られる。
 カルタゴの西150kmの所に「ドウガ」の遺跡がある。現在残るのはローマ時代のものだが、元はカルタゴに圧迫を受けた先住民族でローマはこの民族に目をつけ共にカルタゴに戦いをいどむ。ローマは反体勢力や中立派を外交の力で結集させカルタゴを打破ったのだった。ローマは結局共和制をとり(のち王制となるが)各地域に先進的な文化を受け入れさせて統一する。先の「ドゥガ」もローマ都市となり帝国の食料供給の基地の役割を担うことになる。
 ローマ軍の精強ぶりを論じられることは多いが、それよりはるかに外交力がカルタゴ、その他の異民族より優れていたことは興味深い。武力だけでは世界の覇者になれない。
 ヨーロッパから中東、アフリカの広い地域にワンセットになった遺跡がみられ規模の大小はあるものの全てが判を押したように同質である。これこそローマの文化支配に他ならない。地域はその文化を受け入れた時にローマと同化したのだ。ローマ帝国とはそのようなものであった。

概略
 チュニジアの魅力とは何か、となると返答に困る。そのことが旅の優先度の低さとなっている。
 北部のローマ時代遺跡、カルタゴのフエニキア人の港湾都市の跡、メディナのスーク(市場)、 西部アルジェリア国境地帯の山岳と渓谷、南部のベルベル人の防衛的住居群とクサール群、海岸地域の港とジエルバ島、といった所であろうか。
 小生の興味となると南部と西部の自然ということになる。ローマ遺跡は同類が多いので強いて言えば、カルタゴとフエニキア人遺跡で、その後ローマ化されず廃されたケルクアンの遺跡くらいである。他はメディナのスークでナッツの類を買ってくるくらいである。
 結果はコース一覧表の通りかなり行動しているが、これも旅人の習性か、現地へ行くと自然と足が動いてしまうらしい。
 ほとんど全てを歩いてしまったが、やはり南部のマトマタ、タタウィン、と、タメルサ渓谷、カルタゴ、は行くべきで、ローマ遺跡は全部行く必要はない。ジェルバ島は西欧人のバカンスの対象なのでカットすべきで休息のためなら可。
 海洋国なので魚が沢山食べられると考えていたが料理技術不足でせっかくの魚が台無し状態だった。
 各地の状況は割愛するが、旅のための注意すべき点を若干述べる。

言葉の問題
 庶民がアラビア語で中層以上がフランス語、南部でベルベル語(現地土着語)となり、実際は混合していて英語はほとんど通じない。この傾向は北アフリカの旧フランス植民地共通である。
 話しはガイド本を(写真付き)見せるか、値段交渉は紙に書くのがベスト。英語で語りかけてくる男は要注意。後で問題が生じる。
 街で声をかけるのはブラブラしている男か商店員だが、さすが我々の風態からか、中国人、朝鮮人、日本人の順でみている。日本人と分かると知っている日本語の単語を連発してくるが、さすがにサッカーの「ナカタ」は有名で誰でも知っている。

買い物
 スーパーは値札をつけてあるが、商品の品物はないので注意。地方やスークでは誠実だが、なかに観光客とみてボルのが居るので相場を知っておく。
 酒類は無いがホテルでは金曜日をのぞく夜に呑ます。品切れで閉店となる。缶ビールが0.8TD、ビン200ml 1.5TDで安い。スーパーでは別の入り口で売っている。昔のいかがわしい物を売っている店のようで男達の態度もアングラを意識しているようである。場末の麻薬取引き現場を想像させる。

タクシーの乗り方
 首都チュニスでは客は3人しか乗せない。地方は4人可能で何故か不明。空港から市内へは3〜4TDだがメーターで15TDが経験済みだ。深夜料金は1TD増しだが、通常の3倍のメーターが存在するから雲助タクシーが現実に居る。タクシーはすべて真黄色だが、白に青の横線がルアージュ(小型乗合い)でこれは数人乗れて安い。
 4人でルアージュに乗ろうとするとタクシーの男達が集まってきて運転手に放言し嫌がらせをする。ルアージュはこれを嫌って退散するのでタクシーの天下となるが、これを知りつつ彼等と交渉する気力が求められる。
 通常ならタクシー料金は極めて安いが、チュニスでは別で、特に空港から市内へのルートはメーター不可で、先に料金を聴いておくべきだ。周辺にポリスは大勢居るが、なめられているか、同類なのか明らかでない。
 タクシーの運転手も英語は不可でアラビア語オンリーと思っておくべきである。ソロバンはできるが読み書き不可である。ローマ遺跡もカルタゴしか知らない。

ルアージュの乗り方
 ルアージュは、トルコのドルムシュと同じ制度で9人乗りの乗合いバスでほとんどの地方で便利な乗り物だ。バスセンターで手配師らしき男に行き先を告げると、又は自分で大声で行き先を告げると運転手が現れて車へ乗せる。但し、満席になるまで待つことになる。この段階で値段を聞いておく。相場の範囲なら納得するが、まずこの業者達は誠実だった。
 特別な例としてタバルカの黄色帯のルアージュは、38TDのところ、150TDと吹っかけてきたのにはおどろいた。相場を知らない観光客が時々この男達にやられているようである。
 ルアージュの料金は極めて安く運転手の苦労は大変だと思うが、一般的にはそうでも中には雲助がひそんでいるから利用者の方で気をつけるべきだ。

ホテルの問題
 安宿を泊まり歩くバックパッカーなら安くあげたいが、星印のベッド・シャワー付なら1室10〜25TDで充分よいのがある。ホテルの決め方の基本は次の通りだ。
 A 室を見せてもらう。シャワーは湯が出るか、通気状態、道路の騒音
 B 気に入ったのなら室料は前払いで必ず領収書をもらう。サインは必ずもらう
 C ホテルに頼むことは全て先に済ませる
 以上を守ればまず問題はおきない。チェックインの時とアウトの人物が異なるので口約束は通らず、もし良い条件で約束していても反故にされ、逆に宿賃一覧表を見せられ押し切られる。高級ホテルでは問題ないが中級以下なら、それなりのリスクはあるわけだ。
 実際にスファックスのホテルでは領収書があるのに朝出発のとき、シャワーの追加料金を要求されたが「フニッシュしている」と逆に押し切った。フロントの騒ぎで客も加わり、フランス語、アラビア語、英語、そしてついに日本語まで飛び出して決着。彼等の方も客の本心をさぐっているようで決心が硬いとみると引き下がるので迫力が物を言う。金を支払って逃げる態度は最も下策で百害あって一理もない。
 実は早朝のフロントは、正式のホテルマンではなく、バイトの若者が多くソファーや、床で寝ているので小遣い稼ぎをする場合のあることを聞いた。日本人は最も効率の良いターゲットである。

一般的印象
 北アフリカで最も旅しやすいのがモロッコだろう。その次がチュニジアとなる。一般庶民は素朴で人情も厚い。言葉が通じないことが分かっていても、何かと教えようと努力する姿に小さな感動をおぼえる日々が続いた。
 しかし悪い人間はどこでも居て大都市ほど多い。観光客は何も知識がないとみてターゲットにされやすいが毅然とした態度で居ればカモにされることはない。但し空港周辺のタクシーだけは予想外だった。まさかメーターまで操作可能だとは思いもよらない。
 チュニジアの圧巻はやはり南部のベルベル人の住居と生活様式と、かつてローマ人と友好的に付合った歴史ということになろうか、それにアラブ人の観察は続けてみたい。心優しい一面と突然に修羅と化す激しさを共に内在する不思議な民族で西欧人、アジア人には全くない要素をもっている。定着でもなく遊牧でもない性格はどこからくるのか目下の謎である。イスラムとの関係も複雑にからんでいる。
 南部の砂漠地帯に住むベルベル人は北アフリカ全域に住んでいるが、かってはローマと友好的で保護されていたが、その後、中東から進出してきたアラブ人に砂漠地帯へ追い遣られた。彼等の洞穴住居や岩山に似せた山岳住居は彼等の目から逃れるためのもので近くを通っていても発見できない不思議なものだ。
 カメレオンのような擬態こそギリシャ、ローマ建築に対する一方の雄たる建築技術といえる。チュニジア旅行でこれを見なければ意味はないと言っても過言ではない。

2005年1月21日〜2月7日
西尾寿一・萩原辰作・吉田初江・河村文子
〔コース〕伊丹―成田―パリ―チュニス―(⇔カルタゴ)―テベルスークー―(⇔ドゥガ)―チュニス―スース―ケロアン―スベイトラ−ガフサ―メトラウイ―(タメルサ渓谷)―ドズール―ショット・エル・ジェリド―ケビリア―ガベス―マトマタ―ガベス―シェルバ島・フームスーク―メドニン―タタウイン―ガベス―スファックス―エル・ジエム―ナブール―ケビリア―(⇔ケルクアン)―チュニス―シャンドーバ―ブラレジア―タバルカ―チュニス―(⇔ザグァーン)―チュニス―パリ―成田―羽田―伊丹
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 東アナトリア地方の旅【トルコ】――西尾寿一
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スメラ僧院
スメラ僧院のフレスコ画
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行程=6月1日〜16日
成田〜イスタンブール〜トラブゾン(⇔スメラ僧院)〜エルズルム〜カルス〜アニ〜ウードウル〜ドウバヤズット(⇔イサク‐パシヤ)〜ワン(⇔ホジヤップ、チヤウシュテベ)〜タトワン(⇔ネムルート山)〜パトマン〜ハサンケイフ〜ミデイヤット〜マルデイン〜シヤンルウルファ(⇔ハラン)〜アドウヤマン〜キャフタ(⇔ネムルートダウ山)〜マラテヤ〜デヴリイ(⇔ウル‐ジャミイ)〜スイワス〜トカト〜アマスヤ〜チョルム〜スングルル〜ボアズカレ(⇔ハットウシャシュ、ヤズルカヤ、アラジャホユック)〜スングルル〜アンカラ〜イスタンブール〜成田
西尾寿一・萩原辰作・吉田初技
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エルズルムイサク
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左=エルズルム付近の山  右=イサク‐パシヤ全景
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ワン湖イラン国境
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左=ワン湖  右=イラン国境の山々
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外ワンハサンケイフ
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左=タトワン付近の山々  右=ハサンケイフとローマ時代の石橋の橋脚
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ハランネムルート
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左=ハランの民家  右=ネムルート山の石像
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僧院跡兵士の門
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左=ハットウシャシュ僧院跡と発掘中の遺跡
右=ハットウシャシュの兵士の門(実物はアンカラの国立民族博物館にある)
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はじめに
 ポルトガルのロカ岬には欧州最西端に来たという証明書なるものが有料で発行されていて、観光客を喜ばせている。
 最近どの観光地でも似たようなことをやっていてどこが最初なのか知らないが、小生はこのとき日本から朝鮮半島に渡りユーラシア大陸から欧州を通って再びロカ岬へ来てみたいと考えた。これくらいのことをしなければ、むろん証明書など買うつもりはないとしても大陸最西端へ来た意味はないのではないかと思った。
 その後、中東や欧州でも変な所ばかり行っているのは、やがて通過するだろうと思われる地域を見ておきたい意志が働いているのかもしれない。
 トルコの西端は歴史的には欧州で、かつてはギリシャであったりローマであったりしたが、中央部の大平原はアナトリア地方といって鉄を発見したヒツタイト文明の地である。東部となるとこれはもうトルコというより、中央アジア系とイラン系が二分する地域で民族構成のうえでもまったく異なる地域である。
 トルコ政府は、この地方を東アナトリアと言うが東の隣国アルメニアは、アルメニア高地と呼ぶとおり、この地はかつてアルメニア人が住んでいてキリスト教地区であった。
 カッパドキアや、トラブゾンのスメラ僧院のようにイスラムとオスマントルコに追われて洞穴や山奥に逃げ込んだキリスト教徒はアルメニア教会やギリシャ正教の支援を得て第一次大戦でドイツと組んで敗れたオスマントルコの弱体化のすきを突いて東部一帯で独立の気運が高揚したのは事実だろう。むろんアルメニアも旧地の回復を目論みたのだった。
 しかしこの試みはギリシャや西欧キリスト教国の情心的支援を得たものの一人の英雄の登場によって挫折する。それはオスマントルコという大帝国崩壊を目にして立ちあがったムスタファ‐ケマルというギリシャ生れの一軍人であった。トルコの田舎町でも必ず「アタチュルリ」(トルコ人の父)とされる銅像が立てられているのはオスマン後の混乱を救った英雄として現共和国を建立した「ケマル」にほかならない。しかし彼の手法は強引を極めた。
 隣国アルメニアとギリシャで彼はヒットラーと同じ戦争犯罪人である。東アナトリアでのアルメニア人に対するジェノサイトは百万とも二百万とも言われるが、我国にもアルメニア協会があって各地にこの事件の広報活動しているがインターネットでもアルメニア側の立場を主張している。
 当然トルコでは暴動の鎮圧であり行為の正統性を主張するのも、現在の世界紛争と同様である。
 歴史に真実を発見しようと試みる人には悪いが真実ではなく、事実があるだけである。事実をどう解釈するか、によって歴史はねじまげられる。
 極東の歴史も同じことが言える。
 トルコはNATOに加盟したがEUにはたぶん加盟できないだろう。それはキリストとイスラムの根深い対立と地政的理由による。トルコがもしEUに参加することになるなら、それは西欧化であり、すぐ南隣のシリア・イラク・イランを強く刺激するはずでテロの対象となり深刻な事態となる。
 アルメニアはロシア(旧ソ連)により連邦に組みこむことでトルコの追撃から救ったかにみえて、ここでもチェチェンの例をみるまでもなく民族的な反感を買っている。ロシアが中央アジアで行なった様々な行動は謀略に満ちている。領土の線引きをわざわざ複雑なものにして民族的な対立をあおり、ロシアに向けられるべき憎しみを隣国どうしに向わせようとしたことである。
 キルギス・カザフ・ウズベキスタンの例を引くまでもなく、アゼルバイジャンはアルメニアと深刻な領土・民族紛争をかかえ、イランとも複雑な問題をかかえている。
 トルコ東部へ外国人が入ることを歓迎しないトルコ政府の心情は当然のことで、アルメニアと川一本を国境とする「アニ遺跡」へ入れるか否かは世界情勢と連動している。
 トルコの東南部は、これも国をもたない流民クルド人が多数住んでいてイラン・イラクとも対立する問題をかかえる。中東のどの部分で紛争がおきても、トルコは無事ではいられないのである。
 我国ではトルコと友好関係にあって平和な国の印象が強いが、欧州の列強に近く宗教的対立の間にあって国の舵取りは容易でないなかで、時として強引な行動に出て勝利と敗戦を繰り返してきたしたたかな国なのである。彼等がはるか極東にある我国を好ましく思うのは置かれている立場に共感するからで、特に最も嫌うロシアに勝利したことが大きい。
 北方からの圧力から西欧に近ずくのも国策であるが、それが過ぎるとイスラム圏から反発を受けるなかで最も政治的利害のない日本は特別な存在なのだ。ある日、アンカラのバスセンターで職員から「日本人か、ちょっと来てくれ」と屋上へつれて行き、「この巨大なバスセンターを見てくれ、日本の援助でできたんだ」と鉾らしげに語ったのをおぼえている。
 我国もロシア・中国・朝鮮・台湾・米国など一筋縄ではいかない相手に囲まれてはいるが、トルコに比べればましだと言える。なぜならトルコは数千年の紛争であるが我国のはせいぜい百年に満たない間である。そんなトルコに我国はずいぶん経済的優位を感じているだろうけれど、実は政治的には後進国であり彼等に学ぶべきことは多い。
 人々はカッパドキアの岩穴住居や地下都市を不思議とするが、その不思議を知るのでなければ旅の面白さはうすい。不思議の謎解きこそ、旅の醍醐味と言える。
 トルコは我国同様山国である。登山の対象と考えられるのは、アララット山(5100m)くらいであるが他にも3000〜4000m級の山脈があり岩山も沢山ある。モロッコの岩山をフランス人が登るようなわけにいかないのは、東アナトリアが辺境で政情不安がつきまとうからだ。
 日本アルプス級の山なら無名峰が星の数ほどあるが誰も関心をもつ人は居ない。
 アララット山は日本人が初登したが、その後登山禁止になっている。「ノアの方舟」伝説の地があって、ガイドも居て「フランス人が同行するが参加しないか」と誘われたが、この種の観光はキリスト教徒には興味深いだろうが、作られた伝説に興味は湧かない。
 小生の興味は整備された観光地ではなく、大自然と歴史的なカオス巷である。山岳はその一部分にすぎなくなっている。今回の旅も、その線に沿っているが登山に負けない厳しい旅となった。

トラブゾンからカルスへ
 イスタンブールから国内線で一時間強で東北部の都市・トラブゾンに着く。ロシア人が多い街である。それはロシアや中央アジアからヨーロッパへ行く大動脈の中継地であるからで、大型トラックの運転手の宿が沢山ある。
 この街からスメラ僧院へ往復する。ギリシャ正教で現在廃されているが、山奥へさんざん走って駐車場から三百米登った大岩壁にへばりつくようにある。これはもう「かくし砦」そのもので、単なる修行場の域を超えている。この姿をみただけでカッパドキアの洞穴教会などと共にイスラムの圧力から逃れてかくれ住んだキリスト教系の人々の苦しさが分かる気がする。
 エルズルムへ、キレズレ山脈とメスジャト山脈の間を抜けて長いバスの旅であるが風景は楽しめてあきない。一泊の後、更に東へアルメニア方面に一日かかる。バスの右にみえるカラスアラス山脈も雪をつけて立派にみえるが日本アルプスのようだ。
 カルスはアルメニア国境にまたがる「アニ遺跡」の入口にあたる町だが人口は千人にも居ないだろう。砂塵が舞う町を散歩中に「カフカス」とフロントガラスに書かれたドルムシュ(小型乗合バス)が停車しているのを見つけた。小さなバス会社をのぞくと、若い男が飛出してきて「カフカス・チェチェン OK、 グルジア・ロシア OK」などと言ってチケットを売ろうとする。
 こんな田舎町から簡単に紛争地として知られるチェチェンに入れるとは思いもしなかった。むろんビザが取れるか問題であるが……。
 かつてはカフカス(コーカサス)の登山が盛んだったころトルコ経由もあり得ただろう。アルメニアへはグルジアから入れるし、ビザなしでも三日間の入国は可能である。しかし、アルメニアのアラガン山(4090m)へ三日間では無理なので登るなら正規のビザが必要だ。
 アルメニア国境の「アニ遺跡」へ行けるのかインフォーメーション、その他に聞いても埒があかないが、タクシーがよく知っている。110米ドルで、アニから、ドウバやズット、まで行ってもらう。
 アニは遺跡の中央を流れる深い川が国境となっていて、かつては牧畜主体の王国が栄えたのだが、オスマン時代に征服されたようだ。たいした遺跡は残っていないが、歴史を感じさせる第一級の遺跡で必ず行くべきだ。背後にはアルメニアの高峰・アラガン山が富士山のように長い裾を引き頂上部がピラミッドの双峰を耳のように立てている姿が望見できる。姿が美しいが、上部が厳しそうだ。

カルスからワン(ヴァン)
 カルスから広大なアラガン山の裾野を左にみながら南下するが、山はどこまでもついてくる。悪路の田舎道は、時々トラックに出合うのみで誰も居ない大地だ。古い車のガタガタ音のみが気になる。
 峠を越えると、アララット山が巨体をみせる。その山裾の町・ドーバヤズットで泊るが、町の奥の岩山に「イサク‐パシヤ」という古い宮殿があり観に行くが展望のよさは一級で宮殿というより砦である。
「アニ」もそうだがライオンの彫刻が沢山みられるのはペルシャの強い影響下にあったことが類推できる。
 ワンへは更に車で一日かかる。アララット山の巨体はいつまでも追ってくるが、山頂は霧につつまれているが時々ガスが強風に飛ばされることがある。ワンの町は大きいワン湖の辺にあってクルド人80%で時々中央政府に対する反乱やテロがおきる。事実、小生達が帰国して二日後に爆発物によるテロがおきた。従って軍の警備は厳しく検問は至る所で行なわれ荷物も調べられる。ワンからイラクやイラン方面へ古代遺跡を三ヶ所ほどタクシーで見に行くが国境へは特に厳しく戦車に兵士は銃をかまえて、いつでも発射できる体勢だ。
 この付近の街道は、アレキサンダーやペルシャの大軍が通った所で砦も沢山あるが大軍が通る度につぶされていたのだろう。文明と強力な国家が誕生する土地と、それらの国から他の土地へ通ずる通路にあたる所の国では立場が全く異なる。
 中東の諸国や中央アジアは後者にあたるので、現在も苦汁を飲まされ続けているわけだ。強力な勢力によって破壊された遺跡を観光地として我々はみているのだが、そこで何を感じるか、はそれぞれの人によって異なるが学びとることはあまりにも多い。このあたりの旅で旅行者は単なる快楽を中心に置けば、その旅はむなしいものに終わってしまうだろう。

ネムルート山へ
 ワンからワン湖の西端の町・タトワンへ移動し、ネムルート山(3000m)へ登る。活火山で直径10キロ程のカルデラの中までタクシーが行く。頂上は外輪山の一角で、すぐ下で外国人がテントを張っていた。カルデラ内には幾つかの湖があって、日本流で言えば「茶店」がありおどろくが、トルコ人もけっこう楽しむものらしい。近くに4000mを超えるシュブハン山がある。
 タクシーは30米ドルだったが、宿代が夜と朝とで料金が30%も違いフロントは絶対ゆずらない。Y氏は「私が出すから」と言うがこれが気に入らない。日本人はこれによって馬鹿にされ、カモにされる原因になるからだ。しかし結局は時間に追われている我々は負けであった。料金は先払いするか、契約書を作るかしかないが、今までこんな単純なトラブルはなかったので友好的なトルコ人に対して甘かったことを反省する。たぶん個人差だろうが、あいまいな点は修正する必要がある。
 ワンは「ワン猫」が知られていて巨大な石像がある。ペルシャ系の亜種と思われるが、左右の目の色が異なる。小生この種のことに興味がうすいので素通りする。

タトワンからマルデイン
 タトワンからイラクとシリア境へ向って南下すると一段と暑くなってくる。キュネイドウトロスラル高原という舌をかみそうな長い名の山脈を幾つもの峠を越えてバスの旅が続く。文字通りの高原と岩峰の連なりとがどこまでも続く美しい所で川も水量がある。このあたりも検問が多いが国境が近いのでクルド人が多数を占める。
 バドマンの町をすぎると、ハサン‐ケイフの町まで高原が続く。大きい川を渡るとハサン‐ケイフだが、ローマ時代の破壊された石橋と対岸にカッパドキアと同じように洞穴住居がある。川の左岸にも洞穴があり昔の住居という。
 町は祭日とみえて交通を止めて多数のポリスが居る。洞穴の多い谷筋を登って行くと両脇の洞穴でトルコ人家族のピクニックでシシカバブを焼いていて「喰って行け」と呼んでくれる。有難いが次のバス時間が気になって辞退する。トルコ人(クルド人かもしれないが)は全く東洋人を区別しないようだ。しかしトルコの東部では昔から伝統的に中国人が多いとみえて、「チン??か」と声をかけてくる。バス待の間、多勢の人ごみの中でH君が『地級の歩き方』をみていたらポリスが面白がって話しかけてくる。トルコにこの種の本はないので黒山の人だかりとなって、時ならぬ日本語学校が開かれることになった。次々と日本を知る人も現われて、終いには日本車ディーラーの役員とかの人物まで現われる。こうなるとトルコもチベットも同様で人間の本性はこんなものなのだろう。ポリスはバスを止め荷物まで積みこんでくれ送り出してくれた。
 ミデイヤットから更に南下しマルデインの山上都市に泊る。砂漠の中の岩山に都市をつくったのは防犯と暑さ対策と思われるが、シリアまでごく近く砂漠地帯である。40度を超え、暑さと砂塵が舞う山の町はすべて坂道と岩と石垣でうめつくされている。こんな町に住むのはまるで修行である。

ハランヘ向う
 マルデインから、シヤンルウルファへ4時間バスに乗る。ここからイスタンブール行が沢山出ていて立派なバスだが、シリア国境のハランヘはオトガルから、セルビス(小型バス、フォード製が多い)で行く。三人で500円くらいだ。
 砂漠の中を南下するとシリア国境近くハランの町と遺跡がある。この町は卵形の屋根をもつ民家が知られているが観光客は誰も居ない。 暑いなか群がってくる子供を振払いながら歩くが、一周してきて疲労困憊で元にもどると再び子供が集まってくる。子供はガイド役をしたいのだが数が多すぎて困るし、ガイドなどできそうにない。金を渡せば済むのかもしれないが、これも下策だ。  貧乏人の旅は本当に体力が必要なのである。
 ハランからすぐシリアであるが、数年前にシリア北部を東から西のアレツポへ抜けた経験があって国境はあっても民族・地形・気象は同じで、むろん宗教も同じである。政治的ボーダーは、このあたりでは生活を妨害する障害でしかない。
 かつてアレキサンダー(東ローマ帝国)とペルシャが覇権を争った土地であるし、東西文明の交流の地でもあり、イスラムと十字軍の抗争の地でもある。現在もそれは変わらないようだ。頭が水不足でクラクラするなかで次のセルビスでシヤンルウルフアへ戻るとバスターミナルでネクタイ姿の中年男性に呼び止められ、自宅のホテル(?)を@10ドルで承知する。彼はトルコではめずらしい無信仰者で西欧風の生活を楽しみ独身とのことで、ときどき外国女性を泊めて楽しむスタイルらしい。女性に親切なのは勝手だが、ここでも認識上の違いが表面化し後のトラブルの元となる。
 つまりトルコで二つあるネムルート山のうち西の方を(便宜上ネムルートダウ山とする)、東の方は自然豊かな火山であるが、西の方は古代王国の王の陵墓になっていて世界遺産である。この山に登る予定だったので私が寝ているうちにY氏の英語の会話がはずんで交渉が進んだようだ。先のネクタイ男の友人がキヤフタに居るのでアドウヤマンのバス停まで出迎える。後はネムルート山を越えてアマテアへ抜ける一日プランで90ドルでOKという話を後で聞いて、その安さに前後を考えずに乗った。
 しかし落とし穴がまっていた。ネムルートダウ山には山越道はなく、南北からのアプローチはピストンであることに気付かず途中一泊の山荘泊りの費用を失念していたことになる。その結果ネムルートダウ山の中腹の山荘で足止めとなって長時間交渉するはめとなる。結局、宿泊代30ドル追加で90+30=120$で手打とした。
 英会話以前に双方に現地認識ができていないのでこんな結果になるのである。これを防止するには契約書を作り独り合点せず疑問点を見逃さずに聞き、サインを求めることに尽きる。以後は必ずサインを要求したが、トルコ人はおどろいた顔を見せた。「日本人は厳しい」との声をそれとなく耳にすることになったのだが……。
 ネムルートダウ山に樹木は一本もなく、死火山のようで岩の露出と高原状のピークが幾つかある。水は豊かで小型の水力発電まである。陵墓は山頂にあり肩部に石像が並んでいる。東は途中までで後は歩いて登るが西欧人ツアーの参加者にはつらそうだった。  車でネムルートダウ山めざしていると白人の中年男の登山者が声をかける。5TL(トルコリラ)で公園入場料込みと受取った彼はゲートでもめる。彼も我々と同じ轍を踏んだのだが交渉には沢山の落とし穴があって、これをどう処理するかで、ストレスを溜めて不愉快なまま帰国するのか、それを乗越えて更に踏込んで行けるかが分かれる。
 白人男が頑としてトルコ人の主張を受入れず下車して歩いて登っていったのは立派で、トルコ人の嘲笑は逆に彼の立場を高めたと思っている。日本人ならこうはいかない。
 ネムルートダウ山は夕陽か日の出のどちらかが良く、遺跡の石像が陽光で見事に映える。その上に堆石を積みあげた陵墓であるが日本の古墳と同じ構造のようだ。むろん頂部は登山禁止である。

マラテアからシワスヘ
 山荘で契約し直しサインを求めた結果、その後の行動はスムーズで、きっちりマラテアに着き、更にバスにてカンガルへ向った。  マラテアは近代的な街で女性のヘソ出しスタイルがみられ活気に満ちている。イスラム教の国でイスタンブール並みの西欧化した町は東部では一番だった。銀行もレートが良いし、なぜかホッとする街だった。バスで世界遺産のデヴリイへ向う予定が満員のセルビスばかりで、ついにカンガル泊りとなる。安宿が10TLでロカンタ(レストラン)の食事代が22TLと何か変な所だが、日本人は初めてだと集まって来る若者達は口ぐちに米国と日本が一番の友達だと言う。レストランの高いのは友好の代償であったのだろう。時間があるので街の隅々まで歩いてみたが、これが本当のトルコの姿なのだろう。
 翌日、一番バスでデブリイへ向う。世界遺産のウル‐ジャミイ(教会)があり、ヒッタイト時代からある鉄の町でもある。ここからアンカラにかけてがヒッタイトの中心地で遠く山脈が光って見える所があって、鉄鉱石の露出だという。
 効率を考えれば廃される運命の鉱山だと思うが、現在も稼動しているのは国策かとも思う。
 ウル‐シャミイは無料で老人が一人で守っているだけで人の気配は全くない。鉄で栄えた名残りの古い街並みが残っている。  バスでシワスに出て泊る。@10TLで一発で決める。シワスは大きい街でイスタンブールから東部へ向う基点の街である。夜まで街を歩くと遺跡が沢山ある。観光客が居ないせいか、どこでも無料でみせてくれる。

シワスからスングルルへ
 東南部から中部へ移動すると景観も変わり大草原となる。更にシワスから北へ向うと山と渓谷の美しく変化の激しい風景となる。岩山と深い渓谷の間に小さな町が無数の現われては消える。
 ローカルバスを乗り継いで行くとアマスヤという美しい町がある。大岩壁と鉄鉱山の町で川の水も茶褐色に濁っている。500米程の岩峰が連なっていて無数の洞穴があり、岩を削った細く恐い道が続いていて登って行く。王のミイラが安置されているらしいがよくも造ったものだ。ヒッタイトの鉄がそれを可能にしたのだろう。
 次のチョルムの町も鉄鉱山が現在も稼動している。スングルルで泊る。この町からヒッタイト文明の中心地ハットウシャシュへバスを使うつもりが、「ノーバス、タクシーOK」などという。そんなはずはない、と沢山の人に聞くが要領を得ない。二転三転してタクシーを使ってスングルル〜アラジャホユック〜ヤルズッカヤ〜ハットウシャシュ〜ボアズカレというヒッタイト遺跡群をめぐるコースを設定しておいて町を少し歩く。この町も日本人がめずらしく人が集まってくる。

ハットウシャシュからイスタンブールへ
 バスはやはり存在したボアズカレでドルムシュの姿を発見した時の容易に収まらない。タクシー仲間が観光客を独占しようとして企んで、外国人を騙しているのだ。
 しかしヒツタイト遺跡はハットウシャシュ中心として大規模に広がっている。やはり素晴らしいものだった。広大な遺跡を一周してくるのも一日かかる。ライオン門・スフィンクス門など、やはりエジプトとの関係が深い。十数キロもある巨大な円形劇場のようなものに納まって北に開いている図は4000年もの古代の遺跡とも思われない充実したものであった。
 旅はこの後、バスでアンカラへ出て飛行機でイスタンブールに着き、一泊しスークで若干の買物をして成田へ飛び立った。

後記
 旅には様々なスタイルがある。高齢者向けには豪華なリゾート地を巡る旅を旅行社は推薦する。金持はそれでよいが貧乏人はどうすればよいか、家で寝ているか、コストを極限まで絞ってでも旅に出るかしかない。値段交渉ばかり続く旅が面白いかどうかは別にして、少なくとも正当な料金なら納得する。交渉が面倒だから、と金で解決してしまう旅ほどつまらないものはない。後続者が迷惑するばかりだ。この日本人の専売特許によって、最初から高い料金を要求する悪質な所もかなりある。「旅行案内書」ですら現地より高目で設定しているし、中国の辺地のホテルで一米ドルの枕銭を要求するツアーガイドが居ることも不思議で、客は疑いもせず大量の1米ドル札を両替している。金持は別にシビアになる必要は全くないのだが、東方まで合されるのは困る。
 登山者の外国旅行は決まった特定の山しか眼中にない。それで満足する向きはよいが小生などはそんな中途半端な旅はストレスが溜る。山岳という点よりも、山岳をふくめた面を押えるのでないと気にいらないのである。山に登るのはそれからでもおそくない。  インドシナ・中東・北アフリカ・バルカン・中央アジア、いずれも名だたるカオス地帯である。そんな国の旅が何をもたらしてくれるかは予測できないが、確実に何かを残し培養しているのではないかと感じている。
 今回の東アナトリア地方の旅も最初から困難が予想された。資料の少ないこと、民族紛争など、どれも一筋縄ではいかないことである。しかし、それでも行った価値は大きい。
 小生はこれでも登山者の端くれである。再びあの地を訪れるとして、アララット山の登山許可を求めたり、アルメニアのアラガン山に登ることよりも更に東の国々の旅を望んでいる。そこは更に民族紛争の厳しい土地であり、体力・気力を要求する。それはアララット山やアラガン山へ登ることよりはるかにエネルギーを要するのである。
 なを文中に「TL」とあるとあるのはトルコの通貨で超インフレでミリオンという信じられないほどの数字の桁が使われていて、当方では下4桁を落して計算している。2005年春からデノミが行なわれる予定である。
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